2009-06-19

小学校英語を教えろと主張する人が、日本語の乱れを嘆いていた

小学校から英語教育を施し「話せる」英語を習得させるべきだ

という意見を、自分の周りでは結構よく耳にする。

その辺りの是非を語るつもりはないし

語ることが出来るほどの知識も経験も無いわけだが

昨日、それに関連して面白い出来事があった。

Aさんは小学校から英語を教え(代わりに算数と理科国語時間を削る)

大学に入学するまでにはネイティスピーカー英語で会話できる

というレベルまで国が指導するよう教育改革するべきだ! という意見の持ち主。

このAさんと、昨日食事をする機会がありレストランに足を運んだのだが

比較的若いバイトのウェイターが注文を復唱した際、

「以上でよろしかったでしょうか?」

という、聞く人が聞けばパブロフの犬の如く"噛み付く"言葉を口にしてしまったのだ。

Aさんはウェイターが下がった後に、案の定言葉の乱れについて嘆いていたわけだが

そんなことはこの際どうでもよく、この「以上でよろしかったでしょうか?」

という言い回しは案外興味深いと思う。

「以上でよろしかったでしょうか?」

という言葉違和感を感じる人は、"かった"という部分に反応して

「よろしいでしょうか」に訂正してほしいと感じることが多いようだ。

だが、"かった"という過去形を持ち出すのは、英語感覚から考えると結構自然な発想で、

過去形という時制をして、現在のことであっても相手との距離感等をかもし出す事で

丁寧婉曲の表現として提示することが出来る。

現代では、どんどんと英語圏の文化が日常に取り入れられているし

そういうものに敏感な若い人達ならば無意識的に敬語表現の一環として

よろしかったでしょうか」と口に出してしまうのは必然的なことじゃないかと思ったりした。

そう考えてみると他にもいろいろと思い当たる節があって

「私的には~」→「I guess」

「ていうか」→「or(should I say )」

みたいに、若者言葉というのは英語感覚を反映していることが多いように感じる。

小学校から英語を「正しく」「使える形で」教えていくと

恐らく今以上に日本語は乱れていくと思う。

早期英語教育の必要性を訴える人は、日本語の変異を受け入れられる器が必要だろう

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