いやそもそもさ、努力って認めてもらう対象が誰か(何か)っていう視点が抜けてると思うんだ。
例えば、認めてもらう対象が「自分が作ったものにお金払ってくれるお客さん」だとすると、過程はどうあれものがちゃんとしてるかどうかが判断基準なわけじゃん。あるいは、「趣味を極めて自分を満足させたい」とかになると、過程も結果もどうあれ自分が満足すればそれでいいじゃん。あとは、そうだね、恋人に喜んでもらいたい、とかだと、それこそその人がどう判断するかの価値基準によって認めてくれるかどうか、ってのが変わってくるよね。結果がどうあれ自分のために頑張ってくれた過程が嬉しいと思う人、やっぱり結果どう出るかが大事な人、両方を適度に盛り合わせて判断する人、などなど。
確かに結果が出ないと努力が認められない場合ってのも世の中にはある程度あると思う。だけど、全部が全部そうってわけでもないからきちんと分けて考えたほうがいいよー。
けど、信じたい。そんな今日この頃なのです。 結果がでてから努力って始めて認められるものなんだなぁ。とは感じているんだ。 まだまだ短い人生で悟るべきじゃないことだってわかっ...
いやそもそもさ、努力って認めてもらう対象が誰か(何か)っていう視点が抜けてると思うんだ。 例えば、認めてもらう対象が「自分が作ったものにお金払ってくれるお客さん」だとす...
睡眠時間減らせ?娯楽を減らせ? 典型的な「反・努力教」信者だなあ。「努力教信者はこんなにもキチガイなんだ」っていうネガキャンの典型例。 誰がそんな無茶な努力をしろって...