年収が1千万円もあれば若い20代前半の女に目がいくのは当然だし
30を超えた美人は既に特定の男がいるから売れ残ってる30を超えた女に手を出す男は少ない
映画やアニメなんかの人気になってる作品に対しての話題になった時に
「○○はつまらない。興味ない」←人によって合う合わないはあるからこれは分かる。
「○○はつまらない。あんなのを面白がってるような奴はにわかだ、クズだ」←???
こういう反応をする人が結構いるのはなんでなのか
当たり前の顔をして電話をかけたりメールを打ったりしています。
そんなことはもはや当たり前であり、当たり前以外の何物でもない世の中です。
しかし、わたしは携帯電話が当たり前の顔をして出てこない物語が好きです。
こんにちのフィクションでは携帯電話は当たり前のものとなっています。
フィクションのなかの中高生も当たり前のように携帯電話を使っています。
そもそもわたしが中高生の頃には、わたしの周りの中高生にとって携帯電話は当たり前のものでした。
当たり前のように携帯無線機や携帯電話を使っている中高生がわたしの周りにいました。
あたかも気づいた時には軍靴の音が絶え間なく響いているように――。
気づいた時には、わたしの半径2万キロメートル圏内には携帯電話の音が絶え間なく響いていたのです。
知らずの内に、わたしは携帯電話によって世界征服が成し遂げられた時代の生き証人となっていたのです。
持たざる者が、いつしか持つ者へと塗り替えられていく過渡期を生きてきたということです。
中高生ではなくなったわたしも、ついに持たざる者ではいられなくなりました。
しかし、そんな時代にあっても、わたしは携帯電話が当たり前の顔をして出てこない物語が好きでした。
これは矜持です。
かつてわたしは、当たり前のように〈ケータイ〉と略されているそれらを〈携帯電話〉と呼ぶことで矜持を示し続けました。
普段のなにげない会話を通じて、それを人口に膾炙させようと努めていたのです。
それを人々の脳髄へと染み渡らせ、時代の潮流に逆らうべく教化しようと試みたのです。
わたしの活動は数年にわたって続きましたが、はたしてその潮目を変えることは叶いませんでした。
きっとこの先も人々はフィクションを生み続け、携帯電話もそれに当たり前ように関わり続けるのです。
そして人類が死に絶えた後も、そのミームを受け継いだ新たな種によって携帯電話は生まれ続けるのです。
それは人という種が永らく夢見たものであると同時に、極めて過酷な業と言えます。
携帯電話は人によって生み出され、人によって求められ、人によって業を負わされたのです。
いつ終わるともしれない今日の終わりを探すことが、いつしかさだめとなったのです。
そうして携帯電話というミームは終わりなき旅を終えるために旅を続けるのです。
そんな携帯電話を語り継ぐことが、携帯電話からどれだけの安息を奪い去っていったのか。
大したこと無いのにばかみたいに人を見下してるから皆、「うわぁ」ってなって何も言わないだけじゃね?
てか、そもそも友達居ないだけじゃね?
大人になるといろいろ冷めてたいていのことにはあーはいはい状態になって大抵のドラマ映画マンガは軽くいなしちゃうけど、ハンターハンターは別モンだわ。
まともに読み始めたのは大人になってからだけど、これを小さい時から読んでたら並大抵のマンガには満足できなくなるだろう。
クソ悔しいけど面白い。
腹立つわ。
たいていのことなんかどうでもいいと睥睨してやるという上から目線を、ニヤニヤしながら上目遣いでバカにされてる感じがクッソ気に食わん。
うーん、本当に「人と過ごすことが特に好きではない」というのは本能の欠如として捉えられるんだな…。
自分としては人と過ごすことは好きでも嫌いでもないよ。
普通は努力すればするほど、上のステージに行けば行くほど、自分より優れた人物にどんどん出会うので、より謙虚になるものだけどね。
大学生の時とか社会人1年目の時とかが、一番思い上がり激しいと思う。
ちょっと努力しただけで他人を見下す奴っていうのは、成長することをやめて自分より下の人間にだけに目が行くようになった可哀想なやつだよ。
どんだけ嫌われてるんだよ
結婚なんて30超えてから考えるものという意識が、結婚を遅らせるんだろうね。
昔は、彼女が24歳になったら結婚するものという意識だから、みんな結婚した。
40歳から60歳までの20年間では生きる辛さが違う。もう若くない。
子育てするなら、なるべく20歳から40歳までの20年間に多くの苦労が来るようにしとけ。
「合法ロリ」とは、見た目ロリだが実年齢は法違反にならない年齢のものを指して言うので、用法を間違っていると思う。「非力な30歳」を「合法ロリ」とは言わない。
ちなみに、「非力な30歳」を愛好する人がロリコンかどうかは難しい問題だが、それがロリコンの定義というなら、「非力ではない少女」を愛好する人はロリコンではないということになる。「合法年齢の同性を上回るスペックの持ち主だが実年齢は非合法年齢」の少女を愛好しても、それはロリコンではないので問題ないということか?
ちなみに、何歳であろうが「ロリータはロリータ」であって、80歳であろうがロリータである人はいるし10歳でもロリータではない人はロリータではない、という見解を有す人も少なくない。たとえば、ルイス・キャロルは、アリス・リデルが人妻になった後も親しく交流を続けていたが、彼にとってアリスが永遠にロリータであったことは疑いがない。ただ、アリス・リデルの容姿がずっと子どもであったわけではないので、こういうケースも普通は「合法ロリ」とは言わない。ルイス・キャロルがハイエンドな変態であったということには同意である。
ところで、「自分よりずっと非力なものに対する保護欲求を、可愛いという感情・愛情と混濁させる意識の在り方」を広くロリコンと呼ぶなら、猫とか飼う人はみんなそれに該当すると考えられるのだが(必ずしも否定できないと思うのだが)、もっと言えば赤ん坊を育てる母親など大概そうなのだろうと思うのだが、それはどういう風に考えるのか。たとえば20歳の女の子が猫を見て「かわいいいいいいいっ(はぁと」というのはアリで、50歳のおっさんが猫を見て「きゃわわわわっわqあzwxせdcrfvtbygh」となるのはキモいからアウトなのか。その辺の線引きがどうもよく分からないのだが。
ショッピングセンターのフードコートでランチしてる時、お隣の席にファミリーが座った。
若い感じのパパママと小さいお子さん。お子さんがダウン症っぽい顔してた。
自分の子供が障害を持って生まれてきたら、どういう生活になってしまうのだろう。
夫婦生活、仕事、ローン、教育、子の成長、自分たちの老後、自分たちがいなくなった後の我が子。
考えるのも怖い。
母親の出産年齢が高いほど発生頻度は増加し、25歳未満で1/2000、35歳で1/300、40歳で1/100となる。一般に1/800という割合で発生している。
休み明けに職場で旅行のお土産とかお菓子を配ったりする慣習がめちゃくちゃ嫌いなんだが。
会社で毎回オレにだけお土産のマンジュウやクッキーを配らない派遣の女がいる。
10人の部署に9個のオヤツを用意してるのよ。で、「ごめん1個足りなかったw」とか、
数が足りてても、来店したお客さんに「余りあるんで食べて」とか。
これは敵意なのか、構ってアピールなのかどっちだろ。
世界中どこでも、人間は集団を作り社会を作り、決まりや人間関係の中で生きてる。
「家族を中心とし、集団内の他者との関係にストレスを感じながら、決まりに基づいた社会を形成する」ゴリラや
「そもそも一匹のチンパンジーをチンパンジーというべきではない。社会の中にあって初めて彼らはチンパンジーとして行動できる」チンパンジー
いずれも、人間と一番近縁な猿の仲間である。そこから見て、人間にもまた集団を形成する本能があると考えるのは、それほど間違っていない。
ただ、本当に「本能の欠如」として「一人を好む」という人は、現代社会にはおそらくほとんどいないと思う。現代社会で「一人を好む」という人を、無人島に一人で放り出して社会と一切接触させず一年間暮らせるかどうか観察してみればよい。
本当に、狂うこともなく何事も無く暮らせるなら、確かに本能の欠如に近い。ただ、繰り返しになるが、多分そういう人は多くない。ほとんどの人は、単に「自分好みの人間関係が構築できていない」「嫌いな集団だが属していないと食っていけない」「日々人と接する仕事のためストレスが半端無い」などの理由で、単に人間というものに食傷しているだけのことだろう。そういうのは別に病気ではない。
少なくとも、「疑問に思ったり考えたりしていることを増田に書いちゃうような人間」が、人との接触を求めていないワケがないでしょ。
「30代で子供欲しい」は「30代ニートだけど就職したい」くらい難易度が高くなるってちゃんと社会は周知しないといけないよな
とかいうエントリーを見たけど、30才以降だと割と手遅れ感はんぱないんだけど
それまでに何とかしようと思わなかったのかな…
あなたのお子さんは、
理想を高くもち、
物事を自分の中でよく消化しなければ表に出さず
でしゃばらず落ち着いて行動できる
回りに惑わされず
物を大切にし
同じことに何度も違ったやり方でトライし
多くの失敗から多くを学んでいる。
実現できない目標を軽々しく口にしたりせず
そして、
大切に育ててくれる親がいて
親が自分のことを愛してくれていることをよく分かっていて
そんな親を大切に思っている。
幸せで、涙が出るくらいいい子だと思うんだけど。
いったい何が不満なのだろう? と言ったら「皮肉を言っている」と思われるのだろうか。
でも、親に大切に思われている、というだけで、
この世の何十パーセントの子どもに比べ、確実にあなたの子どもは幸せなのだ。
横でいつまでも泣かれては、
子どもも旅立つことができない。
そうこうするうちに、
その前に、
どんなに心配でも
手を放す覚悟をしなくてはならない。
心配ない。みんなそうしてきたのだ。
有史以来、ずっと。
愛された子どもは、きっとどこかで誰かを愛し、愛されることができる
そして、
それを通して親自身もまた
ゆっくりと救われていくのだ。
「ああ、
生きていて本当によかった」と。
私の人生、それほど間違いでもなかった、と。
だから、
がんばってください。
あと少し。