と言っても児童全員が自分の決めた段の飛び箱を跳んで行くだけで、特に表彰もなく、平坦な行事だった。
ある年、6年生の子が7、8段の高めの飛び箱を跳ぼうとして失敗した。
それを見て3年生か4年生の男の子が野次った。
バカじゃねー失敗してやんのー、と、体育館半分くらいに聞こえるような大声で。
大柄で人当たりがよく、児童に人気があって粗暴なところのない先生が、
君はなぜそんなことを言うんだ!人が転んだのがそんなに可笑しいか!君のほうがよっぽど恥ずかしいことをしているぞ!
と、体育館全体に響き渡る大声で叱った。
これを見た当時は、叱られて当然だと思っていた。
成人してたまに思い出すことがあっても変わらなかった。
しかし今、きょうだいや友人に子供ができて、小さい子供に接する機会が増えてくるとわからなくなった。
元凶はもちろんあの男の子だ。人の失敗をあげつらって嗤うのは悪いことだろう。
しかも周りに聞こえるように大声で言った。
失敗した6年生の子は、失敗したショックだけでなくそれを下級生に大声で野次られたことを屈辱に感じて傷ついたろう。
だから先生がそれを上回る大声で、理を説いて叱ったのは正しいことだと思う。
もし男の子が隣の子にだけ聞こえるように言っていたら、叱るにしても先生はその子を呼んで注意しただけで終わっていたかもしれない。
先生が大声で叱ったことによって、大勢の前で恥をかかされたのは「飛び箱を失敗した6年生の子」ではなく、「馬鹿な野次を飛ばした男の子」になった。
ちょっと友達の前で大きいことをしてみたかっただけとか、軽いいたずら心だろう。
成長すれば普通に分かることでも、子供の頃は無邪気に人を傷つける。
もちろんそれは先生は百も承知だったろうと思う。
それでもあのとき大声で叱られなければ、6年生の子が理不尽に傷つけられたままで終わってしまうためあのようにしたのだろう。
それがわかっていてもなお、
と思う。
考えても答えは出ない。
悪いのは誰かはっきりしている。ただ、子供だ。
今はただ、あれから男の子が先生を恨んだり、あるいは周囲にからかわれて萎縮したりせず、
苦い教訓として態度を改めて成長してくれていれば良いと思う。
毎日ほとんど遅くに帰ってきてろくに話もできない、休日も疲れきって爆睡してるとなれば一緒にいてる意味がないと考える人もいるのでは。増田がどう過ごしているのかは知らんからなんともアレだが
車で行くならホテルグリーンプラザ大阪一択。
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/372/372.html
駐車場付きでこの値段。
LAN付の部屋有り。
電車でちょっと歩いていいなら
http://www.hotelosaka-world.com/
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/67114/67114.html
部屋のカーテンを開けて見える風俗にドキドキしながら眠ったらいい。
近所にはラブホテル、ホテヘル待機所、中国式マッサージなどいくらでもある。
っていうか楽天トラベルでも見たら?
検索したら、ドキュメントへの不正アクセス(http://www.mozilla-japan.org/security/announce/2007/mfsa2007-24.html)がヒット。
・・・しかし、私が愛用するブラウザは、LunaScapeだったりする。
まあHTMLブラウザである以上、同じ仕込みが通じる可能性は高いけどね。
でもこれ、2007年の記録なわけだが。
そして謎、2011の9月になってから遭遇しているのが一番の謎。
妊婦は自分の選択だからって、例えば秋葉原の通り魔事件で犯人を制圧しようとして刺された警察官はPTSDで結局退職しちゃったんだけど、そういう仕事について犯人を制圧したのは自分の選択だから何もサポートは必要ないってこと?
警察官は他人の為にそうしたからっていうなら、妊婦だって、夫が子どもを欲しいと思ったけど妊娠できるのは自分しかいないから夫の為に妊婦になってるのかもしれないんだよ。
怪我人だってメットなしに走ってて事故って大怪我をした「自業自得な」人なのかもしれないし。
どういう事情でそうなったにせよ今その時点で身体がつらい人を優先すればいいだけじゃん。
原文: Schumpeter blog: Angst for the educated(http://www.economist.com/node/21528226)
裕福な国の何百万人もの卒業生が、泣く泣く両親に別れをつげて、大学での新生活を始めようとしている。学生の一部は純粋な学問への愛ゆえに大学に向かうのだろう。しかし、ほとんどの学生は、大学で3年か4年過ごせば、そのために多額のローンを組むことになったとしても、実入りのいい安定した職に付ける見込みが強くなるのだと信じて大学に進んでいるのだ。
大人たちは常に「教育こそがグローバル化した社会で成功をつかむための最良の道だ」と子供たちに言い聞かせてきた。そしてこのお馴染みの話は次のように続く。ブルーカラーの仕事はやがてオフショアされるか機械化されてしまうし、中退したら金に困る一生を送ることになる、世を勝ち抜くのは学士号を手にしたエリートだ、と。これは証拠によって支持されている見解でもある。ジョージタウン大学の教育・労働力センターが最近発表した研究によれば「中等教育以上の学位を取得すれば、ほぼ必ず十分なリターンが得られる」という。学歴と収入には強い相関関係があるのだ。専門学位をもつアメリカ人の生涯賃金は360万ドルだが、高卒の場合はせいぜい130万ドルでしかない。さらに、学位を持てるものと持たざるものの差はますます広がりつつある。2002年の研究では、大卒は高卒の1.75倍の生涯賃金を得ているという結果が得られたのだが、今日ではこのプレミアはさらに大きくなっている。
しかし、過去というガイドは未来において役に立つだろうか? むしろ、私たちは仕事と教育の関係が変化する時代の境目に立っているのではないだろうか? 実際のところ、古いパターンが変わりつつあり、今は不況によって引き起こされている西欧社会の大卒需要低迷という事象も構造的なものに転化しつつあるのだと考えるべき根拠は十分にある。数十年にわたって多くのブルーカラー労働者を揺さぶり続けた創造的破壊の強風は、今や教育エリートにも牙を向こうとしているのだ。
大卒者の供給は急速に増大しつつある。高等教育統計によれば、1990年から2007年の間に、大学に進学する学生の数は、北アメリカでは22%、ヨーロッパでは74%、ラテンアメリカでは144%、アジアでは203%に増大したという。2007年には世界中で1億5000万人もの人が大学に通い、そのうち7000万人はアジアの大学に在学している。経済的新興国、中でもとりわけ中国は欧米のエリートに対向しうるだけの大学の育成にリソースを注いでいる。この新興国では、タタ・コンサルタンシー・サービスやインフォシスのような専門サービスを業とする会社も生まれつつあり、これらの会社は新卒生を世界クラスのコンピュータープログラマやコンサルに育て上げている。詰まるところ、富かな国の最優秀層は、より少ない賃金で沢山働いてくれる貧しい国の最優秀層と競合しつつあるのだ。
同時に、教育を受けた労働者の需要のあり方もテクノロジーによって変わりつつある。この状況は19世紀に農業労働者が直面し、20世紀に工場労働者が直面したそれと非常に似ている。コンピューターは反復的な知的作業のみ成し得るというわけではない。コンピューターは、アマチュアにプロのごとく仕事をこなせるようにする力を与えるのだ。どうして生身の会計士を雇って納税申告をしてもらう必要があるだろう? そんなものは、Turbotaxを使えばわずかな費用でやれるのだ。今後、論調と言語的曖昧さを処理できる機能が備わるようになれば、コンピューターがこなせる仕事の種類は今の何倍にもなるだろう。
Paul Krugmanを含む経済学者の一部は、ポスト工業化社会の特徴は絶え間なく続く知的労働者需要の増大ではなく、巨大な「空洞化」にあるのだと論じている。この「空洞化」は、中級職が賢い機械によって取って代わられ、上級職の増加が鈍化することによって起こるのだという。MITのDavid Autorによれば、このコンピューター時代におけるオートメーション化の主たる効果は、ブルーカラー職の消失というより、ルーチン化できるあらゆる職の消滅にあるという。プリンストン大のAlan Blinderは、低賃金の仕事よりも、大卒が伝統的にこなしてきた仕事の方が比較的「オフショアしやすい」と論じている。配管工やトラック運転手はアウトソースすることができないが、プログラマの仕事ならインドに頼むことができるからだ。
大学教育は、未だに医療・法・学問といった巨大なギルドの入会資格になっていて、このギルドは安定した高賃金な職を生み出している。これらのギルドは前世紀において非常に強力な参入障壁として機能してきた。この障壁は時には正当な目的に出たものだったが(誰も床屋に手術されたいとは思わないしね)、他方で自分たちの利益を目的としたものでもあった。しかし、ギルドは次第に没落しつつある。新聞はブログとの戦いに負けつつあるし、大学はテニュア付きの教授をテニュアの無い職に置き換えつつある。法律事務所は「discovery」(訴訟に関係のある資料を探し出す仕事)のようなルーチンの仕事を、Blackstone Discoveryに代表される電子検索の専門集団に外注しはじめている。医者ですら安泰ではない。患者たちはオンラインでアドバイスを受けた上で、ウョルマートの新しい医薬品センターを利用して治療を求めるようになりつつあるからだ。
MITのThomas Maloneは、このようなオートメーション化・グローバリゼーション・自由化といった流れは、もっと大きな変化 - すなわち「知的労働の分業化」という流れの一局面かもしれないと論じている。アダム・スミスの工場マネージャがピンの生産を18の手続きの分割したように、企業はますます知的労働を細切れにしつつあるのだ。例えば、TopCoderはITプロジェクトを小さな塊に分けたあと、その細切れをフリーランスのコーダーに分配するという方式を採用している。
このような変化は間違いなく知的労働者の生産性を高めるだろう。消費者はサービスに対して高い対価を要求する専門家ギルドを避けて通れるようになるし、多くの知的労働者は退屈な仕事を外注することで自分の最も得意な仕事に集中できるようになるのだ。しかし他方で、この知的労働の再編の流れは、次の世代の大卒者の人生を、はるかに不確定で安住できないものにするのだ。
ありがてぇ。ありがてぇ
こういうの訊くのって、twitterの方が向いていると思うな