それはちょっと極端すぎやしないかい?
確かに試験勉強にのみ邁進するのは頂けないとおもうし、現行の教育制度にだって問題点はあるし改善してほしいと思う点だって個人的にはいっぱいある。だからといって、「勉強ができる必要なんてない」って言い切って学ぶことを全否定するのはどうかと思う。
草食系なのかどうかってのはその話の中ではどうでもいいと思う。気になる子がアクション起こしてくれないから、やきもきしてるんだってだけだよね。アクション起こしてくれないのにはいろんな要因があるんだと思うし、そういう事情は個人個人で違う。アクション起こしてほしいなら、そこらへんのリサーチと分析とこちらからのアプローチをどうするかをじっくり検討していけばいいんじゃないかな。
上っ面だけ(文面上)で判断する限りでは、
1:表現の自由として保障されているのだから、俺は何をやってもいい
というのと、
2:表現の自由として保障されているのだから、俺のやったことに対して不満があるならその自由使ってかかってこいよ
というのがいる(俺の観測上)
君の場合、特に一番下の件は1:の人に対して書かれているのだろうけど(そしてそれはそれなりに勢力はあるのだけど)すべてではない、ということを考えるとただのレッテル貼り、つまりは型枠に流しこんで「俺が考えた、表現の自由を使っている人を鋳造しました」と言っているようにしか聞こえない。
メガネ王は明らかに後者なのだから、法的手続きを踏まえてお前の自由は認められないとはっきり示す他、奴を止めることは不可能。
勉強ができる必要なんてない。
もちろん、文字が読めたり、計算ができたり、生きていくうえで必要な基礎知識は
必要だと思うし、できないよりはできた方がいい。
できた方がいい、その程度だと思う。
そもそも、人には得手、不得手というものがある。
勉強が得意な子、運動が得意な子、手先が器用な子、コミュニケーションが上手な子。
学校というのは、同じような勉強をさせ、運動をさせ、工作をさせ、レクレーションをして
それぞれの子の長所を見出し、伸ばし導いてあげるべき所なのではないだろうか。
私は勉強が好きだ。誰に何を言われなくても勉強ばかりしていた。
かわりに運動が苦手だ。
付いて行くだけで精いっぱいの講義の為に
寝る間を惜しんでまた勉強漬けになる。
信念や目的も無く、好きでもないのに詰め込んできた知識を使って仕事をする毎日。
それって本当の幸せだと言えるのだろうか。
いやそもそもさ、努力って認めてもらう対象が誰か(何か)っていう視点が抜けてると思うんだ。
例えば、認めてもらう対象が「自分が作ったものにお金払ってくれるお客さん」だとすると、過程はどうあれものがちゃんとしてるかどうかが判断基準なわけじゃん。あるいは、「趣味を極めて自分を満足させたい」とかになると、過程も結果もどうあれ自分が満足すればそれでいいじゃん。あとは、そうだね、恋人に喜んでもらいたい、とかだと、それこそその人がどう判断するかの価値基準によって認めてくれるかどうか、ってのが変わってくるよね。結果がどうあれ自分のために頑張ってくれた過程が嬉しいと思う人、やっぱり結果どう出るかが大事な人、両方を適度に盛り合わせて判断する人、などなど。
確かに結果が出ないと努力が認められない場合ってのも世の中にはある程度あると思う。だけど、全部が全部そうってわけでもないからきちんと分けて考えたほうがいいよー。
『ソラノートの番組はフランチェス子さんをどう扱ったのか? - 情報の海の漂流者』
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20110305/1299333484
コレを見てキミはどう思うかい?「こんなの絶対おかしいよ!」うん、そうだね。ぼくもそう思うよ。
ちなみに上記の「そらの的あさのニュース」(http://www.ustream.tv/user/ksorano)で配信された内容はさ、
Ustream利用規約(http://www.ustream.tv/terms)の9.a.7に反している可能性があるんだ。
違法、わいせつ、有害、脅迫的、嫌がらせ、名誉毀損、もしくは不快感を与えるユーザー投稿もしくは不快感を与える対象もしくはシンボルを含むユーザー投稿、第三者のプライバシーを侵害するユーザー投稿、ヌード(ポルノ、性愛作品、児童ポルノまたは児童性愛作品を含みますが、これらに限定されません。)を含むユーザー投稿、虚偽的、脅迫的、もしくは虐待的なユーザー投稿、違法行為を誘発するユーザー投稿、名誉を毀損するユーザー投稿、中傷的、低俗、もしくは暴力的なユーザー投稿、差別発言となるユーザー投稿、または、その他当社が不適当とみなすユーザー投稿を、本サイトまたは本サービスを通じて、アップロード、配信、電子メール送信その他の方法により送信すること。
もしキミがこれらの内容をひどいと思い、もしくはこれらの行為がUstream利用規約に違反していると思うなら、
一個人を標的とした侮辱行為、名誉毀損行為、ネットリンチに対して、はっきりと拒絶を突きつけることができる。
もちろん、最終的に判断するのは運営なんだけど。
キミにはそのチカラがあるのだから。
だから、
ぼくと契約してUstreamに対してソラノートのアカウント停止を要望してよ!
やり方はカンタンだよ!
Ustream運営にメールして、ソラノートのアカウントが利用規約に違反している可能性がある事を知らせればいいのさ。
えっ?
そんなやり方は酷いって?
そんなのただの虐めだって?
違う。全然違うよ。
表現の自由、言論の自由、報道の自由というのは万民に認められている。
それはメディアであろうと一個人であろうと同じなんだ。
そして表現の自由というのは
ということなんだけど、
「何を表現しようとその結果起こる自分に関する不利益から保護される」
ということではないんだ。
メディアであろうと個人であろうと、自分の行為によって生じる結果には責任を持たなくちゃいけないんだ。
だから、ソラノートが放送した内容が、利用規約に違反していると運営が判断した場合、
えっ?
それでもやっぱり酷いと思う?
自由が大事、表現の自由はすばらしい、表現の自由を守れと言いながら自由が持つもうひとつの側面に目を向けようとしない。
私たちの周りはキャラクターがあふれているが、それらのキャラクターが一斉に消滅したらどうなるんだろう。
アニメやマンガなども全て白紙になり、外に出て街を見渡しても、壁にもポスターにもキャラクターがいない。
ぬいぐるみなども全て消滅してしまった世界で、私たちは何を思うんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20110304192447
「敬意」ってのは本筋じゃないんだよ。
これが根にあること指摘されたくないし、認めたくないよね。
ちょうど二つ下の増田もバカって言い出してるところで。
ところで、その二つ下の増田は
というタイトルを
「@Artanejp のバカさにはなにか異質なものを感じる」
と変更したようだけど、そこに具体的1ユーザーを指定することと前のレッテル貼りの間に、何か譲れないものがあったのだろうか。
やっぱり人をカテゴライズする女ってロクなのがいないな。
典型的な「反・努力教」信者だなあ。「努力教信者はこんなにもキチガイなんだ」っていうネガキャンの典型例。
二人きりで遊ぶことが多い。
私はその子とのことを彼氏だと思っている。
別にお小遣いをあげたりはしていないし対等な関係だ(たまにおごってあげるけど)。
ところがまあ、何回デートしても遊んでいる以上の発展はないわけだ。
一回、映画を見た後に「あそこのシーンえろかったねえ」って振ってみたら、
発情するんじゃないかと思って言ったら、「うんそうだねえ」って流されたorz
はあ、これが草食系男子か・・・と実感。
でもでも。
昨日、帰りがちょうど帰宅ラッシュと被さって、車内がかなり混んでいた。
ばらばらにならないようにしていたら変に密着しちゃって、
向かい合わせてくっつく形になった。
こんなにくっついたの初めてだよ~ってドキドキしてたら
って思ってドキドキしてたら、
やっぱり草食系なのかなあ。
ニコニコ動画なんかでおもしろ動画を見ていると、面白いことが起こる瞬間にはほぼ必ず「!?」というコメントが付く。
「な、何が起きたんだ…?」という意味が、言葉を使わず、「!?」という記号のみで表されるので、
どんな場面にも応用可能であり、同時にシュール性も持ち合わせたそれは、かなり頻繁に使われている。
この「!?」の起源は、週刊少年マガジンに掲載されていた『特攻の拓』というマンガだが、
2011年現在でもネット上のコメント文化に多大な影響を与えるコメント表現が生まれたということは、
非常に稀有な出来事だと思う。
勝手な推測なので違っていたら申し訳ないが、フランチェス子氏がいう取材対象への「敬意」は
取材対象がどんな者であれ立場を一定程度尊重する、というレベルのものだったのでは?礼節に近いというか。
例えばフランチェス子氏にめがね王氏を取材する、といった仕事が入ったとして
この状況でめがね王氏の人格を尊び敬うという気持ちを心底持つのは難しいと思われる。
それでも仕事となればめがね王氏の立場を理解し一定程度は尊重するべき、といった話だったかと。
ましてや被災者への取材という文脈で出た「敬意」という言葉に違和感は感じられない。
その「敬意」という言葉にめがね王氏が過剰に反応し、のっけから煽りモード全開で「挑発」したと。
でもフランチェス子氏がいう「敬意」が文字通り「人格を尊び敬う」という意味だとしたらどうだろう。
犯罪者への取材の動機が犯罪を許さない、といった正義感から来る場合
罪を憎んで人を憎まず、といった聖人君主的心情を保てるのだろうか。
それがプロだといわれればそれまでだが、犯罪と人格は裏表とも言え(この辺は法律論としても議論のあるところ)
そこを分けて取材し記事にすることが出来るのだろうか。
取材中まるっと人格を尊び敬ったところで、記事にしたものが対象者を否定するものだったら
そもそも人格を尊び敬ったといえるのだろうか。
その辺をめがね王氏は冷静にフランチェス子氏に聞いてみて欲しかった。
いずれにしてもめがね王氏の挑発は目を覆いたくなるひどさだったし