例えば、犬を飼っていたとする。当然犬に執着する。ずっと一緒にいたいし、出かけていれば早く犬に会うために帰りたくなるだろうし、病気になったらこの世の終わりが来たかの如く絶望するし、死んだら悲しみのどん底。つまり執着してる。
この一連の流れがあることを知っていながら、次の犬をまた飼う。死んだらとてつもなく悲しいことを知っていながらね。何故なのか?
答えは、犬と一緒にいる時間がとても幸せだからだ。神様が与えてくれたその幸せな時間を満喫するためとも言えるかもしれない。そして神様が与えてくれた寿命が尽きる時が別れの時だ。それはとても悲しいし言葉にはできないレベル。
では執着がなければどうなのか?犬を飼いました、家に犬がいます、かわいいっす。でも執着してないから。病気になったとしても、「そんなこともあるよね」と。「だって生き物なんだもん」と。亡くなりました、「そんな事もあるよね、生き物だから」と。
犬とずっと一緒に生活をしていて、こんな考え方になれるかどうかは別として、仮にこのような考え方になれたとして、それって幸せなのかなと思う。だってこれってあまり好きではないと言う事じゃね?と言う事は、本当は100味わえる幸せを10程度しか味わえてなかったんじゃね?だとしたら残りの90分を味わなかった。その分だけ人生損してないかな。
ブッダはこうも言ったとされている。この世は虚しいと。何故虚しいのかと言うと、死んだら全てがパーだからだ。もちろんそうかも知れない。死んだら全てパー。しかし生きている時間を少しでも幸せにしようと努力し、そして幸せを感じる事は無駄ではないんじゃないかな。
ちなみに仏教の勉強をしていると色々な説があって、微妙に違ったりする部分があるし、なんなら僕自身の解釈が間違っている可能性もある。ただ、仮に僕の解釈が正しければ、ここに書いたような疑問を持ってしまう。
それは、ブッダの弟子が適当に考えたほうの教えだね。
私も同じこと思ったよ。だから仏教はいまいち好きになれない。 執着してこそ人間じゃないのか。 そこから離れられれば楽になるってのは認める。
現生利益だけで考えようとしてんのが間違いじゃない? 魂を上のレベルにもっていって解脱するのが目指すところでしょ
現代では、お経の研究と実践が進み、ブッダが執着を離れなさいと教えられたのは、方便だったことが分かっています。 あなたは、執着を離れることに執着しているから、執着しないほ...
ちょこちょこダンマパダ読み進めてるけど「一つのことに執着して万事疎かになるようではダメ」くらいに捉えて読んでるよ 仏教の研究してるわけでもないしね
そのへんはね~。現代において仏教が廃れる、まさに原因だね。 そもそも仏教は、生きることは、生老病死、即ち苦しみであると説いている。 これね、「生きていると、老いや病...