「自分はその他大勢とは違う」という感覚を味わうには大勢の中に身をゆだねなければならなくて、ツイッターって最近大勢の人がやってるじゃん。かなり昔からツイッターやってる人だったらそれ自体が「自分はその他大勢とは違う」って感じさせてくれるモノだったのだけど、今はそうじゃないから。
ツイッターやってるくせにツイッターテンプレネタにマジギレしてクソリプ送ったりだとかで説教してくる人が普通にたくさんいるというところにある気がする。
いかにもツイッターやってるやつみたいなのが嫌いなのはわかるが、自分もツイッターやってるやつに分類されるべき人間ということがわからないのかもしれない。
ツイッター民に文句があるならそれこそ増田にでもその長々とした文句を書けばいいだろうに
ツイッターやってりゃツイッターみたいな発言を見させられるのはある程度しかたないんだから
そこまで嫌いならやめりゃいいのにって思う。
はてなのはてなー嫌い的論説は、皮肉的表現が多く、本気ではてなをきらってるわけではなさそうな人が多い印象だが
なぜかツイッターだとマジで敵愾心を持っているひとが一定数いるように感じる。
そこまで嫌いなら、なぜツイッターランドにとどまっているのだろうか。
かなり疑問に思う。
意外な事に今時な名前をつけてる人の方が漢字の意味など考えてる事が多く、古風な名前の方が「琴子って名前は琴がおしとやかで和風って感じで、大和撫子な女の子に育って欲しくて」みたいな感じでふわっとしてる
なりたい。超なりたい。主夫として婿にしてくれるなら靴の裏も舐めますべろべろべべろという感じなのだけど出会いがない・・・終了。
蓮舫の二重国籍だった問題ってルーツや出自を問題にしてるのじゃなくて、二重国籍やら説明が二転三転してることを批判されてるのにそれも差別なのか?
てか、日本の老齢化を考えると移民の問題とかあると思うんだけど、国会議員や首相が二重国籍を許可するかも議論出来ない国なら、移民なんて考えられなくない?
だから政治が狂っている時代にあっては、その狂気が正しさを歪めてしまうだろう。
たとえば赤狩りが盛んな時代には、赤狩りに賛同することこそが政治的に正しいとされただろうし、逆にそれに反対する人たちは冷遇された。
いくら人権を守る目的でやっていることでも、それが別の誰かの人権を傷つけることはある。
実際、表現の自由はポリコレによって圧迫されつつあるわけだし、特にオタクのように弱い者だけが狙い撃ちされる。
これがほんとうに公正か、という疑問はあるわww
主夫まじでほしい。
私が働くから、ちなみに産休育休とれる会社だから主夫になってほしい。
育休はキャリアコースから置いて行かれそうで嫌だから取りたくないし、なおさらお願いしたい。
「変な目で見られる」以外で、男側のデメリットが何かあるなら教えてほしい。
みんなもういい大人でしょ?
「死ね」はやめようよ。
こんなこと言うと、「お亡くなりになってくださいって言うことにするわ」みたいな人も出てくるんだけどさ、それもだめよ。
批判がしたいなら、感情的にならない大人の文体で、相手を罵ったり、見下したり、死を願ったりしないで淡々と内容について語ればいいのよ。
はてなーはロジックを重視するのに、なぜか文体は感情むき出しになっているよね。
小中学生が喧嘩して言うならわかるよ。彼らはまだ精神的に未熟でそういうことを言ってしまいがち。そしてそういう行為を叱るのは大人の役割。そしてはてなーは大人です。
「死ね」なんて言うのは、自分が現実で持ってる素晴らしい肩書き、経歴、愛する家族、そういうものを裏切る卑劣な行為だと思うんだよね。
何かするなら、普段の言動から言って、安倍政権叩きではないだろうか。
左からの叩きが効果なければ(正に敗北している)、右から叩くことも考えるのではないだろうか。
全てが工作だとは言わないが、ありそうな話ではある。工作員は在日中国人かもしれないが、
結論:もっと音に拘れば全然評価が変わったのにとても残念だった。原作の宣伝になった事だけは良かったかな。アニメ化された時点でラッキーだから割り切らないと駄目なんだろうか。ここから大逆転の可能性も残っているので期待はしておく。
ナナマルサンバツのテーマは『早押しクイズ』である。早押しクイズにおいては『音』が重要になる。作中でも最初のクイズ大会においてヒロインが髪をかきあげて耳をすます所で作品の空気が急激に変わる。問題をよく聞いて出題意図を読み、聞きながらパターンを予測し、正解が十分に絞られるポイントを前もって予想し、その決定打が耳に入ると同時にボタンを押し込む。それこそが早押しの楽しさであり、クイズがただの物知りテストで終わらない部分なのである。そして、この作品はそれを描くことによりクイズの楽しさを受け手に伝え、クイズを楽しむ主人公に共感することで受けては作品を楽しむ。ナナマルサンバツという作品はそういう仕組みになっている。
つまり、ナナマルサンバツの面白さを描くのに『音』はとても重要な意味を持つのだ。原作の漫画ではそれをコマ割りや文字の大きさによって何とか描いてきた。たとえば、漫画のとあるコマに一つだけある吹き出しに多数の文字が詰め込まれているページと、逆に数文字しか文字が入ってないページがあったとする。読み手の体感時間はどうなるだろうか?1つのコマに大量の文字が入っているページはまるで時間がゆっくりと流れすぎて止まってすらいるように感じ、わずかな文字しかないページを読む時は素早い時間の流れを感じるだろう。それによって、なかなか問題の答えを誰も言わない時のピリピリとしていて長く感じる時間の感覚、素早く答えを言い当てられた瞬間の驚きを伴ったスピード感を演出しているのだ。
逆に、アニメはそういった『コマの作りを利用した体感時間の調整』は出来ない。直接『音』によって描写するしかない。原作が絵によって伝えている音のイメージを咀嚼し、その上で音作りをしなければ原作の描いていた物が死んでしまうのである。反対に、それらを上手く描くことが出来れば、原作以上の強烈なインパクトを持ってクイズの面白さを伝えることが出来ただろう。
そして、今の所ナナマルサンバツのアニメは……音に対する拘りがあるとは言えない……。致命的におかしいのはヒロインの声だけであるのだが、それ以外の要素も特別良くできているとは言い難い。それでは駄目なのだ。このアニメ化では『音』がよく出来ていると言えないのなら、それはとても勿体無い。せっかくのアニメ化なのだから拘って欲しかった。とはいえ時間はまだある。アニメでは切りよく麻ヶ丘例会までをやるのだろう。これから先も盛り上がるポイントはいくらでもある。頑張って欲しいものだ。