はてなキーワード: ドーパミンとは
外国人の血が入ってるからか他の日本人よりも倍近くテンションが高い
どのくらいテンションが高いのかというと外国人にすら「あいつ(酒を)飲んでるのか?」と言われるくらい
誰よりも楽しい事が大好きで盛り上がるのが大好き
悲しい事に人とすぐ人とは友達になれるのに「一緒に居ると疲れる」と言われて距離を取られる事が多い
それでも関わってくれる人は関わってくれるのでもう慣れてきた
医者によると生まれつきドーパミンやアドレナリン生成量が普通の人より多いらしい
同じ様な日本人に出会いたいが似た様な日本人は大体外国に住んでるので中々出会えない
そろそろいい加減本気で考えなくてはいけないんだと思う。
いや、義憤に駆られるのは実際わからんでもない。若いうちは特に。
でも年取って色々経験して、世の中は思ったより単純じゃなくて、まぁ単純だったりもするんだけど、
立場が変われば正義も変わるし、お互いが正義を掲げるから戦争になるわけだ。
それなのに、なぜ炎上ネタを見つけては、正義の振りかざすバカが湧いてくるのか。
もちろん俺もはてなーで、一方的に手斧を投げることは嫌いな人種ではない。今はしないけど。
ただまぁ、結局のところ、人をいじめる正当な理由を手にしたことによるものなんだろうなと思ってしまう。
こういうことをしたやつはいじめられてしかるべきとでも思ってるのではなかろうか。
ほんとなんなんだろうね。
一節には、バッシングすることは、セックスと同じだけドーパミンが出るらしい。
それが正義の側に立つならば、糾弾されることはない絶対的安全地帯からのバッシングなので、
バッシングをやめられない奴らは、セックス依存症と大差がないのかもしれない。
ならいっそ、日々セックスでもしていれば、バッシングなんてこともしないのかもしれない。いや、より快楽を求めてするかもしれないがな。
結局のところ、炎上の度に正義の側に立つことでえられるドーパミンの虜なのだ。
彼らはこよなく愛する肉便器を決して手放したくない。
ゲームがやめれられない人や、セックス、アルコールがやめられない人、ネットストーキングがやめられない人と同じように、
バッシングがやめられないのだ。
正直わからないのだが、こんな半分以上精神が逝ってる人間のでかい声のせいでい、日本全体が不利益をこうむっているのが本当によくわからない。
テレビやネットで賞賛されてる人や団体、賞賛されている活動があったら粗を探して難癖をつけたくなる。
というか強迫観念的に「何か悪いところ探さなきゃ!」ってなって必死になって弱点やボロを探し出してそれをコメント欄やここで指摘するんだ。
俺には信念とかは一切ないんだと思う。
この前は取り組みが賞賛されて表彰もされていたフリースクールを知って、休日返上で必死に粗を探して不祥事を探し出してそれを指摘した。
この前はドイツの環境保護団体とそれを母体にして世界中で政界進出しようとしてる政党の粗を必死に探し出し「エコビジネス」であり「将来世代のための活動ではない」という論理を構成した。
とにかく賞賛されたり、正しいとされたり、良いこととされたりしている物事が許せない。
俺は声が小さかったし聞こえるような声で歌うのも恥ずかしかったから合唱祭ではいつも口パクで「お前声出てないよ」と先生や同級生から指摘され怒られた。
体育祭では必死にやればやるほど遅くて不恰好でダサく格好悪く見えるから手を抜いてたら「何やってんだよ」と肌の黒い同級生の男たちから詰られた。
うるせえばか。一生懸命走ったりボール投げてもお前らみたいに様にならないんだよ。笑われるだけなんだよ。お前らみたいに格好良くて速い走り方ができたり、見てて惚れ惚れするようなフォームや動きができるなら俺だって頑張るわ。
やりたくもないことをやっているのにその上なんで詰られないといけないんだと泣きそうになった。
合唱祭で最優秀賞をとったり、体育祭で優勝した際にはクラスメートは泣きながら喜んでいた。俺は「ようやく終わった」という感情はあっても「嬉しい!」という感情はなく喜べなかった。すると今度は「冷めてるやつ」という烙印を押されるんだ。
みんなにとっては毎日放課後時間を使って合唱練習して本番では大きな声を出して歌い、体育祭では炎天下の中で練習し、結果が出ればみんなで泣きながら喜ぶことが「良いこと」とされるんだよな。
だから俺はみんなから「良いこと」「正しい」と一般的に思われていることが大嫌いになった。
あの頃は反論できなかった。
でも今は反論ができる。難癖もつけられる。批判ができる。一方的に賞賛させられたり、参加させられたり、巻き込まれることを拒むことができる。