はてなキーワード: 受忍限度とは
SNS上での論争では丁寧に議論を積み重ねて結論を得るのは難しいので、局地戦を仕掛けて勝利を積み重ね、相手陣営が如何に非論理的で頭が悪く、自分たちがその割りを食った被害者かを第三者に主張することが有効と言える。具体的な方法としては、浮いた駒(用意に破綻する主張をしてしまう無能な敵陣営)を晒し上げてTogetter等にまとめればそれを見た大衆は「○○派って変な主張ばかりだし、馬鹿にしてもいい存在なんだな」と思ってくれる。まあ所謂セレクティブエネミーというやつである。
暇空氏以前の表自と規制派の戦いを振り返ると、これまでは表自側が優勢だったという印象は拭えない。これは表現規制派が問題とする萌え表現について問題ではなく受忍限度内であるとの判断をする人が若者を中心に多い[1]にも関わらず、表現規制を要求する際の根拠や基準を明確には示せない(少なくとも聴衆を納得させられる状況ではない※)こと。またこれまで性的な被害を受けてきた被害者であるがゆえの強い言葉での否定が晒し上げられてしまった際にパターナリズムや男性嫌悪に基づいて規制をしようとする人達という印象が先行してしまったのではないかと考える。実際に日経新聞の月曜日のたわわ広告や大阪駅の広告では規制派側の要求は通らず、広告事業者側も客ではない規制派のクレームは社内基準等を盾にあしらう、という対応が(少なくとも商業広告では)定着しつつあるように思える。またそもそも問題であると感じた萌え絵表現をアドホックに叩くという戦術は、中立であった少なくないその作品のファンが根こそぎ相手陣営につきかねない危険な方法だったように思える。
前置きが長くなったが、これらを踏まえた上で暇空氏は現在表自側の浮いた駒になりつつある。暇空氏が現在戦っている土俵は表現の自由ではなく仁籐氏の本業であるColaboのアウトリーチ活動であり、表現規制に反対する立場の人でも仁籐氏の本業の活動については肯定的な人も多い。暇空氏は生活保護ビジネス陰謀論と会計の杜撰さを武器に戦いを挑んだが、陰謀論は返り討ちにされ、会計だけではColaboを潰すには足りない。また会計の問題についても意図的な不正で大金をせしめていたというよりは単に杜撰だったという印象があり、仮に「東京都と相談の上、今後は適切な会計処理を心がけます、それはそれとして暇空氏の誹謗中傷は許せません」となった場合にどちらに理があるのかは明らかである。また暇空氏自身だけであれば良いものの暇空氏は過激なファンネルを抱えており、彼らが誹謗中傷を行ってまとめて浮いた駒として負けてしまうことは世間への印象として非常にリスクが高い。これに関連して、暇空氏と同じく表自側のインフルエンサーである青識氏はColaboへの誹謗中傷をやめるよう注意喚起をしている。これはColabo憎しで本業に影響を与えた輩がまとめて敗北する事を危惧していると考えられ、青識氏の行いはあまり好きではないがネット上での喧嘩のやり方については流石にプロであると感心した。
Colaboの本業を叩きに行く暇空氏の戦いはほとんどギャンブルであり、今後の展開によっては大敗する可能性がある。また表現の自由の枠組みの中で戦っていれば有利であった表自にとって戦線を拡大するギャンブルを犯す意味は薄い。暇空氏はすでに暴走しており止めようがないが、良識ある表自としては一度暇空氏とその過激なフォロワーに肩入れすることはせずに推移を見守るべきと考える。
※自分の意見としては規制の基準は必ずしも規制派が示す物ではなく関係者の合意によって双方で作り上げるものとの認識なので、規制派が皆が納得する基準を示せないからといって即座に主張が無効とはならないと考える。一方で規制派も表自に対して基準を検討するためのテーブルに着けとの方向性を示せず、自身らの暗黙的な基準を押し付けたのはパターナリズムとの批判は免れないのではないと考える。
[1] JR大阪駅「性的広告」に見る日本で炎上が続く真因 https://toyokeizai.net/articles/-/636895?display=b
後から来たとか先にあったとか関係なく、騒音には規制がありその範囲内であれば受忍限度内として判断される。(住宅と公園のどちらがが先だったかを重視する人も多いが、住環境に対して騒音が受忍限度を越えた問題を与えるかが争点であり、どちらが先かは意味のない議論。)
そして長野の件については弁護士の見解としては受忍限度内であるとしている。施設の開設当初は受忍限度を越えていたという主張もある(これについて定量的な根拠はなく、クレームを入れたのが1件だけだった)が、少なくとも現状の利用についても問題ない範囲であると読み取れる。またクレームを入れた老人は利用している児童に対して叱責を行っている旨も報告されており、これについては行き過ぎた対応だと言わざるをえない。
これらを総合して判断すると、公園を廃止して問題ない範囲の利用についてまで不可能にするのは行政側の行き過ぎた対応であるように思えるし、それを求めるクレーマー側の主張も行き過ぎた主張である。過去の受忍限度を越えた騒音や踏み荒らしについてはその分の損害賠償を請求すれば良いし、その後については受忍限度内であれば甘受すべきという話でしか無い。
問題を大袈裟にして老人を擁護する向きもあるが、現状を整理すると過大な要求をしているのは主に老人側であり公園の廃止に対してそれを決めた行政または過度なクレームを入れた老人に批判が集中するのはある程度仕方のない事象とも思える
https://anond.hatelabo.jp/20221111111303
この増田を読んで思い出したので懺悔も兼ねてききたい。上映予告中にスマホをいじるのはありかなしか?
私も週に数回映画館に通うくらいには映画好きのつもりだが、映画の予告がどうも苦手だ。
というのも予告編がどれもつまらなさそうにみえるというか、「まあなんかああいう話なんだろうな……」と過去に視聴した他作品と重ねてしまうことによって視聴意欲が削がれてしまうのだ。
上映している映画の一覧は情報サイト等で確認しており(その際もできるかぎりあらすじなどは読まないようにしている)、上映予告によって映画を知るという機会はほとんどない。それに加えてどんなにつまらなさそうな予告でも見てみると全然印象が違ったりするので、私にとっての予告編は余計なバイアスを強制的に植え付けてくるCMという位置づけになっている。
もちろん対策もしている。私はできるかぎり通路側の席をとり、(上映直前の)映画泥棒CMが流れるくらいのタイミングで駆け足入場することにしている。こうすれば予告編を飛ばしていきなり本編を視聴できるので解決だ。
ただ毎回通路側の席をとれるわけではない。そんな場合、本編上映直前になって「すいません、すいません」と言いながら他のお客さんの前を横切るのも迷惑だろう。
なので、中ほどの席を予約せざるを得なかった場合は、ノイズキャンセリングヘッドホンで耳をふさぎ、スマホをいじることでなんとか予告を見ないようにしている。こうやって書くと私ってちょっと異常者だな。見た目がよくなさすぎる。なんだよヘッドホンて。映画見る気あるのか?
で懺悔なんですが、半年ほど前に川崎の某映画館に行った際も私は上映予告中にヘッドホンしながらスマホをいじっていたわけです。そしたら背もたれ越しに衝撃を感じたんですよね。最初は「あ~後ろ通ったお客さんがぶつかったのかな」と思って気にしてなかったんですが、しばらくすると再びかなり強めの衝撃を感じたので振り返ってみると、後ろの席のお客さんに「スマホしまえよ!!!!!」と怒鳴られてしまったんですよ。どうもイラついて私の席を蹴っていたみたいです(席を蹴ったり大声を出すことは良くないと思いますが、今回聞きたいことの本質とは関係ないのでスルーしてください)
え? まだ予告だよね? と思ってスクリーンを確認し、実際まだ予告だったので「上映まだですけど……」と言おうとしたところ、私がそう言おうとしたことを察したのか「見てんだよ! 予告もよ!!!!」と再び怒鳴られてしまったんです。
その時の私は席を蹴られていきなり大声出されたという事実に引っ張られて「狂人に絡まれちゃったな……」くらいのメンタルだったんですが、上映終了後になるとさすがに冷静になってきて「そもそも予告を見たくないと思っているのは一部の人間だけで、当然予告編を楽しんでいる人もいるし、そこでスマホをいじられることが本編上映中にスマホをいじられるのと同じくらい嫌な気持ちになる人も当然いるよな……」とようやく悟ったんですよね。
まあ私の最悪なところは、上記の気づきを得た後でも結局自分のために予告中はヘッドホンしてスマホをいじっているということです。理由としては予告中のスマホくらいは受忍限度内だろうと勝手に判断しているからです。本当にすいません。
みなさん上映予告中にスマホをいじるのはありですか? なしですか?
フェミニストです。ウマ娘のときから『表現の自由の戦士』の態度に疑問でした。
でもそれなら『表現の自由戦士』は間違ってたってことになるよね?
フェミニストは「女性の権利と尊厳」を守るために、必要なら声を上げる勇気を持つけど。
『表現の自由戦士』が守護してるのは別に表現の自由ではないってことね。
だって、「なんの権利も持たない外野が辞めさせようと口を出してきた」と仰るけど、クレームを入れるのも表現の自由権だもの。
あなたたちが守ってるのは、何?
私も考えてみようと思う。
かつて私もこんな風に読んでいたことがあった。
だけど、ウマ娘やUSJに「このくらい受忍限度だろうが」とか「アウトの境界線が曖昧なお気持ち」と突っ込んでいかないところをみると、この呼び名は誤りだ。ごめんね。
今回もフェミニストの一発言に食ってかかってるし、アンチフェミでいいのではと思った。
でも、スポーツ大会のレギュレーションだとか女子トイレ更衣室問題で必ずしもTERF、フェミニストの敵側に回ってるわけではないようなので、この呼び名も誤り。
多くの『表現の自由戦士』が声を上げた女性に対して露悪的に振る舞うので、ミソジニーが動機なのではと訝しんでる。でもアツギなどの女性担当者を庇うこともあるので、必ずしも当てはまるとは言えないし、言動の表れる第一活動実態と内心の動機は別に判断すべきだ。活躍してるフェミニストだって動機がミサンドリーの人も結構多いし。
ローレンの「ファビョる」発言が炎上したとき、ほとんど『表現の自由戦士』は反応しなかった。
増田も"権利者"と言ってることから、彼らは著作権に関する何かを重視してるんだと思う。ただ、けものフレンズ2が猛非難されたとき(好きなのに…)まったく『表現の自由戦士』は動かなかったよね。ヘイト創作のようなものも、お祭り騒ぎで楽しんでいたようだ。彼らは、罵倒・ヘイト・冷笑・否定と、やめてほしい・注意・クレーム・怒りを分けて扱う。しかし、萌え絵のこの描写が性的消費だ、というレビューには強く反応する。奇妙だ。これは前者のカテゴリーではないのか。
ひょっとして、フィクションや広告も含む芸術に触れるとき、心の中の真面目さを刺激されるのがイヤなのか? それが社会の弱者にダメージを与える可能性を考えたくない、とか。ノブレスオブリージュを放棄して、マジョリティの既得権益である心理的安全性を謳歌したい、と。だとすると『反ポリコレ』の呼称が適切だ。ディズニーやマーベルら、著作権の権利者が自分たちの意思でキャラクターに多様性をつけようとしたり、アニメの聖闘士星矢のキャラの女体化も権利者の同意があるにもかかわらず批判された。批判者と『表現の自由戦士』は層が被っているのではないか。
父親とかの第三者がカップ数設定を書き込んだなら、器物損壊や著作権法の同一性保持権違反だ。
だけどそれは、「カップ数で中学生の女子を傷つけた罪」ではない。
平均的な中学生女子は中学生女子キャラのカップ数設定が書かれたくらいで傷つかない。
もし傷つくくらいナイーブなら、それはキミの心の弱さだ。
普通の人が耐えられる程度の描写は、フィクションの読者は、受けて耐え忍ぶことが要求される。
俺は中学生男子だったときに、絵が上手い友だちに嫉妬したことがある。
友だちは放課後に黒板にチョークを使って美少女の萌え絵を描いた。
作品同様に過激なワードが使われやすいことが容易に予測できることから受忍限度も相応に高くなると考えられる
元増田が当該記事とは別に誹謗中傷を繰り返している事実でもない限り
あくまでVtuber本人ではなくラップの内容に対する感想でしかない1ワードを捉えて名誉毀損罪や侮辱罪が認められる可能性は低い
例えば主人公が死ぬまでの過程を主題とする作品を描いていた人物が「お前も死ね」と罵られて訴訟を起こしたケースでは
作品の内容に誘発されての発言と考えられることや単発の侮辱で継続性がないことから訴えが棄却された(※)
はてブって実名垢でない限り、匿名つってもアカウントを漁れば過去の発言を見られるし、それなりにブコメとの整合性が問われるよな。言ってみれば「発言した責任」を問われる立場でもある。その問われる場がはてなブログだろうとヲチスレだろうとツイッターだろうとな
また一方でidという固有識別記号があり継続した運用実績がある以上、個別の人格を有していると言える。例えば5chなんかの匿名同士で「死ね」「殺す」の応酬は言及対象への特定可能性が無いので問題にはならないが、例えば増田でid誰々を殺すと明言したら、それは殺害予告と言えてしまう
そういった立場の非対称性が、はてな匿名ダイアリーの"サービスの匿名性は、特定の対象を攻撃する目的に使われるべきでない"って部分のキモなんじゃないか? 要は、この"匿名"ってのはアカウントidが固有識別記号となっているブコメと、それが表示されない増田の対比における後者により重点が置かれてるんじゃないかってこと
確かにブコメで批判が過熱していって集中砲火になる部分はあるにせよ、言うて発言者が明確でない以上は批判は内容に関するものであるわけで(邪推して人格や内面を押し測るものもあるかも知れないがidが出ない以上は想像の域を出ない)それは増田を使う上での受忍限度の範囲内じゃないかな
俺だって精一杯書いた増田を嫌儲に転載されてケチョンケチョンに貶されたことあるけど、ネットに文章を公開した以上はしゃーないと割り切ってる
そこで提案なのだが、そうやってイキってるブクマカをはてなブログ(はてなでのidがバレるのが嫌なら別のサービスでもいい)やnoteなんかで晒してみるのはどうだろう?
上記は、あくまでも"はてな匿名ダイアリー"での約束事に過ぎないのだから、そこを離れれば特に制約なんてない筈だ。少なくとも、俺はスッゲー読みたい
中絶賛成派のためにもこういうバカは黙っていた方がいいと思う。こう言う誰が悪いと言う話でもない人権の対立案件では、損害の重篤さが比較される。
この場合は胎児と母体よね。で、妊娠出産に伴う死亡率は、日本では10万人当たり3.1人、つまり0.0031%なわけ。日本の交通事故死亡率がだいたい0.0025%だから、まあ、だいたいとんとんなわけよ。自動車がこの程度の危険では廃止にならないように、この程度の損失では、女性は危険を主張できないわけ。これを受忍限度というのよね。
身体性、と言うのでも、負担は最終的には身体性に帰することが出来るので、それだけでは無効よね。女性専用車両でも、女性保護のために男性は余分に身体的なストレスを被っているわけよね。寿命が短い人たちに負担をかけて平気なわけだから、女性たちは。じゃあ、自分たちがより弱い存在に対して負担を求められることもありますわね、と言うだけの話よ。
プロチョイス派はまったく感情論でしか反論できておらず、「私はそれは嫌だ」としか言っていない。と言うか、そうとしか言えないことが、中絶の自由を含む女権至上主義が、根本的に人権思想と齟齬を発生させていることの現れだろう。理屈で反論できているならばしているはずだからだ。これは中絶の問題だけではなく、トランスジェンダーの問題等、女権が他者の基礎的人権を著しく毀損していることの現れであり、もはや女権の一点突破では人権侵害が許されなくなってきていることにもつながっている。
語るに落ちるとはこのことである。思想信条は個人の自由であるので動機がミソジニーであろうがミサンドリーであろうが関係のないことだ。それはどのみち当人を含めて証明可能性は無いのだ。人権思想に則って論理展開をしているのであれば、その齟齬を提出すればいいのであって、しかしフェミニズム関連ではほぼ100%毎度毎度このようなリアクションばかりである。こちらがミソジニーであろうがそちらがフェミニズムであろうが裁かれるのは行為だ、思想ではない。現に胎児を殺していることが批判されているのである。
生物種としての普通の営みである。私は出産を強制したとしても、マクロでの影響はほぼ無いと思っている。ほとんどの女性が出産していた昭和30年代40年代50年代のデータにおいても男女の寿命格差は同程度だった。出産を間に組み込んだとしても女性は死ななさすぎるのである。寿命格差の是正と言う意味では、もっと死ぬべきだろう。数年単位で寿命が短い(身体が弱い)男性に対して、最悪徴兵制およびそのバリエーションのような女性のみが受益者になる負担を押し付けることが受忍限度内であれば、胎児の生存権との比較で、出産で女性が死んでもそれは受忍限度内である。それが嫌ならば妊娠しなければいいのだ。
私は別に同罪でもいいのだが、根本的には胎児の生存権とのコンフリクトが誰との間で発生しているかの問題だ。中絶が殺人だとした場合、殺人の企画者(両親)と実行者(医師)が殺人罪になるのは当然である。問題はその企画者に男性が含まれるのかどうかである。男性の同意が必要である場合は、当然、企画者に含まれ得る。しかし多数のフェミニストが主張するように、男性の同意が必要なければ、当然、それは女性のみの責任に帰せられる。セックスは関係ない。それは2人の成人同志の合意によるものであり、社会やまして胎児には関係のないことだからである。私的契約なのだから、その範囲内であらかじめ条件や約定をつけておけばいいことであって、生物の構造上、女性が妊娠から逃げられないと言う事実それ自体は、男性には無関係である。女性が自身でそれを踏まえてうえで自己防衛するべきことであり、胎児にその負荷を負わせるべき理由は何もない。つまり中絶に関しては関係者すべてが罰せられるべきであって、男性と医師は場合によっては無関係者でいられるだけだ(非合法の飲み薬などで堕胎した場合)。ただし女性だけは逃げられない。
これは女性専用車両などでアプリオリに痴漢案件とは無関係のゲイ男性などが負担の強制からは逃げられないのと同じことで、他人様に負担を強制させておきながら、自分が選んだ結果で生じる負荷からも逃れたいと言う女たちはまさに「どの面下げて」と言う話である。
https://anond.hatelabo.jp/20220503215621
言及する必要が無い。人権に敷衍してこの問題を考えれば、プロライフ派になりやすく、胎児の人権、人間規定の恣意性と言う重要な問題を孕むこの問題を、女権拡大の意味合いからそれらの問題をまるっきり無視しているのがプロチョイス派である。
宗教的な頑迷が問題になるのは、宗教的な教義や信条が、近代法の根底にある人権思想、人権原理を毀損する場合であって、そうではない場合からのクレームは、単に個々人の思想信条に過ぎない。善意からであろうが悪意からであろうが法理的に矛盾があるのであればそれは矛盾があるのであって、個々人の内面の思いにフォーカスするのは、それこそ宗教的な悪魔化である。内心のことは証明可能性が皆無であり、相手を悪魔視してリンチしてやろうと言う下種な自身の心情をまずは問うべきではないか。
プロライフ派とプロチョイス派の争いは人権派と女権派の争いである。近代法に適合している人権派が、自らの内心の潔白を証明するべき理由は何もない。
無視していない。女性の身体自由権と胎児の生存権を比較して胎児の生存権により重篤な公益を見出しているだけである。
すでに体制にビルトインしているので女性は意識しない傾向にあるが、男性に対する法的優遇措置は皆無であるが女性に対する法的行政的優遇措置は多数ある。女性専用車両についても、その経済的負担は身体労働からの転換物であるので、より寿命の短い男性たちに「女性の権益のために奴隷労働を課している」と言う面が多々あるが、それらは公益のためには正当化され得る受忍限度内の責務とされているのである。
中絶の件は、一方に乗せられているのが生存権と言う極めて最重要な権利であるため、通常一方的に保護される立場の女性が、公共の福祉において市民的な負荷を課せられるべきであるというだけのことである。
昨今、問題になっているトランスジェンダーの扱いの件、ハーグ条約関連の問題、重要人権案件のほぼすべてが女権と人権の対立周りにおいて生じている。これは女権が人権に根差しているのかどうか、女性が市民社会の構成員としての責務を果たす覚悟があるのかどうかが問われているのである。人権に根差さない女権は人権を毀損するのでナチズムそのものである。
遥かに寿命の短い男性に課せられている負荷は受忍限度内とみなされるのであれば中絶案件も受忍限度内である。子を産んだからと言ってマクロでは女性の寿命は1年も縮まない。そもそも子を産むかどうか、それに至る行為をするかどうかの選択肢を与えらていての話である。
私は女子大学の存在は性差別そのものでありとても問題があるとは考えているが、男性である私が支払った税金を女子大学に注がない選択肢はない。
徴兵制がアプリオリに人権侵害と見なされていないこと自体が問題なのである。徴兵制の根幹は、不可避性である。逃げられないと言うことだ。
徴兵で生じる給与はその不可避性を正当化しない。また、「ならば妊婦にも給与をくれ」と言う言い草がナンセンスなのはことことからも自明であるが、母体保護法やそれ以外の立法措置、行政支援において、既に給与相当分は得ているとも見なせる。逃げられないのは無関係の第三者だ。
もしこのアナロジーで男女対立を煽るのであれば、それは中絶の問題ではなく「産む性」としての保護優遇を女性が得ていること自体が問題視されるべきであろう。そして「負担をイーヴン」にするのであれば、産まなかった女性たちは、徴兵忌避者や脱走兵がそうされるように収監されたり銃殺されることを甘受すべきであろう。
それらの反論がまったく成り立っていないのは、そもそも不可避性を満たしていないからだ。
食べて働いて眠って、だけであれば絶対に妊娠しないのである。妊娠することをしない限りは絶対に妊娠しないのだ。
それでいうならば徴兵制は中絶禁止よりも「ひどい」と言うことになる。そして徴兵制のアナロジー自体は今も公式非公式に残っている。「男は女を守れ」と言う強制である。
『男性にも罰を与えよ』
与えればいいじゃないか、としか思わない。ただそれは妊娠した女性vs妊娠させた男の間で発生するものであって、どうぞ好きに民事裁判でも何でも起こしてください。現行法でも可能だ。
中絶のコンフリクトは妊婦と胎児との間で発生するので男は、胎児にとっては無関係、というだけのことである。
※元記事は間違いなく私が書いたものであるが、私は5/3には記事は書いていない。つまり現在ブクマされている元記事は赤の他人が私が書いた複数の記事をまとめて、再アップロードしたものである。
まーこちとら、女に何の興味も無くて、ひたすら差別されている存在であるわけだけど、男って言うだけで女さんを守るために犠牲を払わないといけないことが多々あるわけよ。
で、中絶の話。
「私の体には私に決定権がある」
ふーん。
女を守れとあれこれ強制されるこの私もそう言いたいですねー。なぜ俺のリソースを女のために割かないといけないんだ、と。
中絶で問題になっているのは、胎児の生存権と女性の不利益どっちが優先されるべきかって話であって、受忍限度内なんだから女性は我慢しなさいってだけの話よね、今の中絶禁止の流れは。
女性側の不利益は一車両使えなくなる男の不利益なんかよりもずっと大きいと言うなら、胎児の不利益はそれこそ生存権がかかってるんだから、女性の不利益の何倍も重視されるべきよね。
産んだからと言ったって、大して女は死なないと思うけど死んだって今でも性差が大きいんだから全然許容範囲の話じゃん。でも仮に中絶違法化されても女の死亡率は0.1%も上がらないよ絶対。
結局法律的にこれはどうなんだろう。
私はこう思うと言うことを書くけど、知識がある人は教えて。
これはそれぞれ別の関係よね。Aで生じた被害の結果を無関係の会社にどこまで及ぼせるのかって話よね。
普通は犯罪被害者なんだから筆者が責められるいわれはないけど、「頻度」が多くて、合理的な回避行動を取っていない(女性専用車両を利用していない)場合、会社側の受忍限度を越えているのではないかと言う話なんだと思うけど。
この話はジェンダーが絡むんでややこしいけど、例えば戸締りを絶対にしない人がいて、何度も泥棒に入られてそのたびに重要な仕事をドタキャンして会社に相当な迷惑と損害をかけている場合、会社は常識的な水準の回避行動を要求できるのか(戸締りをする)、またそれが守られなかった場合処分を下せるのかと言うことを考えてみるべきだと思う。
私は今回のこのケースは、ただ遅刻したというだけで重篤な損害は発生していないから受忍限度を越えているとまでは見ないけど、ケース次第では受忍限度を越えていると見られる可能性もかなりあると思うよ。少なくとも「女性専用車両の利用を求める」のはありだと思います。
この元増田の言うことは説得的だけど、実は「不快」だけで規制は可能なんですよ。
たとえば、明らかに性交をしている生々しい描写(いわゆる濡れ場シーン)を屋外広告にすることは難しいでしょう。「景観や風致を害する」と判断されると思われます。
この問題のメルクマールとして、「とらわれの聴衆」事件という、公共交通機関での車内放送を用いた広告に関する判例がありますが、ここでは広告放送は受忍限度の範囲と判示されました。
現時点(2022-01-04 15:00)でのトップブコメでも、「受忍限度」ことが触れられています。
id:gyochan 「不快だから規制」も、受忍限度(双方の妥協点)をどこに置くかという論点ならば建設的に議論できると思う。けど、それを冷静に膝詰めで議論している場面を見たことがない
では、何故、フェミニストや表現規制派と言われる人たちは、受忍限度を超えるから規制しうる、という論陣を張らないのでしょうか?
答えは単純です、それが成り立たないからです。
受忍限度というのは、基本的に「普通人が耐え難い程度」というのが基準になります。
明らかに「一部の人が不快に思う程度」ではないわけです。そりゃそうでしょう、「一部の人が不快に思う程度」で規制可能になれば、なんでもかんでも規制可能になります。
開発独裁国家のシンガポールでは、そういう基準でやってますが、あれは独裁国家だからこそです。
結局、表現に対して批判をするフェミニズムの問題設定が、一部の人々(女性、特に繊細な人や性被害に遭った人)にとっての問題に過ぎないからこそ、「受忍限度」という理論が使えないわけです。
正解のない問題なんて山程あって、自分が「嫌だな」と思っても他の人はそう思わないなんてのは普通のこと。
で、嫌だからと抗議するとするじゃん。そしたらそれを不快に思う人もいるわけ。「は?全然そう思わねぇよ肩ぶつかって慰謝料請求するヤクザかよ」と。
当然抗議の抗議が発生し続けて、「あいつは人の気持ち分からない」「バカだ」となる。企業や組織は安全サイドに倒すため、抗議があれば取り下げる。コモン・センスなんてもんは忖度だ多様性の排除だと潰される。
結果どうなる?分断が進み、やがて出てくる過激派が「行動」を起こす。抗争だ。つまりやたらめったらの抗議は抗争を助長しているわけだ。
何でもかんでも我慢しろって言うのではない。ちょっとは受忍限度について考え、てめぇの抗議があまりにも自分の主張にだけ寄ってないか常に考えろってこと。ヤクザだってやり過ぎないラインってのは意識するもんだ。何でもかんでも壊したら自分たちも辛くなるからな。
分解して考える。
A.よいはずである。
なぜならば、トランスジェンダーの方々にとって、「〇性らしさ」は自己同一性の一部となっている。
ジェンダーレスという文脈で「らしさ」という言葉を排除しようと考える向きがいるが、それは違う。
「〇性らしさ」を押し付けるのが悪であって、「〇性らしさ」が存在することは悪ではない。
「〇性らしさ」が悪であるならば、「〇性らしさ」を根拠に自身の性別を判断することができなくなってしまう。
しかしそれをしたいと考えている人がいて、それを認めようという世の中である。
故に、「女性らしさ」という言葉そのものを有害とするのは現時点では間違っている。
A.不明。
1.の通り、「〇性らしさ」を否定するのは間違っている。
女性らしい人とは?男性らしい人とは?という定義が聖書に書かれているわけではない(たぶん。書いてあったらごめんなさい)。
つまり「〇性らしさ」とは存在するが、これと規定することができないものになっている。現実として。
その上に立って考えると、その人が「〇性らしい」という状態は存在するはずだが、しかしそれを確定的に規定することはできない。そのため判断はできない。
自分の中の「〇性らしさ」と照らし合わせるしかなく、それが正しいことなのか誰も分からない。
この問題は、「私は女性だ」という人に対して「いや君は男性だ」「無性だ」という議論が出る余地を示唆している。そしてそれは実際に起きている。
A.ナシ寄りかと思う。セクハラと判断する人間もいるかもしれない。
2.で述べた通り、その人が「〇性らしさ」を持つかどうかは個別の認識により解釈の余地が出てくる。
そのため、自身の認識とほかの人間の認識は違う可能性があり、それはいくらアップデートしようが統一できるものではない。(それが多様性でもある)
しかし1.で述べた通り、「〇性らしさ」というのは存在する。少なくとも現代では存在するとコンセンサス形成をしないと少なくともTQの自認を否定することになる。それは望むことではない。
ではなぜ「ナシ」「寄り」かというと、2つ観点がある。
その人が「カミングアウト」するのは構わない。それは公開範囲を意識することになる。
しかし他人が「アウティング」をすることは認められない。本人の意識する公開範囲を逸脱するからである。
そのため、他人の予想を本人の意図しない範囲に勝手に議論されるのも「ナシ」であろうと思われる。
2つ目は「扱い」に関する部分である。
ある人物に対して、どうしても〇性として扱わなければならない場面が出てくる。
それは銭湯に行くときであり、スポーツをするときであり、つまり性差を意識しなければならない場面である。
また、その人が〇性として「扱われたい」という願いを持っている可能性もある。
例えば重いものを持って、と言われて傷つく人もいるかもしれないのである。(この問題は複雑で、言った側が性役割を基に言っているのか言われた側が性役割を過度に意識してしまうのかということがある。基本的に相手を悪意を持っていると見ようと思えば多くの場合見ることができるので、ここはそもそも人間の他者とのかかわり・受忍限度・社会と個人など属性関係なくすべての人間が考えるべき問題である。ここで「私女なんだけど」「女だからなに?」みたいなケンカになった場合にどちらが悪なのか?という話だ。まあどちらが悪というのがそもそもナンセンスで、他罰的にならず原理主義にならずそれこそ人の考えを尊重する態度が互いに必要だろう。禁句を言ったから悪いやつだ!という考えは不毛に思う。)
つまり自身の性を意識してもらいたいという人がいる可能性があって、それを正しく扱うなら集団の中でコンセンサスを取っておく必要はあるわけである。
その場合、どうしても「あの人は〇性らしいから」という言い方がでてくる。これは相手を慮った上でである。そのうえでセクハラだと判断される危険性も考慮する必要がある。これは個別の認識に基づいて対応を変える必要がある。
そういう事情も鑑み、ナシでなくナシ「寄り」と表現した。(ナシみたいなリンゴ、「きおう」の話ではないhttps://www.ooyufarm.com/c/kiou)
こういったことを考えて話をしていくことになるが、実際のところ認知負荷が高く、5名を超えるグループでその考慮をしようというならそれはもう人知を超えているかと思う。
(いやもっと多くてもできるよと思っている人は、実際は相手を支配した気になっている可能性もあるので、努々注意されたし。もちろんできる人はいるだろう。)
(例外として、教師と生徒のような割と一方的な「管理関係」が成り立つなら、もう少し人数は増やせるだろう。しかしそれでも40人は多すぎる)
世の中が良くなっていくに際して、「これこそ正義、これこそ悪」という規定は難しい。
やはり隣人を大切にすべきであって、ネット上で属性間の断絶と憎悪を膨らませるのはほどほどにしないといけないと、私は思うのである。