枠組・構造の問題と程度の問題が区別できないのか、わざと論点をずらしているのか。
「程度は大違いでも構造は一緒」という指摘を思考停止で跳ね除けたり、「構造は一緒でも程度が大違い」という話でDD論に持ち込もうとしたり。
コンテンツの規模を、消費するのに要する時間や展開するメディアの数から評価した概念をこう呼んでいる。この概念が近年、重要になってきているのは、スマートフォンという媒体の普及に伴うコンテンツ発信スタイルの変化に因る。
例としてはソーシャルゲームが分かりやすい。ソーシャルゲームでは一定期間おきに更新とゲーム内イベントが開催され、ユーザに継続的なプレイを促す。また、デイリーミッションという形で毎日ゲームを起動してルーチンを行わなければならないゲームも多い。あるいは漫画アプリの類では、毎日1話だけは無料で見ることができたり、週ごとに新しい話が追加されて期間を過ぎると見れなくなったりする。
こうした媒体は一貫してユーザに持続的な利用を促しており、かつての媒体のように空いた時間に消費すればよい、というものではなくなっている。多少の語弊はあるが、ここでは前者は新型コンテンツ、後者を旧来型コンテンツと呼ぶことにする。新型コンテンツを楽しむためには、ユーザは自分の使える時間を短い単位、例えば1日の24時間から意識的に配分しておかなければならない。ユーザにとって定められた消費期限を過ぎてしまうと、コンテンツはむしろストレスの原因へと転じてしまうからだ(つまり、コンテンツの発信者にとって、消費期限はユーザに継続利用を促させる武器であると同時に、それを過ぎた際にはストレスの元となって「じゃあもういいや」とばかりにコンテンツを放棄される原因ともなる両刃の剣であるわけだ)。結果として、ユーザはあるコンテンツに興味を持った際に、それが自分の生活の中に取り入れる余裕があるか、ということを考え始める。自分の自由時間、既に取り入れている新型コンテンツの数などを検討した上で、そのコンテンツに手を出すかを決めるのである。
こうしてコンテンツサイズが今までとは違った意味で重要になってくる。高品質の製品であっても、同じジャンルに既にヒットしている新型コンテンツがあり、そのコンテンツサイズが大きいとすれば、取り入れてもらうことは単なる商業的競合以上に難しくなる。ならば、あえてコンテンツサイズを落とすという選択のメリットが増してくるわけだ。だがそれだけでは不十分だ。この場合には単にコンテンツサイズを落とすことばかりでなく、ユーザに対してそれを伝えなければ意味が無い。逆に、コンテンツサイズが明瞭であるならば、特定サイズのコンテンツを求めるユーザを狙い撃つことができる。すなわちマーケティングである。
さて、以上は新型コンテンツについてであるが、この考え方は今や旧来型コンテンツにも波及している。いつ何時消費していい旧来型コンテンツであるとしても、それに手を出す際にはコンテンツサイズを意識する習慣を持ったユーザが増えてきているのだ。ここからは未来の予想に過ぎないが、肥大化する一方のコンテンツ、例えば長期に渡るシリーズ物などは徐々にその価値を失っていくのではないか、というのが筆者の考えである。あるコンテンツを長期に渡って追いかけたり、過去の作品を遡って楽しむ労力は思った以上に大きい。一度そのことを学んでしまえば、ストレスに敏感な現代人が、無数の選択肢の中からあえて楽しみきれないコンテンツを選び取るとは考えにくいからだ。だとするならば、前述の発信の仕方によるマーケティングにも更なる見解が加わる。例えばシリーズ物にあっても、作風やシステムを踏襲しても、ストーリー的な繋がりは排していた方がユーザを獲得しやすい、というのは既知のことだが、この傾向は一層加速することだろう。ユーザコミュニティをデザインする場合には分離を意識的に強めておいた方がいいかもしれない。
ちんちーん❤️
舞台も映画も面白いんだけど、増えていくグッズの管理がしきれない
股にかけている沼は1つや2つじゃないし、推しているキャラクターもどんどん変わる。
去年、舞台観劇の際に購入したトートが実家から出て来た。原作ではもう見る影もなくなった、だけどゲームでは最強クラスまで強くさせた推し。
元々男性キャラは優遇されてないゲーム、男性客層を得る為に露出の高いキャラばっかりで全く話題がなくなったよね。その間自分は違うジャンルに夢中になって。
アクキー、缶バッジ、ラバスト、クリアファイル…箱に入れようとすると溢れる程の量。冷静に客観的になると異様なんだけど
トートを購入したのもお祭り気分の時だった。推しの格好をした人に、普段行かないような東京で会えて
もっと近付きたいとすら思った。案外、役者の方が気分を切り替えて別の役柄に入って行ってたけど笑
今後、何らかの舞台、演劇を鑑賞したとして、コロナで見られなくなったとして、舞台への情熱は変わらない。支えたいと思ってグッズを買う事だろう。その度に親族に呆れられたりして。現実がどうでも良くなったりして。
だけど、他人がグッズをごっちゃり貯め込んでる様子を見ると素直にゴミじゃんと思ってしまう。本人は整理してるつもりなんだろうけど、私には名前も不明なキャラクターの数々。好きになった経緯もあるのだろう。
結婚する前から好きな様子だったし、よっぽど熱意があるのだろう。だけど、ゴミじゃん。リサイクルショップに行っても、アニメ中古買取専門店に行っても高値も付かなそうな、ある意味おもちゃ。
↑こういうやつが、殺伐って感じする
殺伐としてるのはおまえの周りだけでみんな楽しく過ごしてるぞ
誰かに絡まれて怖いのは「騙されるんじゃないか」とか「暴力で従わされるんじゃないか」といった恐れがあるからだが
あの場合、常に(応じる前から)円滑な業務を人質にとられていて、トラブルになったら自分だけが職を失う仕組みが作られていることをわかってほしい。
何も対等じゃない。これがハラスメント。
自己肯定感が低いね。ある意味で自己の価値評価を他人任せにしているように見える。他者に何をされても、たとえ尊厳を踏みにじられても自分は自分だ、と言い切れる強さと自信をつけられるといいですね
バカにも、バカなりの文化と、虐げられてきた歴史背景があって、学習機会も知能も足りないまま現在に至っているわけナので、
一方でバカな人たちにも感情があるわけで、それを表現する自由があるわけで、
バカでない人たちには悪いが、少しこちらに降りてきてもらいたい。
つまり、もう少し愚かさに付き合ってもらいたい。
勝ち負けじゃないんだ。
なるほどおれはバカかもしれない、バカが世間を席巻してるかもしれない、
賢いことが正しいことではないんだわ。
枕の下に飴玉を隠すようなことをしても何も建設的な議論にはならないとおもうんだ。
ファミレスで軽度の精神疾患らしき人がずっと独り言言ってたりそわそわ身体揺らして何か探すみたいに辺り見回したり膝を叩いたり指鳴らしたり5分に一度立ち上がってあちこちうろうろしてる。危害を加えられることはなさそうだけど前にいきなり話しかけられたり絡まれたりした人を見たことあるから怖くて仕方ない。かといって店員に言って出てってもらうこともできないしこういうとき健常者寄りの人間はどうしたらいいの。こっちが出て行くしかないの。我慢してるしかないの。観測できる範囲でもう3人くらいさっさと出て行ってる。精神疾患の人には居心地いい空間だろうけどこっちは全然落ち着かない。みんな誰かに迷惑かけながら生きてるもんだけどなんだかなあ。