はてなキーワード: 場の空気とは
ダウンタウンというコンビについて、「天才・松本を補佐する凡才・浜田」という間違った認識の人間がとても多い。ゆとり以下のガキどもに至っては、浜田に対して、クソつまらん芸人だという認識しか持っていないと思われる。
たしかに近年、クソ番組でMCをただこなしているときの浜田は、いくつか落とすパターンこそ持ってはいるが、さんまや、中堅のくりぃむ上田等に比べると、明らかにパターンの数が少ない上に、相手の話を膨らませる能力にも乏しくはっきりいって面白くない。
浜田がその実力を遺憾なく発揮し芸人として、テレビタレントとして革命的な存在だったのは、売れ始めてから成り上がるまでの時期だ。
テレビ画面に現れた、まだ若さの残る浜田は、競演した大御所や先輩タレントに対して、問答無用でツッコんでは、時にどついてみせた。
たったこれだけである。
だが、これがとんでもなく衝撃的だったのだ。
それに先んじて、とんねるずが お笑いとアイドル・ミュージシャンとの関係性を変化させていた。当時、芸人は歌手より地位の低い物と見なされており、「公の場」でアイドルをバカにしたり、ミュージシャンに無礼な振る舞いをする芸人は、ほぼ存在しなかった。たけし(軍団)ですら、公の場ではその関係性を守っていたのだ。
だが、とんねるずは体育会系のルールそのままに、年上に対してはそれなりの礼節を持って振る舞ったが、年下のアイドルやミュージシャンに対して、平気でタメ口をきいたり、時にバカにしたりして笑いに変えた。そうして芸能界の暗黙の掟を一変させたのである。
浜田の革新性は、こういった土台があったからこそという側面はある。それでも、芸能界において先輩後輩の序列は絶対であり、そこを侵す者は現れなかったのだ。浜田を除いて。
そのことに気づいてから、俺はテレビで浜田を追いかけるようになった。相手が誰であろうとも、己の信念と姿勢を曲げることなく容赦のないツッコミを浴びせる浜田は間違いなく『パンク』な存在であった。そして、上下関係抜きの辛辣なツッコミを浴びせても、浜田は決して場の空気を乱すことがなかった。それ故に、つっこまれた人間は、浜田に怒りの感情を示すことがなかった。松本の天才性の陰に隠れてはいたが、この事実は、浜田もまた紛れもなく天才であったと言うことの証左である。
だが、いつの頃からだろうか。おそらく、ダウンタウンが多くの冠番組を持ち始めてからのことだが、主に若い世代から、浜田に叩かれることを喜ぶような連中が現れた。こうなると、もはや猪木のビンタと変わらない。ツッコミの鋭さそのものは変わらずとも、その意味合いは、全く別のものになっていった。
わたしはそれを否定する。松本が天才であったのは間違いないが、浜田という斬り込み隊長の存在がなければ、もっとマニアックな存在としてしか、世に出ることはなかったと思われる。若かりし頃の浜田には、とんねるずと同じように、予定調和をぶち壊し、新しい地平を切り開く革命家としてのパワーが宿っていたのだ。それは、ともすれば狂気的とも言えるものであった。
浜田が切り開いた新しい地平の上で、松本がその才能を遺憾なく発揮した結果として、日本のテレビお笑い史上最高のコンビになった、というのが俺のダウンタウンに対する短評である。
今のテレビお笑い界、特に若い世代に、登場するたび「今日は何をやらかすんだろう?」と、わくわくさせてくれる存在がいるだろうか? 浜田もとんねるずも年をとった。丸くなってしまった。たとえ懐古厨と言われようとも、俺をテレビに夢中にさせた、かつてのダウンタウンととんねるずほどの存在は、テレビに誰一人見あたらない。強いて言うなら大泉洋であったり、ブラックマヨネーズであったりといったところだが、大泉は役者であるし、ブラマヨは真の実力(フリートークスキル)を発揮できる場を与えられないまま年を重ねている。
寂しいことだ。
それはともかく、二十人がばらばらに頼んだら20分かかるって?
仮に本当にそうなったら、そりゃ飲食店として致命的だろ。
さらに踏み込んで、飲食店側に欠点が無い状態で、20分遅れる可能性を検討してみようか。
そりゃ、「場の空気」や「効率」を重視した君の主張だと、仕切る奴の仕切りが悪いだけだろ。
どうして理解出来ないものごとを排他するように動くんだろう。そんなに気に入らないなら無視してしまえばいいのに。
やっぱりあれかな、場の空気感とか、一体感とかそういったことから得られる一種の興奮が心地いいのかもしれないなあ。
赤信号をみんなで渡るって行為は、それが何かしらの抵抗を意味することであり、同時に大きなうねりとか攻撃性というものへの帰属を促してくれる。
自分の外側も内側も同じ方向性に偏って、どんどんどんどん加速していくと、たぶんすごく楽しくて満ち溢れた気分になれるんだろう。
アドレナリンが分泌されて、脳が冴え渡って。そことわたしとが同調してしまって無限の広がりを持つようになるのだろう。
それらの主成分はおおよそ喜怒哀楽であり、感情的になることによって意図されたパニック状態に突き進むのだ、きっと。
わたしなんて主観はとっても儚いもので、いとも容易くわたしの中にある、わたしの外にある感情に、衝撃に、絶えず揺り動かされてしまっている。
フィードバックは間断なく行われており、なるほどこのような視点で見る限り、わたしというもの、ないしは人格というものがとても精巧に組み上げられたソフトのように感じられる。
そのソフトの動かすために必要なハードこそ肉体であり、人類はいまその主要な部品であるものどもを子細にいたるまで検分創成しようと試みているわけだ。
だから人間でない人間は、いつの日か創り出すことができるのかもしれない。神様じゃなくても、大丈夫なのかもしれない。
遺伝子って何なんだろう。どうしてあんな四つの塩基に支縛られなくちゃ駄目なんだろう。
先天的に結果が生じている問題に原因を求めるなんて愚の骨頂だけど、どうして生命は子孫を残そうとしているのか、次世代に種の存在を繋げようとしているのか解せなくなる時がある。
どうして進化なんてしたんだろう。どうして生命は死ななければならないんだろう。最初から死なんていう絶対的な区切りがなかったよかったのに。
そうすれば今にいたるまでふよふよとした蛋白質の塊のまま海中を漂っていたはずなのに。どうして死なんてものが存在しているんだろう。どうしてわたしは死ななければならないのだろう。
いや、わたしは死なないのではないだろうか。この世の中にあまた存在しているわたしというソフトウェアには、死というものから解放されているのではないか。
だって、ソフトウェアは途切れることしかしないから。強制的にシャットダウンすることしか無いから。それが死というものなのらしいけど、いまいちパッとしない。
死ってなんだ。そして気がついたけど、肉体って本当にハードウェアと換地して考えていいのだろうか。筐体は一体何と互換されるべきなんだろう。筐体こそが肉体を指しているんじゃないのかな。
ふむ。筐体が血肉で、遺伝子の並びがハードウェアで、わたしというものがソフトウェアなんだろう。
でも、そうだとするならば、人間ではない人間の血肉は後天的に生まれたことになり、何よりも先ずハードが揃っていなければならないということになる。
それが人間だ、機械とは違うのだというのならば、そのとおりだと首肯せざるを得ない。
>無内容で相手するのが面倒な、投石みたいな発言を繰り返しつけていく
>論点で反論をつけるんじゃなく
>なんとなく場の空気を操作して「こっちが勝った」みたいにしたいというさ
双方腰巾着が現れてそんな感じのリプばっかして話が腐る。
僕は異性愛者なのだが、それでも時々Google画像検索で『ガチホモ ブリーフ モッコリ』などと書き込んでは雄臭いモッコリブリーフ画像を見たり、ついつい『あー、チンポしゃぶりたい』などと発言してしまう。ノンケなのに。
同性愛者には申し訳ないのだが、同性愛はやはり笑いのネタになってしまう。どうしても。しかもかなり気軽に、その場の空気をギャグ化することが出来てしまう。だから、仕事などで体が緊張していたり、つらいことを忘れたいときには、ガチホモ的な事物を見たり発したりして、自分の空気を軟化させたいのだと思う。
つらいことが多すぎるから、ついついガチホモネタに頼ってしまう。まるで麻薬のようだ。今日もニコニコで『Hattendo』タグを検索している。動画を探しているときは、やはりドキドキワクワクする。欲情はしないけど。だから僕は、ガチホモさんたちにありがとうといいたい。ありがとう、ガチホモさんも僕が生きている理由の一つなのかもしれない。
同窓会は「受け入れられていた」人間が参加するイベントだし、そりゃそうだ。
儀礼的に開催通知はくるだろうけど。
当時なかった?
「え、なんでお前(こいつ)がいるの」みたいな反応。
歳をとった分、場の空気を壊さないよう過去のことをなかったかのように普通に接してくるだろうけどね。
何かしら成功を収めて見返してやるため、とか場の空気を壊すとか、何らかの形での復讐目的で乗り込む奴がいるけど、今度は「空気を読めない人間」「成長のない人間」「分別のない社会不適合者」の烙印を押されるだけ。
そもそもお呼びでないってことさ。
関わりたくない人間に無理して関わる必要なんてないんだし。
自分の信念とかそういうのを持たずに、人に流されるような生きかたしてると、嫌いなものばかり増えていく気がするんだ。
自分を表に出さず、自分の言葉であまり喋ろうとしないような、そんな人。
俺はどういうわけか、そんな人とよく縁がある気がするんだ。
本当に好きな分野に関しては、深い知識を持ってて「好き」って感情を出すんだけど、それ以外のことに関してはそれといって関心なかったり。
些細なことであっても、何が好きなのかっていうのをあまり持ってない。
そのくせ、嫌いなものはやたらと多かったり。
そんな人をよくよく見てみると、自分に自信がなさすぎて、とてもネガティブになっちゃってる気がするんだ。
「自分が傷つくのが怖い」とか「誰からも嫌われたくない」とか、そんな感情が根底にあるのかな
でもそういう人って、根は優しいんだと思う。
相手の気持ちを否定したり、裏切ったり、そういうことをしたくないって、たぶんそう考えてる。
だから自分の感情を殺してでも、相手が喜ぶような自分を演じてしまう。
けどそれって、本当の優しさなのかな。
そんな生き方をし続けると、自分の本当の感情が見えなくなっちゃうんじゃないかな。
知らず知らずのうちに心に不満を抱えていると思うんだ。
それに相手に合わせているばっかりに、自分が好きだと思ってるものを否定されても、なんとなく受け入れてしまっていそう。
本来の自分とは違う自分を演じ続けるのって、すごく大変で、疲れるよね。
相手を思いやる気持ちも大事だけど、自分を思いやる気持ちも大事だよ。
【北朝鮮砲撃】朝鮮学校無償化の適用「重大な決断する」 高木文科相、見直し言及 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/education/101124/edc1011241031002-n1.htm
リベラルな「普遍的人権」の信念もなければ、ナショナリズム的な「国益を守る」信念もない。
ただ右往左往した挙句に、最悪のタイミングで最悪の決定をする。
人気取りのつもりだろうが、見え見え過ぎて逆に人気を落とす。
思想の左右を問わず、「もうこの政権ダメだ」と思わされる稀有な例。
自民党、補正予算案採決前の問責提出見送り 民主党幹部「北朝鮮砲撃は党にとって神風」
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00188466.html
隣国の戦争も、兵士や民間人の死も、党利党略のためなら赤飯炊いてお祝いするようなメンタリティ。
政権維持のためなら、人命など羽毛より軽い、信念などちり紙くらい簡単に捨てられる。
この辺の感覚は、千葉景子が信念を打ち捨てて死刑執行した事例にも通じる。
この政権は、平気で人権や人命を踏みにじることができる政権だということだ。
しかもそれが、何の信念によるものでもなく、その場の空気によって成されてしまう。
今回はその矛先が在日朝鮮人だったが、いつ日本国民に矛先が向いてもおかしくない。
「私ならうどんを選ぶ」と言いたいところだが、少しだけ考えてみる。
二つの料理に以下の前提加えるとする。
うどん
日本人の昼食として割と一般的である。
韓国料理
昼食に韓国料理というのはあまり一般的ではない。
何故、選択肢が「韓国料理」と「うどん」であったのか?日本にいる以上他の料理屋などいくらでもある。別にわざわざこの二つを選択肢にしなくても良いわけである。その上でこの二つが選択肢に上がったということ。それは彼女がどちらか片方を食べたかったということに他ならない。ここで仮に彼女がうどんを食べたかったと仮定する。その場合、わざわざ「韓国料理」を引き合いに出すであろうか?「うどんが食べたい」と率直に言えばいい筈である。何故なら、昼食としてのうどんは一般的なのだから。つまり「韓国料理」を引き合いに出す必要性はない。ここで、もう一方の「韓国料理」を考えてみる。彼女が仮に「韓国料理が食べたい」と言い出したとしたらどうだろう?多くの日本人男性はどんびきするのではないだろうか?いや、少なくとも私もその一人だろう。現にこの様な意見は多くみられる。と、するならばカノジョは何らかの理由で韓国料理が食べたかったがそれをストレートに言い出せず、苦肉の策として「韓国料理」と「うどん」を選択しにしたと考えるのが妥当だろう。
つまり、韓国料理を選ぶのがおそらくは正解なのである。何故ならカノジョは初めから「韓国料理」がどうしても食べたかったのだから。まあ、何故食べたかったのかは知らないが。
カノジョの気持ち(その場の空気)を考えれば韓国料理を選ぶべきだったのだろう。
しかし、仮に私がこの様なケースに出くわしたらそのカノジョに「じゃあ牛丼にしよう、すき屋で肉抜き」と答えることにしようと思う。
当方、齢27で、ちょっとした役職のようなものについてるインフラ企業社員です。社内の成績はぼちぼちです。学歴は2chでバカにされる程度の私立大学文系です。
一応第一志望だったので充実したジョブライフを邁進していますが、あまり考えていなかったので入社できたのは嬉しいな、と。
自己紹介するだけで場の空気を自分のものにできています(といってもマスコミや商事他財閥系企業には負けますが)
顔はフツメンなのでそこまで魅力的でもないです。おなか出てます。筋肉もないです。痩せてます。
でも最近の女性はそういうのを考慮しないみたいですね。なりふり構ってられない、みたいな。
正直、インフラにここまでのアドバンテージがあるとは思わなかったです。
昨年の夏に脱童貞しました。対面座位でフィニッシュです。相手の女性はちょっと早かったらしく不満そうでしたが、頭なでなでしてくれました。おっぱい気持ちいいよ。
そこで、僕もそろそろ身を固めてみようか、相手を真剣に探そうか、と思うんですけど、多すぎて選べないんですよ。
なので、僕の食べ残しでよければいくらでも分けて差し上げます。
対人コミュニケーションが人生のすべてだと思っている人の意見ですね。
もしその人に他にいいところがあっても、非コミュだと全てが台無しになると思ってるわけですか。
組織の中でうまく立ち回れる能力だけが、全てだと思わない方がいいですよ。
いわゆるいじめられっ子タイプって、職人や研究者やクリエイターになることが多いものです。
僕も、自分がうまく立ちまわるために、非コミュの人を選んでスケープゴートに仕立てて、
彼らのいじめに耐えつつ頑張って、地道に作品を作って、業界内での評価や知名度を高めて、
今はそういう半端なコミュニケーションしか出来ないような営業職とかジェネラリストの奴らに
頭を下げさせられる立場になりました。
クソみたいな飲みニケーションを強要したり、知能レベルの低い噂話ばかりで盛り上がったり、
その場の空気を読んで無難なことをすることに価値を置いたり、そんなことをしなくても
いい立場になりました。
いわゆる、業界における重鎮と呼ばれる立場になったからです。
僕は、対人コミュニケーション能力が中途半端に高い人を信用しません。
そういう人は、独りでコツコツと数年間同じことを続けるような地道な努力を回避して来たからです。
ひとつの道を選んで、作品に自分の考えのすべてを注ぎ込める人こそを信用しています。
コミュニケーション能力こそが自分の真髄だと選んだなら、ホストや芸人にでもなればいい。
もしくは、一般企業にいても、誰からも慕われるようなトップ営業になれるはずです。
本当に優秀な営業は、人をイジったりせずに、しっかりマネジメントが出来る人です。
数字を追うために、調子のいいトークで人を丸め込んで、アフターケアを丸投げにするような人ではありません。
僕が一番何をいいたいのかと言うと。
人の生き方が気に入らないなら、それなりの覚悟をもって、一対一で戦いを挑んで来いよ。
ということです。
組織や集団の力に頼らないと自己主張も批判も出来ない人間が多すぎます。
そんな奴らに、職人やクリエイターとしての芽をつぶされたくはありません。
いじめられる側にも原因がある?
そりゃ原因が無いことなんてこの世にはひとつとしてありません。
だから、いじめられる側に原因があるように、いじめる側にも原因がある。
集団の圧力に耐えきれず、スケープゴートを作りたがる弱い人間であることが、いじめる理由です。
そして、双方に原因があったとしても、どう考えたって加害者の方が悪いんです。
繰り返しますが、対人コミュニケーションだけが、全世界共通の価値基準じゃありません。
学校や部活やサークルや会社の秩序だけが、世界の基準じゃありません。
こういうことを全部理解した上で、自分が悪いと知ってていじめてるならまだマシ。
一対一なら、それは価値観同士の戦いですから。
無自覚で、主犯格じゃなくて、いじめに便乗して、そのくせこんな言い訳をしたがる薄汚い小悪党が一番ひどい。
元の文章を書いた増田、お前のことだよ。
私の父には弟がいた。
私が生まれる前に死んだ。
その叔父は、殺された。
当時、叔父の友人だった人間に殺されたらしい。
金銭問題でもめたらしい。
その末の殺人らしい。
山の中に埋められ、数日後に発見されたという。
この事実は、父本人はおろか、叔父の親である祖父母からも一言もきいたことがなかった。
ただ、私が十代前半のころ、一言だけ、祖母がこの話題に触れた。
「あの人、出所したらしいわよ」
瞬間、場の空気が凍った。
叔父を殺した殺人犯が、今も生きていて、そして、この日本の社会で、生活している。
不条理というのは凶器だ。
なぜ、私の叔父は殺され、挙句山に埋められたというのに、
20代半ばで、無意味に、友人と思っていた人間に、殺されてしまう。
自分の子が、今まで大事に育ててきた子が、人生これからという時に、殺されてしまう。
あまりに不条理すぎるのだ。
そして、犯人が生きていて、同じ社会で生活をしているという事実がその不条理に追い打ちをかけるのだ。
家族を殺された遺族というのは、一生、このような不条理に精神を削られながら生きていくはめになる。
犠牲者の遺族は今も耐え難い不条理と戦っているに違いない。
いい年を迎えた中年からひとこと。
冒頭の数行はあたかも自分のことのように読んでしまいました。思わず感情移入をして読み終えました。
あなたが実際キモオタに見えるのかどうかはわかりませんが、たとえ顔のつくりに難がある(とあなたが思っている)としても、清潔感のある格好していればキモオタ風には見られないと思いますよ(今の周囲のヤツらは変わらぬ視線のままかも知れませんが)。
老婆心ですが、今の内にファッションに気遣ったらいいと思います。出来なかった実例が言うのだから間違いありません(涙)。小生も高校ぐらいの頃は「男が見た目にこだわるなんて…」と思いつつ、不潔でファッションのことなど気にもせず、好きな音楽や文学やアレコレにまい進していました。それでもちょっとした友達がいないのは、さびしいものです。
ちょっとした友達も、最初は結局、他人を見た目で決めてるものです。それはあなたもわたしも、実際誰だってそうなのです。ヤツらに上から目線で下らん(本当に実際下らないんだ)ちょっかい出されるのを防ぎ、あなたの大切なテリトリーを守るために、ヤツらを見た目で見返してやりなさい。
あなたが高校生か中学生かはわかりませんが、場の空気を破壊出来るあなたになら、きっと出来ます。下らない学校なんか通り過ぎればいいんです。あなたは間違えてないです。期待してます。
所詮そういうレベルなんだよ。ありきたりな感動を欲しがってるくせに、表向きは批判してみせる。
いや、マスコミが用意したシナリオは嫌だけど、俺たちが作った感動は最高っていうキモイ選民意識かもしれないけどね。
ウザイのは、一旦何かに固執すると事象が変化したときに対応できなくなること。
前はマスコミマンセーテレビマンセーで、ネット上でマスコミたたきが始まるとマスコミの言うものはすべてダメみたいになる。単純な思考回路だよな。
つまりは大衆(いわゆる馬鹿)はものを考えて行動しているわけではなく、その場の空気の流れに沿って意見を変えているだけということ。
もっとも、大衆が馬鹿で戦争の道具にしかならないような存在だってことは、ヒトラーやらなにやらが散々言ってたけど。そしてネット上では大衆がヒトラーを持ち上げるという笑える構図。
ようするに、今はマスコミを敵にしているから、マスコミ発の感動は叩く、でも俺たちが作った「真の感動」は最高と。ハヤブサ騒動はバカがいかにバカなのかを再認識するのに絶好の機会だったな。どうせハヤブサ2が出来る頃には全員忘れてる。
一応言うと、感動には安いとか高尚とかはない。複雑だから良いと思うのは頭が悪い人間。自然の法則はシンプルであればあるほど良いとされている。
安いとか高尚の区別は、その人が感動できたかそうでないかの違いでしかない。だから、「安い感動」という言葉を使う人間は頭が悪い。自分の感動だけが最高だと思っているだけならいい、それを基準にして他を貶め始めるから頭が悪い。