当たり前の顔をして電話をかけたりメールを打ったりしています。
そんなことはもはや当たり前であり、当たり前以外の何物でもない世の中です。
しかし、わたしは携帯電話が当たり前の顔をして出てこない物語が好きです。
こんにちのフィクションでは携帯電話は当たり前のものとなっています。
フィクションのなかの中高生も当たり前のように携帯電話を使っています。
そもそもわたしが中高生の頃には、わたしの周りの中高生にとって携帯電話は当たり前のものでした。
当たり前のように携帯無線機や携帯電話を使っている中高生がわたしの周りにいました。
あたかも気づいた時には軍靴の音が絶え間なく響いているように――。
気づいた時には、わたしの半径2万キロメートル圏内には携帯電話の音が絶え間なく響いていたのです。
知らずの内に、わたしは携帯電話によって世界征服が成し遂げられた時代の生き証人となっていたのです。
持たざる者が、いつしか持つ者へと塗り替えられていく過渡期を生きてきたということです。
中高生ではなくなったわたしも、ついに持たざる者ではいられなくなりました。
しかし、そんな時代にあっても、わたしは携帯電話が当たり前の顔をして出てこない物語が好きでした。
これは矜持です。
かつてわたしは、当たり前のように〈ケータイ〉と略されているそれらを〈携帯電話〉と呼ぶことで矜持を示し続けました。
普段のなにげない会話を通じて、それを人口に膾炙させようと努めていたのです。
それを人々の脳髄へと染み渡らせ、時代の潮流に逆らうべく教化しようと試みたのです。
わたしの活動は数年にわたって続きましたが、はたしてその潮目を変えることは叶いませんでした。
きっとこの先も人々はフィクションを生み続け、携帯電話もそれに当たり前ように関わり続けるのです。
そして人類が死に絶えた後も、そのミームを受け継いだ新たな種によって携帯電話は生まれ続けるのです。
それは人という種が永らく夢見たものであると同時に、極めて過酷な業と言えます。
携帯電話は人によって生み出され、人によって求められ、人によって業を負わされたのです。
いつ終わるともしれない今日の終わりを探すことが、いつしかさだめとなったのです。
そうして携帯電話というミームは終わりなき旅を終えるために旅を続けるのです。
そんな携帯電話を語り継ぐことが、携帯電話からどれだけの安息を奪い去っていったのか。