保守、革新あるいはリベラルなどの政治思想を表す「左翼」「右翼」ではなく、
ネット上でカジュアルに使われている「サヨク」「ウヨク」について考えるに、
という対比なんだと思う。
それで、
が問題になるのだろう。
ん?いや別に何も否定しとらんぞ?
聖職者は役割を果たせばいいし、どんなモンにも価値を置くのは自由だし。
痛み止め的に宗教を使うのも真っ当な使い方だろうし。
ただ血が出てるのに「痛くなくなったよ!」って痛み止めが効いてるうちに治療しないのは
客観的にみて
http://anond.hatelabo.jp/20140217175047
この通りに感じるのは当たり前じゃねえか?
確かにそうなのかも知れない。
だが、それは健全なことではない。
指摘の通り、祈願内容を偽らざるを得ない理由があったとしても、それは健全な行いとはとても言えない。
祈願を受けて精神的安定を得たいだけなら正直にそう言わないといけない。(実際、受けたいだけという人も来る)
仮にそうだったとしても、目的を偽る限り、正直に「ただ祈願を受けたいだけなんですよ」と自分達の口で言ってくれない限り、状況が変化したとは言えないし、先へも進めない。
精神的安定を月一で片道二時間かかる場所に求めに行くのは個人の自由だが、問題がゼロ距離すなわち自分の家の中にあるというのなら、少なくない時間や金を精神的安定に割く前にまずそれに取り組むべきだ。
仮にこの夫婦に息子なんていなかったとしても、毎日帰って寝る自分達の家の中に、問題が変わらず存在している事だけは確かだ。(ごく一般的な夫婦者はここまで頻繁に祈願を受けに来ない)
精神的安定を求めるのは、健全な精神状態の維持を望む、自然な心の働きだろう。
外的な要因によって心のバランスを保とうとするのはいいが、だがいずれは自分の足だけで立たなければいけない。
たばこ、お酒、ドラッグ。依存性中毒性のあるものは世の中に沢山あるが、ほとんどの人間はそれらに依存し頼ることなく自分の足だけで立っている。
依存対象がたとえ無害なものであったとしても、その無害なものに依存するのはいけないことだ。
二本の足があるのだから。
ニートで1年全く無収入ですが放置しておくと役所から収入証明しろとハガキが来ます。
特に実家住まいのニートだと親にハガキを見られて面倒になることうけあいです。
だからその「心の安寧」をさせちゃいけないところで与えてしまうのが宗教の問題ってことだろ?
それと、その角度の使い方うざいな
http://anond.hatelabo.jp/20140217163811
まあ聞いてくれ。信仰心などはじめからなく、純粋に飯を食う為だけに聖職者となった人間からのアドバイスだ。
祈るだけならばイワシの頭に対してだってできるし、
あんたがそこで見た他の連中は、あんたの持ってない信仰心を持ち、あんたの知らない生き方をしてるわけではない。
信仰心が強いのではなく、ただ単に、現状の生活において他の逃げ道がないだけだ。
信仰心は依存心と何も変わらない。依存の対象が人ではなく神となるだけであって、精神的自立には結びつかない。
ただそれでも傍から見れば、“信仰厚い人”という評価がなされ、“神への感謝と敬意を忘れない人”という見方がなされてしまう。
通常の価値観の持ち主なら当然、それのどこがいけない?と思うかも知れない。
数年前か。ある日、職場に一組の夫婦が祈願の依頼に来た。初めて見る顔だった。
夫婦は普段着みたいな格好で、表情は無く、喋る言葉も訥々としていて、なにかに行き詰って祈願に来たのだろうと思った。
祈願内容として口にしたのは、「家内平和、息子の就職祈願」だった。二人が口にするのは決まってその内容だった。
来るペースは月一か、二月に一度くらいだった。ジャージで来て祈願を受けていく事もあった。
外出着っぽい服に身を包んで現れるようになり、表情にもわずかだが笑顔が見られるようになった。
祈願を受けに来る間隔も若干短くなっていたように思う。
だが、祈願内容は全く変わらず、「家内平和、息子の就職祈願」だった。今も変わっていない。
さて、このエピソードを見て、あんたはどう思っただろう。
“祈願に来ることで夫婦には変化が現れ、明らかにいい影響が出ているのだから、よかったじゃないか”
そう思ったかも知れない。
そうだな。実際、夫婦は数年前よりリラックスしてるように見えるし、それを見守るこちら側の視線も暖かくはなる。
だが、違うんだ。なぜなら、祈願に来た結果、この夫婦にとっての問題は何一つ解決していない。
この数年間で夫婦がすべき事は他にあった。
片道二時間くらいかけてやってきて、数千円の祈祷料を払い、長い祈祷を受け、また片道二時間くらいかけて帰ってゆく。
その時間と金を使って、家庭内の問題に、ちゃんと正面から向き合うべきだったんだ。
リピーターになってしまってはいけない。祈願を受けるのが楽しくなってしまってはいけないんだ。手段と目的がすりかわる、それは本末転倒と言う。
だがこちらは生業として聖職者をする身だから、こういう事は口に出来ない。
でも本当は、神にすがらず頼らず、彼らはちゃんと自分の足で立って、ちゃんと自分の手で現実と戦わなければならなかったんだ。
さて、神を作ったのが人間かどうかという問いは誰にも答えられないにしても、宗教を作ったのは人間だと断言できる。
宗教は団体だから、運営上必然的に資金を集める必要がある。経営者や職員に食えるだけの給料を払わなければいけないからな。
だからどうしても定期的な収入、すなわち信者からの恒常的な搾取構造を設ける必要がでてくる。
賽銭箱しかり、祈願しかり、授与品(お守りとかお札)しかりな。
歴史ある宗教とはすなわち、古い歴史の中でいつしか公認されてきた詐欺、と言ってもいいだろう。
神に頼る者の問題をなんら解決しない。
それどころか、救いを求めてすがりつく者から金を巻き上げてゆく。
神へと祈る者が勝手に受け取る精神的安定と引き換えに、対価を要求する。
その中で神を信じ続ける事が、あんたにできるだろうか?
既に、宗教を冷静に客観視して「みんなで祈るのもいいものだ」とか良かったところ探しをしており、そのことを増田に書き込んで整理しようとしているあんたに、入信して神を信じ続ける事が果たしてできるのだろうか?
悪い事は言わない。
手段が目的にすりかわってしまう前に、信仰を持とうとするのだけはやめておけ。
<2/19追記>
驚きのブックマーク500超。
人の日記にぶら下げたエントリとして、ここまでのブクマ数を記録したものは初めて見ました。
皆さんにとって、“腐敗した聖職者”という存在はさながら、とても叩き心地の良いサンドバッグのようですね。
そこで(前々から準備を進めてはいたのですが)、“腐敗した聖職者のブログ”を立ち上げる事にしました。
3回目の結果待ちなんだがもう辛い。辛いよー。
若いうちの方がいいだろうと思って。
すぐできるとおもった。そんなことはなかった。もう治療はじめて9ヶ月くらいたった。
移植してからはお酒も飲めないし、無駄に動きたくないからじっとしていることが多い。
貴重な二十代が消えていく。
毎日毎日、子供ができるかどうか不安で、そのことばかり考えている。
仕事はか細くしている。治療をはじめるまえのようなやりがいはない。
旦那は優しい。それは本当に助かっている。
本当にうらやましい。
って、誰かに理解されたい。。
(ちなみに、俺はウィンタースポーツはまともにやったことがないし、運動神経自体が悪い。
だから、例えば葛西選手のジャンプを見ても、あれがどれだけすごいことなのか全くわからない。
なので、内心「俺も本気出せばあのくらい飛べるんじゃね?」と、少なからず思っている。)
もうここで答えが出てるだろ
これが自分がやり込んだスポーツを観戦するっていうならわかるよ。
「あの回転は難しいんだよ」とか、「あの急斜面を滑るスピード感は堪らないんだぜ」
フィギュアスケートなら、フィギュアスケート自体はやったことがなくても
ダンスの素養のある人なら共通点が多いので、見ていて面白いだろうと思う。
だが、ろくにやったことがなければ何の素養もないスポーツだったらどうだろう。
選手の動きのどこがすごいのかわからないし、選手が何を感じているのかもわからない。
こんな状態で観戦したって面白いとはとても思えない。
(ちなみに、俺はウィンタースポーツはまともにやったことがないし、運動神経自体が悪い。
だから、例えば葛西選手のジャンプを見ても、あれがどれだけすごいことなのか全くわからない。
なので、内心「俺も本気出せばあのくらい飛べるんじゃね?」と、少なからず思っている。)
だが、競技種目に関係するスポーツをまともにやったことのある人ってそんなにいないだろう?