大好きだった人に 突然
もう好きじゃなくなった って言われた
散歩したり
キャンプしたり
クリスマスツリーの飾り付けをしたり
家で仕事ができたらいいなと思ってた
そういうことか
もう好きじゃなかったのか
どうして
急に怒り出す人になってしまったんだろう
子供がほしいのに協力してくれないんだろう
小さい事は我慢してその場を収めた
どうしてそう言い方をするの
直してほしいと言った
いつか気づいてくれると信じていた
私は「どうして」と問い続けた
「なんで「どうして」ばっかり言うの」
とその日言われた
もう好きじゃなくなった、と言われた日に
子供がいないなら
それでもいい
その分旅行に行ったり飲みに行ったり
彼がずっと優しい人だったら
昔の優しい人に戻ってくれたら
幸せになれるはずだ
そういう風に考えを変えようとしていた
もう子供の事で悩むのは
15年ぐらいいっしょにいたのか
この町はぜんぶあなたと行った所ばかりだ
こうだったらいいなと思っていた未来が
ぜんぶなくなっちゃった
これから
どうやって生きていこうかなぁ
どうやって生きていったらいいんだろう
なんだかよくわからないけど聞かれたので。
どこ向けと言われたらそりゃあ前提事項を飛ばしてもわかる人=問題を既に知っている人向け。知らない人向けに書きたいならさすがにもうちょっと丁寧にあらましを書く。
なぜ記事を書いたのかと言われたら思考整理のためと、もしかしたらいるかもしれないこの件で色々と思うところのあった人が見るかもしれないから。
問題を知っていても一部しか知らない場合もあるので、抜けてる部分が拾えるようにまとめを置いたり整理も兼ねておおよその流れは書いてる。
問題の動画は別に好きも嫌いもないというか、修正後動画が修正されているか確認しただけなので。
考えを纏めて、情報を整理することで今後同じようなことがあった時に自分がどう動くべきかの教訓にしつつ、同じことで悩んでる人がもしいたら何かの参考になるかもしれないくらいのもの。
http://blog.tatsuru.com/2016/11/15_1128.php
その理由はとりあえず周知されていない。誰でも知っている理由なら、こんな特集は組まれない。
ふつうリベラル批評家が発言力を持ち続け得るのは(事象に即した言説のクリーンヒット時の「ご祝儀」を除くと)批評のまなざす先の恩沢に現にリベラル市民が浴しているからである。
だが、内田樹はそうではない。
特別顧問で参画した大阪市政改革は頓挫した。旗を振るったSEALDsは見るべき成果を上げていない。野党連合の結託をいくら煽っても鳥越の醜態や民進のグズっぷりばかり悪目立ちしてしまい 自民党打倒の糸口が見えない。安保法案への言及ではシーレーンや国防、自衛隊員の命の軽視と反知性主義の態度が露呈した。五輪計画や福島原発や豊洲移転問題では共産党の走狗となり知性の欠如があきらかになっている。どれも老いたリベサヨの末期の徴候である。にもかかわらず内田は高い読者数を保持している。その根拠は何なのか?
一番簡単なのは、「リベサヨ市民は現状認識の適否を判断できないほど愚鈍になった」という解釈である。
リベサヨの過半が愚鈍であるなら、こんなあげつらいも何の意味も持たないからだ。だとしたら、問いの次数を一つ上げるしかない。「リベサヨは内田を支持することでどのようなメリットを得ているのか?」である。
保守速報などネトウヨまとめサイトの観測によれば、内田支持理由のトップは「他に適任者がいないから」である。
だが、現実には「他にどのような言論人が適切か?」という問いは誰も立てていない。いずれ支持層が急逝して「ポストリベサヨ」がリベラル市民の話題になればリベラル市民は「人気投票」を行うだろうけれど、今は話題になっていない。
私の解釈はこうだ。国益が損なわれ、国民が日々損害を被りそうな諸言説を垂れ流すにもかかわらず、「内田を黙らせろ」という声が上がらないのは、リベサヨ代表格の適格性を最終的に判断しているのは「リベラル市民たちではない」とリベサヨが思っているからである。
残念ながら、リベサヨ界隈において、内田言説の適格性を判断しているのは理性ではない。
リベサヨは自分たちの歪んだ情念から現実を歪ませて認識することはできる。でも、現実に即した言説に身を委ねるはできない。
リベラル市民たちが誰を選んでも、中共が「不適格」と判断すれば、リベサヨメディアでのオピニオンリーダーの座には就けないし、就けても短命に終わる。そのことをリベサヨは知っている。知っているけれど、知らないふりをしている。それを認めてしまうと、リベサヨは権力の圧政に反して日本社会や市民生活をより良くしようという正義や善意の集団ではなく中共の野望の片棒を担ぐ工作機関であるという事実を直視しなければならなくなるからである。
2008年頃からネトウヨ嫌韓豚の吹き溜まりである保守速報などのまとめサイトで「朝日新聞は中共の工作機関である」との言説が広まった。反日朝日の誌上におけるオピニオンリーダーの任免権は事実上中共が保持している、と。
日本のリベサヨ言論はこの発言をまともに取り合わなかった。違うと思うなら反論すればいい。だが、「反日朝日は中共の工作機関ではない」と述べたリベサヨ言論は一つもなかった。
サントメプリンシペの政治学者ガバーヌ・マンコニックは〜中略〜同じことを指摘した。だが、リベサヨはそのような意見がネトウヨ社会では当然のように行き来している事実そのものを組織的に黙殺している。
内田樹は「宗主国中華人民共和国の属国の報道官」である。実質的な権威づけは中共が握っている。もちろん、外患誘致に問われるから、権威付けの作業は「アウトソーシング」されている。中共の情報誘導は朝日新聞や日刊ゲンダイへの記事やコラムを通じて醸造され、外国人特派員クラブやワシントンポスト、ニューヨークタイムズなど外信へ逆輸出することでマッチポンプ効果で言説の信憑性がより強化される。そういう仕組みでリベラル言説が制御されていることをリベラル市民はもう知っている。知っているけれど、知らないふりをしている。
「他に適任者がいない」というのは朝日新聞など反日工作メディアの判断である。
内田樹は日本の国益よりも中共の国益を優先的に配慮してくれる「理想の言論人」である。だから反日メディアがそう評価するのは当たり前である。そして、リベサヨの多くは朝日新聞の判断の方がリベサヨ当人自身の生活の延長線上にある主観的な現実評価よりも夢想的でありかつ幻想的であると信じている。
「追記」
ただ、アメリカの大統領がドナルド・トランプに交替したことで、「宗主国の代官」にどのようなタイプのオピニオンリーダーを選好するかについての判断基準がこの後変わる可能性はある。
これまで、「属国の代官」の適不適を事実上判断していたのは辛淑玉たち「差別の当たり屋」であった。
リベサヨのグズっぷりに「市井の人々」は巨大な「マイノリティ利権」をひさしく貪っていた「差別の当たり屋」たちから取り上げようとするだろう。
「差別の当たり屋」たちのお気に入りであった日本のリベサヨ言論人たちはこれから新たに「オーディション」を受けなければならない。
明日11月17日に安倍首相はトランプを西側首脳として最も早く表敬訪問をするが、これは「日本の総理大臣」である以上当然のことであり、これは安倍首相にとっては「新しいカウンターパート」に対する「牽制」に相当する。
日米の関係がより進歩的に発展するという「(中共にとって残念な)結果」になった場合、反日メディアではオピニオンリーダーもリテラもマガジン9も「アベシネホントシネゲリグズ野郎」と(はじめはおずおずと、そのうち猛々しく)言い始めるだろう。
財布と定期(または移動に要する鍵など)を一体にしておけば忘れることはない
互いに気にしていることが折り合わない場合であっても、少なくとも片方の人間が、最低限でいいから相手が気にしているものに寄り添わないと、平穏な関係は続かない。
もしお互いが相手に全く寄り添わなければ、関係は悪化する一方になる。
よく言われる
「人に敬意を示すときは、あなたがそうしたいと思うやり方ではなく、その人がそうされたいと思うやり方ですべき」
というアドバイスは、そういうことの言い換えにすぎない。
さて、そんなごく基本的なことに、40にもなってようやく気付いた、救えない男がいる。
自分のことだ。
先日、今までの仕事を棚卸ししたとき、失敗した現場は全て「お互い気にするものが全く折り合わなかった」現場であり、上手く行った現場は全て「たまたま、お互い気にするものがほぼ一致ないし似通っていた」現場と、ハッキリ明暗が分かれていたことに気付き、ようやく思い至った。
つまりそれは、ごく最近まで「相手の気にしているものは何か?」を全く意識していない人生を送ってきたということである。
我ながら恐るべき独り善がりっぷりである。
思えば物心ついた頃から、普通の人が感じ取っているような「他人の存在感」が皆無だった気がする。
「他の人が何を感じているのか」に全く興味が無かったと言い換えてもいい。
というか多くの読者諸兄が仰天する書き方をするなら、人間の95%以上が多かれ少なかれ感じているであろう、「疲れるので気にしたくないときもあるけど、それでも気にせずにいられない、他人の反応」が、自分に限っては本当に全然気にならなかったのだ。
人間誰しも欠点はあるだろうが、こういうのはもはや人として超致命的な欠陥ではないかと思わされる。
だって、純粋に「俺が、俺が」しか頭にない人間とか、周囲からしたら相当不気味だろうし。
実際、学生時代は全然普通にしているつもりなのに「クラスに必ず一人はいる変人」というポジションに甘んじ、非常に不本意だったが、それも今なら理解できる。
そして今は立派なコミュ障だが、他人に興味のない人間が相手の反応の感じ取り方など体得できるわけがないので、必然の結果である。
即ち、「俺は本当に他人に興味がない、ヤバい」と今更感じたからって、それだけでコミュニケーションが大きく改善するわけではないということでもある。
自己中な人間には「他人の反応を感じ取れるけど、敢えて一顧だにしない選択をした」者と、自分のように「ナチュラルに他人に興味がなく、結果他人の反応を感じ取れず自己中になってしまう」者がいると思うが、両者を比べたら、多分後者の方がタチが悪いだろう。
しかし、日本人男性の平均寿命に照らし合わせたら、自分はもはや折り返し地点を過ぎて復路に差し掛かっているタイミングだが、一体これからどうしたものか。
このままでは、今までがそうだったように、今後も新たに人間関係を構築する必要が出てくるたび「うまくいくかは運次第」という、呆れるほど低レベルな話が続くことになってしまう。
仕事だったら、それ一つ取ってみても「いい歳こいて半人前」という評価に甘んじることになる。
自分に関わった他人が、もし自分みたいなヤツとトラブルになったらいい迷惑だし、本当に申し訳ない話だ。
というか、自分はそんな風に、周囲に不快と迷惑を撒き散らすために生まれてきたわけじゃないのだが・・・と深い溜息が出る。
誰にも迷惑を掛けないで生きる人間など存在しないが、だからと言って自分が周囲に掛ける迷惑の免罪符にはならないだろうし。
そんなことを考えた、不惑の秋だった。
http://anond.hatelabo.jp/20161115110829
こういう嘘を平気でつける人って本当に怖い。なんで現実と真逆の事を言ってるの?
理系で性別を限定してる奨学金制度のほとんどは女子学生を対象にしたものだよね。
今回の件は大学側が性差別的な支援制度を用意したから話題になってるけど、民間では
ずっと前から理系女子の支援を理由にした(つまりアファーマティブアクションだよね)
だから、すでに理系男子に比べて理系女子は優遇されているというのが正しい事実だし、
東大の施策は現状をさらに強化するものだよね。少なくとも奨学金という点においては。
東大のやり方はどう考えても性差別でしかないから、それを肯定するためには「女性は
差別されているんです」という理屈が必要なのは分からなくもないけど、だからといって
嘘はよくないよね。こういうデマのせいでますます奨学金界隈の理系女子優遇が進み、
僕の話が信用できない人は、母校が公開している奨学金の一覧があるのでそれを見てよ。
男子限定なんてないよ。一方、女子限定は5件。まあ、とはいえ多くは性別不問だけどね。
http://www.titech.ac.jp/enrolled/tuition/financial_aid/scholarships/past.html
http://www.titech.ac.jp/enrolled/tuition/financial_aid/loans/past.html
(URLで給付型をスカラーシップ、貸与型をローンと区別しているのはなかなか興味深い。)
採用がらみだから東大女子敬遠……というのもあまりにも実情からかけ離れた理屈だよね。
そもそも高学歴の理系女子は企業が最も欲しがる人材タイプの1つだからね。理系女子は
絶対数が少ないから質を維持しつつ数をとるのが大変なんだよ。だから必死こいて企業は
アピールをし、理系女子限定の就職説明会なんてのも開いたりするわけだけど、それでも
それが奨学金につられてホイホイ応募してくれるなら企業にとってこれほど楽な事はないよ。
奨学生の情報を公開してる所は少ないけど、↓は帝人の例。当然だけど女性も普通にいる。
http://www.teijin.co.jp/eco/scholarship/scholarship/message5.html
でも、このエントリが伸びることはないだろうから、デマの方が常識化するんだろうね。
追記
ええっと。反論してるのが当人だとすると、全く反論になってないとしかいいようがない。
元のエントリもそうだけど、9割方議論と関係ないことがダラダラと書いてあって、残りが
嘘という、ろくでもない文章なんだよね。なんというか、小保方さんを思い出させるよ。
キラキラを嫌うあまりに親の祖父母世代の昭和初期な名前を子供につけるのをしわしわネームと言うらしい
実際に年取った実感に気づいたら泡吹いて死ぬかもしれないな。
身欠きにしんと山椒の葉を重ね合わして、漬けだれで漬け込んだ食べ物です。この漬けダレの調合がミソなんでしょうね。
各家庭の分量があるんでしょうね。お好みでしょうけど私は酢が強い方が好きなんです。
「うましょく」
なるほど。それじゃ給料が透かしの入っていないお札ならセーフですね。