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2017-02-19

これから人生絶望しかない 暗黒の世界しかない

この10年は何とか生きてこれた

次の10年は絶望しかない

荒れた貧しい家庭環境で父は単身赴任し母と兄に罵られながら育った

親共に親戚関係が悪く親戚で集まった経験もめったになかった

まり文化資本などない

友人なんて誰もいなかった

保育園ではリンチ被害があたりまえだった

薄暗い団地で古いゲーム機をいじるだけの日々だった

まともに読み書きもできない

テストは全て0点に近かった

空も街もどこまでも広がる灰色だった

まるでディストピアだった

うちには軽自動車すらもない

生きていて何が楽しいのかわからない

日本は停滞期だが次の10年で破滅混沌が訪れるであろう

僕はこの深淵の暗黒に耐えられそうにない

ピンクフロイドやニックドレイクジョイディビジョンやバウハウスやキュアやスミスを聴いて育った思い出しかない

もう終わりだ

こんな人生耐えられない

まともに就職もできない

家族関係崩壊状態で友人もいない

灰色の街 灰色の空 灰色の服を着た人々 この光景をみると厭世的な気持ちになる

暗い気持ちから這い上がれそうにない

心や人権自尊心主体性を失い

残されたのはタナトスデストルドーしかない

誰か地球破壊してくれ

天の川銀河ごとでも構わない

もうこんな世界嫌だ

2016-07-27

http://anond.hatelabo.jp/20160727012951

一時期、鶯○デッ○ボールに在籍した子に似てる。

もう糖尿病で死んじゃったけど。

普通デブオマンコが酸っぱい匂いするんだけど、

の子は苺みたいなすげー良い匂いしてた。

何回か通って「○○ちゃんのオマンコ、苺の匂いがする」ていったら、

じつは毎朝、朝飯代わりにかき氷イチゴシロップボトル一本飲んでたらしい。

イチゴが大好きで、シロップ飲んでるだけじゃなくて、

全身がイチゴ柄のピンキーブリッコみたいな洋服きてた。

その朝食代わりのイチゴシロップの香料がそのまま尿で排泄されて

マンコ周辺にこびりついてたんだろうな。

一度、ラブホ風呂ウンコしてもらったことあるけど、

イチゴシロップの色素?とウンコの色がまじって壮絶な色してた。

ピンク紫みたいな。ピンクフロイド

イチゴの強烈な匂いウンコの強烈な匂いが混じって、

硫化水素心中するくらいの勢いだったわ。

いまでも生々しく覚えてるのがオナニー見せてもらったとき

親指と人差し指デカクリをつまみあげつつ、

小指と薬指の二本で肛門をグネグネこねてた。

そしたらピンクフロイドな液体(腸液)が肛門からにじみ出てくるの。

の子はブスで池沼だったから、客とるためにアナルファック当たり前に受け入れてた。

から肛門がゆるんでピンクフロイドな液垂れ流してた。

の子が死んだとき、遺品のルイヴィトン(本人は本物といって大切にしてた)にはいってた母子手帳をもとに

探偵に頼んで実母さがしてもらって連絡したんだけど、

そのお母さんも茨城風俗店で働いてたよ。国道50号沿いのピンサロ

フェラしてもらいながら話きいたんだけど、お母さんも知的障害者だった。

これが美しい国日本現実だよ。社会階層再生産だよ。

お母さんのアナルガバガバで、かき氷メロンシロップ匂いと味がした。

2015-10-10

奇怪さが板についてる人

一言でいえば、変人、ということなんだけど。

かっこいい。憧れていた。

小学生のころには、食べたこともないミントチョコ味が好きと言ってみたり。

中学生ときには、聞いたこともないのにピンクフロイドが好きとか言ってみたり。

高校生ときには、行ったこともないのに岡本太郎記念館が好きとか言ってみたり。

違う、ほんとはクッキーチョコ味やバブルガムポップやスーパー銭湯が好きなのだ

結局、おれは変人にはなれなかった。

2012-12-18

http://anond.hatelabo.jp/20121218095931

俺は物心ついたころからジョジョ読んでる生粋信者だけど、5部が一番好きだな。

あんまり内容と関係ないけど、5部はスタンド名が超豪華だよね。5部で一回『ジョジョの奇妙な冒険』が終わって『ストーンオーシャン』になったわけだけど、5部はガチで最終部にしようと思ってたんだろうな。

ジョルノはともかく、「スティッキー・フィンガーズ」「セックス・ピストルズ」「パープル・ヘイズ」「エアロスミス」「ブラック・サバス」「ビーチ・ボーイズ」「グレイトフル・デッド」「ホワイトアルバム」「キング・クリムゾン」「メタリカ」「クラッシュ」「グリーン・デイ」「オアシス」とレジェンド級のビッグバンドアルバム、曲名が大放出

メジャーどころ以外でも、ジミー・ペイジに「本当にプログレッシブバンドピンクフロイドムーディー・ブルースだけだ」とまで言わせた、メロトロン定評のあるムーディー・ブルース」とか、趣味ガッツリ出てる。

舞台荒木の大好きなイタリアで、映画へのオマージュも満載。長く読んできて、荒木趣味領域を共有してるファンには最高に楽しめる部だと思う。

2010-05-04

ピンクフロイド夜の学校

ピンクフロイド夜の学校

マーク・エドマンドソン   (ほんやく、増田

http://www.nytimes.com/2010/05/02/opinion/02edmundson.html?scp=2&sq=pink%20floyd&st=cse

「じゃあ、学校を出たら、何をするつもり?」

卒業を間近にしたバーモント田舎大学で、少なくとも十数人のクラスメイトに、私はこの質問を聞いてまわった。友人たちの答えに、私はとても安心した。特に何もないさ。羽根をのばすんだ。ぶらぶらするかな。考えたいことが色々ある。まずはゆっくりするよ。1974年だった。誰もが、そういう風に話すのが当たり前の時代だった。

実際のところは、友人たちは本当のことを教えてくれなかったのだ。見方によっては、とんでもない嘘をつかれた、とさえいえるかもしれない。卒業式の日までに、同級生のほとんどは、ロースクール大学院に進んだり、ニューヨークサンフランシスコで、クールで貴重なインターンシップをはじめることがわかった。

でも、私の場合は、本当にゆっくりすることにした。5年のあいだ、私はあちらこちらを点々として、何もしなかった。正確には、どうしても必要だったとき以外、できるだけ、何もしなかった。タクシーの運転手、映画フリークコロラドの山男、バーモントにあったクレージーヒッピー学校の教師、映画館支配人(これは、ほとんど仕事がなかった)、船の乗組員、ディスコドアマン、そんなことをやっていた。

そのなかでも、ジャージー・シティの音楽プロダクションでやったステージクルー仕事が、一番思い出深い。職場ルーズベルトスタジアム、芝生席もいれると6万人を収容する、古い、化け物みたいな箱だった。トラックからアンプを引っぱりだし、ステージに設置する。6時間かそこらしたら、トラックに戻す。これを私は、グレイトフルデッドアリス・クーパーオールマン・ブラザーズのライブでくりかえした。クロスビー・スティルズ・ナッシュステージは、ちょうど、ニクソン大統領を辞めた日の夜だったのを覚えている。けれども、私にとって、一番思い出深い仕事での一番の思い出は、ピンクフロイドが出演した夜に起きた。

ピンクフロイドは、サウンドに相当のクオリティを求めていた。ステージ上のアンプは、縦にも横にも、周囲を威圧するほど積みあがり、パリ・コミューンバリケードのようだった。それだけでなく、スタジアムの高い位置3か所にも、ピンクフロイドアンプを集めて設置するよう要求した。それで、私は午前中ずっと、オンボロスタジアム階段で、どでかい木製のアンプやら配線機材を運びつづけた。

仕事はもうひとつあった。パラシュートの形をした絹製の白いキャノピーが、ピンクフロイドステージには必要だった。設置には6時間かかった。私たちが聞いたところでは、キャノピーを使うのははじめてで、ピンク側のスタッフも、どうしたらいいかよくわかっていなかった。設計図らしきものはあったが、あまり役にたたなかった。だが、「アメリカの知恵」をもってして、キャノピーはなんとか屋根の形に膨らんでくれた。「アメリカの知恵」とは、つまり、ロープをあちらこちらにひっぱったり、手当たり次第に結んでみたりした、ということである。

ピンクフロイドライブは夜10時にはじまった。ところが、私たちが死にそうになりながら運んだアンプからは音が出なかった。たくさんの人がアンプの上に座ったか、蹴ったか、配線を切ったかしたのだろう。アンプのタワーが沈黙をつづけるなか、ピンク自分たちの仕事をし、観客は公演の終わりでライターに火をつけた。そして、私たちは、3時間かけてアンプをバラして、トラックに戻した。階段上に残ったアンプは、私たちが作業を拒否したので、お互いをいくらか罵ったのち、ピンクスタッフが回収した。

あらためていうと、ツアースタッフステージクルーの間には、ほとんどの場合、何らかの対立があったのだ。あるとき、たしかクイーンライブだったと思うけれど、クイーン側のスタッフ5人と私たちのクルー十数人が殴り合いになった。すると、騒ぎを聞いて駆けつけたセキュリティまで、喧嘩にくわわった。だいたい、バイカーギャングだったり、空手黒帯だったり、そういう連中だ。ツアースタッフの方はそれなりにがんばったけれど、ついに勝てないとが分かったらしい。ひとりが、シャンパンをケースごと持ってきて、回し飲みをはじめた。それで、みなが酔っぱらい、幸福感にひたった。

ピンク側のツアーマネージャーは、キャノピーをそっと降ろして、きちんとたたみ、元の木の箱に戻すよう求めた。しかし、キャノピーにはヘリウムガスがたっぷり詰まっていたし、さらに栓がどこにあるのか、誰にもわからないことが問題だった。また、キャノピーをステージに固定した際、私たちがあらゆるところを馬鹿丁寧にきっちり結んだおかげで、それをほどこうとしたら、水夫たちの集団だって頭をかかえたに違いない。誰もが疲れていた。酒を飲んだ人間は、使い物にならなくなった。そして、もう朝4時になっていて、家に帰るべき時間だったのだ。

空飛ぶ枕をどうやって片付けるか、みなで作戦を練るうちに1時間が過ぎた。だんだん大学ゼミのようになってきた。そこに、私たちステージクルーチーフジムが登場する。ジムは、私たちはジンボーと呼んでいたのだけれど、お人好しのバイキングの親玉のような人で、どんなときも、何があろうとクルーを擁護した。ギターケースを落っことした私を怒鳴りつけるスティービー・ニックスに、エドマンドソンに怒鳴る権利があるのは俺だけだと、大声で抗議してくれたこともある。そして、ピンクフロイド屋根事件のときも、ジンボーは危機的状況で自分がいつも期待されていることをした。つまり、行動を起こしたのだ。

ジンボーはステージのすみに忍びより、ポケットから折りたたみナイフを取り出して、聖なる屋根地球につなぎとめているロープのひとつを切りはじめた。私たちクルーの3、4人も、同じことにとりかかる。「おい、なにをしてるんだ!」ピンクフロイド側のチーフが叫んだ。「お前らをぶちのめして…」そこまでいってから、かれはジンボーの手にナイフがあること、クルーの数人も同じだと気付いたのだった。2、3分後、私たちはロープを皆断ち切った。

最後の太いロープが切れたとき、大きなため息のような音がした。すぐには何も起きなかった。また少し待ったけれど、何も変わらない。

しかし、キャノピーはついに上昇をはじめた。白くて柔らかい、贅沢な雲のように飛んでいく。そのとき、地平線から太陽が沸きあがり、キャノピーの絹地も、薄く、柔らかな緋色にかがやいた。熊が腹の底から笑うような、ジンボーがいつも通りの笑い声をあげた。私たちも一緒になって大笑いする。ピンクフロイドスタッフも同じだった。私たちはまるで、終業式を迎えた日の、学校子どもたちのようだった。私たちは裸のステージから、大西洋の先へ静かに流れてゆく絹の屋根を見つめていた。何人かは手を振った。

「じゃあ、学校を出たら、何をするつもり?」35年が過ぎて、大学の教師になった私は、自分学生に同じ質問をする。今日学生たちは、あまり隠し事をしようとはしない。そして、ロースクールメディカルスクールジャーナリズムビジネスでの学位中国での研究留学日本英語教師をすれば相当のお金になることなど、いろいろと話してくれる。そういう彼らを、世間は肯定するだろう。

そう、私も学生たちにはとても感心している。だがその一方で、心配もしているのだ。かれらは、決心を急ぎすぎてはいないだろうか。もうすこし落ち着いてみたり、ゆっくりすることも、やってみたらどうだろう。私はそう考えずにはいられない。そして、空に消えた白い絹のキャノピーを私は思い出す。まだ今も目の前にあるかのように、私はそれを見ることができる。私は手をあげて、それを指し示したい。学生たちにも、見てもらいたいのだ。

2009-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20090920184001

しかしそんなやってないも同然なものでもそれがいやな人から見ればやりすぎに見えるのだろう。これまでもこれからも、、、。

はっきり言えば我々は戦争ですらも「やってない」。あんな陸軍海軍の足の引っ張り合いは戦争しようとしてそれに踏み切れなかったどっちつかずのグズグズ行為でしかなく、意志のある国家としての行為ではないのだ。問題は結果ではなくしたか、しなかったかなのだ。

「やる」というのは意志の問題であり状態の問題ではない。

そしてその歴史カタストロフ後のゾンビ社会でも連綿と続き、そしてこれからもつづくのだ。

やらない理由ばかり探して。

「もっと何かがしたかったはずなのに、、」(ピンクフロイドダークサイドオブザムーン」より)

 
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