はてなキーワード: サザエさん時空とは
いつまでも創業者が出しゃばっていたら後継者も育たないし……とかいう話では全然ない。
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久しぶりにテレビでポケモンを見た。3歳の息子が見ていたからだ。
キチンとアニメを見た事はほとんどないが、初代のポケモン(緑と赤)が発売された当時に11歳だった僕はご多分に漏れず、ずぶずぶに嵌まってポケモンをやりこんでいた。
すごく楽しかったし、友達とも興奮しながら語り合ったりしていた。
ただ、続編の金銀が発売される頃にはもう中三とかになっていてポケモンどころではなかった。
アニメもいつから始まったのか覚えていないけど習い事や部活でアニメを見るヒマはなかった。
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だから僕にとってポケモンのアニメと言えばピカチュウが人気なんでしょ、くらいしか認識がなかった。
で、今だ。
僕は驚いた。
クレヨンしんちゃんやアンパンマンやドラえもんの様にサザエさん時空とは違う、未だに原作ゲームが発売され、キャラやモンスターが追加されるなかで、拡大する世界でピカチュウが揺るがず真ん中に立ち続けている。映画版もスポットを見る限り、ピカチュウが主役だろう。
サトシ?飼い主の方はなんか同格キャラが増えて後ろに下がった風に見えた。
僕はこれを決して批判しているわけじゃない。
『ピカチュウ、10万ボルトだ!』で万事解決って水戸黄門みたいでいいな、とも思う。
ゆく川の流れは、ではないが、いつだって新規視聴者は数年で去り、また新規視聴者が視聴するのだろう。
こりゃ、100年後も10万ボルトあるぜ。
ずっと先に孫ができても共通の話題ができそうで心強い。
トム・クルーズ良い演技してるし。
それはさておき。
広義と狭義という、広い狭いじゃ無いと思うなあ。
全くの極悪人から、正義のヒーロー、金にがめつい商売人、ハードボイルドな男まで、幾百通りのロールプレイが楽しめる、そんなゲームなのです。だから、一旦メインシナリオをクリアしても、今度は別のロールプレイで遊びたくなる。
このように、「ループもの」と言われる様な作品も、「ループ自体に楽しみがある」か「ループを繰り返すという手段によって、最終目的が達成される」という二つの類型があるのではないかと、僕は考えるわけです。なぜかゼロ年代には両者一緒に「ループもの」と同一視されてきたわけですが、しかし「ループを手段とするか目的とするか」で、「ループもの」は全く二つに分かれるのです。
やっぱ、「ループもの」って巨大なくくりがあって、それを2つにワケるって話をしてるから、絞り込みとは違うと思うんだよね。
で、そもそもループものって言われがちだけどループじゃないもの入れてねーかなって話。
サザエさん時空は、不老ものであって、ループものとして対立軸に持ってくるの変だと思うのよ。
うる星やつら、ドラえもん、クレヨンしんちゃん、ケロロ軍曹、銀魂……なぜこれらの作品が好きなのかといえば、それは「ループしているからこそ、その一回一回の中でハチャメチャに面白いことが起きて、世界の豊かさを垣間見ることが出来る」からです。
で、そのハチャメチャしても次の日にシレッとそこにいる代表格である両津勘吉と部長の関係ってさ「ループものだから」じゃ無いだろ。
だから基の記事の「ループものに2種類あって、おれは片方が好きでもう片方が嫌いだ」って、なんか変な気がするんだよね。
上位目標のために繰り返し作業をするのが下らないって主張にループもの持ってくるのまでは判らんでもないが、テーマは逆の作品が多いと思うんだよ。
映画版の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」とか細田守版の「時をかける少女」とか、「一回こっきり」がメインテーマになってるだろあれ。
小説の「エンドレスエイト」になると、ループは悪いものとして描かれてるわけだし。
漫画の「はるかリフレイン」とか、ちと変化球の作品もなくは無いわけだが。(目標のためにループするが、ループそのものが主人公救済の手段になってる)
ループ自体に楽しみがあるってのは、個人的には退廃的な趣味だと思うんだよね。どっちかというと後ろ向き。
で、その退廃的な『幾百通りのロールプレイ』を、超楽しい→飽きた→抜けだせねえ→前向きに生きるか→ハッピーエンドとやったのが
かの有名な映画「恋はデジャ・ブ(原題Groundhog Day)」なわけで。
んで、CGコンプの為に繰り返し遊ばせる仕組みのゲームがくだらなく感じるってのと、
最終目標のためにループを続けて経験値を蓄積していくってのと、
全部違うと思うんだよね。
まあ、「ビューティフル・ドリーマー」は「学園祭の前日がループする」事を通じて
「不老で繰り返し続く日常(サザエさん時空)」のメタ批判をしてるって構造だから、微妙ではあるんだが。
うまくまとまらんが、基記事って、なんかこう「何をしても『日常』が保証される」ことに対する憧れに見えるんだよね。
だからたぶん不老もの(基記事いうところのループもの)である漫画「並木橋通りアオバ自転車店」は、基記事の人ダメだと思うんだよね。
アレに出てくる主人公のアオバは小学校4年生のママ変わんないけど、描かれる日常は、取り返しがつかない人生の話ばっかりだし。
あれは、(広義の)ループものは「サザエさん時空やゲームの繰り返しプレイ」と「(狭義の)ループもの」とに分けられる、という記事だろ?
ちなみに「オール・ユー・ニード・イズ・キル」は原作だとループ脱出を目指す系でもある。
というか、「サザエさん時空」に代表される、主人公たちが歳を取らないのはループものじゃ無いと思うんだよね。
もっと極端なことを言えば、ループとして一緒くたにされがちな物語の類型には、以下の5種類があると思うわけだよ。
それぞれ結構違うと思うわけだよ。
これが、SFに代表される時間ループものなんかでの主流だよね。
最近(?)の作品だとオール・ユー・ニード・イズ・キルなんかが典型例で、映画版もかなり良いよ。
何らかの理由でループに巻き込まれた主人公が、ある目標を達成しようとするのが基本。
映画の「ミッション:8ミニッツ(原題Source Code)」は、結構特殊なんだけど、まあループものだね。
オッサンが多いはてな村だと、「素晴らしき哉、人生!」の方が通りがいいかも知らん。
目標達成型に似てるんだけど、「ある瞬間は二度とは訪れない」という逆説的な下地があるものが特徴。
元々コレを書こうと思ったきっかけの以下で言うと
なぜかゼロ年代には両者一緒に「ループもの」と同一視されてきたわけですが、しかし「ループを手段とするか目的とするか」で、「ループもの」は全く二つに分かれるのです。
そして僕は、「ループ自体を目的とする作品」に、「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」を持つための、重要なヒントがあるのではないかと、そう考えるのです。
ループが目的の主人公が、途中からループが手段になるものも多いね。
乗り換え可能な宿命という点で見れば、映画「バタフライ・エフェクト」も似ている。
主人公たちの修学旅行土産の木刀が、既に部室に飾ってあることを不思議がるシーンが有る。
これをループものとして分類するのは雑だと思うんだよね。
なぜなら、長期連載の都合として主人公たちは歳を取らないけど、劇中世界は変わっていくから。
象徴的なのが、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の日暮熟睡男。
初登場はモスクワオリンピックが行われた1980年で、ロンドンオリンピックの2012年とか32年後だぜ。
まあ、実は不老ものにも2種類あって
ルパンは結構無茶な終わり方(宇宙船登場)とかあるし、部長が派出所吹き飛ばすシーンとかありがちだが、
原作者である青山剛昌はサザエさんと同じって言ってたらしいけど、ちゃんと時系列としては進んでるんだよね。
大抵の長期連載の漫画や小説はこれで、主人公たちは歳を取らないけど、物語は進んで、たまに歳を取る。
みんな大好き「美味しんぼ」もこれ。
世相を取り入れつつ長期連載で主人公たちが歳を取ると、どうしてもギャップからこれになる。
コナンがいつまでも公衆電話使ってたりとか、サザエさん達が毎年昭和44年を繰り返してるなら確かにループものだけど、
主人公たちが不老であることと、ループしていることは、必ずしも同一ではない。
こち亀の両さんが戦中生まれ、戦後生まれ、いつ生まれたか曖昧と変化があるように、日常系の設定変更は致し方ないものもある。
また、美味しんぼのように、歳は取るものの世相を取り入れつつ連載をする都合で、物凄く歳のとり方が遅い物語もある。
作品世界のすべての人間が不老だとループものだと錯覚しやすいが、それは違うだろう、と。
とは言えこれも単なる分類の一つなので、「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」をみんな観ろよ、で締めたいと思う。
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
Twitterに流そうと思ったけど、長すぎてうまくまとめられなかったからここに流す。
始めてこういうの書くから駄文になるのは確実だけど、やらせてください。かねてからの夢だったんです。妄想が核融合で爆進する!
「永遠の巫女」という曲について考察してみる。第一作目「東方靈異伝」の第1面から5面、ゲームをプレイすればテーマソングを除いてまず最初に聴くことになる曲だ。それはつまり、まさに東方project最初の曲ということになる。
ではなぜ、最初の曲なのに「永遠の巫女」なのだろう。私は、ZUNはこの曲に大きな思いを込めていると思う。(実際にそんなことを述べていたこともあったりする)
ちなみに、この曲はいくつかアレンジがあるが、新しくなるにつれて暗くなる印象を持つ。
かなり初期の作品だが、この曲を聴かずに東方は語れないと思う。是非聴いて欲しい。
曲名の「永遠の巫女」を霊夢のこととする。ヤメテヨ。ここを「博麗の巫女」と捉えたら完全に別の意図になっちゃうヨ。その解釈もありかもしれないけど、ここでは一応霊夢一人ということにする。
ここで考えたいのが、幻想郷の寿命のこと。二次創作で最も多いネタといっても過言ではないだろう。「霊夢のいる幻想郷」は他の妖怪や幻想郷にとってほんの一瞬。すぐに寿命が来る生き物としてZUNは人を表現する。
けど、ZUNは「霊夢のいる幻想郷」という、まさに「一瞬」をずっと映し続けている。どう考えても俺らの感覚では10年は経ったのに、向こうはサザエさん時空間が流出しているかのごとく少女は少女のままだ。 時に小町、貴方はこんな経験がないだろうか?
私はペットを飼っている。私はここ数年間ずっとこいつと散歩している。毎日毎日、こいつはよく飽きないものだ。俺は飽きた。
そこからは「永遠」を感じることができる。こいつとずっと毎日散歩をし続けるんだろうと確信する。
だが現実はそう甘くない。こいつも、今年でシニアの仲間入りだ。最近腸に異常をきたして入院した。 私は、こいつが生きている時間は見る側によっては一瞬にすぎない。永遠は一瞬で終わるものだ、と感じた。そんなときに永遠と一瞬の境界はなくなる。
「一瞬」と「永遠」は両立できるものだ。私は、神主はそのことを表現するために今までずっと「霊夢のいる一瞬の幻想郷」を表現してきたのではないだろうかと思う。そして、これからもずっと彼は表現し続けると思う。酒と共に。
それに、幻想郷は常識的な概念が通用しないという点も深く考える所がある。幻想郷には、一瞬を永遠に変える力もあるのかもしれない。そういえば、似たような名前の程度の能力を持ったお姫様もいたような気がする。
そこでこの曲。妖怪は人間より遥かに長生きという設定は、靈異伝の時点であったのだろう。更にこの作品は1作目。いくら神主といえど、人気が出るか多少は不安だったと思われる。ゲーム自体にも瞬間の儚さを感じられるこの作品の最初の曲から、ZUNの「永遠」という言葉の解釈を伺うことができる。須臾は永遠の始まりであり、須臾こそが永遠なのだ。東方projectの主人公は儚く舞い続ける。
んー、なんかこの話色々論じられてそうだけど
面白そうなんで絡んでみる。
まず、ロボットアニメではない派の言い分はこういうことだ。
ドラエモンは「愉快な人外」であるということ。これはオバQやハットリ君といった
同じ構造を持つ作品、「ケロロ軍曹」に留まらず「ラブやん」なんかも系譜に入ってくると思う。
つか、この系譜はあり過ぎて最早収集がつかない。人間以外のなにかがポンと現れて
現実と非現実との橋渡しになる作品は山ほどある。つか、これの始祖はドラえもんじゃないよね。
俺がふと考えた限りでは代表作はおそらく「ファウスト」だ。
要するに「愉快な人外」というのは、メフィストフェレス的なものなんだろう。
これが重要なのは、「通常の世界に住む主人公」を「非現実の世界」へ橋渡すこと。
この物語構造上の形式は「ロボットである」という事実よりずっと重みがあるだろうなぁ。
ドラエモンは「愉快な人外」であれば話が成立するけれど、「ロボット」である必然性には乏しい。
「鉄腕アトム」は最初から「未来」の話であり、「アトム」が現実と未来を橋渡しているわけじゃない。
ロボットである、というのはキャラクターにつけられた属性であり、「オバケである」とか「忍者である」と一緒で
物語の形式上の大きな意味を持ってはいない。だから、あくまで形式の話をすると
ドラえもんは「ロボットまんがではない」って結論になるんじゃなかろーか。
もちろん「ロボットである」ことに力点を置いて論議することも可能だろうし
ドラエモンがロボットであることから始まる系譜、あるいはそこにいたる系譜ってのも
頑張れば作って作れないこともないけれど。
あともう一つ。ドラエモンが「ジュブナイル」であるとか「ビルディングス・ロマン」であるって議論も可能だけど