それは鬱病では感
丫
楽しさ、娯楽って、ものによって何段階も前提となる価値観があるんだなと
ギャンブル、パチスロなんかは金銭という価値観をベースにした遊びなんだろうし
まずベースの価値観を信じつつ、その価値観を実現できてない状況で、
これ以上、ニュース・長文を見る層は増えないには異論はないけど、それは即ち、なんらかの能力を欠如を意味する物じゃないんだよね
他のことで忙しいから・不愉快だから意図的に避けている層はそれなりに存在する(というか半数はいる)
ちなみに増田は、『ニュースや長文見てたらその選択肢だけはないですよね?』をやってる人、
雑に結果を見てると『知的怠惰を発揮する権利を行使するぜ!』は、所得が高い地域で多い傾向にあるように見えます
なお、同じ所得が高くても、立地的に現役でお勉強する人が多そうな地区では比較的バランスの取れた結果になってます
ワイは素直に下記のように読みました
とりあえず、選挙に行く気はあるが、感じが悪い人・お行儀が悪い人・倫理観のない行動が大嫌いな"上で"
ニュースや長文を絶対見ない層に投票して貰うために、常に礼儀正しく、言葉の非暴力を貫いた方がいい
けど、肝心のそれなりに票集めそうな党が、選挙活動中だけでなくて、”普段”から、
ニュースや長文見ない人でも刺さるようないい人アピールしてくれないと、どーにもならんのですけどね
プライベート切り売りで家族と一緒に過ごすてますよアピールなり、
ホームレスの支援活動なり、介護支援なり、子どもたちが夏休みにご飯食べれる支援なり
とりあえず、ネットで批判バトルや謎の擁護合戦、変な動画は、おかしな人たち・関わり合いになりたくない人たちという印象しか与えていない自覚は欲しい
90年代末期の江副浩正の社会的イメージといえばそれはそれは酷いもので、反社会的人物の最たるものと思われていたが、当時より彼が行なっていて慈善活動として奨学金事業があるのでそのことについて書いておきたい。
リクルートスカラーシップは学術,芸術に秀でた人物に対して無償の奨学金を提供するというもので、今は多少異なっているようだが、当時はオペラ、建築、心理学の各領域で年間6人程度が対象となっていた。当時はまだ有望な学生だった私も、この奨学金の受給者として選定され、2年間の間、毎月十万円もの支援をしていただいた。
残念ながら、能力もモチベーションにも欠けていた私は、その後、その分野において芽を出すことは叶わず、別の領域でひっそり生きているのだが、大学院進学後の困難な時期に得られた支援によって、やはり私自身の糧になっているという思いがある。財団からはOB奨学生に対して,毎年色々とコンタクトがあり、落ちこぼれの私は総会などにも一度も出席したことはなく、ただただ恥ずかしいという思いをこの20年間以上積み上げてきたが、この歳になって、非才の私を支えてくれた支援に対する思いはどんどんと強くなる。
思うに奨学金事業というのは「成功率」の非常に低い営みであり,金を渡しても私のように音信不通となってしまい、そのリターンが不明となるケースも多々あると思うが、そんな時でもその支援というのは決して無駄ではない、と各種基金の設立者や関係者の方々には伝わってほしいと思う。こんなことをここに書いていても仕方がないので、今年は何らかの形で事務局には連絡を取るか,あるいは当時に受けた支援金額の何分の一かでもリクルート奨学金か、あるいはあしながなどの他の基金に対して寄付したいと思っている。
引きこもりって本人の問題もあるけどそれを許容してる親の問題もあるし、なんなら「追い出したいけど私たちの責任問題にならないように自主的に出て行ってほしい」という温いこと考えてる親もいるから、そういう親を説得するところから始める必要がある
https://togetter.com/li/2401236
上記のまとめがはてブで視界に入ったのでちょっと思ったこと適当に書く。
そのための努力をヤン・ウェンリーがやってたのか、という問いが出てくることは
理解できないわけではない。
ただ、そういう「政治」を嫌ってるのがヤン・ウェンリーというキャラであり、清濁併せのむキャラは
「ヨブ・トリューニヒト」がやってる(物語後半まで「清」」」の部分は見えないけど)。
銀英伝という物語は、軍事の才も政治の才もすべて一人の名君に集まって最高に輝く瞬間の独裁のメリットと
軍事の才と政治の才がバラバラで連携せずにくすんでしまっている民主共和制のデメリットを対比させてるところが面白い。
けど、民主共和制の側の才能を全部ひとりに集めてしまったらそれはもう民主共和制じゃなくて独裁と変わらん。
表立って動く独裁者 vs 裏から手を回す独裁者 という話になってしまう。
物語の根幹をなす対立構造がなくなってしまってそれじゃ面白みに欠けると思う。
俺にとって銀英伝はこういう対立構造を描いている物語だと思ってる。
「名君のいなくなった独裁制」は次の名君が出てくることを祈るしかないし、
「主権者が責任放棄した民主共和制」は主権者が責任感を取り戻すことを祈るしかない。