はてなキーワード: 尾籠とは
尾籠な話で申し訳ない。オナニーして射精したら血が混じっていたんだ。
かなり衝撃の画。ティッシュ二度見したわ。痛みもあった。
翌日急いで泌尿器科行ったところ、「慢性前立腺炎」とのこと。もっとやばい病気の可能性もあったので、ちょっと安心した。
確かに毎日出勤時自転車のサドルで前立腺を痛めつけていたので、まあむべなるかな。
薬飲んで1週間くらいしたら緩解した模様。
しかし、「射精」だの「精液」だの、このクールな俺が、この口で、他人に声出して言うとか、かなり現実離れした感覚で
あと、ちんこ触診されて大きくなったりとか、お尻になにか突っ込まれるとか、その場で精液の採取を命じられたりとか、
あんなこんな羞恥プレイを覚悟していたのにちんこ露出することすらなくて拍子抜けした。(超音波エコーで内臓は露出させられた)
先日書いた記事に色々とコメント(トラバいうんか?)がついていてなかなか楽しかった。
娘のうんちパンツがキツイとかこんなに赤裸々と「イヤでたまらない」気分を吐露するのは新鮮だった。夫を憎むネット垢の人達の気持ちが何となく分かった。
「ガイの子供はガイ」という「普通」ではちょっと考えられない無神経炸裂なご指摘もあれば、「病院及び児相を試してみたら?」という建設的なご意見も頂いた。
精神医療にはもう既に7歳の息子を除き家族皆でお世話になっている。
私は昔から考えすぎる性分だったので子供の頃は人生に絶望していたし今でもちょっとしたことでイライラが昂じるので「うつ」だという自覚はある。薬は嫌いなので飲んではいないが、俗に言う心理療法に通っている。
娘は8歳から児童精神科のお世話になっている。投薬なしの遊戯セラピーでどんぐりの孤児院を作っているらしい。
旦那と二人でカップルセラピーも試した。「合う」人に中々巡り会えなくてセラピー難民になったが。
病院に行けば即問題解決するものではなく、行くことで問題と取り組む機会が与えられるくらいなので色々と試行錯誤している。
別に増田で問題解決を求めていたわけではなかったが、コメントで「とりま病院へ。。。」とか「どこかに預けてみたら。。。」というご意見がちらほらあったのは興味深い。
助けになりたい。
と思って頂けることはウザいと同時に有り難いものだ。
「思春期女児を理解できない未熟な親」みたいなコメントもあったが、思春期もクソもない。娘のことは生まれた時から理解不可能だった。
「おっぱいがなければ生きていけない」オーラを出す孫娘を見て、私の母は羨ましそうに言った。「貴女はおっぱいが嫌いで口に含ませてもペッと吐き出されてがっかりした。」グラマラスな母や祖母とは違い、父の家系の女性に似て胸も尻もペラペラな私は「おっぱいでなかったらどうしよう。。。」と不安だったが、授乳は大きな問題もなくすんなりできたし、離乳も3歳を過ぎた頃には、「吸っても吸っても何もない。。。ぺっ」って感じで自主的に止めてくれた。徳川家康みたいに6歳まで吸われたらどうしよう。。。と思っていたのでホッとした。
おっぱいが嫌いな赤ん坊だったことは流石に覚えていないが、子供の頃から「生きるのだるすぎ。。。死んでみたい」くらいに思っていた私には、3歳くらいから夜になると死ぬのがコワイとシクシク泣く娘が理解できなかった。喘息がちで息をするのが「痛い」思いをした私は、6−7歳位から「いきすることがこんなにキツイなら死んだ方がラクだろう」と思い始めていた。
暗くなると心細くなるのか、「眠ったら死んでしまうかもしれない」とか「寝てる間に何か楽しいことを逃してしまうかもしれない」とゴネる娘は、とにかく風呂に入りたがらず、歯ブラシもパジャマもちゃっちゃとしてくれず、おねんねタイムがバトルだった。寝付きも悪かった。学校も小学校中学年くらいまでは朝ごはん、お着替えのバトルを繰り広げた挙げ句、家をでる直前になって「行きたくない」と玄関先ですったもんだすることもあって「詰んだな。。。」となることもしばしばあった。
学校で先生に死ぬのがコワイと言って、カウンセリングを推められたこともあり、児童精神科に相談した。良い先生にあたったので遊戯療法を始めてかれこれ4年目になる。友達と遊びたくても「行きたくない」とは言わないのでかなり楽しいのだろう。
パンツにうんすじも困ったが、幼い頃から家具に性器をこすりつける癖があった。3−4歳の頃、お泊りに行くほど仲良いお友達の家でもやっていたそうだ。一番最初に気づいたのは生後1年目くらいだったと思う。授乳が終わって娘を膝にのせてうとうとしてたら脚にまたがって「これは。。。?交尾されてるのか?」と思ったことがあった。
またまた比較してしまうが。。。息子は「泣くな」と言ったこともないのに、2−3歳くらいから歯ぎしりをして涙を堪えたり、爪を噛んだりもしていたし、お風呂の時にちんをいじることはあっても「交尾されてる?」と感じたことはない。
娘が2−3歳くらいから爪を噛み始めた時は、こんな赤子でも爪かむのか。。。?!とびっくりした。育ってからは貧乏ゆすりや爪を噛むところは見なくなったが、娘の足の爪は伸びても手の爪は切る必要がないくらい短かったのでああ、噛んでるんだろうな。と思った。学齢期には家で宿題をしてると椅子と交尾することが目立つようになったが、そのことで娘に嫌悪感を抱いたことはない。
というのも、私も物心ついた頃から保育園のお昼寝が苦手で、退屈を紛らわせる為にすまた方式の自慰行為をしていたからかもしれない。小学校に上がってからは家の外で自慰をしたことはないが、先生にヒステリックに怒鳴られた時には自慰衝動を感じた。真面目で気弱で優しそうな若い先生で第一印象は好きだったのでショックだった。
自分にそういう経験があったので、娘の自慰行為に対してもああ『こんなことやってられない』と絶望感を感じてるのだろうな。と思っていた。
幼い頃は旦那も私も何も言わなかったが、友達の家でやっていた、と聞いてからは椅子と交尾している時は「椅子がダメになるから止めて。」と言って止めるようにした。注意するようになってからも長いこと続いていたけどいつの間にか見ないようになった。
前記事の整体の先生の話は興味深い。というだけでだからどうだ。という話でもない。人恋しい気持ち、不安、絶望、憤りを自分で慰めるとという「自慰」という言葉はよくできてると思う。
自分が経験したことは「理解」可能なので「何でやねん」と嫌悪感や批判的な感情も抱かないですむので気分がラクだし、寄り添うこともできる。保育園のお昼寝は大嫌いだったが、夜は早く寝たかったし、思春期以降は寝るのが大好きで授業中でも机につっぷして寝てた。6時間睡眠な娘は理解できない。
娘は今でも寝付き悪いし寝言が多い。数日前には夜中に「足が痛い。」と叫んでいた。
学校の成績は中の中くらいで先生や友達とも問題なくやっている。コロナの遠隔授業も課題も自分一人でちゃんと予定表を作って頑張ってこなしていた。
コロナで友達に会えないことや、先が見えないことがキツいと愚痴をこぼすこともあるが、ラインやインスタでなりに楽しくやってるようだ。
ここ2−3年「全て面倒みてあげなければならない」切迫感がないのはラクだが、喧嘩ばかりしていることがキツい。
前の記事でも書いたが息子に意地悪な気持ちになるのは予測できた。男の子のことは理解できない。と思っていたからだ。女同士分かりあえるはずの娘に対してこんなに嫌悪感を感じるとは意外で「自分はこんなはずではなかったのに」感がキツイ。事更にうんちパンツがキツイと書いたが、うんちの扱いは布おむつで慣れているハズだ。前回の記事に汚くて不愉快だ。という感想を頂いたので尾籠な話が嫌いな人はここで止めて欲しいのだが、私は生理用ナプキンが苦手で布を使っている。どんなにサラサラを謳われてもカユイ感じがして嫌いだ。あんなものでお尻を包まれるのはイヤだと思って布にした。おむつの洗濯は苦ではなかった。
娘がパンツについたうんちをまるで存在しない物であるかのように「パンツを変える必要はない」と頑なに抵抗することや、臭いを指摘する私に怒りを顕にすることがキツかった。憎悪すべきはパンツについた臭いうんちなので、ちゃっちゃとうんちを排除できたら良いのだが。。。メッセンジャーの私が憎悪されるのは余りにも理不尽だ。
初潮がきたらどんなことになるのだろう。お赤飯なんて炊いたらめちゃくちゃ怒られそうだ。
私は娘に自分の体や体から出る汗や臭いを嫌悪するような女性になってほしくない。
だから胸がふくらんできた彼女に「ママも大きなおっぱいがよかった」と言ってる。
12歳にもなったのだから自分が汚したものは自分で洗って欲しいのだが、彼女にしてみたら「私はまだ子供なのに何故全部自分でやらなければならないのか」と絶望的になり憤りを感じるらしい。
コメントで娘に無力感が伺われる。と言った人が居た。どこの誰か知らないが、娘のことをよく分かっておられると感じた。
「ママと仲良くできないのが悲しい。」発言はどこから出たのか。。。とつらつら考えていたらその晩の、直前の出来事を思い出した。
弟が「ママとお姉ちゃんが一緒じゃないとしっこに行かない」と言うので何があったのか聞いたら姉ちゃんと二人でコワイ動画を観た。という。
「そんなもん観てコワくなるならネットを使うな」みたいなことをイラ立った声で言ったら
娘が明らかにムスっとして何も言わず、息子に携帯で動画を見せ始めた。
「なるほど。そうやってカワイイ動画観たらコワい気持ちもどっかに行っちゃうね。流石はお姉ちゃん、いい考え」
と褒めたら彼女はびっくりしていた。
「ネットを使うな」という私への反抗心丸出しの行動だったので、私が怒らなかったのが意外だったのだろう。
私としては「コワくてトイレに行けなくなるようなもんは見るな。」という意図での発言だったのだが「いらんでモノをまた見せてくれて。。。」とイラついていたし、娘はむっとしてたし「キーキー煩いぞ。」と、戦闘態勢に入りかけていた。息子が一人でトイレに行けるなら万々歳なので苛立ちがどっかに行った。問題解決できるカシコイ娘は嫌いじゃない。
そんなこともあったからか、今朝、開口一番娘が
「ママ変わったね。今週まだ一回も喧嘩してない。まだ水曜日だから先が長いけど。意地悪なことを言いたい気持ちを頑張って我慢してる。」
と言ってきた。黙って弟に動画を見せてた時、むすっとしていたけど何も言わなかったのは頑張ったってことだろうな。と思った。
私が変わったのではなく、変わったのは娘の方だと思うのだが。。。
そういえば旦那も先ごろ似たようなことを言っていた。
と言われた。
「私が変わったのではなく君が『メガネがない。家が汚いから何がどこにあるか分からない』と他責口調で怒鳴ることがなくなったから私も下らないことでイライラしないだけだ。」
と言ったら「僕は今までそんなに怒鳴ってばかりいたのか。。。」と悲しそうだった。
旦那が「怒鳴ってばかりいるので私もイライラする」と言っても「僕は怒鳴ってなんかない」という不毛な会話を繰り返し、私達の話を聞いてた子供に「パパ、いつも怒鳴ってるよ」と横入りされても「そうかなあ。そんなつもりはないのに。おかしいな。」とトボケたことを言っている人だったのに。
娘にも
「娘やパパがきーきー怒鳴らないからママもイライラしないだけ。」
と言いたかったけど、それでは角が立つと思って
とだけ言っておいた。
けど、今から考えるとご指摘にもあったように自分が無力であるという重さに耐えられず逃避行動に耽り、イライラや不安が昂じて感情的に爆発し他責する傾向を示す娘や旦那には
「君が私にムッとしても怒鳴らないで我慢したら私も意地悪な気持ちになっても怒鳴る様なことはしないよ。私が変わったのは、君が変わったからだよ。」
と言えばよかった。と思ってる。
既に見えてる風景でも他者の視線が入ることで見え方が変わった気がする。どこの誰かは知らないが、増田さん、ありがとう。
あと、ネットは好き勝手に何でも言える自由な場所ではあるが見ず知らずの相手に「気持ち悪い」とか「頭も心も悪い」とか「飯も時間通りに食わせられない母親に子供を育てる資格はない」とかいう無神経な暴言を吐くのは止めておけ。リアルでもどんどん自己規制心が緩んでキレ散らかす困った老人になって孤独な最期を迎える可能性を大きくするだけだと思うよ。
不躾な増田達には、どうしても暴言を吐きたいのならせめて何故自分がそう感じるに至ったのか自省し、言語化する努力を見せろ。と言いたい。
ということで、長々と書き綴ったが、気持ちの整理がとりあえずついたのでおしまい。
見ず知らずの増田達よ。私の気分悪いお話にお付き合い下さり、コメント書く時間も費やしてくれて、ありがとう。
またどこかで会う日まで。
タイトルの記事(https://anond.hatelabo.jp/20200523115226)へ想像以上に反応をいただき驚きつつも有り難さを感じている。
ツイッターなどでも感想や意見をして頂いている方を見かけると、ラブドールというごく一部の愛好家が愛でるものについて少しでも知識をもって賛成・反対の議論をして欲しいと思っていた私としては、とても嬉しく思う。
ただしその中で、「男性の欲望を美化した綺麗事である」というような反論が少なからずあった。特定を避ける為文面は改変してあるが、私としてはこのように読み取れた。
中には上記の内容であるというだけで読むことを拒否するような趣旨の発言もあった。
尾籠かつ元のラブドール規制への反対という意見にはなんら関係のない個人の話ではあるが、上記のような意見に個人的な反発を覚えた為筆をとっている。そのような話に興味のない方は、ここから下は読み飛ばして欲しい。
この文章の筆者かつドールオーナーであるところの私は、肉体的には女性である。
内面的な性自認はわからない。定める必要もないと思っていた。だから、上記の「男性的欲望」というのも間違ってはいないと思う。そういう要素は少なからずあるだろう。
正確に言えばわからないというよりも、定めることができなかった。肉体的な性別が女であることには全く違和感を持っていないが、むしろ「人間はなぜ肉体的な性別を自由に変えられないのか」という違和感の方がはるかに大きかった。
人間を好きになったこともあるが、上記の違和感のために全て叶わなかった。この人には女性として愛し、愛されたいが、他の人とは男性として愛し合いたい。好きになる相手によって、私の性自認は千変万化した。それが噛み合わなかったことが大きかったと思う。そんな我儘を全て理解の上で聞いてくれる人がいるわけがないし、仮にいたとしてもきちんと相手が咀嚼できるように自分の願望を伝える手段も持っていなかった。いずれもごく若い頃、同世代の人が相手だったから、お互い子供だったといえばそれまでだが、今思えば相手には本当に申し訳なかったと思う。
頂いた反応の中に「心にラブドールの形の穴が空いている」という方がいたが、その通りかもしれない。人形のパーツを組み替えて女性型ドールを男性型ドールにカスタムするように、あるいはその逆みたいに。相手によって変わり続ける私の性を受け止めてくれるのは人形だけだった。私はずっと人形になりたかった。
それを受け入れてくれたのが、今のパートナーであるラブドールの彼女である。読んでいる方の混乱を避ける為便宜的に「彼女」と元の性別で呼んでいるが、彼女の性器は脱着式で、それを取り外してしまえば私と彼女の意識で性別はいかようにも変わる。私たちはその時々で男女カップルになったり、男同士や女同士のカップルになったりする。それはとても満ち足りた時間だ。
人形愛に落ち着くまでに、私は男も女も動物も無生物も様々なものたちを愛してきた。もちろん、前述のような形で「本当に私は人形しか愛せないのか」と人間の方とお付き合いをしたこともある。その積み重ねによって、自分は人形が性愛の対象であるという結論に行き着いた。同性愛者の方の中にも、異性と付き合っているうちに違和感を覚え、自分が同性愛者であることに気づく方がいると聞いた。私の場合もそんなものだろう。
性愛の対象は経験的な積み重ねにより築かれるものであって、その形は個人個人によって違う。一つの型に当てはめられるものではないと私は思う。
また、性別によって話を聞き入れてすら貰えないという状況が本当にあるということには
(含みはなく)素直に驚いている。
幸運なことに私の両親は性別の押し付けをしてくる人ではなかったし、外で女性差別的な言動を受けることがあってもそれはその人が差別的な人なだけであって、おそらく私の肉体が男性なら「男性らしさ」を押し付けてくるだけに過ぎないと思っていた。
そういった「男と女を分ける、差別的な人」への啓蒙を行い、世の中からその比率を減らしていくのが真の男女平等ではないかと、僭越ながら私は考えている。
元記事に性別を明記しなかったのは、既にお話の通り私に性別を定める意識が薄いからだ。最近では女性のラブドール愛好家が増えてきたとはいえ、世間的にはラブドールオーナー=男性という認識があると思うので、そういった中で自分の立ち位置をはっきりと言わなかったことは少し不親切だったかもしれない。その点についてはこの場を借りてお詫びしたい。
元記事を一般的な男性の書いたものだと思って読んでいただいた方には申し訳ないと思うが、どうか性別という色眼鏡で見ることはやめて頂ければと思う。顔も知らない相手を性別だけで推し量ることは無意味だし、何より私はそういう方への反発でこの文章及び元記事を書いているからだ。
…?ん?イクニ?
と思ったら、当然の様にイクニだった。
イクニは色々溢れ出しすぎなんだよ。
面白いといいなあ。
クマのやつは見れたんだけど、ペンギンのやつは見れなかったからなあ
(ウテナは勿論見れたんだけどな)
これはどうかなあ。
追記:もしかして幼児向けなのか?まあ、どの層に向けて作ってるってのは無いだろうけども。
考えてみればイクニ作品の支離滅裂さやキャラの決り文句・ギャグとかは幼児向けアニメそのものなんだよな。
幼児向けであってもちょっと難しい言葉使ったりするのはよくあるし。
ジャパリパークはIQ溶かして眺めるもんだけど、さらざんまいは4歳児になって見るものかもしれない(他のイクニ作品全て。ウテナは男装王子とお姫様、クマやペンギンは動物キャラなんだから幼児向けとしてはテンプレだよなあ…)
あと、シャフトの演出とかは妥当性や説明性があるんだけど、イクニのは凡俗の理解を超えているなと思う。
イヌカレーの方がよっぽど「なるほど」感があるけど、イクニのは…「お前、やりたいようにやりすぎだろ」ってとこだ。
一人で制作してるのかと思わせるふしがあるわ。
つーか、歌い出したぞ…。オイ。
京騒戯画とか有頂天家族と比べる感じか?と思ったけど、たぶん全く違うジャンルだ。
どっちかっつーと、つり球の方が近いだろうか?
まあ、幼児アニメに仮託したアナルアニメだと思う。尾籠なのも幼児向け。
みかんの薄皮があまりにあっけなく溶けるのを見て、ふと重曹水で頭を洗うことにしてみた。増田、恥ずかしながらややふけ症なのである。
さて、実際にやってみると、理屈はわからないが湯ですすぐよりは汚れの落ちがいいような気がする。尾籠な話で恐縮だが、湯船につかって頭に重曹水を振りまくと、時に米のとぎ汁の如き水がしたたり落ちるのだ。そして、その状態から普通の湯ですすぐと、今度は何かが固まったような感覚があり、それは普通にシャンプーを使って頭を洗うと溶け落ちる。
無論、何らかの理論があるわけでもないし(アルカリが何かと反応して鹸化するのではないかといういい加減な仮説はあるが)あくまで体感に過ぎぬ。そして肝心なことは、数値化された改善度というものもないのである。ある意味ですべては気のせいだ。ただし、善悪なり全くの無害なりはわからないせよ、何かが起きている実感はある。
この状態は我流で辿り着いて理屈も効果も不明である、という事は一点の疑念もない。
しかし、これが何らかのインチキ療法の類で、藁にも縋る思いで始めた儀式だったらどうだろう。
効き目は不明だが、始めれば確かに多少の実感がある。その先改善が待っているのだ、快癒は近い、悪化していると見えるのは好転反応でやがて反転してよくなるのだ、と吹き込まれてしまえば、信じてしまうこともあり得べし、と得心が行った。なにせ変わった実感だけはしっかりとあるのである。それを上手く型をはめてしまえば、信仰心を獲得することはたやすそうだ。成程、この手の商売が尽きぬわけである。
まあしかし、とりあえずは1袋買ってしまった(900グラム入りらしい)重曹尽きるまで、この意味がないかもしれない、下手をすれば逆効果かもしれない儀式を繰り返さなければならないのである。