はてなキーワード: スピーカーとは
踊りのマクロが何度もとプレーヤーピアノ達と連動して奪うことと奪われることが等価になって実在しないヒーロー達が現れて偶像に規則と予定調和を与えた。物語の時だ。
ヒーロー達が生み出したベイジアンネットワークを貪るパックマンみたいにお話の快楽を貪る彼女が超常現象的な動きでスピーカーの振動と同じ周波数で爆裂する音楽を発する。まとめあげられた集団はリズムの原則に奪われて暴動みたいに時速2kmの速度で遠心形状で彼女に巻き込まれていく。
月に反射した腐った陽光がベンツに載ったカミュをバターみたいに溶かしてる。笑えない冗談で笑うコメディアンの悲しみがギアの悲しみを包み込んで目隠しされたノード形状の同調する協力者を通してP2P的に愛を送っている。波状に飛び散ったハッシュが変形して別の夢になる。
衛星軌道上でジョージ・ワシントン級のブラシが振られて百万色のインクが降り落ちてアクション・ペインティングで灰色の建物はサイケデリックに変色してる。
第7回議事要旨
http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen29/7-gijiroku.pdf
http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen29/7-sibuya.pdf
より。
ざっと見ていただいて、男女によって影響の方向性がかなり違うんですね。例えば上から2番目の暴力行為者の魅力、暴力を振るう人がカッコいいとかそういうことなんですが、男子は悪い影響を受けます、攻撃性も高くなります。けれども、女子は逆なんです。これは理由は分からないのですが、男の人が主人公の場合が多いとか、あるいは同じような暴力シーンを見ていても、その解釈が違うのではないかと思っています。正当化に関しても実は同じようなことが言えて、影響の方向性が男女で違う可能性があります。暴力描写の程度、これは暴力の数が多いということなんですけれども、これは当然問題だろうし、影響力を高めるだろう、攻撃性を高めるだろうと思われたんですが、むしろ逆だった。攻撃性を下げているんです。これは女子だけですけれどもね。
配布資料の方の9・10ページに項目ごとの影響結果が書いてあるけど、
受け取る対象によって効果が違うからテレビやゲームでの暴力を扱うことに一律に問題があるとは言えないという結論になってるらしいんだけど、こういう結果なら、男子からはより遠ざけるべきと言ってもいいんじゃないかと思ったり。
上の階がうるさいって騒動はよく聞くけど、階下がうるさいって初めて聞いた。よっぽどだな。
階下だったら苦情以外にやりようがあるんじゃね?
スピーカー(箱形?)をうつぶせにしたら増田の部屋の床に振動が直に伝わるだろうから、
音量は小さくても嫌がらせ出来るんじゃね?
お経を流すとか、泣き声とか、カールマイヤーhttp://www.youtube.com/watch?v=DdGlEYt5eEY(覚悟を決めてクリックしてね)とか。
そんな事言ったら、ソフトウェア工学は、作業員への効率的指示の所に心理学を含んでるし、アルゴリズムは理学だし。
だけど、基本的に、ソフトウェア工学だよ。
スピーカーを設計するのは理学だが、製造するのは工学。そういう話。だが、製造するのに理学が不要かといえば、そらいるだろ。
学問を学問として発展させるのが基本的な理学のスタンスで = 研究
学問を使って工業製品を作る(ための技術の学問)が基本的な工学のスタンス。 = 製造
ただ、あくまでも、工学というからには、物づくりであって、自分の手を汚せない、学問だけの工学を工学と呼ぶのか?というは、微妙だと言いたい。官僚的すぎる。
日本を脱出しようとか盛り上がってるし、どうしようもない閉塞感があるって、普通のブロガーからいわゆる知識人までそう言う。
そういうのを目にしたり耳にすると、そうなんだなぁって落ち込んだりする。未来がないように思える。
でもさ、今の世の中って最高だよ。この時代に生きていてよかった。
テクノロジーってゆっくりと、でも着実に進化するから、それに僕らは気づかない。
資本主義社会はじわじわとその網の目を発達させてるからそれに気づかない。
かなり世の中はいい方向に進んでて、それを今の時代に生きている僕らは享受できる。
それが今ではネットでそこの情報を簡単に調べられて、ひょいっと行けちゃう。
ガンジス川に行こうと思い立った次の週にはインドに行くことができる。
しかも航空費も安くなってるし、どこなら安く泊まれるかも今なら簡単に知ることができる。現地に行っても日本と連絡が簡単にとれる。
英語の教材はそこら中に転がっていて、楽しみながら勉強できる。
英語が持つ影響力が増していることで英語圏じゃなくても英語をしゃべる人も増えていて、現地の人と会話が増えた。
中国でもタイでも英語でかなり楽しいコミュニケーションがとれた。自宅の夕食に招かれたなんてこともあった。
そこでの写真や感想をネットにアップしたりして、その情報はどんどん集まっていく。
実際に行かなくても、美しい映像、美しい写真が簡単に手に入る。
音楽や映画の機材は圧倒的に安くなってきて、プロ並みの機材をある程度の値段で揃えられる。
それをニコ動かYouTubeに流して、世界中に届けることができる。
金がないから、企業に属してないからなんて言い訳はもうしなくていい。
別にプロなんかにならなくたって、かなり楽しみの幅は広がってる。
マニアックな趣味もネットで探せば同好の人はいくらでもいる。マニアックなCDの情報もいくらでもある。
聞きたいと思った数秒後にはYouTubeである程度聞くことが出来る。戦艦ポチョムキンの階段のシーンもすぐに見れる。
聞き逃したラジオも、見逃したテレビも見られる。丸一日全部の番組も録画できる。1TBのHDDが1万円以下で買える。
スピーカーも安い値段でいいものが手に入るようになってる。数十万円かけるのが当たり前だった時代が馬鹿みたいだ。
料理のレシピもいくらでも手に入る。旨い飯はどこで食えるかもすぐにわかる。
ご当地ものを安く取り寄せられる。欲しい本をポチッとすれば当日に届く。コンビニは24時間やってる。
図書館で読みきれないほどの本を無料で楽しめるし、ネットで予約もできる。
数万人に一人の病気の体験談もネット上には見つかる。普段の生活で知り合いにならないであろう人とSNSでつながれる。
ネットを使った女の子との出会いも格段に増えた。うまくやってる奴はうまくやってる。
ネット上のオナニーのおかずは際限がない。無修正も手に入る。どこの風俗が評判がいいかもある程度わかる。
クラブに行くのも、バンドのグルーピーになるのも、腐女子になるのも、コミケに行くのも、ホスト通いでも何でもあり。
ぐだぐだネット上で戯れられる。猥雑な欲望もこの時代だから可能なものは数え切れない。
自己啓発したいのならいくらでもその情報は転がっている。資格や学歴を獲得する手段の情報もオープンになっている。
かつてであれば閉鎖的で限られた人しか知らない情報、隠したい情報も知ることができる。大本営発表は通用しない。
それこそ、海外でだって勉強できるし、働いて生活できる。物価の安い国で外こもりすることもできる。
仕事や遊びのバリエーションはかつてないほど溢れている。欲望を満たす手段もかつてないほど溢れている。
今だって犯罪はなくならないし、政治の腐敗もある。戦争もある。既得権益を手放さない奴もいる。
くだらないことを自慢げに喋る奴もいる。人を簡単に傷つける奴もいるし、差別も格差もなくならない。
でも、それはいつの時代だってそうだ。逆に言えば解決するに値する問題はいくらでもある。悲観的になっている場合じゃない。
そして、そうすることのできる条件の整った時代に僕らは生きている。日本に限っていえばなおさらだ。
「一回戦争でもして全部ぶっ壊してしまうしかない」そう思ってる人もいるかもしれない。でも、それが一番だめだ。
徐々に諸所の問題を解決していくしかない。大きな全てを解決するような答えなんてない。
複雑で猥雑で非合理な人間の多様性を認めたからこそ、あらゆることがかつてより自由な世界を享受できる。
だからこそ個人的な人生の意味付けはグラグラしていて、それを暫定的に定めて徐々に改善していく必要がある。
だから、この猥雑な世界を楽しもう。もっと楽観的でいよう。個々に抱える問題を徐々に改善していこう。
くだらないことから、……やはりくだらないことまで増田にいろいろ記事を書いてきたが、そうだ、苦手なジャンルの記事も書いてみよう、ということで、音楽の記事を軽く書く。
とは言え、私はほとんどアニソンしか聞かないので、さて何を書こうと思ったとき、前々から思っていた疑問である「駅前で演奏している生の音楽に(音楽のセンスのない私が)たまに異常にインパクトを受けるのはなぜか?」をちょっとだけ言及したい。
もちろん、音楽にはちゃんと音楽理論があるらしいので、的外れかも知れないが書いていきたい。
まず、やはり私がインパクトを受けるのは、「演奏が(ある程度)うまい奏者」だと思う。別の楽器から紡ぎ出される……別の場所から空気の振動として、自分の体それ自体にも伝わってくる音色やリズムがアセンブルされて一つの調和になってしまうという驚き、インパクトというのはあると思う。ヘッドホンやスピーカーでは、あまりその辺が分からない。もっとも、私の使っているオーディオがしょぼいから、という面は大いにあるだろうが、音響の良い映画館で音楽を聴いても、やはり、何か違うなあ、と思ってしまうのも確かだ。
それでもう一つ思ったのは、月並みだが、ライブかどうか、という面が大きいのではないかという点だ。
なぜ、ライブかどうかが重要かというと、観客の心の一部に「演奏者の失敗を期待している自分」という面があるからではないかとと思う。それを別に責めている訳ではなくて、スリルの裏返しでもある訳だから、それも含めて観客は楽しんでいるし、演奏者もそれも含めて楽しませようとしているのではないか。
だから、そういう意味……ストリートパフォーマーという意味で、大道芸人とミュージシャンは一緒くたにされるのだろうと思う。
そして、題名の件に話が移る訳だが、「良いコンサートは眠くなる」らしい。私もネットで見た発言なので、そうらしい、としか言えないが。おそらく高級なクラシックコンサートやハイソな現代音楽のようなコンサートの話をしていると思うので、ふーん。そうですか。おにぎりおいしいです。としか言えない面はあるが、何となく理由は想像できるような気がしてきた。
要するに、無茶苦茶設備が整ったホールで、マナーの良い観客の前で、一流の演奏者が演奏する訳だから、もはや「精密すぎて」もはや人間が演奏しているのか、機械が音を出しているのかよく分からない境地に達しているのではないだろうか。……いや、そう書くと語弊があるか。「安心感」が異常にありすぎるということだと思う。
だから、街の雑踏の中では、「それなりにうまい奏者がうまく弾ききれるか」という面で、スリルを感じた衆目の目を惹きつける、という様な意味では、なかなか良くできたシステムだと思うし、「良いコンサートは眠くなる」という話は、なかなか贅沢な時間の使い方で大変結構なことではないか、などと思う。
以前,交際相手と心中するかのように話を進めておきながら自分だけ死のうと画策したが,失敗したことがある.
しばらく付き合ってきた中,直接顔を合わせているときはほとんど別れ話は出なかったが,電話やメールでやりとりするときにはかなりの頻度で(それこそ毎日と言っても過言でないくらい),別れ話が出ていた.それらはその都度立ち消えになっていたが,その日,メールから始まって,その後電話で数時間断続的にやりとりしたときは,タスクが溜まっていて時間もない中で焦りが出てきた.そのせいかどうかは分からないし,そんなことを理由にしたらそれこそ後ろ指を指されかねないが,ついには,別れるくらいなら死のう,と言ってしまった.すると肯定的な返答があり,そのまま話が進んだ.
心中について肯定的な返答が来るだろう事はある程度予想していた.勿論自殺願望はお互いあるはずもない.そこまで悲観的な生き方はしていないことは分かっている.また生活が貧窮していたわけでもない.曖昧な認識ではあるが,そういった事に関してあまりアレルギーになっておらず,既に自身としての死に対する認識がある程度構築されていたのではないかと思う.
そんなのはほとんど憶測で,それこそ身勝手だと言われかねないが,ここについてはあまり引っかかりたくない.そこについては,互いにあまり認識がずれているわけでもないと判断していいようだからだ.
前段落がどうやら詭弁に終始しているようにも思えるが,いずれにせよ,現実に心中するという話を進めた.話は次第に具体的になり,いつ行うのか,どのように行うのかということを話した.結果として,私が具体的に手を下すということが決まった.しかし,この,具体的な部分を話し合った時点で,私は本当に相手を殺める意思を持っていなかった.言い訳がましいかも知れないが,こう思っていた.相手に手を下すことはしない.相手の目の前で自殺する.
その意思を相手に打ち明けることはしなかった.何故か.また,相手の前で自殺する理由は何なのか.
まず,相手に打ち明けなかったのは,打ち明けると実行に際して何らかの障壁が生じるだろうと考えたことに起因する.その障壁が,私と相手,どちらによるものなのかは分からなかったが,そう判断した.
相手の前で自殺しようと思ったのは,端的には,私だけでは確実に死ぬ自信がなかったからだ.自らの手だけでは失敗するのではないか,との不安要素を最小限にしたかった.相手の手を借りようとしたのだ.勿論,相手が罪に問われないよう,私なりの考慮はした.直前まで自殺の意思を告げず,実行に際しても私が強引に包丁を握らせ,それにぶつかっていくという形を採ることにした.嘱託殺人や自殺関与,自殺幇助に問われなければいいのだが,と思い,相手が自殺を助長するようなことは一切しなかった,という旨を,手頃な紙が無かったためレポート用紙に記し,なくさないよう持ち歩いた.そんなことをするのであれば1人でやるべきだと言われそうだが,前述の通り,できる限り確実に実行したかった.もしかすれば,死ぬ直前くらいは愛する人と一緒にいたかったという甘え,我が侭があったかのも知れない.
包丁で自殺するという案は,比較的早期に決定した.以前にも,自殺について真剣に検討したことがある.そのときは「迷惑をかけない自殺」を主題にしばらく検討を重ねたが,結論は出せなかった.それも踏まえ,更に,実行のしやすさを重視すれば,最も失敗しがたいのは水死であったが,水死体になるのはできれば避けたかったし,実行しやすい水死というものが,何の問題もなく完遂される見込みがなかった.しばし考えた結果,家庭にある包丁を使うと結論づけた.具体的には,左胸の肋骨のあたりに刃を寝かせてまず2回.その後,痛みに耐えられるのなら,できればそのちょっと下に刺し,そのまま右に.殺人についての知識はほとんど無く,成功するかなど全く見当もつけられなかったのだが,当時は,素人の出来合いの案としては悪くはないように思えたのだから不思議だ.
話が逸れたが,いずれにせよ,私は自殺の意思を伝えないまま,相手との間では心中の話を進めた.
実行当日の朝,風呂からあがり,実行の準備を私は始めた.準備といっても,相手に非がないことを記したレポート用紙がコートのポケットに入っていることを確かめる程度だった.相手に電話をかけようと,携帯電話に目をやると,丁度相手から電話が掛かってきた.
いよいよか,というやりとりを少々した後,何か必要なものはあるかと問われ,私は台所の包丁を用意して欲しいと頼んだ.電話口から物音が聞こえたのち,刃渡り20-30cm程度のものしかないが,と言われ,それでいい,と答えた.その後,他愛のない会話をしているうちに,様子がおかしくなった.
相手の口調が,随分と弱々しかった.携帯電話のスピーカーにぴったりと耳をくっつけ,やっと聴き取ることができるような声だった.消え入りそうな声で告げられたのは,私に殺されるくらいなら自らの手で死んだ方がいい,ということだった.
至極当然な考えに思われた.それと同時に,焦った.そんなことは絶対にしてほしくなかった.心中の話を進めておいてそれはバカげているだろう,そう思われるかも知れないが,相手の死だけは絶対に望んでいなかったのだ,絶対に.やめろ,と私が何度か呼びかけた後,電話は切れた.
私は更に焦った.私が相手のために死ぬのは,私としては全く構わなかった.しかし,相手が死ぬことだけは何があっても避けたかった.
何度もかけ直し,遂に電話に出た相手は,とても言葉少なだった.さっきよりもか細い声で,途切れ途切れに,さっきと同じ事を相手は私に告げた.
相手は携帯電話を落とした.確証はなかったが,相手の携帯電話のマイクが,ごく近いと思しき硬く大きな音を断続的に拾ったことから,私はそう判断した.電話が切れた.
私は何度かかけ直したものの,相手は出なかった.
電話を切ったのだから,相手の意識はあったのだろう.もしかしたら,何もしていないのかも知れない.しかし,このまま何もせず,予定した時刻になって相手宅に向かい,もし相手が何かしていたとすれば.
自宅の電話番号を調べる余裕はなかった.もし見つけたとしても,それが転居前のものという懸念があり,そのリスクを抱えてでも時間を浪費するよりは,真っ先に行政を動かす方がいいと判断した.
私は確実に動転していた.救急ではなく,警察に通報してしまった.事情を話しているうち,無根拠な涙が流れた.無根拠だったが,流さずにいられなかった.警察とのやりとりを終えて数分後,消防から電話が掛かってきて,警察に話したこととほぼ同等のことを伝えた.既に救急も警察も向かっているとのことだった.消防との電話が切れてすぐ,また消防から電話があった.相手宅の詳しい位置などを伝えた.もうすぐ着くとのことだった.
十数分が経過した.無根拠な涙が止まらなかった.自宅から相手宅までは自動車で20分ほどの距離だったが,体が動かなかった.
相手は生きていた.傷一つ無く元気,とのことだった.
その後のことは,割愛する.要するに,いろいろ謝ってまわった.
以前,交際相手と心中するかのように話を進めておきながら自分だけ死のうと画策したが,失敗したことがある.
しばらく付き合ってきた中,直接顔を合わせているときはほとんど別れ話は出なかったが,電話やメールでやりとりするときにはかなりの頻度で(それこそ毎日と言っても過言でないくらい),別れ話が出ていた.それらはその都度立ち消えになっていたが,その日,メールから始まって,その後電話で数時間断続的にやりとりしたときは,タスクが溜まっていて時間もない中で焦りが出てきた.そのせいかどうかは分からないし,そんなことを理由にしたらそれこそ後ろ指を指されかねないが,ついには,別れるくらいなら死のう,と言ってしまった.すると肯定的な返答があり,そのまま話が進んだ.
心中について肯定的な返答が来るだろう事はある程度予想していた.勿論自殺願望はお互いあるはずもない.そこまで悲観的な生き方はしていないことは分かっている.また生活が貧窮していたわけでもない.曖昧な認識ではあるが,そういった事に関してあまりアレルギーになっておらず,既に自身としての死に対する認識がある程度構築されていたのではないかと思う.
そんなのはほとんど憶測で,それこそ身勝手だと言われかねないが,ここについてはあまり引っかかりたくない.そこについては,互いにあまり認識がずれているわけでもないと判断していいようだからだ.
前段落がどうやら詭弁に終始しているようにも思えるが,いずれにせよ,現実に心中するという話を進めた.話は次第に具体的になり,いつ行うのか,どのように行うのかということを話した.結果として,私が具体的に手を下すということが決まった.しかし,この,具体的な部分を話し合った時点で,私は本当に相手を殺める意思を持っていなかった.言い訳がましいかも知れないが,こう思っていた.相手に手を下すことはしない.相手の目の前で自殺する.
その意思を相手に打ち明けることはしなかった.何故か.また,相手の前で自殺する理由は何なのか.
まず,相手に打ち明けなかったのは,打ち明けると実行に際して何らかの障壁が生じるだろうと考えたことに起因する.その障壁が,私と相手,どちらによるものなのかは分からなかったが,そう判断した.
相手の前で自殺しようと思ったのは,端的には,私だけでは確実に死ぬ自信がなかったからだ.自らの手だけでは失敗するのではないか,との不安要素を最小限にしたかった.相手の手を借りようとしたのだ.勿論,相手が罪に問われないよう,私なりの考慮はした.直前まで自殺の意思を告げず,実行に際しても私が強引に包丁を握らせ,それにぶつかっていくという形を採ることにした.嘱託殺人や自殺関与,自殺幇助に問われなければいいのだが,と思い,相手が自殺を助長するようなことは一切しなかった,という旨を,手頃な紙が無かったためレポート用紙に記し,なくさないよう持ち歩いた.そんなことをするのであれば1人でやるべきだと言われそうだが,前述の通り,できる限り確実に実行したかった.もしかすれば,死ぬ直前くらいは愛する人と一緒にいたかったという甘え,我が侭があったかのも知れない.
包丁で自殺するという案は,比較的早期に決定した.以前にも,自殺について真剣に検討したことがある.そのときは「迷惑をかけない自殺」を主題にしばらく検討を重ねたが,結論は出せなかった.それも踏まえ,更に,実行のしやすさを重視すれば,最も失敗しがたいのは水死であったが,水死体になるのはできれば避けたかったし,実行しやすい水死というものが,何の問題もなく完遂される見込みがなかった.しばし考えた結果,家庭にある包丁を使うと結論づけた.具体的には,左胸の肋骨のあたりに刃を寝かせてまず2回.その後,痛みに耐えられるのなら,できればそのちょっと下に刺し,そのまま右に.殺人についての知識はほとんど無く,成功するかなど全く見当もつけられなかったのだが,当時は,素人の出来合いの案としては悪くはないように思えたのだから不思議だ.
話が逸れたが,いずれにせよ,私は自殺の意思を伝えないまま,相手との間では心中の話を進めた.
実行当日の朝,風呂からあがり,実行の準備を私は始めた.準備といっても,相手に非がないことを記したレポート用紙がコートのポケットに入っていることを確かめる程度だった.相手に電話をかけようと,携帯電話に目をやると,丁度相手から電話が掛かってきた.
いよいよか,というやりとりを少々した後,何か必要なものはあるかと問われ,私は台所の包丁を用意して欲しいと頼んだ.電話口から物音が聞こえたのち,刃渡り20-30cm程度のものしかないが,と言われ,それでいい,と答えた.その後,他愛のない会話をしているうちに,様子がおかしくなった.
相手の口調が,随分と弱々しかった.携帯電話のスピーカーにぴったりと耳をくっつけ,やっと聴き取ることができるような声だった.消え入りそうな声で告げられたのは,私に殺されるくらいなら自らの手で死んだ方がいい,ということだった.
至極当然な考えに思われた.それと同時に,焦った.そんなことは絶対にしてほしくなかった.心中の話を進めておいてそれはバカげているだろう,そう思われるかも知れないが,相手の死だけは絶対に望んでいなかったのだ,絶対に.やめろ,と私が何度か呼びかけた後,電話は切れた.
私は更に焦った.私が相手のために死ぬのは,私としては全く構わなかった.しかし,相手が死ぬことだけは何があっても避けたかった.
何度もかけ直し,遂に電話に出た相手は,とても言葉少なだった.さっきよりもか細い声で,途切れ途切れに,さっきと同じ事を相手は私に告げた.
相手は携帯電話を落とした.確証はなかったが,相手の携帯電話のマイクが,ごく近いと思しき硬く大きな音を断続的に拾ったことから,私はそう判断した.電話が切れた.
私は何度かかけ直したものの,相手は出なかった.
電話を切ったのだから,相手の意識はあったのだろう.もしかしたら,何もしていないのかも知れない.しかし,このまま何もせず,予定した時刻になって相手宅に向かい,もし相手が何かしていたとすれば.
自宅の電話番号を調べる余裕はなかった.もし見つけたとしても,それが転居前のものという懸念があり,そのリスクを抱えてでも時間を浪費するよりは,真っ先に行政を動かす方がいいと判断した.
私は確実に動転していた.救急ではなく,警察に通報してしまった.事情を話しているうち,無根拠な涙が流れた.無根拠だったが,流さずにいられなかった.警察とのやりとりを終えて数分後,消防から電話が掛かってきて,警察に話したこととほぼ同等のことを伝えた.既に救急も警察も向かっているとのことだった.消防との電話が切れてすぐ,また消防から電話があった.相手宅の詳しい位置などを伝えた.もうすぐ着くとのことだった.
十数分が経過した.無根拠な涙が止まらなかった.自宅から相手宅までは自動車で20分ほどの距離だったが,体が動かなかった.
相手は生きていた.傷一つ無く元気,とのことだった.
その後のことは,割愛する.要するに,いろいろ謝ってまわった.
以前,交際相手と心中するかのように話を進めておきながら自分だけ死のうと画策したが,失敗したことがある.
しばらく付き合ってきた中,直接顔を合わせているときはほとんど別れ話は出なかったが,電話やメールでやりとりするときにはかなりの頻度で(それこそ毎日と言っても過言でないくらい),別れ話が出ていた.それらはその都度立ち消えになっていたが,その日,メールから始まって,その後電話で数時間断続的にやりとりしたときは,タスクが溜まっていて時間もない中で焦りが出てきた.そのせいかどうかは分からないし,そんなことを理由にしたらそれこそ後ろ指を指されかねないが,ついには,別れるくらいなら死のう,と言ってしまった.すると肯定的な返答があり,そのまま話が進んだ.
心中について肯定的な返答が来るだろう事はある程度予想していた.勿論自殺願望はお互いあるはずもない.そこまで悲観的な生き方はしていないことは分かっている.また生活が貧窮していたわけでもない.曖昧な認識ではあるが,そういった事に関してあまりアレルギーになっておらず,既に自身としての死に対する認識がある程度構築されていたのではないかと思う.
そんなのはほとんど憶測で,それこそ身勝手だと言われかねないが,ここについてはあまり引っかかりたくない.そこについては,互いにあまり認識がずれているわけでもないと判断していいようだからだ.
前段落がどうやら詭弁に終始しているようにも思えるが,いずれにせよ,現実に心中するという話を進めた.話は次第に具体的になり,いつ行うのか,どのように行うのかということを話した.結果として,私が具体的に手を下すということが決まった.しかし,この,具体的な部分を話し合った時点で,私は本当に相手を殺める意思を持っていなかった.言い訳がましいかも知れないが,こう思っていた.相手に手を下すことはしない.相手の目の前で自殺する.
その意思を相手に打ち明けることはしなかった.何故か.また,相手の前で自殺する理由は何なのか.
まず,相手に打ち明けなかったのは,打ち明けると実行に際して何らかの障壁が生じるだろうと考えたことに起因する.その障壁が,私と相手,どちらによるものなのかは分からなかったが,そう判断した.
相手の前で自殺しようと思ったのは,端的には,私だけでは確実に死ぬ自信がなかったからだ.自らの手だけでは失敗するのではないか,との不安要素を最小限にしたかった.相手の手を借りようとしたのだ.勿論,相手が罪に問われないよう,私なりの考慮はした.直前まで自殺の意思を告げず,実行に際しても私が強引に包丁を握らせ,それにぶつかっていくという形を採ることにした.嘱託殺人や自殺関与,自殺幇助に問われなければいいのだが,と思い,相手が自殺を助長するようなことは一切しなかった,という旨を,手頃な紙が無かったためレポート用紙に記し,なくさないよう持ち歩いた.そんなことをするのであれば1人でやるべきだと言われそうだが,前述の通り,できる限り確実に実行したかった.もしかすれば,死ぬ直前くらいは愛する人と一緒にいたかったという甘え,我が侭があったかのも知れない.
包丁で自殺するという案は,比較的早期に決定した.以前にも,自殺について真剣に検討したことがある.そのときは「迷惑をかけない自殺」を主題にしばらく検討を重ねたが,結論は出せなかった.それも踏まえ,更に,実行のしやすさを重視すれば,最も失敗しがたいのは水死であったが,水死体になるのはできれば避けたかったし,実行しやすい水死というものが,何の問題もなく完遂される見込みがなかった.しばし考えた結果,家庭にある包丁を使うと結論づけた.具体的には,左胸の肋骨のあたりに刃を寝かせてまず2回.その後,痛みに耐えられるのなら,できればそのちょっと下に刺し,そのまま右に.殺人についての知識はほとんど無く,成功するかなど全く見当もつけられなかったのだが,当時は,素人の出来合いの案としては悪くはないように思えたのだから不思議だ.
話が逸れたが,いずれにせよ,私は自殺の意思を伝えないまま,相手との間では心中の話を進めた.
実行当日の朝,風呂からあがり,実行の準備を私は始めた.準備といっても,相手に非がないことを記したレポート用紙がコートのポケットに入っていることを確かめる程度だった.相手に電話をかけようと,携帯電話に目をやると,丁度相手から電話が掛かってきた.
いよいよか,というやりとりを少々した後,何か必要なものはあるかと問われ,私は台所の包丁を用意して欲しいと頼んだ.電話口から物音が聞こえたのち,刃渡り20-30cm程度のものしかないが,と言われ,それでいい,と答えた.その後,他愛のない会話をしているうちに,様子がおかしくなった.
相手の口調が,随分と弱々しかった.携帯電話のスピーカーにぴったりと耳をくっつけ,やっと聴き取ることができるような声だった.消え入りそうな声で告げられたのは,私に殺されるくらいなら自らの手で死んだ方がいい,ということだった.
至極当然な考えに思われた.それと同時に,焦った.そんなことは絶対にしてほしくなかった.心中の話を進めておいてそれはバカげているだろう,そう思われるかも知れないが,相手の死だけは絶対に望んでいなかったのだ,絶対に.やめろ,と私が何度か呼びかけた後,電話は切れた.
私は更に焦った.私が相手のために死ぬのは,私としては全く構わなかった.しかし,相手が死ぬことだけは何があっても避けたかった.
何度もかけ直し,遂に電話に出た相手は,とても言葉少なだった.さっきよりもか細い声で,途切れ途切れに,さっきと同じ事を相手は私に告げた.
相手は携帯電話を落とした.確証はなかったが,相手の携帯電話のマイクが,ごく近いと思しき硬く大きな音を断続的に拾ったことから,私はそう判断した.電話が切れた.
私は何度かかけ直したものの,相手は出なかった.
電話を切ったのだから,相手の意識はあったのだろう.もしかしたら,何もしていないのかも知れない.しかし,このまま何もせず,予定した時刻になって相手宅に向かい,もし相手が何かしていたとすれば.
自宅の電話番号を調べる余裕はなかった.もし見つけたとしても,それが転居前のものという懸念があり,そのリスクを抱えてでも時間を浪費するよりは,真っ先に行政を動かす方がいいと判断した.
私は確実に動転していた.救急ではなく,警察に通報してしまった.事情を話しているうち,無根拠な涙が流れた.無根拠だったが,流さずにいられなかった.警察とのやりとりを終えて数分後,消防から電話が掛かってきて,警察に話したこととほぼ同等のことを伝えた.既に救急も警察も向かっているとのことだった.消防との電話が切れてすぐ,また消防から電話があった.相手宅の詳しい位置などを伝えた.もうすぐ着くとのことだった.
十数分が経過した.無根拠な涙が止まらなかった.自宅から相手宅までは自動車で20分ほどの距離だったが,体が動かなかった.
相手は生きていた.傷一つ無く元気,とのことだった.
その後のことは,割愛する.要するに,いろいろ謝ってまわった.
2009/08/01(土)
みんな、泣いてる。とても静かに泣いてるみんなの姿を
僕ははっきりと感じることが出来るよ。
僕は暗闇の中に逃げ込むことで沢山の安息を得たし、
みんなは僕の暗闇を覗き込むことで、あるいは
僕の暗闇にしんしんと降り積もる雪のような悲しみを眺めることで
すこしだけ人を信じたでしょう。
だけどそれももうすぐ終わるんです。終わります。大丈夫。
2009/08/01(土)
僕はいつのまにか逃げることが人生みたいに思って
ずいぶん遠くの暗くて静かなところまでやってきたような気がしていたけど
本当はすこしもあの故郷の匂いから離れることは出来なかったと思う。
僕は今も遠いあの故郷にいて、夏の夜にふく風の心地とか
夕暮れが町を包み込むときの空気の触れ合いを少しも忘れていないし
むしろそれをいつも心の綺麗で優しい場所に暖めていた気がする。
2009/08/14(金)
こんばんは。僕です。
みんなには随分不憫な思いをさせてしまってとても僕は反省しています。
殺せ。俺も殺す。
そんな気分でしたから、僕がここにスレを立てるのはすこし大変でした。
人が人として生きることはそんなに難しいことではありません。
でも誰がそうしていますか?あなたですか?では僕もです!
2009/09/12(土)
こんばんは。僕です。僕は夢をみていました。
絶望だけの夢です。
太陽が死んで、明日のまた次の日も
そこに新しい一日が二度と訪れない世界にいて
僕は死んでいったジョニーや麻井、それからJのことを想っていました。
そうしている僕は、しかし何も感じず何も見ず、ただ世界が終ったあとのこの
風景にやっと時間だけが流れていることをかすかに意識することが出来るだけだったとも思います。
僕は過去と現在においてただそこにある時間だけが流れさったということを自覚することができたから、
今ここにいない彼らの過去にあった現在もまた確かに現在の過去として存在することを認めることができました。
夢の中にいた僕にはだからそこに彼らの生があることを認めることができたけれど、
その夢が醒めた今となって、かえって僕はまだ自分が世界の終ったあの日にいて、
それからすこしの時間にも流されず、ただあの突然の巨大な破壊の前に
焼け爛れた人々の死の壁の前に立ち尽くしたままなのかもしれないと思うようになりました。
みんな死んだのだ。そして僕だけがまだここにいて、こうしてただ振り返ることにおいてのみ生きているのだ。
僕はこうして過去の存在の、失ったものすべてを一つ一つ認めることにおいて現在の生と時間を生きているのだ。
僕は死んでいないのだ。だからこそ僕は死を認めるのだ。
麻井の死を、ジョニーやJのその死を。そしてあの破壊。彼らの生を、魂を簡単に粉砕したあの破壊を。
そして彼らの破壊された時間だけがそこに留まり、僕だけに新しい時が訪れたのだ。
だが本当にそうだろうか。彼らは死に、僕だけが生きている。そんなことが本当にあるだろうか。
あの恐ろしい破壊が僕の時間だけをさらい忘れるというようなことが。否、そんなことはないだろう。
僕はまだ、夢を見ていてこうしてここに過ぎていく時間も全て本当には存在しないのではないだろうか。
時間が止まった後そこに夢だけが、死の数だけの夢がそこにのこされているのではないだろうか。
僕も死に、彼らも死んだ。あるいは彼らが生き、僕だけが死んだということもできよう。
だが僕の夢がまだこうして続くのなら僕はただその夢を、夢の中の生に流されていようと思うのです。
2009/09/12(土)
みなさんこんばんは。僕です。おひさしぶりですね。
この頃は元気ですか、僕は元気です。
雨は降ったり止んだりといった感じで、
せっかくの休日なのにと言う人もあるかもしれませんが、
僕のほうは休日に降る雨のことが好きだし、その雨にしてもどうもこちらに気があるらしいから、
この静かな午後の雰囲気をいっそう穏やかなものにしてくれるし、
僕はそのなかでずいぶん落ち着いた時間を過ごしています。
それで今、パーラメントを聴いています。マザーシップ・コネクションです。
1976年、地球征服を企む宇宙人ジョージ・クリントン(本名不明)が
この音楽を人々の脳に直接流し込むことで
街を一瞬のうちにP-FUNKと呼ばれる興奮状態に陥れたという話ですが、
その威力は本当に凄まじく、
いまこうしてスピーカーから流れるボリュームを極力抑えた旋律ですら
僕の下腹部の奥に熱を与えそこからごりごりとした欲望が膨らむのを感じます。
アンニュイな休日の午後にはすこし強すぎるスパイスでありました。
2009/09/27(日)
痛みがある。随分苦しい気分でいる僕です。恥かしい気持ちだけが脳を満たしていて
独りでいないとどうしようもない気がするので僕は今日もそうしています。もしもそばに誰かいたら
やっぱり駄目になりそうです。気付いたら誰もいない生活が当たり前なので、人の声がうるさくて仕方ないし
それで怒りみたいな感情がどんどん溢れてきたときには、それがもしもこぼれ出したりしたらと思うと
やっぱり恐ろしくて仕方ないです。わからない間にとんでもないことをしていたりするんじゃないかといった不安が
あることと、もうイロイロなことが前とは違う風に見え始めていること。
良くなることが有るような気もしますが、それは記憶が褪せるのと同じように
ただ痛みを忘れているだけの気もします。忘れているのは自分だけでそれは決して許されること
ではないのかもしない。最初からわからないことが多すぎるし、
僕の知らないところで僕が撒き散らした破壊によって今おびえる僕はもうとても苦しい気分でいるのです。
2009/10/06(火)
すいぶん時間の進み方が変わっている。と俺は考える。
朝、と思っていたらもうすっかり夜になっているし、
秋だ、と感じたそばから冬だったりする。
そもそも俺は、過去と未来がこの瞬間とどういう具合に組み合わさっていくのだか知らんが、
こうやって生きていくにつれ、過去というのが次第にその体積を増加させ、
そして過去は、いずれ俺の現在と未来に与えられた全ての時間を少しも残らずに覆い尽くしてしまうのだろう。
それは始め、とてもゆっくりだったのに、今ではもう決して追いつけない速度になっているし、
そのせいでこの現在は、この瞬間はただ過ぎ去っていき、そこに自分が生きたという実感も無く
ただ過去という巨大な闇に飲み込まれていく。
とても速い。と俺は思う。それから、もう遅すぎる。と思う。
俺が歪んでいるのか、時間の方がそうなのか、
どちらにしても俺の精神は既にこの時間の速度を認めることが出来ないでいる。
2009/10/07(水)
精神の悪化が著しい。
このところずっと俺の背後に立っている男が俺の精神の自発的な破壊をもって
俺の完全な抹殺を開始する算段を企んでいることなどもあって、
俺はすこしも心を落ち着ける時がなく、
何者かがこちらの精神の崩壊の瞬間を窺っている様子もある。
そして俺は今日もこうして睡眠などに身を任せるような危険な状態を避け、
俺の抹殺を企てるもの、現在も俺の後ろに立っている男などを筆頭に
俺の精神を一刻も早く破壊せしめ、俺の存在と俺の時間の完全な抹殺を遂行しようとする輩から、
すくなくともまだ、こうしてかろうじて日常生活をぎりぎりで保てる段階に留まっている限りは
その手に安易に落ちることを拒否し続けることにしている。
しかしそれももう長くは続かないだろうことは、俺もそして俺を抹殺しようとする奴らにも
既に大方は了解されていることではある。
問題は、俺がその瞬間においてどの程度人間であるかという点にあり、
そのことが今の俺の最大の関心事となっているのである。
2009/10/07(水)
たしかいつだったかに俺は雨が好きだ好きだというようなことを言った覚えがある。
そのことは今も変わらない。俺は今も雨が好きで好きでそうしてその雨量は多ければ多いだけ好きで、
その時間は長ければ長く降り続くだけ俺の精神を安らかな状態に満たしてくれるから
俺は一層に雨を好きになるという按配なわけだ。
そしたらさっき、台風なんぞが来たる。なんつう声が耳に入ってきよったもんで俺、にたにたしたっきり外を眺めとった。
俺は雨が好きで好きだというようなことが、そのまま台風にも通じるんであって、
俺はベランダに静かに立って、そこから見える景色、家の前を流れる小さな川とその川の向こうにある小さな公園と
その向こうにある人家とマンションとそれから小学校の校庭と、もっとむこうの山々とに、
今も降り続く雨をこのベランダにも降りかかる雨にしとしととこの身を濡れそぼらせながら見とるわけだ。
そうして俺が恍惚とした表情で見とれておる間にもその雨は、次第に風を増し
雨量を増し、その一粒一粒の重量は益々に肥え、
俺のこの目の前に広がる人の気配のない空間に降り続ける雨の質感が
より重厚によりドラマティックに揺れるのを俺はもう、俺はもうここに俺の時間がただこの瞬間にだけはっきりと
流れその流れが雨の時間と混ざり合っていくのを感じているということなんよ。
つまり今夜だけは俺もこの精神に静かな安らぎを与えられるということなんよ。誰も俺を抹殺にかかるようなことはないんよ。
今日だけは、深く沈む闇の中から俺を監視する視線は消えるんよ。目を閉じてそして狂ったように振りつける雨の呻きも
ふいに静かになる雨の押し引きにもそのどこにも俺の精神に痛みを与える気配はないということなんよ。
2009/10/08(木)
休日のこと
朝、目が覚めて
たしか9時くらいだったと思います。
まず洗濯機を回して、
そのあいだとりとめもない空想に浸りながらストレッチをして、
部屋の電球を交換して、セロニアス・モンクを聴きなが小説を読みました。
しばらくして眠くなったので、本を閉じて眠りました。
目が覚めて、夜ご飯を食べにいって、戻ってきてお風呂に入ってから眠りました。
一体人生とはなんでしょうか。
2009/10/09(金)
Jっちこんばんは。
僕はニンテンドーじゃなくて時給780円の弁当工場に勤務していますけど、
高収入?なんすかそれ。幕の内とどっちが美味いの?みたいな世界ですね。
なんつって、来る日も来る日も目の前を過ぎ去っていく焼肉と筑前煮見てて
ああ、もうこんなに筑前煮ばっかりで人生うんざりだなってこともある俺だけど、
そこは俺、プロなわけで、なんだかんだ、すんげえ良い感じに盛り付けちゃったりするわけですわ。
だからこその焼肉弁当ラインなわけです。そこは俺の領域なわけね。俺の場所。超クール。
とかなんとか、この俺の人生だけど、まあそれ以外にも楽しみはいっぱいあるよ。
一体何に喜べばいいの?
ってそんなもん自分で見つけないといけねえにきまっとるだろが。
生きるっていうことは考えることだし、学び続けることだろが。
昨日より明日、明日より明後日の焼肉弁当がもっと美味い。それが人生だし、
今日の筑前煮、その煮汁が完璧な旨みを含むまで何回でも煮込む。
それが生きるってことなんちゃうかなあ。と思うけど、
たまにはやっぱり人生ってなんですか。って思う俺です。
2009/10/12(月)
昨日も、朝起きて、やっぱり、何かむなしいような気持ちでいた僕は、
お昼ごろになってご飯を食べて、
静かに流れていく川。それを眺めている間だけ、このむなしさも僕から離れていく。
と、そんな風に思いながら僕は歩きました。
しばらくしてベンチを見つけて、そこに座って本を読みはじめました。
堀辰雄の風立ちぬでした。ずいぶん綺麗な言葉たちが鴨川の水面に浮かび僕の心をさらさらと流れました。
原っぱには白人の家族がいて楽しそうにボール遊びをしていました。
その向こうのベンチには若いカップルが、そんな家族の様子を眺めて幸せそうに笑いあっていました。
空は気持ちよく晴れ、そこにうすい雲が流れています。ゆるい風の中には秋のぴりとする冷気を認めますが、
ふりそそぐ陽光の暖かさがそれを心地よい肌触りに感じさせます。
僕はベンチに寝転がって、本を読みながら、ときどき空を見上げ、うすい雲のそばに淡い空想をゆらしたりもしました。
そんな風にしている僕はいつのまにか眠ってしまったのだと思います。
ふと気付くと、すっかり陽は傾き、辺りは秋の気配に包まれ、周りにはもう誰もいませんでした。
ふらと起き上がった僕は、帰ろうと思いました。そしてまた歩き始めました。
途中のうどん屋さんで夜ご飯を食べました。そうしてまた電車に乗って帰っていきました。
家について、お風呂に入ってからからチューハイを飲みました。やっぱりいろいろ恥かしい気がして、
まだ誰にも会えない、と思いました。それはすっかり冷たくなった夜の風のせいかもしれません。
いろんなことが、駄目になり始めてから、もうずいぶんの時間が過ぎたようです。
2009/10/13(火)
告白します。
8月、私は毎夜モンスターハンター3ばかりやっておりました。
それは真夏の世の夢、日暮れを待っては無法残虐の限りを尽くす暴君と化した私、
気が付いた時にはカーテンの向こうが白々と輝き、
すっかり日が昇っていたというようなことも何度かあったほどです。
そんな風にして過ぎた9月のある日に、私はふと思い立ち
コントローラーを静かに床において、普通のサラリーマンに戻りました。
そして今、なにかがふいに私の内を過ぎたのです。
ああ、我が燃ゆる夏、灼熱の鉄槌を再びこの腕に。
誰か、一緒に狩りに行きませんか?HRはたしか30か40くらいだったと思います。
ハンマーを背負っております。テクニックはございません。ただ破壊を
振りかぶったハンマーが獣の脳髄を揺らします。
よろしくおねがいいたします。
2009/10/14(水)
僕にはさっぱりわかりません。
僕は日々その間を、あっちこっちに振れている人間です。
2009/10/14(水)
昨夜、私はこの苦しみから逃れるため酒に溺れ、そして苦しみの底でこの世界を強く呪いました。
バーモンド・キッス。いかにも私は、是をパクったことを認めます。
しかし今になって、私はその事実に対してただ一片の後悔もこの心に認めてはいません。
それは相対性理論という楽団こそが、
言わずもがな「地獄先生ぬ~べ~」の周到なパロディに過ぎないという事実を私が知るからです。
その楽曲の全ては、「鬼の手」を持つ小学校教師「ぬ~べ~」こと鵺野鳴介が生徒を守る為に、
妖怪や悪霊を退治する学園コメディーを、一話一話、楽譜の上に置き変えただけのものなのです。
であれば今、私がこうして、相対性理論をパクったという一つの現象は
はたして私をこうまで苦しめる理由になるでしょうか。
あなた達がいかに厳しく私を断罪したところで、私の心には今も清涼な風が吹き抜けるばかりなのです。
2009/10/14(水)
言わずもがな私は今夜、言わずもがなという言葉を多様しています。
繰り返す時間が私を言わずもがなの罠に誘います。
言わずもがな、私はこの罠を、罠と認めることなく、一度、そしてもう一度、
言わずもがな二度三度とその失態を繰り返します。
私はこの痛みをもったまま言わずもがな次の言わずもがなへと進みます。
すこし度が過ぎたようでう。今夜はすこし酔いすぎたでしょうか。
秋の風が頬の熱を奪い、私は風の王に嫉妬します。
これは現実の時間です。そして私の精神は今、確実にその強度を失っています。
2009/10/15(木)
本当のことを言うと、僕は文通がしたいのです。
こうして、誰とも無く世界の果てに向けて自分の精神を拡散させるのではなく、
確とした誰かに、己が胸のうちをひっそりと告白したい。
そうして僕は彼方にあるその存在に思いを馳せ、
ただじっと待ちたい。私はその時間を愛し、その距離を空想したい。
文はその遥かなる旅路の内に芳醇な感動を携えて私の心を狂おしく酔わすであろう。
2009/10/15(木)
わし今から自分の住所と名前を念じるから感じ取ったら着払いで送ってください。
替わりに高校のときに使ってた数Bの教科書送ります。
もし数Ⅲの方がいいとかだったら相談に乗ります。念じてください。
よろしくおねがいいたします。
しかしモンハンやろ言うても誰も乗ってくれへんし、
わしも寂しい男やなあ実際。
まあ、こうやって毎晩、部屋で独りビールのんで、絶命しかけた肝臓に毒の油塗り込むような人間なんぞ
そりゃ誰も相手にせんやろってなもんやけど、せやかてまだわしも人間の姿はしとるで。
徐々にやけどまあ顔は獣じみとるけどな。実際狂うように美しいで今のわし。
鏡にもずいぶんはっきりと狂気が写りこんできとるしな。そやしそもそも人の美しさなんつうもんは
ひっくり返してみたらこんなもんや。やっぱり腐りかけがうまいんやな。健康的なもんの美しさには
わしなんぞも興味ないわい。それはしかし生きとらんわな。なんの歪みもない美からは
人を狂わす色気はでえへんで。わし自分の妖気に酔いそうや。そやからまだ誰にも会うわけにはいかん。
人がおったらたまらんで、会うたら畢竟まぐわうことになるのはわかりきっとるからの。くわばらくわばら。
恐ろしいのう。生きることはずいぶん辛いことやのう。
徐々に言葉が離れていくようになった。
元通りにしなくちゃ。生きるんだもの私。
無理だ。もう本当に無理だよ。
駄目になるのがはっきりとわかる。
もうすぐだよ。一度は超えたヒューマンの境界線。
もう2度と見たくないあの地獄。いやだ。助けてよ。
酔ってしまったような気もするし、
かといって時間が歪むのを確かに判別できる程の理性は
確保されているような気もする。
すこしの間忘れていたことを思い出す瞬間が訪れる。
それは、最もおそろしい闇を見るのが溺れていく私だけではないからです。
私の周りにある人々をも同様に捉えて離さない深く濃い闇がそこにあります。
必死で手を伸ばすもの、私を捉えてその暗黒から救い出そうととするものそれら全て飲み込む
闇がそこにはあるのです。今、その闇の中に沈んでいく私にできることは限られています。
選択肢は、そこにある結末は。
肝心なのは位相なんだよ。
音波は空気圧が高い低いの変動を繰り返す波で、それを打ち消すには周波数が同じで空気圧の高低が真逆の波をぶつけないといけない。すると騒音の高気圧とノイズキャンセラーの低気圧(もしくはその逆)がぶつかって消滅するというわけだ。
ただ単に周波数を合わせるだけだったら、ヘタすりゃ両者が合成されて倍加しかねないし、周波数がずれてると低いうなり音が発生してこれまた不快。
だから、騒音源の波形を取り込んでキャンセラー側を真逆に同期させる必要がある。
それじゃマイクで騒音を取り込んで、空気の疎密を反転させてスピーカーから出せば万事解決じゃんよ、というわけで現在の機器があるわけだ。
そういうスピーカー連中は、鳩山に記者クラブ解放を求めていた連中が、どれだけの日にちを使って、どんな助言をしていたのかをまるっきり無視して言ってるんだもの。
自分で考えることを放棄して民主党に考えて貰おうって奴らをまともに相手にしちゃいけないよ。
すばらしい。
1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:09:51.58 ID:LhxRcEpV0
声がでかい ← 自分の声が聞こえないため
音漏れ激しい ← ボリュームを上げないと聞こえない
4 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:14:32.31 ID:yzLBWesF0
確かにそうかもな
あいつらと会話が噛み合わないもん
6 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:16:58.51 ID:LhxRcEpV0
声がでかい ← 自分の声が聞こえないため
音漏れ激しい ← ボリュームを上げないと聞こえない
話が噛み合わない ← こちらの声が聞こえない
9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:18:28.63 ID:KrF8bp+x0
「○○だよね」
「あ!?」
「だから○○だよね」
「あ!?」
難聴以外のなんだってんだ
13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:20:52.48 ID:LhxRcEpV0
声がでかい ← 自分の声が聞こえないため
音漏れ激しい ← ボリュームを上げないと聞こえない
話が噛み合わない ← こちらの声が聞こえない
「あ!?」といちいち聞き返す ← 一度で聞き取れない
8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:18:17.05 ID:NInqZsvl0
はあ?
っていうのはそのせいか
10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:19:38.18 ID:kCgEAL1LO
先生の指示も無視するもんな
15 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:22:18.35 ID:LhxRcEpV0
>>10 さんくす
声がでかい ← 自分の声が聞こえないため
音漏れ激しい ← ボリュームを上げないと聞こえない
話が噛み合わない ← こちらの声が聞こえない
先生の指示を無視 ← そもそも聞こえていないから
12 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:20:07.47 ID:NInqZsvl0
はあ?意味分かんねーwwww ←聴こえてない
16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:23:01.48 ID:KhsE+yavO
「お前○○だな」
↓
「あ?いまなんつった?」
確実に聴こえてないなこれ…
17 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:24:02.88 ID:6OIX+LuEO
18 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:25:25.33 ID:LhxRcEpV0
自分で書いてなんだけどまさかここまで信憑性の高いソースが集まるとは・・・!
声がでかい ← 自分の声が聞こえないため
音漏れ激しい ← ボリュームを上げないと聞こえない
話が噛み合わない ← こちらの声が聞こえない
19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:26:19.32 ID:LhxRcEpV0
なんかぼけたじーちゃんみたいに感じてきた
21 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:29:05.02 ID:NInqZsvl0
成績が悪いわけだ
22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 20:29:30.11 ID:bDGPa3H60
なるほど
23 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:42:47.84 ID:2qx4Gq+0O
やたら顔近づけてすごんで来るのも実はこちらの発言が聞き取れないからか!
24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:52:52.98 ID:uMlEWdep0
にらんでいるように見えるけど
唇の動きを見て、少しでも言葉を理解しようとしてる
なかなかいいやつらじゃないか
25 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/18(金) 20:55:09.87 ID:bDGPa3H60
族車の過剰な電飾は意思疎通のためのコミュニケーションツールだったのか
そう考えると違和感無いな
つまり、難聴なので言語の能力が発達せず、人間は言語を介し思考するので、知能にまで影響を及ぼしているが、周囲の理解が得られないためにより悪化していくと。
なんとかせねば。
引用元:
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1253272191/
宮崎正弘『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)
ウィグル自治区で殆どのモスク(イスラム寺院)は静謐そのもの、宗教活動は地下へ潜ったと見られる。
新彊ウィグル自治区は地理的にみると中国の西北に位置し、その面積は百六十四万六千八百キロメートル。じつに中国総面積の六分の一を占める。日本の総面積の四倍以上だ。
大半が砂漠である。だから中国は平気で核実験場としてきた。そのうえ新彊ウィグル自治区とカザフスタン、キルギス、アフガニスタン、パキスタンなどとの国境線だけでも五千七百キロに達する。
国境警備にも力点をおくわけだから長大な防衛戦において兵站の確保は並大抵ではなく、どこからでも駱駝は進入できる。ビンラディン一派に通じるイスラム原理主義過激派のゲリラが武器を中国国内に運びこむのもさぞ容易なことだろう。
極めて厳しい自然環境、乾燥した気候である。とても住み良い、暮らしやすいという環境ではない。砂漠では水の確保も簡単ではない。広大であっても貧しいこの地域におよそ千六百六十万人が住んでいる。そのうちウィグル族が約九百五十万人、言うまでもなく大半はイスラム教徒で、古くからマホメットを信仰している。
中世から近世にかけて現在の中国北西部を収めていた元は原住民のイスラムの信仰には介入しなかった。近代になっていまのカザフスタンから新彊ウィグルにかけて「東トルキスタン」が建国されると、復古を主張する地下運動が盛んになり、血の弾圧に屈しないばかりか、ますます闘志をかき立てて原住民は漢族に立ち向かうようになった。
新彊ウィグル自治区の党書記・王楽泉(山東人)はすでに十年以上(駐 執筆時点。いま現在は17年)に亘って、この地域の党書記として君臨している。
あたかも欽差大臣のごとく居丈高に振る舞っているが、九八年九月二日の記者会見で!)宗教の管理をさらに強める!)共産党員はイスラム寺院に行ってはならない!)女性が顔を隠すのを禁止する!)ウィグル青年が長期不在となれば「過激分子」とみなし「宗教の自由」を剥奪する、などと時代錯誤の対策を語った。
ウルムチへ入った。ウルムチ市内には西安やチチハルの清真寺のように迷路の奥の路地裏の、さらに裏にこじんまりと立つ小規模なモスクもあれば、福建省泉州のように街の真ん中に公園化した瀟洒なモスク(漢字で「清真寺」を一般的に充てるが、泉州だけは「清浄寺」という)もある。道路沿いに多くの信者が住んでいるが、各地で表向きの信仰生活がみられない。公安の警戒を懼れ、モスクに信者がちかつかないのだ。
冷戦終了直後に旧ソ連領のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンを歩いた経験があるが、随所で早朝から大きなスピーカーで「アッラー、アクバール」とコーランが流れているのを聴いた。
ホテルでこの聖なる音に目覚め、やおら窓を開けると、♪アラーは偉大なり♪
イスラム圏のまっただ中にいるという旅情がわき上がってきた。バグダットでもイスタンブールでも、エルサレムのアラブ街でもサマルカンドやタシュケントでも同じ情景があり、必ずそこに宗教音楽が付帯した。
しかし中国は違っていた。宗教音楽はおろか公然とした祈りさえないではないか。
一方でアルカィーダ秘密基地に「東トルキスタン独立」を掲げたイスラム原理主義過激派が訓練を受けていた。
寧夏回族自治省のみならず新彊ウィグル自治区のトルコ系住民のなかにイスラム原理主義が拡大している事態の到来は、五輪をひかえた北京中央にとっては鮮明なる脅威という認識である。
北京は「9・11事件」の事後処理に便乗し、ウィグル独立運動を「テロリスト」とそそくさと規定した。そのうえで米国に圧力をかけ、容赦ない弾圧を新彊ウィグル自治区で強化した。911テロ以降も一万人もの「テロリスト容疑者」を拘束、一部を拷問にかけた。
イスラムの動きに鈍感で敵対心を潜在意識に潜ませる欧米諸国は、ウィグルに関してはチベットに寄せる同情心と較べるとやや薄い。まして米国は02年八月にアーミテージ国務副長官を訪中させた際に「ウィグル独立運動」を中国が要求するまま「テロリスト」に認定し直した。イラク包囲網を実行し国連で武力容認決議を急ぐあまり米国は拙速にも北京と妥協したのだ。
(中略)
村全体がウィグル人だったりする農村では、当たり前のようにモスクに集う人々の姿がある。また西安のような大都会でも、中心部のイスラム寺院「清真寺」には人々の礼拝が絶えない。モスク近くでコーランのテープやCDを買おうと尋ねてみるが、一枚もない。一軒だけコーランの経文を売る店がトルファンにあったが。。。
あまりの弾圧ぶりに、宗教活動は地下に潜ったのだ。年齢によって差はあるが、人々の服装を見ても若者の一部はイスラム帽もかぶらず、ピアス、茶髪、ショート・パンツが珍しくない。ウルムチにさえディスコやカラオケがあって暴走族がいる。カザフ・カラーという独特の模様の民族衣装はかろうじて残るが、TVと新聞を北京に握られている以上、イスラムの主張は宥和的、微温的にならざるを得ないようだ。
ウィグル族の首都であるにもかかわらず、ウルムチには圧倒的に漢族が多い。動物園にはパンダ、市民の公園、遊園地も漢族の家族連れが目立った。いまやウルムチは「ウィグルのチャイナタウン」ではないか。
街の看板は漢字とアラビア文字が併記されている。ところが目立つのはカラオケ、瀟洒なビジネスビル。大通りに溢れるのはトヨタ、日産、ホンダの車である。
服装もあか抜けしたデザインが主流で、ウィグルカラーの民族衣装を着た人は少数派になりつつある。自転車が道に溢れ、商店の物売りたちの活気ある呼び声。バザールの喧騒。中国全土のどの都会にも見られる風景で、設計思想は似通っている。
最近のおびただしい漢族の入植は、この地にも工業化をもたらし、経済的な発展を遂げた。生活が少しでも豊かになれば物質的な欲望が果てもなく拡大するのは致し方のないものであろう。
都会のウィグル人の若者は懸命に北京語を学んでいる。言葉ができないと官として出世は望めず、給料も上がらないからだ。
中国沿岸部の人たちは競って英語か日本語を習得し、外資系企業に勤め、うまくすれば外国人の伴侶を見つけて外国籍をとりたいと考えているようにムスリムのあいだにも漢族と同化し暮らしを豊かにしたいと考える若い世代が増えている。むろん村の古老たちはこうした現象を苦々しく見ている。
~~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~~~~
「交河古城」は岩の大地を上から発掘して造った、世界でも珍しい彫刻都市である。
南北一キロ、東西が三百五十メートルの大地の真ん中を道路が貫いている。寺院、仏塔、住居跡が掘り起こされていて壮観であるが、どんな理由があってこんな苦労をして大地の中に都市を閉じこめようとしたのか。異民族の進入を防ぐための秘密都市だったのだろうか。
交河古城はそうした思惑の通りには行かず、漢族に滅ぼされ、城は徹底的に破壊され、新たに建てられた高昌城にとってかわられた。その高昌城とて後年には唐の大軍隊が侵略してきて滅ぼされた。数千年の間、仏教とイスラムの苛烈な戦いが繰り返された新彊ウィグル各地の仏教遺跡には、一つとして満足な仏画、仏像がない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒の手によってことごとく破壊されたからである。
嘗てタリバン支配下のアフガニスタンではヘラートに近いバーミャンの石仏をイスラム原理主義過激派らはミサイルで破壊した。「世界遺産」であれ、なんであれ狂信的教徒は他宗派を認めない。それは共産主義も同様である。
南に天山山脈を挟むクチャ、カシュガルともなるとイスラム教は俄然、強い色彩を帯びる。カシュガルのエティカル・モスクは中国のイスラム教徒のメッカだ。ここに巡礼を果たしたイスラム教徒は仲間の尊崇を集めるという。
現代の宗教の一つである共産主義は他の宗教指導者を逮捕し、拷問にかけ、北京に刃向かうと見れば次々と処刑した。モスクを物置にされたイスラム教徒の怨念はなまなかなものではなかろう。
血の弾圧を受けた新彊ウィグルの民は、チベットと同様にイスラム教への信仰をひたすら内面に押し込めた。その分、人々は心の中に蓄積された漢民族に対するルサンチマンを歪んだ形で膨らませだ。歴史的に蓄積されたこの反漢感情のエネルギーに火がつけば予想外の炎となって燃え広がるのは明らかである。
イスラムの歴史と文化は漢民族に蹂躙され、独自の文明は形骸化した。イスラム教は地下に息を潜めている。したがってもしイランのホメイニ師のごとく強靱な精神的指導者が現れたなら、かつてシャーを打倒したイラン革命のように漢族に対する一斉蜂起が起こるだろう。
(拙著『トンデモ中国 真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)からウィグル箇所をダイジェストしました。同書は全33省を寄稿した、おそらく日本で唯一の本です。アマゾン ↓)
少し前にセックスの猛者の話を聞いた。
その人の1日のセックス最高記録は20回だそうだ。そのような人もいるのはいるだろうと思うし聞いたこともある。ただ、直接、本人から聞くと、パンチ力がある。
また、友人から滋賀にある、とある有名風俗店の話を聞いた。そこでは、個室にカメラとスピーカーがついており、DJがそれを見ながら校内放送(?)を流すそうだ。たとえば「○○ちゃん、もっとがんばって」「お客さん、記録出しましょう。もっといける!もっといける!」というようなお祭りに近い雰囲気で。
その店の記録は1時間に13回前後(うろ覚え)だそうで、なんというかめまいがする。5分に1射精か、と。いや、おそらく、5分で1回いくのは可能だろう。しかし、すぐにリカバリして、続けるというのはいささかハードルが高い。
人によっては1分でリカバリする人もいるそうなので、その人たちは「選ばれし者」なのだろう。いわゆる「抜かずの3連発」などはこれに該当するのだろうか(語義しりませんが)。
このような愛すべき馬鹿な記録は、少なからずの人が挑戦していると思うが、平均値はどのようなものなんだろうか。さらにどうでも良い話だが、1日5回目以上の射精には精子が含まれていないというガセ感たっぷりの噂も聞いたことがあるがどうなんだろうか。
その辺りの是非を語るつもりはないし
語ることが出来るほどの知識も経験も無いわけだが
昨日、それに関連して面白い出来事があった。
Aさんは小学校から英語を教え(代わりに算数と理科と国語の時間を削る)
大学に入学するまでにはネイティヴスピーカーと英語で会話できる
というレベルまで国が指導するよう教育改革するべきだ! という意見の持ち主。
このAさんと、昨日食事をする機会がありレストランに足を運んだのだが
比較的若いバイトのウェイターが注文を復唱した際、
「以上でよろしかったでしょうか?」
という、聞く人が聞けばパブロフの犬の如く"噛み付く"言葉を口にしてしまったのだ。
Aさんはウェイターが下がった後に、案の定言葉の乱れについて嘆いていたわけだが
そんなことはこの際どうでもよく、この「以上でよろしかったでしょうか?」
という言い回しは案外興味深いと思う。
「以上でよろしかったでしょうか?」
という言葉に違和感を感じる人は、"かった"という部分に反応して
「よろしいでしょうか」に訂正してほしいと感じることが多いようだ。
だが、"かった"という過去形を持ち出すのは、英語の感覚から考えると結構自然な発想で、
過去形という時制をして、現在のことであっても相手との距離感等をかもし出す事で
丁寧婉曲の表現として提示することが出来る。
現代では、どんどんと英語圏の文化が日常に取り入れられているし
そういうものに敏感な若い人達ならば無意識的に敬語表現の一環として
「よろしかったでしょうか」と口に出してしまうのは必然的なことじゃないかと思ったりした。
そう考えてみると他にもいろいろと思い当たる節があって
「私的には~」→「I guess」
「ていうか」→「or(should I say )」
みたいに、若者言葉というのは英語の感覚を反映していることが多いように感じる。
恐らく今以上に日本語は乱れていくと思う。