はてなキーワード: 取的とは
郭文贵申请破产,实在是“泄水保船”之举。根据SEC的GTV公允基金退款公告,郭文贵已向SEC支付了总计4.55亿(455,439,194.49)美元。退款行为坐实了诈骗之嫌,但退款数额与他从5000多名投资人手里骗取的4.87亿(486,745,063)美元相比,还有3200万美元的缺口。与SEC命令的5.39亿(539,433,428)美元退款额(除4.87亿美元诈骗赃款外、还有约1769万美元的判决前利息和3500万美元民事罚款)相比,还有8400万美元的缺口。这些缺口到哪里去了?说明老郭还有所保留,留下这点资产以图东山再起。而保留资产的途径,就是利用美国司法资源,打着骗过法官的小算盘,申请破产保护。
也正是因为SEC基于老郭的退款启动了面向投资人的退款程序,所以老郭在盖特的大直播已经没有人观看了,观看量一度跌为零。这说明蚂蚁们虽然深知老郭是骗子,但之前在得不到退款保障的情况下,抱有期望的蚂蚁只能依附在老郭左右,看他的直播,赞他的视频。甚至一度有农场内部反戈蚂蚁爆料,农场内部规定了GTV和盖特的视频观看量、赞评量任务指标,营造出盖特即将超过推特脸书,一跃成为全球第一社交媒体平台的假象。如今SEC打开了退款的闸门,蚂蚁们就纷纷弃老郭而去了,场面陷入繁华后的冷清。更可笑的是,老郭为了隐匿资产,除了在游艇Ladymay和18楼的问题上把自己的至亲拉下水,现在又说盖特和GTV与他没有关系。
这把盖特CEO杰森﹒米勒置于何种境地?如果米勒配合郭文贵在法庭上作伪证,那么盖特即将上市却永远没有上市的诈骗责任将由谁来承担?蚂蚁投资盖特的诈骗款将由谁来退还?米勒肯定不会承担这个责任。他肯定也没有料到,老郭会在危急关头把锅完全甩给自己。老谋深算的郭文贵在启动一个诈骗项目之前,必定盘算好怎么甩锅,在立项之前就做好了和自己撇清关系的布局。但老郭搬起的石头到最后砸的往往是自己的脚,恰恰是这样的布局和这些代理人,将成为老郭的掘墓人。作为郭文贵至亲的郭强和郭美,都深知老郭的秉性,因为是至亲,所以了解得更透彻。也因为是至亲,他们为了保住老爹,可以在法庭上作伪证对抗法官。那么非亲非故的米勒,何必用自己的“钱途”为一个落进下石给自己甩锅的骗子买单?
退一步讲,就算米勒受了老郭的蛊惑,选择在法庭上作伪证,也影响不大。毕竟多方证据证明郭文贵就是盖特和GTV的创始人和实际控制人。老郭隐匿资产的这套伎俩,美国法官估计看得多了。上次庭审后法官就表示,4月27日之前不再安排听证,并警告老郭:“如不能达成共识,时间沙壶将比你预期的更快见底”。破产局也表示赞同法官。这是什么意思?意思是法官和破产局都知道老郭是在拖时间。正如奥斯特拉格法官所说,郭文贵将其资产隐藏在“空壳公司和家庭成员”的迷宫中。但是根据美国司法精神,就算知道你是骗子,但只要你提出动议,还是要走程序。你恶意破产、藐视法庭,我就层层加码,几千万的欠款变成现在的近乎2亿。法官不急,随着时间的流逝,急的是老郭。只要老郭不跑路,一切就都在法官的掌控之中。
实际上,郭文贵破产案和PAX案已经从纽约南区破产法院移交至联邦康州法院,而联邦康州法院支持破产局的意见。美国破产局的指控里,字里行间透露出老郭恶意破产的信号。一旦被驳回破产动议,根据破产法,郭文贵将面临20年以上的监禁。我们期待着4月27日,法官在审理PAX的恢复执行蔑视法庭判决动议时,直接对郭文贵执行藐视法庭的1.34亿判罚,并且驳回破产动议。无论怎样,老郭在诉山讼海中已受重创,元气大伤。
善泳者溺于水,擅骗者坠于讼。作为一个讼棍,郭文贵在过去四年来起诉过的除了诸多战友,还有国际刑警组织、华美银行、富国银行、推特、YouTube和Facebook公司等诸多实体,指控多维新闻为PAX案提供假证据。他很有可能在未来一段时间指控米勒为破产法院提供假证据,状告破产法院和联邦康州法院的法官因为被蓝金黄而做出“歪曲事实”的判决。但现在他的滥讼沙漏就快见底了,在SEC的步步紧逼下,退款4.55亿美元,是郭文贵一败涂地的标志性节点。对于蚂蚁们来说,在黎明前的黑暗中,老郭虽然会做出殊死挣扎的举动,但蚂蚁们的黎明终将到来。
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
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すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割のピークを迎えようとしている。
言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまり、フェミニズムは数あるライフスタイルや思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。
結局のところ、フェミニズムは全ての女性を対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである。論点先取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。
考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないからである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性や弱者的男性のみならず、男性や女性の総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来の理念であったのだ。
とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地は存在しない筈なのだ。
換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。
いずれにせよ、全てを救う思想というものは現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。
フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシーな広告は現実の人間にリスクを生むので自重すべき」、というシンプルな命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。
「広告のセクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャルは広告的価値のみならず女性の価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方が評価したところでもしストッキングやタイツを身に着けた一般的な女子の存在が性的に眼差されたら貴方は責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的な女子」とされる存在の中から、「広告のセクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性はパージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニストの活動は、女性の総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。
でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。
無理。
無理だから。
例えば、ソマリアでレ○プされている少女をフェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治の役割である。とにかく、世界同時革命的に思想的啓蒙を行うことは無理なのである。逆襲のシャアを見ろ。
そんなこんなで、フェミニズムの役割は限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。
話を戻すと、結局のところフェミニズムは限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たちが救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。
逆に言えば、フェミニズムは自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである。企業のマーケティングの一挙一動を監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズムの役割ではない。それは本来、公共広告機構とジャロの役割だ。
ソマリアの女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である。
役割を限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象を限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告をバッシングされることで不利益を蒙る企業が存在するのが現実だし、あるいは、広告をバッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体が存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。
全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなのである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。
そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなのである。
つまりここにおいてフェミニズムの立場は相対化されることになる。
フェミニズムは自身の擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言の正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。
そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業が社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムだけが特別というわけではないのだ。
警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というものは存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。
それは恐らくフェミニズムの限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想が自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会的ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。
勿論、救う対象を限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることなど人間には所詮できないのだから。
とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身の限界を意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞う、フェミニストとフェミニズムの傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
ジェンダーの面においては、実際は男より女のほうがずっと保守的で遅れてると思うんだよね。
社会の男性優位な面を指して、是正しようとしている女のほうが進んでいて、抵抗する男のほうが遅れているってのはよく言われることだけれど、メリットがある側が積極的でない側が消極的なのは当たり前の話で比較にならないでしょう。
逆に下方婚とか、繁殖の性差による有利不利の問題とか、女性優位な面を平等の観点から指摘しても、現状では女をあてがえと言うのかみたいな感情的な反発が大きくてほとんど聞く耳持たずだよね。
なので平等の建前があれば自分の側の性に不利なことでも是正を受け入れやすい男のほうが進取的で、受け入れる意識の弱い女性のほうが後進的だと思うのだけど。
ブロガーは万人によって求められることを自ら欲し、ブックマーカーは万人によって愛されることを自ら望む。かつてはホッテントリを衆愚ならしめるためにGIGAZINEが最も強き大旦那にブクマされたことがあった。今やホッテントリと注目エントリとをアルファブロガーの独占より奪い返すことはつねに進取的なるはてな市民の切実なる要求である。匿名ダイアリーはこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽のエントリを少数者の見栄と体裁とより解放してはてブトップページにくまなく立たしめはてな市民に伍せしめるであろう。近時大量セルクマの流行を見る。その自作自演の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称するエントリがその編集に万全の用意をなしたるか。千古のネタの執筆企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに通過を許さず読者を繋縛して過去ログの読破を強うるがごとき、はたしてその揚言するWeb2.0のゆえんなりや。吾人は天下のアルファブロガーの声に和してこれをRSS登録するに躊躇するものである。このときにあたって、株式会社はてなは自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかの2ちゃんねるにとり、古今東西にわたってWeb2.0論・はてな論・無断リンク禁止論・なぜころ問答等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真の古典的価値あるエントリをきわめて簡易なる形式において逐次投稿し、あらゆる人間に須要なる生活向上の釣堀、生活批判の劇場を提供せんと欲する。この匿名ダイアリーはidの表示を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する話題を各個に自由に執筆することができる。うんこ投げに便にして敷居の低きを最主とするがゆえに、顕名を顧みざる内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来のはてなコミュニティの特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって匿名ダイアリーの使命を遺憾なく果たさしめることを期する。はてなを愛しブクマを求むる士の自ら選んでこの挙に参加し、改変ネタとやおいネタとを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上モヒカン的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世のはてな市民とのうるわしきクネクネを期待する。