はてなキーワード: ヒューマニズムとは
アンチセクシャルとかボーダレスヒューマニズムとかに解明すればいいのに。
たとえば「ハゲの人権を主張する会」が結成されたとして、そこにブルース・ウィリスが女侍らせてやってきて「ハゲだからお前らがモテないのではない。軽んじられるのではない。お前らがお前らだから、お前らがハゲていることさえ嘲笑の対象となるんだ(日本語訳)」と言われたらもう何も言い返せないじゃん。
でもそれを「頭髪の有り様に余計な価値観を持ち込ませない会」にしたら、リーゼントとかサザエさんとかスチールウールとか色んな奴らが敵になり味方になりの大戦争に巻き込まれるリスクはあるけど、真の平等を人類みんなで勝ち取れる未来への道がようやく開き出す訳じゃん。
百田叩きも百田擁護もあんまりうまくのれない。楽しめる感じがしない。
昔さ、缶コーヒーのおまけにちっちゃな飛行機のプラモがおまけについてて、コンビニの店頭でその映画がやってるっていうのを知ったんだ。なんかそれが永遠のゼロっていう話題作っていうか話題にしたい作だってのがそれでわかった。
で、飛行機の戦争の実写映画なんていまどき作ってるんだなーっていうの気になって見に行った。注目のベストセラー作家らしいってのは見る前には知ってた。
ところがストーリー、なんか微妙にちぐはぐだった。なんか雑なんだよなーって思った。
なんかやっぱ第二次世界大戦をテーマにするとちょっと左より中道の戦争はいけませんよ路線になっちゃうんだよなーって思った。
主人公ぽいのが現代パートで一人、戦争パートで一人出てくるんだけど、戦争パート主人公のゼロ戦乗りは周りに流されない博愛なヒューマニズムあふれる戦後民主主義っぽいメンタルなのね。命を大事にする。でも一応ちゃんと仕事(戦争)はする。仲間を大事にする。戦友と一緒に戦って戦って、最後は特攻機の訓練教官にさせられちゃってたくさん学生を特攻させてそれに耐えられなくてメンタル病んで自分が特攻してエンディング。まあ期待されるとおりの戦後の反戦映画っぽいよね。
ところがすごい邪魔なのがそのゼロ戦乗りの足跡をたどろうとして色々調べて回る青年の現代パート。まんまネトウヨっていうか旧軍オタ初級編みたいな痛いムーブする。めっちゃ邪魔。かなりずっとイタタ状態が続く。合コンで戦争の話持ち出して難色示されたらキレるとかなんなの君は。ゼロ戦乗りの主人公の方が同席してたら絶対たしなめられるぞ君。現代パートいらなくね?邪魔じゃね?何が言いたいの?全くかみ合ってないよ?
映画を見て、私はてっきり百田って左の作家なのかなーって思ってた。
そしたらね、右で有名な小説家なんだって。右の論客(笑)なんだって。ええー。あんなに左っぽいストーリーだったのに?なんかネトウヨはキャラにはいたけど。
単になんかすげー雑なだけなんだなーって。不必要に注目されたり取り巻きがいるのが自分にとってはだいぶ不思議だけど、すごい雑なことをずばっと意味なく言い切ると信者出てくることがあるってよくあるやつかなって。
子供ができるできないなんて、運不運、生まれつき、いろいろな面がある。本人たちの望みとすら無関係であったりも。
だから、子供がいる人を優遇しよう、という話はいいが、子供のいないカップルの待遇を下げましょう、という意見には、残念だが賛成できないな。
これは安っぽいヒューマニズムと言わざるを得ない。
以下の様に書き換えても賛成できるか?
仕事ができるできないなんて、運不運、生まれつき、いろいろな面がある。本人たちの望みとすら無関係であったりも。
だから、仕事ができる人を優遇しよう、という話はいいが、仕事のできない人の待遇を下げましょう、という意見には、残念だが賛成できないな。
世の中結果がすべて。
これ現代だからすごく悪人みたいに思えるだけで、日本でも明治~戦前とか閉鎖的な田舎じゃ貧困ゆえの殺人(子供の間引き)とか普通にあったし、実行者の多くも平然と世の中に溶け込んで生活してた。
坂口安吾のエッセイには自分の子供を殺した話を平然と書いてきた農民作家の話があるし、宮本常一編著の『日本残酷物語』じゃ人命尊重ヒューマニズム何それ系の実話(農村の水争いで死者多数、農村の落ち武者狩り、明治期のブラック企業の詐欺雇用実例集etcetc)が山ほどあるからな。
重要なのは、そういうことやってた奴も友人や家族の前じゃ普通に過ごせることだ。そら未開地域の首狩り族だって普通は身内は殺さん、戦争時もそう。
逆に言うと、そういう人たちこそが小人を見たくないんです。『かわいそうだから』っていう方便を使って、まさに『見せかけのヒューマニズム』ですね」
まさにあなたが今してることですよね。
「かわいそうだから」。
今なおアダルトビデオや風俗産業で女性を搾取することを誰も止めない。合法的だからOKと言ってのける。
嘘で塗り固められた国に住む哀れな人達に、救いがあらんことを願う。
「「誰が小人を殺したか?」小人プロレスから見るこの国のかたち」
http://news.livedoor.com/article/detail/4121363/
一部抜粋
「日本のテレビの中では自主規制というんですか、そういうことをやり続けていた。『8時だョ!全員集合』(TBS)でも、小人が登場する回はあったものの、投書が来たらそれで終わりです。
『どうしてああいう人を出すんだ』『ああいう人を笑い者にするんじゃない』って。小さな芸人の白木みのるさんが言っていたんですが、
逆に言うと、そういう人たちこそが小人を見たくないんです。『かわいそうだから』っていう方便を使って、まさに『見せかけのヒューマニズム』ですね」
それはウヨサヨ以前の単なる相対主義(あるいは冷笑主義)かなあ。
実際に、世界は残酷でバンバン人死ぬ系の話だと政府権力も無力に描かれるからファシズム的ロマンも成立しがたい。
そういう世界観だけどハッピーエンドを目指す作品だと、世界は残酷だからこそ助け合いのヒューマニズムが必要って話になるし。
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その手の作品だと、たとえば『がっこうぐらし』はウヨ的ともサヨ的とも言えん、ただのサバイバル話。敵は人間ではなく疫病(自然災害)だから。
元祖の映画『ゾンビ』のアナーキーで無法な廃墟の風景は、ベトナム戦争敗北後のアメリカの、一種の「平和で豊かな強国アメリカへの幻滅」が背景にあるとか言われるけど。