○ご飯
○調子
来週も頑張るぞいや。自炊サボりまくったので逆にそっちのパワーも貯めれたかなあ。
○グラブル
7周年生放送。
色々アプデ情報があったけど、アニラとオクトーの上方修正が一番嬉しいかも。
あと神石の人たちは地獄そうですね、僕の神石移行はもう一生なさそう。
シヴァ杖1凸、エウロペ拳1凸、ゴブロ剣未所持、グリム杖2凸、メタトロン槍3凸、アバター琴1凸。栄誉交換はどれもやったことない。
メタトロン槍以外はまずは1本有るだけでも良い感じだから、そろそろ栄誉リソース切ることも考え出そうかなあ。
闇はリソースがっつり使ってアバ銃編成ってのもありかなあ。……いやなしか。
○ウマ娘
アグデジまだかなあ。
ここで俺が不良品呼ばわりしなくても、社会が元増田にそれをつきつけ続ける筈さ
正社員にはしません、一年の働きは250万です、社会に適応できない人間は貧しい暮らしを続けてください、と
以下村上春樹の主な受賞歴。
群像新人文学賞(1979年)
野間文芸新人賞(1982年)
谷崎潤一郎賞(1985年)
読売文学賞(1996年)
桑原武夫学芸賞(1999年)
フランツ・カフカ賞(2006年)
世界幻想文学大賞(2006年)
朝日賞(2007年)
早稲田大学坪内逍遙大賞(2007年)
バークレー日本賞(2008年)
エルサレム賞(2009年)
毎日出版文化賞(2009年)
スペイン芸術文学勲章(2009年)
小林秀雄賞(2012年)
ヴェルト文学賞(2014年)
アンデルセン文学賞(2016年)
この中から更に主だったものを上げるとすれば、1985年の谷崎潤一郎賞、2006年のフランツ・カフカ賞、2009年のエルサレム賞ではなかろうか。
谷崎潤一郎賞は熟練した純文学作家に与えられる日本の賞であり、またフランツ・カフカ賞ならびにエルサレム賞は国内外の顕著な業績を上げた作家に対して授けられる賞である。率直に言って、これらの賞を受賞している作家は並一通り以上の文学的魅力を持っていなければならないんだけれど、それらの賞を受賞している村上春樹が「文章が下手」っていうのは無理が無いか?
そもそも、村上春樹に「下手」と評価を下すネット評論家諸君が幾らハードな読書家であろうが、村上春樹に対して文学賞を与えている人間の中には、日本で一番小説を読んでいると言ってもいい著名小説誌の編集部のメンバーがいる。それらの日本で最も小説に精通した人々が村上春樹に対して贈った賞の存在は、明らかにネットの無名の評論家の「下手」評価よりも当てになるだろう。何でそんな単純なことがネットの評論家、並びにその評論を信望する人々には分からないのだろうか、と自分としては疑問に思うこと頻りである。
さらにさらに特筆すべきはエルサレム賞で、こちらは文学的評価のみならず政治的な要素の介入する賞だから、純粋に文章力の尺度としてこの受賞を語ることは難しいかもしれないけれど、国際的な評価の裏付けには間違いなくなっていると思う。
また、エルサレム賞の授賞式の舞台では当時のイスラエルの大統領であるペレス大統領も参席しており、それだけ重要な賞であったことが分かる。
審査員が読んでいるのは英語訳だろうし、勿論原文の日本語を正確に評価しているわけではなかろうが、いずれにせよ本編の魅力が無ければ翻訳が評価されることもあるまい。これだけの多種多様かつ様々な審査委員から評価を受けたきた村上春樹に対して、「文章が下手」っつーのはどーゆーこと? ってな話なのだ。
え、ロッカールームで着替えないんですか。会社の規則で制服なんですよね?
ジーンズとかで出勤してもいいけど、ロッカー室で着替えて制服着ましょうねってのだったらわかるけど
自宅から着てゆくとか、はじめてききました。
ネオリベのお前がそう望んでるだけでしょ
勝手なこと言わせてもらうけどさあ、
いや、ひどい表現だけどね。
申し訳ないがもう亡くなってる前提で言ってるけど。
なら引き止めたのは悪かっていうと、それは弟として自分のすべき・したいと思ったことであり、自分の正解だわ。
信頼する人の心にわだかまりや傷を残して最終的には死ぬ、それって人としてのトゥルーエンドだよな。
ものすごい軽々しいのは重々承知ながら、文章読んでて「これは間違いだ、あってはならない」って要素感じないのよ。
兄貴の人生にはあってはならないことが起きたんだろうね。それは弟的には悲しみ悼むことであっておのれが後悔しなきゃならんことじゃない、兄の人生だから。
まあそんなこと思ったよ
ひどいかね
この先、生きてきゃ嫌というほど思い知ることだよ
ドロップアウトさせる高校が、元増田に不適合な社会がひどいと言って欲しいね
元増田はこの社会じゃかわいそうに不良品だが、それは元増田せいじゃあない
鞭打ってるんじゃない憐んでいるんだよ
ああ可哀想に
例えばだけど
「日頃から周囲を威圧していたヤンキーが教師に殴られた」という話と
「大人しく反抗もできないオタク男子が教師に殴られた」という話
どちらにも同じだけ怒り同じだけ抗議できるか?
ていう
これが法律なら殴るという行為についてはなるべく平等に判断しようとするけど
後者についてはネットで祭り上げられて教師が叩かれるかもしれないが
(厳密には法廷ならヤンキーがどれ程日頃から威圧的だったか、で教師に情状酌量は求められるが、ネット民はそこまで精密に検証なんてしないだろう)
もうこんなもんはどうしようもなくて
ある出来事に関する想像力や当事者を慮る気持ちや義憤に駆られる衝動なんて
きっとさっきのたとえばなしだってヤンキーに非がないならヤンキー仲間は理不尽を訴えるだろう
増田はそれをどれだけ真面目に聞いてやれるだろう
ヤンキーにもおとなしいオタクにも公平でいてやろうと増田が思えるならそれは素晴らしいことだけどそれほど簡単ではない
それはもう本当にどうしようもないことで
森がセクハラされてかわいそうだと思える想像力が自分にあるのなら増田が抗議してやればいい
思えないのなら単に自分は公平な人間ではないと飲み込むしかない
そして増田も公平な人間ではないのだから、他人が公平ではないと言い立てたところでたいしたカウンターにもなりはしない
ただ他人の訴えを無効化するために別の問題をもってくるナンタラ話法と同じで
真面目に議論している人には捨て置かれるだけだ
そんなこと言われてもなあ。
(はてブは100字ですよ)