はてなキーワード: 循環器科とは
起きたらもう始業時間だった。
営業だから多少融通は効くけど、連絡なしで遅刻はさすがにまずい。
ごめんなさい。
上司も先輩たちも優しいけど、原因分からないけど体調不良でって言ってたら、
「私が悪いの?!会社が嫌なの?!」って言われたけど、私はその上司が好きだし会社も楽しいのに。
先日内科でだけど、メイラックスとルボックスとワイパックスを処方されて、弱いって聞いたけど普段薬飲まず効きやすいのかすごく眠くなってしまう。
生命保険のことがあるから、精神科とか心療内科に通えない。通えないから、なんでこんななのか分からない。
ぼーっとして、何もしたくない。文字を読んでないと不安だから、まとめとか小説とかまんがを読むけど楽しくない。前は楽しかったゲームも面白くない。胃がむかつく。たまに動悸がある。循環器科では何もなし。横になったものを縦に直せない。きちんとできない罪悪感でいっぱい。
ただの怠け者なんだろうか?
うつっぽいけど、過食過眠気味。
まるで豚みたいだな、と思う。
恥ずかしくて死んでしまいたい。
長年悩まされてきた不整脈が、ほぼ完治してきたので、自分なりの方法を書きます。
もし、不整脈に悩まされている方がいましたら、参考になれば幸いです。
■発症
のように、食い気味の拍や、本来は休符の場所に拍を入れる感じ。
今まで、ひどい風邪をひくとたまに不整脈が出ることがあったので今回もそれかな?と思ってたら、一週間続いたのでこれはよくないと思い病院へ。
■最初の通院
医者曰く、「よくある病気である。基本的には対症療法しかない。カテーテルアブレーションというのもあるが、そこまでの症状ではなく、普通に運動もできる。なんなら私も不整脈なんだよ」ということを言われた。
最後の言葉は、ちょっと医者としてどうなんだ?と思ったけど、結局これといった解決策もなく病院をあとにする。
■運動をしてみる
対策として、あえて運動をしてみた。
走ってて、最初は胸に違和感があったけど、ある程度激しく運動をすると胸のつかえが取れる感覚を覚えた。
その後しばらくは、不整脈が出なくなった。
なんだ、ただの運動不足か、と安心しきってたら数日後あっけなく再発。
また走ればいいやとしばらく放置したのち、再度ジムに行って激しく走ってみたものの、何と不整脈持続。
軽く焦り始める。
■二回目の通院
つまるところ、この手の不整脈は往々にして精神の問題から来るもの、とネットには書いてあった。
確かに、当時の自分は悩める子羊で、仕事の事や将来の事、家族の事など、今となれば「やりゃいいだろ」というような細かいことまで悩んでおり、
それが原因だという自覚があった。
なので次の一手としては心療内科に行ってカウンセリングを受けることにした。
これが解決すれば不整脈も治るかなと足繁く通った。
結果、悩みの一つである将来の事に関しては、転職をしてみようという決意に至り、活動をすることにした。
■サンリズムという薬
直接療法ではないが、症状を軽減してくれる。
仕事に集中できるためしばらくの間服用を続けた。
こんな状態の最中、転職活動を行った俺すごい、と一応自画自賛もしとこう。
加えて、こんな状態でも日々の通院や転職活動を容認してくださった前職の関係者の方に、ホントに御礼申し上げます。
■三回目の通院
転職を果たし、新たな地に移り住む。
さすがに三回目となると、こっちとしても説明も慣れたもの。
自分で「期外収縮」だと言うと、医者もあまり関心がないのか、たまたまその先生が専門外なのか、あまり親身になって聞いてくれなかった。
「あまり気にしないことですよ。運動もほどよくしたほうがいいです。悩みすぎないように」
という、俺でも言えそうな言葉をもらい、何となく釈然としないが薬をもらうためにしばらく通院。
■薬への耐性
薬も服用を続けると、体に耐性ができてしまって、なかなか効かなくなってきてしまった。
成分の密度が濃いワンランク上の薬をもらうこともできたけど、いたちごっこのようにまた効かなくなるだけなので、もう服用をやめた。
その頃には、多少の諦めもあった。
■不整脈が出る周期
説明がものすごく難しいけど、胸のあたりにドーンという深い重みが襲ってくるような感覚、一瞬の焦り、息が詰まる、のような体験をすると、翌日には不整脈の激しさが増す。
かといって、打つ手はなかった。もうカンセリングも受けたし、また受けても同じかなと。
ただ、解決策は徐々にわかり始めてた。
一般的に不整脈の原因の一つとして「自律神経失調症」があり、副交感神経の働きが弱いと不整脈が出やすくなるらしい。
そこで鍼をうってもらい、無理矢理にでもリラックス状態になってみたら何か改善されるんじゃないかと思い、試しに鍼灸院に行くことに。
結果、かなりリラックスはできた。
その他、温泉に行ったりマッサージを受けたりと副交感神経が優位になるようなことを行った。
しかし、完治はしなかった。
■光明
とはいえ、今までなかった「不整脈が出ない日」というのが、ちょっとずつ増えてきた。
何か、もう少しな気がしてきた。
家に居る時は不要な悩み事をしない、腕組みなどの交感神経が優位になるようなことをしない、
などを行った。
そういうクセってなかなか治らないけど、
「もうこれ以上不整脈が続くと、いくら心臓に問題の無い期外収縮とはいえ負担はかかってしまう」
と考えたら、ある種の防衛反応で悩みすぎる事もなくなってきた。
「だって死にたくないもん」と考える事で、細かい悩みは持たなくなってきたように思う。
■とどめの対策
それでも症状は出る。
あとちょっとなのになぁ、と歯がゆい気持ちになり、それが悪循環になり症状が悪化したり。
でも、自律神経の乱れが原因と決めつけて、いろいろ調べた結果、以下のことを試す。
マグネシウムの摂取は、体の神経系の異常を正常に戻す、という記事を発見し市販のサプリを購入し服用を始めた。
すると、服用後1ヶ月でほとんどと言っていいほど症状が出なくなった。
今も再発の不安は残るけど、このまま無くなる気がしている。
一袋300円弱。すごくリーズナブル。今まで高い薬を買ってたのがアホらしく思える。
■まとめ
という結論に至るにはちょっと自信ないです。
結果としてそうなったけど、精神的なものの兼ね合いだと思っています。
発症後すぐに投与しても変わらなかったのかもしれませんし。
2010年になった。
彼を亡くして半年近くが経っていたものの、もちろん彼の事を考えない日など1日もなかった。
その時の私は、大きな問題を抱えていた。
私は心臓病で、ペースメーカーを入れていた。その電池が既に切れている状態だった。
電池が切れてもバックアップで3ヶ月は動き続けることができるものの、
設定は初期値にリセットされるため体調は悪く、また、完全に電池がなくなってしまえば突然死の危険もあった。
電池が切れていることは、もちろん知っていた。
でもその時の私は、とにかく目の前の面倒な事や嫌な事から逃げようとしていた。
だから電池の問題も後回しにして、考えないようにしていた。
しかしいよいよ電池が完全になくなろうとしていた。
私の心臓の状態から言えば、電池が完全になくなるということは死を意味していた。
でも、電池を交換する手術を受ける気にはならなかった。
死にたい、と思っていたわけではない。彼を亡くしてからも、後を追おうとは考えなかった。
でも、積極的に生きたいとは全く思っていなかった。
通っていた病院の、循環器の師長が私に言った。
このままだと、本当に危険なのよ?どうなるか分かってるでしょ?
ねぇ、お付き合いしてる人とかいないの?その人も、悲しむ事になるのよ?
どんな言葉も響かなかった。悲しむ人は、もういなくなってしまった。
それから数日後、彼が夢に出てきた。亡くなってから一度も出てきた事はなかった。
彼は、ただ微笑んでいた。何も話さなかった。手を伸ばして、追いかけようとして、目が覚めた。
結局その後、私は手術を受けるために入院した。
しかし入院したその日、主治医から思ってもいなかったことを告げられた。
ペースメーカーと心臓を繋いでいるリードがだめになっている可能性があるけど、開けてみないとわからない。
だめになっていた場合、今入っているリードはそのままにして、新しいものを新たに入れる。
そんな話は全く聞いていなかった。外来で検査を受けた時にも言われなかった。
リードはずっと使えるものではなく、いつかだめになるかもしれないのは知っていた。
でも、使えるかどうか、開けてみないと分からないというのは知らなかった。
ペースメーカーを入れたその日から、体内に異物が入っているという違和感を、
ずっと抱えて生きていた。自分の胸部XPを直視することもできなかった。
仕事で行った病院で、たまたまペースメーカーを入れた人の胸部XPを見てしまい、ひどい吐き気に襲われたこともあった。
私は手術を拒否して、同意書を書かなかった。
このまま退院させて欲しいと言った。もちろんだめだと言われた。
そんなわがままな患者に、ついに循環器科の一番偉い先生まで出てきた。
先生、というより、威勢のいいおばあちゃんだった。
旦那さんと離婚して、女手ひとつで医師を続けながら娘を育てた事。
その娘も今は医師をしているということ。高速道路で事故を起こし、死にかけた事。
それを聞いて私も、少し自分の話をした。
大学2年になる直前に意識消失発作で倒れ、ペースメーカーを入れた事。
大学を休学しなければいけなくなったこと。手術の後遺症の事。両親に理解されなかったこと。
その事を、人に話したのは初めてだった。
一通り自分の身の上話をして、私の話を聞いて、先生は病室を出て行った。
もしもリードが使えなくなっていたら、古いリードを抜去できる病院に転院する。
その病院には既に受け入れの体制を整えておいてもらっている。
自宅からは遠かったものの、循環器が有名だったその病院は良いはずだと思っていた。
でも、検査の度に嫌な思いをさせられていた。患者の事なんて全く考えていない対応だった。
そんな話を彼にしたら、こんな事を言われた。
嫌な思いをして通い続ける事ないよ。別の病院探そ。
その後、彼を助手席に乗せて家の近所を走っている時、ある病院を見つけた。
最近の病院って、スタバとかタリーズとか入ってるよね。仕事中の息抜きにいいよねw
あの病院、いいんじゃない?綺麗だし、確かあそこはウチの電子カルテ入ってないよw
その後彼はその病院の事について調べてくれた。
神奈川県内では一番ペースメーカーの症例数も多く、評判のいい病院だった。
その後、私はその病院に通うようになった。
そしてその2日後、私は手術を受けた。
結局リードはそのまま使える事が分かり、3時間程度で無事手術は終わった。
手術が終わった後、あのおばあちゃん先生が私に言った。
あんた、よく頑張ったよ。頑張ったから、神様が味方してくれたんだよ。
先生は「神様」と言ったけど、私は彼が助けてくれたんだと思った。
入社当初は会社を辞めたいばかり言っていたが、彼のあの言葉によって
この仕事を続けられるところまで続けてみようという気持ちになった。
嫌になって途中で諦めて投げ出すのだけはやめようと思った。
ただ、入社して5年目という区切りの年に、これから先どんな仕事をしていきたいか
ちゃんと考えようと思った。このまま電子カルテを作りたいかどうか。
これからの1年、どんなに辛くても全力で仕事をしよう、と決めた。
全力でやって、そのまま続けたいと思ったら残る。思えなかったら、別の道を探す。
復帰後すぐに、かなり大きな仕事が入ってきた。
当時27歳のひよっこSEには重すぎた。
でも、これだけはやり遂げないといけないと自分に言い聞かせた。
そのプロジェクトの定例の会議は福岡で行われたため、毎週金曜日に福岡に行っていた。
でもあの時のように、彼との事を思い出して押し潰されそうになることはなかった。
1年前のように現実逃避から仕事に打ち込むのではなく、自分の目標のために仕事をした。
忘れもしない今年の5月18日。
武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。
妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。
普段から心底思ってはいた。
「いつ死んでも仕方ない」
とはいえあまりに突然だった。
確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、
改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。
気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。
忘れもしない今年の5月18日。武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。
確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。
宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。
一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。
手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。
ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。
妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。
少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。
さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。
生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。
死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。
出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。
私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。
しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。
自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。
一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。
私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。
両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。
それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。
両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。
ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。
親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。
両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。
最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。
気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。
そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。
さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。
じゃ、お先に。
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http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565
無断転載しました。ごめんなさい。
前回:http://anond.hatelabo.jp/20100805013139
また大分間が空いてしまったけれども。
今はとても穏やかに時を過ごしている。何もすることもなく、何かしなくてはいけないこともなく。ただ、浅い眠りをうつらうつらと繰り返し、意識が清明なときだけネットを見たり、外に出かけたりしている。好きなゲームにはほとんど手を出していない。アニメは…ちょっと見るようになった。劇場で「インセプション」を見られるようになったというのは、自分では大進歩だと思っている。題材的にも、劇場へ足を運ぶという行為自体も、前の状態だったら絶対に無理だっただろう。
そして、この平穏があと2週間くらいしか続かないことも、知っている。
まずは眼科。これは生活上目が見えなくて困っていたからで、眼鏡とコンタクトの処方を変えることで大分改善した(あと、生活環境をMacに替えた)。緑内障の恐れがあるから、視野検査も受けなくてはならないが…。
次に歯医者にいくことにしている。十年来奥歯に痛みを抱えていて、これは生え方がおかしい、いわゆる「埋没歯」というやつなのだが、こいつの手術をしなくてはならない。入院がいるだろう。そこまで派手な治療をしてくれる歯科の心当たりはないので、聞いて回らないとダメなのだろうな。
あとは耳鼻科で耳垢を取ってもらう(俺のは医者にやってもらわないとマズいらしい。素人は手を出すなといわれている)とか、メニエール氏病の検査を受けたりしなくてはならないが、このへんはまあいつでもできるし、重要でもない。
問題は、循環器科案件。この件について知っているのは家族と親しい友人数名だけなのだが。俺は首の動脈に爆弾を抱えている。何らかの弾みでこいつがはじけたら一発アウトのあの世行き。手術することもできるのだが、その後のケアが大変すぎるのと、そもそも成功例があまり多くない? らしく「ほっといてポックリいったほうがいいですよ」などと言われる始末である。どちらにせよ、そう長くは生きられそうにもない。この休職の間にこの案件を片付けるか。それとも忘れたふりをしているか。さすがに忘れてしまうことなど出来るわけもない。ちなみにこの爆弾が原因で、俺は1日に大量のボルヴィックを浴びるように飲んでいる。血の巡りが悪くなるとこの爆弾に着火する可能性が高いからだ。
この休職により、ついに俺は社会的に死を迎えることになった。後は生物学的な死だ。むろん、お金が稼げず飢え死にするなどということは充分に考えられるが、それよりもこの満身創痍の状態でいつまで耐えられるのか、のほうが問題だろうと思っている。
結局のところ、俺はもう半分死んでいて、近々完全に死ぬのだ。それが自らの意志なのか、それとも抱えている地雷が爆発するのか、それとも別の原因なのかはさておき。時期もなんとなく、休職の明ける11月くらいなのだろうな、と言うのがうっすら見えている。一応増田たちに責任をかぶせたくないので、いわゆる「自殺」を積極的に選ぶことはしない、ということは約束する。ただ、そういう状況に追い込まれてしまったときには、謝って許してもらえるだろうか。…無理だろうな。それでも謝っておく。ごめんなさい。
今はとても穏やかに過ごしている。死んで行く事への恐怖を除けば。
再チャレンジ不能である世の中というのも案外よいもので、あの血を吐くような苦労をして、それが結果徒労となり、砂の城が崩れ落ちていくこと自体、しなくてすむというのは、とても楽な気持ちになれる。あるいは成功したとしても、それは誰かの生き血をすすり、返り血を浴びた結果であることは承知の上。そんな汚れた人間が大地に両足をつけ、太陽を仰ぐ、みたいな非道い生き方をしなくて済むのは、楽だ。
むろん、自分の作っていたものには「命をかけてもいい」と思っていたのも事実だ。ただ、会社に「命をかける必要なんかない」と言われてしまった時点で、俺のあの案件への情熱は冷めてしまった。プロとしては失格。しかし、実際に掛け金に命を賭けろと強要していたのは、どっちだ? むろん、言い出したのは俺だが、その結論に陥るトラップを入念に準備していた人たちがいたのは知っている。
そう、結局社内政治と自分の弱さに負けたんだ。そして今もまだ負け続けている。
あとは願い。完全にくたばってしまう前に、自分のやりたかったことを、形として残しておきたいと思っている。それに何日かかるのかは分からないし、なにせ相手のあることだ。そううまくはいかないだろう。それでも。俺にできるだろうか。時間が普通にあって、記憶力が常人なみで、集中力が続くのであれば、なんでもなくできること。そもそも、そんなこと、俺がやる資格があるんだろうか。
わからない。怖い。そうしたまま、今日も夜が過ぎる。