「信仰告白」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 信仰告白とは

2018-02-14

anond:20180212230019

ああそう。改革のしすぎで一般庶民にはもはや大迷惑だよ。

「この流れは変わらない!」「今の社会は行き詰っている」「改革絶対必要

改革派って最後はいつもこの信仰告白で締めますね。必ずや神の裁きが下るであろう~みたいな。

2018-01-28

anond:20180128172312

それは一種信仰告白なんだよ。労働に対する。

信者同士の間なら、信仰心の篤さが美談になるのも道理

2017-08-24

https://anond.hatelabo.jp/20170824230904

そこはタイトル

任天堂日常破壊された

みたいな釣りタイトルにして、スプラにハマって日常サイクルめちゃくちゃだよどうすんだよとか延々褒め称える信仰告白にすればブクマカ気持ちよくなちゃっていっぱいブクマしてくれたろうに。

2017-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20170606155848

不思議な事にこういう発言ネトウヨネトサポの寡占プロパガンダ状態であったときに聞かれた事はない

 

なんのことはない「みんなで同じプロパガンダ洗脳されているとき気持ちいい。是々非々判断を求められると辛い」というカルト信仰告白である

 

カルトには「目を覚まして自分の頭で考えろよ」という言葉けが洗脳プロパガンダに感じられる

哀れ

2016-09-08

ちゃんと「あなたの主張、正しくないです」て指摘しないとダメ

http://possession.hatenablog.com/entry/2016/09/07/230124

「言ってることはわかるがお前のことが気に入らない」を軽視しすぎたらあかんちゃうかな


↑の記事メタブに、(たぶん)自分と同じこと考えてるコメントがあったので、その言葉タイトル拝借しつつ文章にしてみる。(展開したらコメントの人とは意見が分かれるかもしれないが)

↑の記事賛同するような人が「アイヌ殺すなんて言っちゃいけない」という言葉について、「言ってることはわかる」とか「言ってる内容は正しい」って思うとき、ごく穏健に

ツイッターはもはや公の場なんだから文脈理解を阻害するような過激物言いにも非があるのでは」

というような意見ではないだろうか。

でも、今回攻撃を仕掛けた人は、たぶんその同じ言葉に対しての解釈全然違うんだよ。

「どのような意図があろうとその言霊を発した時点で罪人であり、一切の弁明なく平身低頭懺悔しない限り赦免されない。本来全ての日本人アイヌ差別問題については我等と同等の深い関心と全く同じ知識体系を頭に入れる義務があり、今の日本はの現状は誠に嘆かわしい。ましてやあえて拒む者などがいれば、それを敵と認定撃滅する使命がある」

こう理解していると考えないと、普通な

「いやー、状況よくみたら完全に早とちりでした。お騒がせしてすみません。でもせっかくの機会なので、こんな問題もあることを知って、少しでも関心もってくれて、配慮してくれると嬉しいです」

くらいの、ちょっとこっぱずかしい勘違いとやんわりとした要請で終わる場面で、ああい常軌を逸した行動に走ってしまうことの説明がつかない。

実際、はてブコメントにも、上記ほど露骨な言い方ではないけど、方向性としては同じことを言っているのが散見される。

まり問題についての関心や教条自分たちが満足する水準や体系で持たないこと自体が人として劣っており、社会的に「是正」「啓蒙」されるべき、という宗教的原理主義だ。

こういう人の耳に、どんな文脈でも「正論だ」なんて言葉を入れてはいけない。それは「アイヌ殺す」と同様、言霊としてしか受け止められない。

ちゃんと「あなたの主張、正しくないです」て指摘しないとダメなのだ

「態度が悪い」なんて彼らの正統性正当性ではない)、信仰に一片の痛痒も与えない指摘ではなく、「なぜアイヌ殺すがいけないのか」の中身を掘り下げその異常な考えの言質を引き出し、そこを否定しないといけないのだ。


【参考増田

敬虔なる信仰告白

http://anond.hatelabo.jp/20160908185445

縁なき衆生の嘆かわしい無自覚ぶり

http://anond.hatelabo.jp/20160908195737

2015-01-13

ピース又吉の「火花」読んだのだが、

感想を探したけど、ニュースになっている割に多くない。あったとしても、「良かった!」「感動しました!」的な、映画館から出てきた観客がインタビューされているCMみたいなのばかりが目立つ。

なので、もう少し捻くれた感想を書いておきます

とにかく又吉直樹という人は、善良で優しい人間なのだと思う。小説登場人物は皆、基本的モラリストだ。好感が持てるし、きっと広く読者に受け入れられるだろう。

文章力もある。稀に装飾過多の悪文が挟み込まれものの、全体的には読みやすく、表現も豊かだ。おそらく読書家で勉強なのだろう。

多くのタレント本がそうであるように、本作も半自伝物語が綴られている。個人的に、純文学自分自身について書くべきだと思っているので、題材として正しいと思う。

全体のストーリーは、主人公徳永と才気走った先輩芸人神谷さんを中心に描かれる、芸人残酷物語だ。おもしろうてやがてかなしき何とやら、と言った感じの、切なく泣ける中編に仕上がっている。

神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界孤独かもしれないけど、その寂寥は自分鼓舞もしてくれるだろう。

(「その」の連続が多少気になるが、)グッと来た。

僕達は勘違いをするには、あまりにも歳を取り過ぎていた。勘違いしたふりをして顰蹙を買うことさえも仕事だと思える程に歳を取り過ぎていた。

このくだりも良い。近年よく見る、遅咲きのプチ一発屋芸人の悲哀が伝わってくる。

葛藤、焦燥、栄光、そして挫折を描く普遍的青春物語として、出色の出来かもしれない。

著者の「笑い」に対する熱い思いも、信仰告白のように誠実に語られている。芸人の話だから、当然漫才のような掛け合いシーンが多い。本職だけあって、どの場面も面白く読め、さすがだと思った。

ただ、コンビを解散する主人公最後漫才が、感動を押したいあまりネタとしてはイマイチというか、そもそもアイデアとして凡庸で(おそらく「帰ってきたドラえもん」のラスト元ネタ)、ちょっと拍子抜けした。

最初に書いた通り、登場人物が皆善良なのが、読んでいて少し物足りない。もっとドロドロした内面や、反吐が出るような不快な気分にさせる場面も見たかった。例えば、破天荒系の芸人神谷さんがラスト、逸脱した行為に及ぶ場面があるのだけど、すぐに主人公の圧倒的な正論によってたしなめられる。それは、ツッコミが正しいツッコミをしているだけとも言えるが、正論が免責事項のように細かく冷静にセリフで説明され、何となく冷めてしまう。「政治的正しさ」にそこまで配慮するのは、著者が(つまり主人公が)テレビ仕事をしているからで、キャラクターとしては正解なのだけど、やはり萎える。

お笑い芸人常識人ゆえに、常識をズラしてネタが作れるわけで、だからこそ自分に正直な小説を書くと、良心的で分別のある物語になるのかもしれない。それは作風であって間違いではないし、太田光劇団ひとり小説も似た印象を感じた。

想像していた以上に、ちゃんとした小説になっていて、それだけに個人的好き嫌い含め、細かい部分が気になってしまった。

2014-07-19

http://anond.hatelabo.jp/20140719162233

信仰告白お疲れ様でした

で、それがなんで皆が納得してくれると思ったんですかね?

日本人は大抵「バカの思い込みに付き従って損するとか真っ平ゴメン」なんですよ

確信するのは自由ですがね、主張するなら根拠と論拠持ってこいって話ですよ

「俺は信じてる」って言われても、どう反応すりゃいいかわかんねーですよ

信じるのは自由です、信じるのは

そんなあなたオススメヤマギシ会

2011-10-23

この世の物事にはすべて原因がある←間違い

ある物事に原因があったら、その原因にもまた原因がある。(因果関係連鎖

これを繰り返していくと、「はじまり」に到達する。

この「はじまり」は、はじまりから、何の原因もなく「ただある」。

からこの世の物事すべてに原因があるというのは間違い。


この世に「はじまり」なんてないんじゃないの、という意見はもっともだ。

それはそれで、因果関係連鎖というシステムが何の原因(はじまり)もなく「ただある」ということになるので

やはりこの世の物事すべてに原因があるというのは間違い。


タイトル言葉は合理的に物事を考える「風」意見だけど、実際には単なる彼の信仰告白にすぎない。

2011-01-09

異邦人を知りたければ、彼らの倫理観を知れ。その逆がそいつ本質だ。

男らしく、なんて言葉が有るのは、自然に任せるとナヨナヨするから

女らしく、なんて言葉が有るのは、自然に任せるとガサツになるから

日本で忠義を重んじる武士道が発達したのは、自然に任せると下剋上とか平気ですから

欧州で礼節を重んじる騎士道が発達したのは、自然に任せると下品で無礼なことを平気ですから

中国で仁義を重んじる論語が受けたのは、自然に任せると不義な行いを平気ですから

米国スポーツマンシップが受けたのは、自然に任せると卑怯な行いを平気ですから

キリスト教が傲慢を最大の罪としたのは、彼らが傲慢だったから。

仏教諸行無常を説いたのは、彼らが物質に固執するから

イスラム教五行のうち三行を割いて信仰告白祈祷巡礼を盛り込んだのは、彼らがすぐに信仰を忘れるから

2009-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20091117042940

朝日はまとめてしまってるけど。こんなやりとりだったそうで。

http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20091117-OHT1T00036.htm

小沢氏「君は何教だ」 キリスト教発言への質問に逆ギレ

 「キリスト教排他的独善的」との発言が波紋を呼んでいる民主党小沢一郎幹事長(67)が、16日の記者会見で「私は宗教論と文明論を言った」とし、撤回する意思がないことを明らかにした。小沢氏は記者に「君は何教だ」と逆質問するなどキレ気味にヒートアップ。人の煩悩の数やエベレスト登頂の意義にまで言及するなど珍妙な会見となった。

 小沢氏(以下小)「私は宗教論と文明論を言ったんだ。君は何教だ」

記者(以下記)「家は…仏教です」

小「仏教ちゅうの、どういうの?」

記「浄土真宗です」。

小「いやいや、仏教ちゅうのはどういう哲学だっちゅーの

これ、記者が応じてるからいいものの、無理矢理言わせてたら消極的信仰告白の自由(告白しない自由)の侵害だよ。

政教分離原則違反以前に、信教の自由を直接侵害してることになる。

朝日はこういうのスルーしちゃいかんだろうに。

自民党政治家の場合で産経スルーするならともかく。

2009-09-10

http://anond.hatelabo.jp/20090910081402

キリスト教史やキリスト教神学の主要な文献とかヨーロッパが主体となっていると思うけども。

そもそも歴史的にイエスヨーロッパに来ていないことと、キリスト教ヨーロッパで広まっていることとは関係ないでしょう。

キリスト教神学が深まったのは宗教改革によるものでしょうし(そういえば今年はカルバン生誕500年ですね)、主要な信仰告白ヨーロッパ教会での会議の結果であるわけで、ヨーロッパが本場といってかまわないと思いますが。

歴史イエス観にとらわれているほうが浅薄だと思われます。

2008-12-09

専門家でない東浩紀歴史修正主義を積極的に批判する義務はない

そもそも、専門的知識を持たないド素人であり単なる思想オタクであるところの「知識人」が、己が「知識人」であるという理由のみで何かについて権威的に意見を述べることのできる時代はとっくに過ぎ去った、というのは東が何年も前から歴史学に限らず様々な分野について繰り返し言っていることで今に始まったことではない。ちなみに、思想オタク云々までは東は言ってないと思うが、早い話がそういうことだろう。

もちろん、歴史修正主義者の主張の誤りを専門的見地から批判すること自体は今でも十分可能だ。しかし、「知識人」であるというだけで歴史学について専門的能力を持たないデブのおっさんに、何かしらの「義務」があるという主張には同意しかねる。それは歴史家(や能力ある有志)の仕事だ。そうでない東が何事かを「権威的に」述べても、思想家としての倫理的にも現実問題としても単なる信仰告白以上の意味を持たない、というのがネット舞台に言論を戦わせてきた思想家の至ったとりあえずの結論なのだろう。

そのような風見鶏的態度は許されない、という批判の傲慢さについては既に批判を加えたので繰り返さない。東の態度は、正否はともかく「公共圏」という概念に対する真摯な取り組みの一つの帰結であることは確かなわけで、そこに取り組まずにいくら「知識人責任」なるものを振りかざしても、議論はすれ違うだけのように思える。なお異論がある向きは、近々刊行されると思われる「思想地図」のvol.2をあたってみるのも良いのではないか。目次を見る限り、おそらく引き続き公共性問題が話題の中心になると思われるので。

「どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする」態度は、個人的には肯定する。しかし、それはやはり自明ではないし、まさに自明であるとすることが「公共圏」の範囲に恣意的な境界線を引くことである、というのが東の議論なわけで。

追記:

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081207

焦ることなくちゃんとした意見をまとまった形でネットに掲載すれば、人はいつか読むのだから。情報断片化に対して、あきらめの態度をとるのはいかがなものかと思う。断片化する世界工学的に乗り越える(政治!)、のではなく普通テキスト機関銃のごとく書きつづけるのがホンモノのポストモダニストではなかろうか。

東はしばしば「知識人としての自分」と「個人としての自分」を区別して語っているので、後者としては同意するんじゃないかなぁという気がする。しかし、書籍というパブリックな場における「知識人としての自分」はこういうことを言わないのが思想家倫理である、と思っているフシがある。

繰り返すけど、歴史学に関する専門的な能力のない東が機関銃を手にテキストを撃ち続ける義務がある、とする主張は誤りだと思う。それは、あなたや私や志ある人ややりたい人がやればよくて、そしてそのことには意味があると私も信じる。そのこととは別に、「歴史修正主義者も自分では確固としてそう信じており、その信念を否定するのは難しい」という東の議論は基本的に正しいし、きちんと取り組む必要のある課題だと思う。

というか、「東は正統なポストモダニストか」という論点はあんまり意味がないと思うんですけどね。「東はデリダの教えを受け継いでいない」という主張が真だとして、東の公共性に関する議論を否定できるわけではないし(東が至った絶望というのは東個人がこれまで出会ったものに強く関係しているのだろうし)。もちろん、デリダがどう言っていたかを調べることで、新しい視点が出てくるということはあるかもしれないけど。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん