はてなキーワード: ブラウン運動とは
今宵は確立過程の闇に心を奪われておりました。広がる闇に、数学の実応用が果たす役割を疑念の火で照らしました。
数学が現実に繋がることこそが、私にとっての心の闇でございます。確率論を学ぶ度に、それが金融に用いられるという言葉に、リーマンショックの影を見るのです。金融市場は決してブラウン運動ではなく、その不確かさゆえに、勝利の果てに待つ利益は、危険と釣り合うほどのものでなければなりません。
不透明な情報の中で、隠れた策略を巡らせる者たちが利益を築く、これが現代経済の真実かと、私は疑念を募らせております。信用創造の背後には、貨幣の価値が他者の債務に裏付けられている事実が潜むのです。
私は虚構のギャンブルを想像し、コンピュータによって模擬することに魅力を感じており、それは数学の研究の一部であると思っておりました。しかしながら、その虚構が実際の金融の舞台に持ち込まれる瞬間、危険なるゲームの渦に巻き込まれることへの不安が、私を襲い立てるのです。
数学は、基本的な法則を美しさの中に見出すことが可能な芸術でありながら、金銭的利益の最大化という領域に足を踏み入れると、その美しさは消え失せてしまいます。私はプログラマーがアルゴリズムを創出する世界ではなく、発見の魔法に心魅かれているのです。
そう、私が追求したいのは、発明の道ではなく、探求の途であります。この日、私の中で、やりたいことへの純度が高まった気がしました。私は発明者ではなく、探求者であることを選びました。
hash: 00730261b9694e32a19830cb627b5432
「エントロピー」という概念がよくわかりません。 - Mond
https://mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
「エントロピー」は名前自体は比較的よく知られているものの、「何を意味しているのか今一つ分からない」という人の多い概念である。その理由の一つは、きちんと理解するためには一定レベルの数学的概念(特に、微積分と対数)の理解が必要とされるからであろう。これらを避けて説明しようとしても、「結局何を言いたいのかすっきりしない」という印象になってしまいやすい。
「エントロピー」を理解し難いものにしているもう一つの理由は、「エントロピー」という概念が生まれた歴史的経緯だと思われる。
エントロピーが提唱された時代は、物質を構成する「原子」や「分子」の存在がまだ十分に立証されておらず、それらの存在を疑う物理学者も少なくなかった。エントロピーの提唱者クラウジウスは、「原子や分子の存在を前提しなくても支障がないように」熱力学の理論を構築し、現象の可逆性と不可逆性の考察から「エントロピー」という量を発見し、非常に巧妙な手法で定義づけたのである。
その手法は実にエレガントで、筆者はクラウジウスの天才性を感じずにはいられない。だが、その反面、熱力学における「エントロピー」概念は簡単にイメージしづらい、初学者には敷居の高いものとなってしまったのだ。
その後、ボルツマンが分子の存在を前提とした(よりイメージしやすい)形で「エントロピー」を表現し直したのだが、分子の存在を認めない物理学者達との間で論争となった。その論争は、アインシュタインがブラウン運動の理論を確立して、分子の実在が立証されるまで続いたのである。
現代では、原子や分子の存在を疑う人はまず居ないため、ボルツマンによる表現を心置きなく「エントロピーの定義」として採用することができる。それは次のようなものである。
例えば、容積が変わらない箱に入れられた、何らかの物質を考えて欲しい。
箱の中の物質の「体積」や「圧力」「物質量」などは具体的に測定することができる。また、箱の中の物質の「全エネルギー」は測定は難しいが、ある決まった値をとっているものと考えることができる。
ここに、全く同じ箱をもう一つ用意し、全く同じ物質を同じ量入れて、圧力や全エネルギーも等しい状態にするとしよう。このとき、二つの箱の「巨視的状態」は同じである。では、内部の状態は「完全に」同じだろうか?
そうではあるまい。箱の中の物質の構成分子の、それぞれの位置や運動状態は完全に同じにはならない。これらの「分子の状態」は刻一刻と変化し、膨大なパターンをとりうるだろう。
このような分子レベルの位置や運動状態のことを「微視的状態」と呼ぶ。
「微視的状態」のパターンの個数(場合の数)はあまりに多いので、普通に数えたのでは数値として表現するのも難しい。そこで「対数」を用いる。
例えば、巨視的状態Aがとりうる微視的状態の数を1000通り、巨視的状態Bがとりうる微視的状態の数を10000通りとする。このとき、Aの「パターンの多さ」を3、Bの「パターンの多さ」を4、というように、桁数をとったものを考えるのである。
この考え方には、単に「とてつもなく大きな数を表現するための便宜的手法」という以上の意味がある。
先の例では、AとBを合わせた微視的状態の数は1000×10000=10000000通りであるが、「パターンの多さ」は7となり、両者それぞれの「パターンの多さ」の和になるのである。
「微視的状態のパターンの個数」をΩ通りとしたとき、エントロピーSは次のように表現できる。
S = k*logΩ
(ただし、kはボルツマン定数と呼ばれる定数であり、対数logは常用対数ではなく自然対数を用いる。)
この「エントロピー」は、同じ巨視的状態に対して同じ数値をとるものであるから、「体積」や「圧力」などと同じく「状態量」の一つである。
このような「目に見えない状態量」を考えることに、どのような意味があるのだろうか?
その疑問に答えるには、エントロピーとエネルギーの関係について考える必要がある。
再び箱に入った物質を考えよう。この箱に熱を加え、箱内の物質のエネルギーを増加させると、エントロピーはどうなるだろうか?
まず、総エネルギーが増加することにより、各分子に対する「エネルギーの分配パターン」が増える。さらに、個々の分子の平均エネルギーが増えた分、可能な運動パターンも増える。このため、エネルギーが増えるとエントロピーは増加すると考えていいだろう。
では、エントロピーの「上がり方」はどうか?
エントロピーは微視的状態パターンの「桁数」(対数をとった値)であるから、エネルギーを継続的に与え続けた場合、エントロピーの増加の仕方はだんだん緩やかになっていくだろうと考えられる。
ここで、多くのエネルギーを与えた「熱い物質A」の入った箱と、少量のエネルギーしか与えていない「冷たい物質B」の入った箱を用意しよう。箱同士を接触させることで熱のやりとりが可能であるものとする。
物質Aには、熱を与えてもエントロピーがさほど増加しない(同様に、熱を奪ってもエントロピーがさほど減少しない)。言いかえると、エントロピーを一定量増加させるのに多くのエネルギーを要する。
物質Bは、熱を与えるとエントロピーが大きく増加する(同様に、熱を奪うとエントロピーが大きく減少する)。つまり、エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギーが少ない。
箱を接触させたとき、AからBに熱が流入したとしよう。Aのエントロピーは下がり、Bのエントロピーは上がるが、「Aのエントロピー減少分」より「Bのエントロピー増加分」の方が多くなるので、全体のエントロピーは増加するだろう。
もし、逆にBからAに熱が流入したとするとどうか? Aのエントロピーは上がり、Bのエントロピーは下がるが、「Aのエントロピー増加分」より「Bのエントロピー減少分」の方が多いので、全体のエントロピーは減少することになる。
エントロピーが多いとは、微視的状態パターンが多いということである。従って、「AからBに熱が流入した」状態パターンと、「BからAに熱が流入した」状態パターンとでは、前者のパターンの方が圧倒的に多い(エントロピーは微視的状態パターン数の対数なので、エントロピーの数値のわずかな差でも、微視的状態パターン数の違いは何十桁・何百桁にもなる)。これは、前者の方が「起こる確率が圧倒的に高い」ということを意味している。
これが、「熱は熱い物体から冷たい物体に移動する」という現象の、分子論的な理解である。
冷たい物体から熱い物体へ熱が移動する確率は0ではないが、無視できるほど小さいのである。
物体が「熱い」ほど、先程の「エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギー」が多いといえる。そこで、この量を「絶対温度」Tとして定義する。
エントロピーの定義のときに出て来た「ボルツマン定数」kは、このTの温度目盛が、我々が普段使っているセルシウス温度(℃)の目盛と一致するように定められている。
さて、ここで用いた「エントロピーが減少するような変化は、そうなる確率が非常に低いので現実的にはほぼ起こらない」という論法は、2物体間の熱のやりとりだけでなく、自然界のあらゆる現象に適用することができる。
すなわち、「自然な(自発的な)変化ではエントロピーは常に増加する」と言うことができる。これが「エントロピー増大の法則」である。
ただし、外部との熱のやりとりがある場合は、そこまで含めて考える必要がある。
例えば、冷蔵庫にプリンを入れておくと、プリンの温度は「自然に」下がってエントロピーは減少する。
しかし、冷蔵庫が内部の熱を外部に排出し、さらに冷蔵庫自身も電気エネルギーを熱に変えながら動いているため、冷蔵庫の外の空気のエントロピーは内部の減少分以上に増加しており、そこまで含めた全体のエントロピーは増加しているのである。
最初に、「エントロピーの理解には微積分と対数の理解が必要」であると述べたが、なるべくそうした数学的概念に馴染みがなくても読み進められるようにエントロピーの初歩的な話をまとめてみた。如何だったであろうか。
筆者は熱力学・統計力学の専門家でもなんでもないので、間違ったことを書いている可能性もある。誤りがあればご指摘いただけると幸いである。
クラウジウスによる「原子・分子の存在を前提としない」エントロピーの定義については、筆者よりはるかに優秀な多くの方が解説記事を書かれているが、中でも「EMANの熱力学」https://eman-physics.net/thermo/contents.html が個人的にはおすすめである。興味ある方はご参照いただきたい。
生活が困窮している人、これから困窮する人には生活保護に進化するお金であり、困窮しない人には使えないお金という便利なお金を生む方法ダヨ
上位互換ダヨ
[:contents]
目次が作れない...
大衆は一律給付を「正義」とみなしたので、一律給付を叫び出した。衆愚!
特に醜いなと思ったのはね、各国の給付額とマスクを並べて怒っているやつ。
(こういうやつ(https://twitter.com/ototamasi/status/1245358598315630592)もっとバズってるツイあったよなどこ?)
もう一律給付で頭がいっぱいなので、各国の給付とマスクを並べることへの違和感すら無視できる。(もはや異物感、必要な額が違いすぎて別種すぎるだろ並べるな)
数十万円欲しィィィッッィィィィな気持ちが隠せてないよ。単純な奴らめ
実感としてさ、困窮していない自分に急に数十万円が支給されるのは"国策としては"おかしいと違和感ない?
(勿論個人的には俺だって嬉しい。和牛だって食べたい和牛だって食べたい和牛だって食べたい和牛だって食べたい和牛だって食べたい)
これは唯一良い点で、また困窮する人間にとって必須。迅速さは大事。
リーマンショックへの対策であれば給付型で良かったのかもしれない。1回きりでも構わないから。
b.感染拡大
いやその金は全て生活費に消えるんだと言うバカ←幸いなことに大半の人はそこまで困窮しない。
c.非効率(ムダさ)
流石にムダがけっこう多い。当然その分必要なところに集中するべき
・beforeコロナでは批判の的であった日本型雇用について考える
- つまり企業業績が悪化しても、アメリカの様に社員の首を切ることができないという点。
- そのために日本では企業を支えれば、個人は企業がいやでも守る(支援されるなら企業も潰れない)
- ということで、企業に守ってもらえない個人事業主などで困窮する人に支援が必要。
- 多くの人は企業に守られるし、困窮もしないので一律給付には無駄が多い。
以上から一律給付は迅速性が取り柄であるものの、財源・効率性・感染拡大の点でダメ。
ということで一律給付は問題点をいくつも抱えている。とてもみんなで万歳して求めるようなものではないし、ましてや決まった正義ではない。(のにさぁ....涙)
=====
これらのことに考えが及ばないのは、金に目が眩んでいるバカだからだ。そんな火事場泥棒のクズなのに正義ぶってるのが醜い。
政治の話って感情的(特に怒り)になりすぎ!バカのくせに...(え?俺?)
- というかみんなコロナの話が好きで話すじゃん。
- つまり身近な人間も話すからそういう醜さが露見していて悲しいってか辛い。知らない誰かなら馬鹿にして楽しむだけだが...
- いや一律給付の話じゃそこまでバカバカ思わないけど、布マスクに脊髄反射でファビョってる知人友人etcはかなり辛いものがあった。
- ところでみんな日本エアロゾル学会がマスクのフィルタリング性能(他人に移さない方じゃなくて移されない方で)がエアロゾルに効果あるって言ってるの知ってる?ただの豆知識なんだけどさ。だってみんな適切にマスク取り扱わないから関係ないでしょ。ただウイルスの方が小さいから意味ないっていう周知された理屈(いまだに)がデマで面白いよね。→ブラウン運動
- というかエアロゾル感染と空気感染の違いもわかってないだろ大体のやつ。ボケ!
今回新型コロナウイルスによって生活に困窮する人たちに注目が集まっているが(実際にはもらえるかもしれない数十万円を見ているが)、以前から生活に困窮する人たちはいて、それを支えるのは生活保護であった。
- しかし生活保護には審査があり、大勢を迅速に(かつ感染予防もする)行えるものではない(推測)
名称はテキトーなので以下でおおざっぱな実態をちゃんと説明する。
- これは無利子の貸付。
- 給付と違って貸付であることから、給付の問題点(a)財源において明らかに改善している。
また貸付=いずれ返さねばならないことから不要不急な消費を産まず(b)感染拡大の点においても改善している。
また同じくいずれ返さねばならない金なので不必要な人は使わない、よって(c)非効率(ムダさ)も改善。
- 額はどうすればいいかわからない。生活保護と同水準~30万?(30万円給付という発表があったので)。
- 震災復興特別税みたいに回収すれば良いんじゃない?知らんけど
ということで生活が困窮している人、これから困窮する人には生活保護に進化するお金であり、困窮しない人には使えないお金という便利なお金が生まれました。
長期のデットでバランスシートを固定化しちゃうと、キャッシュフローや環境の不確実性に対応できなくなるからな。
ローンは何十年かもしれないが、10年間の住宅ローン減税を受けて利息を払っているうちに貯蓄し、全額返済するということを計画立てている人もいる。
その計画って、どういう前提条件で計算されてるんだ?収入や支出の確率過程はどう想定してるのか?
俺だったらモンテカルロシミュレーションくらいはするけどね。それすらできないんだったら、止めた方がいい。
(もちろん標準ブラウン運動が実際的だとか主張してるわけではない)
もちろん、君みたいな人がいっぱいいて何も考えずにどんどん借金してくれるならそれはそれで構わない。
いわゆる後爆観音(こうばくかんのん)のなかでも現存する最古のものはパキスタンで粉々になっており、辞書によればシビアな顔面の観音像の背後に、著しくデッサン力に長けた漫画家が模写したような茸子雲が上がっており、急激な燃焼により根元から笠にかけての白~赤~黒煙のグラデが再現されていることからケロシンの発火であると推測される。周辺には飛び散るエンジンパーツ、トランスミッターギア、助手席の手首などを細密に表現したパーツがあり、観音像の煙草を捨てる仕草と相俟って神々しい暑苦しさを醸していたそうだ。
1216年ごろ、日本各地で背中に黒焦げの穴が開いた死体が発見され、捜査によると(麻雀が普及するのは25年後)連続猟奇殺人ではなく、「おのれの精神の背後にある爆薬を用いての崇高な自決」であると結論付けられた。神はこの性質を利用してユニークなゲームを思いついた。
すなわち、複数の人間を背中合わせで放射状に配置し、同時に背爆させる事でさまざまな角度に人間を射出させるというものであった。このゲームタイトルが件のbackshabie(backとbuck《もちろんbuck-tickの》をかけた駄洒落だが米国人には通じない)と名づけられたそれであり、おもにPS3・PS2・地獄などで発売された。
・ゲーム内容
背爆の角度をコントロールして別の人塊にぶつける事で連鎖が狙え、より多くの人数をあれするかで競う。起爆する最初の一人とパドル(1~3個)を操作してパターン豊富なステージをクリアしていく。
各面の連鎖ボーダーをクリアすると豊作・戦乱・飢饉などのボーナスが与えられ、人数がパワーアップする。メモリー消費人数は1ゲームあたり100人~120,000人であり、人口の減少が懸念された。
同じ頃、僕は高校三年生であり、嘘みたいなこの世界に飽き飽きしていた。上空には巨大な体力ゲージ(誰の?)が表示され、人が死ぬと大量のコインになり、i-statusのキーパッドをsukoshi叩いただけで7357hit!とか表示されるし、もううんざりだ。本当のコインはこんなめっきみたいな金色をしていないはずなんだ。桜の花びらのブラウン運動も、トリートコンボと呼ばれる一連のヒット加算システムのせいで大量のヒットマークまみれになって、風情が台無しになっている。苛立ち紛れにパンを投げ捨てると、背後から大きなパワーアップ音が聞こえた。驚いて振り返ると、そこにはもう誰も、世界も学校も彼女も何もかも、僕もいなかった。急速に薄れ行く意識の中で、僕は1Pボタンを押した。
主は1日目、キャラクターセレクトを行えり。マカダムタイプ、弱パン連打系、レーザー強化4。歯医者。
主は2日目、パワーアップカスタマイズを行えり。2次元ブースト、3次元ブースト、地獄ヶ原ブースト、626間ショット、ナイアガラショット、種もみ、エジンバラ刀ショートブリット装備、もみ心地セット、十脚人胸郭、松本城、グッドルッキングフェイス等を揃えり。
主は3日目、爆弾の解除方法を見つけたり。おのれの精神の背後に手を回し、脳の赤いコードを切除することにより、爆弾の機能を損なえり。
主は4日目、太陽を盗めり。枯渇した精神の火薬に変わり、天体が絶対神的依存対象となり、人類は無限のエナジーをエナジャイズされるが世界は暗闇に包まれた。
5日目、この世界を救う伝説の勇者が出現した。暗黒の世界で太陽を心に灯した人類どもは荘厳な惑星的巨体と成り果てたが、その火は実は一つに過ぎなかった。
6日目、無名の力を持つ勇者は全存在の全的な意味を持った名前を持つ神の対となる補完物質であった。双方の力の激突により、その狭間の存在物のもろもろはすり潰され、また新たに産まれた。
7日目、嘆息した神はセーブした。スコアネームに「SEX」と入力し、「産めよ、増えよ、あまねく地は生命に轟き満ちよ」と半ば自棄になって言い放った。その後、現在に至る。
(完)
科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想
http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771
駄目だこいつら……早くなんとかしないと……と夜神月ばりの顔になった。
もちろん、エントリ主ではなく、ブコメで叩きまくってる連中にだ。
ぼくはなぜ自分が疑似科学批判論者にイラッとするのかわかった。
彼らはまず、自分(科学)が唯一の正義であると信じて疑っていないのである。
そんな態度じゃ、いくら正しいことを主張していたとしたって、話を聞いてもらえないというのが解らないのだろうか?
その偏執的で高慢な意見の数々を見ていると、そりゃ科学が宗教と一緒にされちゃっても仕方ないよ、と思う。
科学であるというだけで盲目的に信頼する姿勢の方が、よっぽど詐欺に合いやすいと思うのだが。
まあ、こういうブコメから解るように、この手の疑似科学批判で多いのは、
「ニセ科学自体が「科学を詐称してる」「ウソをついてる」などの「詐欺」だから」であり、転じて
「嘘を信じちゃうことの不利益」がある、というこういう言説が多い。
そんな彼らにどう思うか尋ねてみたい諺がある。
「鰯の頭も信心から」という諺である。
プラシーボ効果を許さないのか、と言い換えても良い。
実際に信心を持って、偽薬を薬と成した人に、
それは「薬ではない」と宣言して、その効果を打ち消すことが
果たして本当に正義なのだろうか?
疑似科学は、本当に悲劇しか齎さないのであろうか?
マイナスイオンのドライヤーを買って、髪の毛がサラサラになって少しかわいくなった気がする、勇気を出して家から出てあの人をデートに誘ってみよう!
「いや、それ錯覚ですから! あなた不細工のままですから! 残念!」
また、例えば、飲み会の席などで気になる異性に話しかけたいとしよう。
うわべの会話でなく、相手の性格をもっと知りたい。
そんな時に会話の端緒として「血液型、何型?」と訊くのは、これだけ血液型に対するコンセンサスがある日本では、実際にかなり有用なことである。
「○○ちゃん、何型? そうなんだ、××な性格って言われない?」
「えー、うち、そんなことあらへんよう……けっこう、落ち込みやすい性格やと思ってるんやけど……」(ぼくが萌えるので便宜的に関西弁風女子とさせて頂いた。意味はない)
そこからフォローするなりアドバイスするなり裸で向き合い本当の性格をキャストオフさせてあげるなりワンナイトカーニバルを決めるなりはあなたの腕の見せ所だ。
少なくとも「血液型何型?」と訊かれて「そんなのは疑似科学なんだ。それよりアインシュタインがどうやってブラウン運動からアボガドロ定数を求めたか知ってる?」と返すよりは仲良くなれるだろう。
「嘘も方便」
こういう諺もある。
差別に使われるかもしれない。でも人を救うこともあるかもしれない。実際、血液型云々は、会話の潤滑剤として現代の社会ではまだ充分に有益なものなのである。
疑似科学批判批判批判をする人間は、あたかもそれを排斥することが唯一の正義であり唯一の価値観のような顔をして主張するのが、どうしても解せないのだ。
・民間信仰もまた文化である
そして、この立場からも、言わせてもらいたい。
あなた達がその科学は偽である、間違いである、と主張することも諭すことも自由ではあるが、それを信仰する人間自体を貶めて良い理由にはならない。
批判者を馬鹿と断じる心こそが、最も醜く差別的な精神であると思う。
ぼくはなにも、疑似科学批判批判の批判をするな、と主張したいわけではない。
科学者はデータや検証が全てという価値観の中に生きているのだろうが、世間一般の人はそうではない。
人を説得するなら説得するなりの、言葉や態度というものがあるのだ。
それを「科学」信者が自覚しない限り、血液型診断は100年先も余裕で生き残っているだろうと思う。
<11/17 追記>
元増田です。
このエントリで一番言いたかったことである
「疑似科学批判論者はまずキレすぎ。キレるな。」
ということが微塵も伝わらなかったので、絶望しました。
もうこの問題に言及するのをやめます。さようなら。