はてなキーワード: こまやとは
浜松に住み始めて5年目。
帰りの時間に余裕があったので、街中をぶらぶらしていたら
曰く、
それからなんとなく気になって気を配っていたのですが、
高校生の女の子3人くらいしか、仮装の人は見当たりませんでした。
街は結構にぎわっていて人通りもありましたが、他には
電車に揺られて1時間。浜松へ戻ってきたら、いるわいるわ仮装。
駅のホームを降りて、改札階に着いた途端、
ああ、浜松の人、ほんとうにお祭り好きなんだなぁ…と思いました。
静岡市と浜松市の文化面での違い、とても興味深いものがあります。
(街中の歩行者天国、コーヒースタンド、ファッションビルなど)
年に数度、大きな祝祭空間を作り出している。
生粋の静岡県民からはまた違って見えているかもせれませんが…。
そんなことを考えた日曜日でした。
映っている風景とか、生活とか、人間関係を眺めていると、いまの日本よりもゆったりしているというか、こまやかなところがあって、懐かしいというか、そこはかとなく憧れを持ってしまう感じだ。
『旅の重さ』という1972年の作品は、母子家庭から家出した主人公(女)が、四国でお遍路さんをしながら、いろいろな人と出会っていく話だ。
少女と大人の女の中間にいるような主人公の独特なありかたを描こうとしているようで、当時としてはかなりきわどかっただろう性的な描写もある。
とくに印象的だったのは、旅芸人の一座と合流した主人公が、女優の一人と海水浴をするシーンだ。
奔放な大人の女という感じの女優が、人気のない入江へ走って行って、服を脱ぎ捨てて海に入っていく。
主人公は最初のうちは戸惑っているのだけれど、やがて自分もパンツ一枚になって、海に入って二人で遊ぶ。
その後、主人公は女優にすっかり心を打ち明けて、泣きながら抱きつくうちに、二人は身体を重ねる。
この一連の流れを観ていて、村上春樹の『スプートニクの恋人』が思い浮かんだ。
すみれは憧れのミュウとギリシアの島に行って、全裸で海水浴をする。
結局上手くいかないのだけれど、すみれはミュウと身体を重ねようとして、一夜を過ごす。
この映画と小説の一部分に出てくるレズビアン的な関係は、細かいところは違っているはずなのに、全体的な雰囲気としてはとてもよく似ているように感じる。
村上さんは若い頃『旅の重さ』を観て、後年にこのイメージがどこか心の片隅に残っていたということはなかったのだろうか。
こういう影響関係は、だれか研究している人がいたりするのだろうか。
知っている人がいたら教えて欲しいと思った。
30歳、独身女性です。
これまで30年間生きていて、一度も結婚したいと思ったことがありません。
かといってひどい抵抗もありません。
小さいころから男の子と遊ぶのが好きで、女の子扱いが非常に苦痛でした。
23歳の時に告白されて男性とお付き合いしましたが、結局後輩に寝取られました。
男性でも結構いけると思ってた矢先でしたので、荒れに荒れました。
今思うと、自分のような女なんだか男なんだかわからない女と結婚させられなくて、彼にとっては良かったのだと思っています。
今のところ完治する方法のわからない精神病にもかかり、仕事もうまくいかなくなりました。
生きる気力を失っていた時に、私はささやかな正義感から一人の男性の命を救いました。
彼は見た目はいかついですが、非常に女性的でこまやかで、私に足りないものをどんどん補ってくれました。
いつしか、私は人並みに家事や社会的な仕事をこなし、大きな夢も持つことができました。
その仕事で詰まってしまうところがあっても、彼が必ず解決案を提示してくれるので助かっています。
向こうの気持ちはあまり私にはないようですし、(感謝はしていると言ってますが)私も自分の気持ちを押し付けたくはありません。
それに結婚するとしたら、私の籍に入ってもらって、一家の大黒柱になりたという気持ちがあります。
彼はあまりその辺にこだわりはなさそうなので、そういう意味でも結婚したいな…とは思っていますが、気持ちがむいていない以上どうしようもないです。
そういうわけで結婚はしなくてもいいか、と思っているのですが…
ただ、周りの人やネットを見ていると、「30過ぎて独身は負け組」というレッテルが貼られているので
「もしかして焦らなくてはいけないんだろうか?」という焦りがあります。
「恋に恋する」みたいな状態なのかもしれません。
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome
上の2つのエントリーなどで、有名ブログ「中国嫁日記」が差別的かどうかという話題が妙な盛り上がりを見せているようで。とはいえ、この手の議論の常として、互いに感情論を飛ばしあうだけの、ぐだぐだな結末になっているようですが。
少なくとも今回の議論に限り、ここまでぐだぐだになった原因は問題提起側、すなわち「嫁などという性差別的な言葉を使うとは何事か!」と言い出した側にあります。なにしろ、嫁という言葉を再三再四あげつらっておきながら、なぜ「嫁」という文字の使用に問題があるのか一度も説明していないのですから。
たったこれだけの「自分の感覚」をよりどころに、あれだけの長文を書き上げ挙句社会まで語ってしまうと言うのは、その壮大な構成力に賞賛を贈らせて頂くより他にありません。その果て、このブログ主さんは
しかしそれにしても、前述のTogetterの ものの役に立たなさはどうしたことでしょうか。「これが差別なんて、なにを考えているのか」という自身の感覚の披瀝や、「こういう人は他人を差別するために機先を制して自分が差別と言っているだけ」という主張に熱心な人が多いのですが、 …(途中略)… だいたい未来にむけて記録すべき思考の痕跡とも思えません。「当時」の大衆の程度を知る材料にはなりますかね。
と嘆いておられるのですが、そりゃ「嫁なんて言葉はけしからん!」という「自身の感覚の披瀝」に過ぎないtwitterに対して、客観的かつ論理的な反論を要求するのは無茶というものでしょう。自分が見えていない人間とはよくよく怖いもの無しのようです。
しかし折角なので、ここではその無茶への挑戦をしてみたいと思います。上のエントリーの中国嫁けしからん!嫁は差別!精神が疲れる!という切なる悲鳴に対して、どこまで客観的な「反論」をなし得るのでしょうか。単純化のために、ここでは内容については一切議論せず、「中国嫁日記」というネーミングの是非だけを考えましょう。
さて、客観的と言うからには、ここで「俺は嫁って別に差別的じゃないと思うけど」と張り合ってみても意味がないのは明らかです。ここで必要なのは中立的な第三者の視点であり、そして私の手元にはこれ以上は望み得ないくらいに客観的な視点があります。広辞苑と新漢語林。要するに辞書です。
広辞苑によると、嫁は
(1) 息子の妻
(3) 結婚の相手としての女。嫁した女。妻。
(4) 「嫁が君」(ネズミ)の略
とあります。二番目の意味から、まず中国嫁日記の嫁の使用法が間違ってはいないことが分かります。まだ新婚さんみたいですから。さらに漢語林を引くと、
とあります。恐らく、嫁という字が一部の人たちから忌み嫌われる理由の一部がここにあります。家の従属物的な意味合いを感じ取って、それが性差別であるという論法のようです。とりあえず事の是非は置いておいて、代替語についても調べておきましょう。
妻: かんざしに手をやり、髪を整え飾る女性のさまから、つまの意味を表す。
奥: 貴人の妻の称。貴人の居室。大切にすること。など多数の意味を持つ。室も同義。
婦: 女+帚。帚はほうきの意味。ほうきを持つ女性、家事に服する人の意味を表す。転じて、一家の主婦。一家の切り盛りをする女性。または子の妻。
細君: 細は小さい、かぼそいことを示す字。愚妻などと同じ謙譲表現。ただし、最近は細にこまやかという意味もあるせいか、他人の妻をいう語に用いられることが多い。
他にも連れ合いとか家内とかありますが、もう十分でしょう。妻というのはなかなかに色っぽい文字で、言葉自体には結婚関係を表す意味合いがないのが嫁との違いです。ちなみに、夫も大人が冠を付けている様をしめすだけの文字なので、夫妻という言葉は男女という言葉と解字上はあまり差がありません。一方で生活感が溢れまくっているのが婦の字で、家政婦や助産婦など、女性が多く働く職業にこの文字が使われるのも、事の是非はさておき自然と言えるでしょう。
奥・室は、元々家の神を祀る場所を意味したこともあって実にエレガントな言葉で、自分の配偶者を「奥さん」と呼称する人もいるようです。しかし、元は貴人の妻を表す表現である以上、日本語表現としては非常に据わりが悪い。そもそも、定義から言えば自分が貴人と言うことになってしまいます。配偶者は実に中立的ですが、3文字を費やした挙句に性別も分からないというのは、法律用語としては便利でも本のタイトルとしては問題外です。
こうしてみると、本のタイトルとして使い物になりそうなのは嫁か妻かの2択と言うことになりそうです。この2つの文字が決定的に違うのは、嫁には「移動する」という概念が強く存在する点です。生家から夫の家へと。だからこそ、嫁に来る、嫁に行く、という表現はあっても、妻に来る、という表現はあり得ません。責任転嫁に嫁の字を当てるのも同じ理由からでしょう。中国嫁日記というのは、中国からやってきた奥さんが異文化の日本で楽しんだり悪戦苦闘したり、旦那さんと新婚生活をエンジョイするのを描く日記です。ならば、単純に中国人の配偶者であることしか意味しない中国妻よりも、「中国から来た嫁の日記」とするほうが遥かに適切でしょう。
もちろん、このように語を連ねずとも、常識的な日本語感覚を持つ人にとっては、中国嫁日記の方が据わりが良いというのは直感的に明らかなのですけれども。
さて、問題の差別性の有無についてですが、今回の騒動でひとつ明らかとなったのは、「嫁という言葉は差別的である」と思う人とそうでない人が両方存在すると言うことです。どちらかといえば、差別的と感じない人の方が多いようにも見えます。ここからは私個人の主観になりますが、嫁が嫁ぐ「家」の概念が過去数十年で大きく変わったためであるように思います。昔は女性の嫁ぐ先は夫の実家であり、夫の親兄弟との同居を意味しました。ここでの家は正に「夫の家」であり、「妻の家」にはなりえません。ついでに、義理の親兄弟の世話まで任されることも多かったわけで、妻にとってはなかなかにストレスのたまる環境であったことでしょう。この状況下で「嫁」という言葉にネガティブな意味合いが生まれるのは無理からぬ事かも知れません。
しかし、核家族化の定着すると、花嫁が嫁ぐ「家」には夫と妻の二人しかいません。この「家」を夫の家、と考えるのには無理があります - この「家」はふたりだけのものなのですから。多くの日本人にとって、この「家」に嫁として嫁ぐこと自体は、特にネガティブな意味を持たなくなって来ているように思います。もちろん、女性であるが故のディスアドバンテージがこれで消えたわけではないでしょう。しかし、それはもはや「嫁」であることのディスアドバンテージではなくなってしまったのです。
こう考えると、嫁にやたらと苦痛やら疲労やらを感じてしまう人たちは、非常に古い「家」の概念の持ち主なのかも知れません。運悪く嫁がこき使われる大家族に生まれてしまったとか、時代遅れのフェミニズムの教科書(そんなものがあるのかは知りませんが)にかぶれてしまったとか、そもそも核家族化が進む前に生まれたお年寄りであるとか。どちらにせよ、嫁の字を見ただけで辛い思いをするというのは、同情に値する境遇であることは間違いありません。嫁でこれなのですから、女に帚の婦を見た日には心臓発作でも起こしかねない。全国津々浦々の結婚式場で「新婦入場です」のアナウンスがかかるたびに、その言葉の差別性をこんこんと説き起こし説伏する。その果てにしか彼らの心の平穏はあり得ないのです。彼らフェミニストの想像を絶する試練の日々を、私は涙と共に見守りたいと思います。
あ、あともうひとつ。
何度も議論されているけど、表面的な優しさと女の子の求める優しさというのは異なるもの。
自分や自分と同種の人間が「優しさ」って言う時に思い浮かべるのは
「仁」「博愛」
なんだよね。
その「女の子が求める優しさ」の「優しさ」は
>他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。「―・く慰める」「―・い言葉をかける」( 大辞泉)
だよね。
つまり言葉が指すものがはっきり違った。
て言うか今、自分の概念ほうが正しいと思いつつ念の為「優しさ」辞書を引いたら
「女の子が求める優しさ」の方しか載ってなかった。
みたいなことは必要条件でも要素としても定義されてないんだな。
自分の今まで抱いてきた優しさの概念はどこから来てたんだろう。
いろいろとびっくり!
ttp://mitsuhiro.exblog.jp/13280892/
最近、米国に留学にいく日本の若者が減ってきたと新聞に書いてあります。でもそういう傾向はわれわれの分野でももう15年くらい前からはっきりしていました。ポスドクはまだいるのですが、大学院生で日本人に会うのが米国では顕著に減ってきたと思いました。
いまはポスドクも減ってきました。でもその原因は別に若者が新聞で書くように、草食的になってきたからではありません。
米国に留学しても,帰国してから有利な点が無くなってきたからでしょう。
以前は米国留学が当然でいかないと非常に不利だと思っていた日本人研究者が多く、その結果大学院生でもいってみようかという気が起きたのでしょう。
博士の学位をとっても顕著な利点がなければ大学院博士課程にはいかないでしょう。いくとまるで罰をくうような経歴になるのなら、誰がいこうとするでしょう。
たぶん新聞は日本の若者が他のアジア諸国の若者にくらべるとどん欲さが足りないといいたいのでしょう。でもそれは無責任な表現でしょう。
米国で博士の学位をとってどうしろというのでしょう。米国人になれというのでしょうか。
日本のほうが食べ物もうまいし、人情もこまやかだったら、なんで米国人になる必要があるのでしょう。可能なら日本人として研究稼業をしたいでしょう。当たり前のことです。逆も真なりです。米国人の若者の大半は外国になど留学にいきません。
日本の若者が米国人化した、つまり自国がベストと思う意味で,国内化したといったほうがより正確な表現でしょう。米国と違う点は博士になろうとする米国人はまだまだ多いのに日本ではどんどん減っているという事実です。恵まれない職業なのに無理して頑張ろうという気があまりない若者たちを表現するのに,草食系、肉食系どちらでもないでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/b1e931242805e72631c5d701b3e48427
ネットが票田として機能しない問題、どうにかならないんですかね。
参院の全国区に鞍替えする可能性はあまりないのかもしれないけど、
比例や全国区の方が特定の層の利害を代表する人にとっては選挙を戦いやすいんじゃないかと改めて思った。
今回の選挙で東京のオタク(こういう言い方は好きじゃないけど代替する言葉がないので)共はいったい何をしていたのかと言いたいが、
動員に失敗した要因はネット上のメディアの活用の失敗にもあったのかもしれない。
保坂さんにはTwitterのアカウントを取って欲しい。ブログだけでは読み取れないような、
こまやかな活動をつぶやいてそこの人たちと交流し輪を作っていって欲しいな。
まだ見てるかな。鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』、カミュ『シーシュポスの神話』などを読んだら何か分かるかも。前者は特に、増田さんの悩みに答えるような内容が中心。以下引用。
「顔がいい?走りが早い?計算が速くて正確?明るい?こまやかな心づかいができる?おしゃれ?どれをとってもわたしだけに固有のものってありはしない。このような性質や能力はだれもが多かれ少なかれもっているものだ。(…)それらの組み合わせにひとりひとり独自のものがあるのだ、というのは、そのときだれもが思いつく論理である。が、これがじぶんというものの、かけがえのない不二の存在を証しているなどというには、あまりにも貧弱な論理であるのは、だれもが直感的に気づいている」(『じぶん・このふしぎな存在』、講談社現代新書、2005年、p.18)
この答えを絶対視する必要はないと思う。(ただし鷲田氏は、じぶんを失うということを必ずしも否定的にとらえていません。この辺りはp.85を参照)
参考までに読むと面白いんじゃないかな。