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国立大受験、共通テストにプログラミング…25年から「情報」追加で6教科8科目に
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/daigakunyushi/20220128-OYT1T50158/
https://www.asahi.com/articles/ASQ1X7S36Q1SUTIL01M.html
国立大協会、共通テストに「情報」追加 25年以降、6教科8科目に
https://mainichi.jp/articles/20220128/k00/00m/040/332000c
2022年4月に高校に入学した生徒を対象にした大学入学共通テストから教科情報の試験が追加されることはもう決まっていたのだが「そんなのわざわざ受けるやついるの?」とならないように、文科省と入試センターが布石をうった結果としての国立大学の入試での必須化だと思う。
これについては、私立大学には強制できるスキームがない(補助金をちらつかせればできるかもしれないが)のと、地方の高校などにその衝撃波が届くように、だと個人的に思っている。
ぶっちゃけ首都圏などは、高校の情報教員は余ってはいないが足りてはいるが、地方では情報教員の採用をまだ実施していない県もあれば、ようやく始めてまだ数名しかいないという県もある。
そんな情報教員の採用に消極的な地方での、高校のKPIの一つに国公立大学への合格者人数というものがある。教育委員会によっては、特定の進学校に助成金みたいなのを出して、進学実績をさらに上げさせようとしている県もあると思う。そんななか情報をきちんと教えられる教員がいないと、国立大学に不利になるよ、というのは地方の高校や教員区委員会への圧力になるのである。
「急すぎるじゃないか」とお怒りの校長とかもいるだろうけど、受験には関係ないからという言い訳で、教育委員会が教員も採用してこなかったり、未履修問題のように高校が勝手に情報をやらずに他教科に置き換えて授業を潰していたりしたことが、結果としてスマホしか使えない大学生を大量生産してきたのではないだろうか?
高校の情報という授業は実は2003年に高校に入学した生徒から必修科目となっている(正確には必履修科目)。ということで教科が出来てからもう20年近くになる。
商業高校や工業高校は別として、全ての普通科で必修の教科が「ドーン」と爆誕したのがその年だったのだが、文科省の失政を今の今まで引きずっていたのだった。
それまでにない教科(情報処理に類する科目は無かったわけじゃないが)が誕生するということは、教える人が新たに必要となるということである。
それが全国何千校の普通科の高校で急に始まるのである。まあ、時代で必要だったのでそれはしょうがないと思うが。
大学の教員養成課程で、一気に何千人も情報科教員を輩出できるわけではないので、現職の教員に講習を行って新たな免許を持たせることにした。
まずは意識高い教員に、現職講習の講師役となるための研修を行い、育成された講師たちが各都道府県で現職教員にたった15日間の講習で「教科情報をもう教えられるよ」ということにした。
しかも希望した受講者だけ目標ノルマ人数にとても足りず(講習を受けられる教科に縛りを付けた失策があり、そもそも希望しているのに受けられなかった教員もいる)、各学校で肩たたきのように希望しなくても免許を取りに活かされた数学や理科、家庭科の教員が多数いるというわけである。
これを時限的な教員免許とすれば、大学で情報の教員免許をとった新しい教員がどんどん入ってきたのだが、いかんせん恒久的な免許だったのだ。
あと教員免許更新があるじゃないかと思われるかもしれないが、免許更新はどの教科で更新するとかはなくて、文科省が認めている免許更新の講座だったら何の教科の内容でもいいし、生徒指導でもレクリエーション論でも何でもアリなのだ。一気に全部の免許の有効期限が延びる仕組みである。
情報処理学会は、教科情報の内容で更新講習をやってはいるが、知名度は高くないようである。
そんな石器時代のような人たちが令和の時代に、「情報とは」と教えている現状があるから、それを刷新したいという文科省の意図もあったような気がする。
恒久免許をいまから取り上げるわけにもいかないし、全て定年退職するまで待っていたら日本が沈没するのが加速するだけである。
学習指導要領という教科で教える内容が決められる教育界の法律みたいなものがあって、だいたい10年に1度のペースで改訂される。
最初の情報は、情報A、B、Cという科目があり、いわゆる町のパソコン教室的な内容でも教科の内容をけっこう満たしてしまうものであった。
とはいえ、TCP/IPやWWW、DNSの概略や、アルゴリズム、知財などの法規は当時から教科書に載っていたのであるよ。
その次の世代の学習指導要領で、「社会と情報」「情報の科学」の2つに再編され、今の高校1年生の代まではこれを勉強している。2年後に高3で始めて習う生徒もいるかもしれないが。
今度の4月からの入学生では、情報1に一本化されて、全ての高校生が共通の範囲を勉強している(これが大事)はずなので入試に出しても良いよね、と出来たわけである。
それまではどれかだけ勉強したら卒業はOKという扱いで複数科目あったので。
今年の1年生が浪人して1個下の代と一緒に国立大学を受けると、他教科の試験は移行措置で現行科目の試験が用意されるのだが、情報は今の科目での出題がないからどうするの?という問いかけが国立大学協会からあった。さっきの複数科目の問題があって浪人生に強要できるのかよーという問題だったのだが、文科省&入試センターは強気に「社会と情報か情報の科学か、どっちかだけでもやっていれば100点分になる問題をその年だけ新たに設置するので、無問題」という回答により、国立大学の入試必須化が正式に決まった。
情報1にはプログラミングだけではなく、問題解決の考え方、情報デザインとコミュニケーション、データサイエンスの基礎などが入っている。
ちなみに、情報2という科目もできて、数学みたいに1をやったあとでなければ2を勉強できない、より高度な内容になっている。物理基礎に対する物理みたいな。
データサイエンスといえば聞こえがよいが、それよりちゃんとした統計を学ばせるのが先じゃね?と思う人も多いと思う。
実は数学1で統計の内容が必須化して10年経つのだが、10個や20個の整数を手計算で計算して、分散・標準偏差・偏差値を出してたり、相関係数と散布図くらいしか届かない、「紙の上で鉛筆でやる意味があるのか?」という内容である。センター試験や共通テストでは奇をてらうことが難しい分野だったが、今年の共通テストはやらかした。
次の学習指導要領では数学教育者と統計教育者のバトルなどがあって、それも興味深いのだが、それはまた別のお話。
劇薬ではあるが、かわいい生徒たちの志望大学進学という、餌をつるされた教員たちの良心で今まできちんとした情報教育を受けることができなかったかもしれない地方の高校生が報われるようになるといいと思っている。
あ、あと入試改革すると、企業が儲けるために結託しているんじゃないかと思う方もいるかと思うが、情報1にからめてうちは底辺校と呼ばれる学校なのだが、プログラミング教材とかの売り込みはかなり来るし、ベネッセはすでに高校情報1のオンライン教材の売り込みをガンガンやっている。東進ハイスクールも情報の講師を確保しているようである。
なので「教える教員がいない、地方を見捨てるのか!」となった場合は、ベネッセやら東進の高校向け教材でもやらせてお金で解決してください。
国立大受験、共通テストにプログラミング…25年から「情報」追加で6教科8科目に
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/daigakunyushi/20220128-OYT1T50158/
https://www.asahi.com/articles/ASQ1X7S36Q1SUTIL01M.html
国立大協会、共通テストに「情報」追加 25年以降、6教科8科目に
https://mainichi.jp/articles/20220128/k00/00m/040/332000c
2022年4月に高校に入学した生徒を対象にした大学入学共通テストから教科情報の試験が追加されることはもう決まっていたのだが「そんなのわざわざ受けるやついるの?」とならないように、文科省と入試センターが布石をうった結果としての国立大学の入試での必須化だと思う。
これについては、私立大学には強制できるスキームがない(補助金をちらつかせればできるかもしれないが)のと、地方の高校などにその衝撃波が届くように、だと個人的に思っている。
ぶっちゃけ首都圏などは、高校の情報教員は余ってはいないが足りてはいるが、地方では情報教員の採用をまだ実施していない県もあれば、ようやく始めてまだ数名しかいないという県もある。
そんな情報教員の採用に消極的な地方での、高校のKPIの一つに国公立大学への合格者人数というものがある。教育委員会によっては、特定の進学校に助成金みたいなのを出して、進学実績をさらに上げさせようとしている県もあると思う。そんななか情報をきちんと教えられる教員がいないと、国立大学に不利になるよ、というのは地方の高校や教員区委員会への圧力になるのである。
「急すぎるじゃないか」とお怒りの校長とかもいるだろうけど、受験には関係ないからという言い訳で、教育委員会が教員も採用してこなかったり、未履修問題のように高校が勝手に情報をやらずに他教科に置き換えて授業を潰していたりしたことが、結果としてスマホしか使えない大学生を大量生産してきたのではないだろうか?
高校の情報という授業は実は2003年に高校に入学した生徒から必修科目となっている(正確には必履修科目)。ということで教科が出来てからもう20年近くになる。
商業高校や工業高校は別として、全ての普通科で必修の教科が「ドーン」と爆誕したのがその年だったのだが、文科省の失政を今の今まで引きずっていたのだった。
それまでにない教科(情報処理に類する科目は無かったわけじゃないが)が誕生するということは、教える人が新たに必要となるということである。
それが全国何千校の普通科の高校で急に始まるのである。まあ、時代で必要だったのでそれはしょうがないと思うが。
大学の教員養成課程で、一気に何千人も情報科教員を輩出できるわけではないので、現職の教員に講習を行って新たな免許を持たせることにした。
まずは意識高い教員に、現職講習の講師役となるための研修を行い、育成された講師たちが各都道府県で現職教員にたった15日間の講習で「教科情報をもう教えられるよ」ということにした。
しかも希望した受講者だけ目標ノルマ人数にとても足りず(講習を受けられる教科に縛りを付けた失策があり、そもそも希望しているのに受けられなかった教員もいる)、各学校で肩たたきのように希望しなくても免許を取りに活かされた数学や理科、家庭科の教員が多数いるというわけである。
これを時限的な教員免許とすれば、大学で情報の教員免許をとった新しい教員がどんどん入ってきたのだが、いかんせん恒久的な免許だったのだ。
あと教員免許更新があるじゃないかと思われるかもしれないが、免許更新はどの教科で更新するとかはなくて、文科省が認めている免許更新の講座だったら何の教科の内容でもいいし、生徒指導でもレクリエーション論でも何でもアリなのだ。一気に全部の免許の有効期限が延びる仕組みである。
情報処理学会は、教科情報の内容で更新講習をやってはいるが、知名度は高くないようである。
そんな石器時代のような人たちが令和の時代に、「情報とは」と教えている現状があるから、それを刷新したいという文科省の意図もあったような気がする。
恒久免許をいまから取り上げるわけにもいかないし、全て定年退職するまで待っていたら日本が沈没するのが加速するだけである。
学習指導要領という教科で教える内容が決められる教育界の法律みたいなものがあって、だいたい10年に1度のペースで改訂される。
最初の情報は、情報A、B、Cという科目があり、いわゆる町のパソコン教室的な内容でも教科の内容をけっこう満たしてしまうものであった。
とはいえ、TCP/IPやWWW、DNSの概略や、アルゴリズム、知財などの法規は当時から教科書に載っていたのであるよ。
その次の世代の学習指導要領で、「社会と情報」「情報の科学」の2つに再編され、今の高校1年生の代まではこれを勉強している。2年後に高3で始めて習う生徒もいるかもしれないが。
今度の4月からの入学生では、情報1に一本化されて、全ての高校生が共通の範囲を勉強している(これが大事)はずなので入試に出しても良いよね、と出来たわけである。
それまではどれかだけ勉強したら卒業はOKという扱いで複数科目あったので。
今年の1年生が浪人して1個下の代と一緒に国立大学を受けると、他教科の試験は移行措置で現行科目の試験が用意されるのだが、情報は今の科目での出題がないからどうするの?という問いかけが国立大学協会からあった。さっきの複数科目の問題があって浪人生に強要できるのかよーという問題だったのだが、文科省&入試センターは強気に「社会と情報か情報の科学か、どっちかだけでもやっていれば100点分になる問題をその年だけ新たに設置するので、無問題」という回答により、国立大学の入試必須化が正式に決まった。
情報1にはプログラミングだけではなく、問題解決の考え方、情報デザインとコミュニケーション、データサイエンスの基礎などが入っている。
ちなみに、情報2という科目もできて、数学みたいに1をやったあとでなければ2を勉強できない、より高度な内容になっている。物理基礎に対する物理みたいな。
データサイエンスといえば聞こえがよいが、それよりちゃんとした統計を学ばせるのが先じゃね?と思う人も多いと思う。
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次の学習指導要領では数学教育者と統計教育者のバトルなどがあって、それも興味深いのだが、それはまた別のお話。
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あ、あと入試改革すると、企業が儲けるために結託しているんじゃないかと思う方もいるかと思うが、情報1にからめてうちは底辺校と呼ばれる学校なのだが、プログラミング教材とかの売り込みはかなり来るし、ベネッセはすでに高校情報1のオンライン教材の売り込みをガンガンやっている。東進ハイスクールも情報の講師を確保しているようである。
なので「教える教員がいない、地方を見捨てるのか!」となった場合は、ベネッセやら東進の高校向け教材でもやらせてお金で解決してください。
国の手厚い保護があっては潰すことができない。
各大学が、潤沢な予算を持ち続けるようでは潰すことができない。
これは、運営費交付金を年率1%、継続的に減らすことで実現する。
現在も順調に進行中であり、独立行政法人化後、10%近くの減額を達成している。
運営費交付金は、人件費や施設維持費を含む大学運営の基盤となる予算であるため、10%の影響は甚大である。
各大学の弱体化は着実に実現できている。
国立大学間で互いに争わせることで、各大学を疲弊させ、弱体化を加速させる。
取り上げた運営費交付金を競争的資金に振り分け、各大学間で申請書作成と評価報告書作成のためのリソースを浪費させる。
競争的資金の増枠は、大学関連予算全体は減っていないという口実にも使える。
これは現在も実施中であり、次項に述べる「研究以外のことにリソースを使わせる」ことによって効果を最大化できる。
国立大学は、もはや競争的資金によって限定される用途を選別する余地も無いほどに追い詰められている。
この事実を利用し、競争的資金の用途を大学院改革、受験制度改革、組織改革、グローバル化などの名目で、研究以外の用途に限定する。
学術の発展に不可欠な、幅広い研究の実施を防止するために、「選択と集中」によって特定の研究のみに取り組ませることを行う。
特定の分野のみに大型予算を措置し、それ以外の研究を極力排除する。
国立大学の団結を阻止するために、これを早めに絶つ必要がある。
国立大学と言っても、都心と地方では大きく事情が異なることを利用し、大学を「地域・特色・世界」に3分類し、互いの目指す方向を分散化させる。
国の補助も分類ごとに分け、さらに指定国立大学など特定の大学のみ扱いを別にするなどして、大学間の協調を積極的に乱す施策を実施する。
民間企業の実務者および経営者層を、積極的に国立大学に送り込み、大学の意思決定を混乱させ、最終的には傀儡とすることを目指す。
バブル崩壊、経済停滞を実現した主体である日本的経営思想を埋め込むことで、国立大学においても崩壊を実現する。
上記の方策により国立大学の弱体化を実現した際には、すべての責任を国立大学自身に負わせ、
(「国立大の数を適正に」経団連が提言 - 産経ニュース https://www.sankei.com/economy/news/180613/ecn1806130036-n1.html )
前回『【新共通テスト記述式】氏岡真弓氏による朝日新聞の記事を批判する』という記事で、朝日新聞編集委員 氏岡真弓氏の署名記事について批判した。
その要点は、氏岡氏の記事が、国立大学協会入試委員会の対応に関して、(意図的にせよ結果的にせよ)明らかな印象操作を行い、「新共通テストの記述式試験を大学側が採点する」という方法が極めて問題の多い案であるという事実を十分に報じないまま、この方法の採用を後押ししてしまっているという点にある。
いくつかのコメントに飛ばし記事であるとか文科省側のリークというような話が出ていたし、私自身もその可能性はあると考えている。
しかし、その一方で、私は文科省も国立大学協会も正しく状況をレクチャしたにも関わらず氏岡氏自身が(意図的か無意識かはともかく)内容や方向性の間違った記事を書いた可能性、つまり氏岡氏の持っていた見解やバイアスや資質の問題が今回のような記事を書いてしまった原因である可能性も留保している。
これらの点を詳らかにするためにも、氏岡氏は自分自身の言葉で今回の記事に関する経緯を説明してほしいと考えている。
今回私が批判したいのは、8月19日付朝日新聞4面に掲載された『<解説>大学に負担、利用未知数 新テスト記述案』という記事である。
前回の内容は記事化の経緯に関する点であり、氏岡真弓氏に非があることは明らかであると(少なくとも私には)感じられる問題だったが、今回はもう少し論争的な部分を批判したい。
はじめに結論をかけば、
氏岡真弓氏は今回の新共通テストに関する問題特に採点方法の問題を論じる/解説するにあたって、この問題に関する十分な見識を欠いているのではないかということだ。
私が特に重要視している記事の記述は次の2つの記述に集約されている。
この問題を論じるにあたって、国立大学協会入試委員会の提出した論点整理や文科省の有識者会議=高大接続システム改革会議の出した最終報告は役に立つ。
私の批判の要点は、氏岡氏はこの記述の中で、記述式問題において何を問うかという点に関する検討・理解を十分に行わないまま独自解釈を述べていないか、ということである。
特に、「文章を理解し説明する設問」と「自分の考えを書く問題」とを明確に区別した書き方をし、大学側が採点する方法を採ることにより、後者が可能になったと断定している点である。
国公立大学の二次試験の国語で問われている問題はおおむね前者にあたり、文章の記述の内容把握や根拠説明を要求するものになっている。
一方小論文試験や国公立でも非常に僅かだが一部の大学(2016年度だと例えば滋賀県立大・静岡大・首都大学東京・島根大など。ほかにもあるかもしれない。)の国語の試験には、課題文の内容理解を踏まえる形で「あなたの考えを述べよ」という「自分の考えを書く問題」が出題されている。
では、新共通テストの記述式問題で本当に後者のような問題を出すことが想定されているのだろうか。
国語については、次期学習指導要領における科目設定等を踏まえ、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、言語を手掛かりとしながら、与えられた情報を多角的な視点から解釈して自分の考えを形成し、目的や場面等に応じた文章を書くなど、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力に関する判定機能を強化する。(p.54)
とあり、ここにみられる「自分の考えを形成し」という語句は一見氏岡氏の記述に合致しているように見えるかもしれない。しかし、これは、例えば選択肢を選ぶのではなく自分の言葉で説明することを指していると通常は解釈するように思う。
実際、
「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の記述式問題については、現在、国立大学の二次試験で行われているような解答の自由度の高い記述式ではなく、設問で一定の条件を設定し、それを踏まえて結論や結論に至るプロセス等を解答させる「条件付記述式」を中心に作問を行うことにより、問うべき能力の評価と採点等テスト実施に当たっての課題の解決の両立を目指す。(p.56)
と述べられていることを見落としてはいけない。最終報告のp.75に掲載されている図も見落とすべきではない。
つまり、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」は、創造性・独創性・芸術性の評価も含む問題であり「個別入試になじむ」と整理されている。
仮に大学が採点することになるからといって、この整理を放り出して、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」を出題するとか、
「自分の考えを書く問題」を出題すると述べるのは、議論の成果である最終報告よりも明確に一歩踏み込んだ記述になっていると言わざるを得ない。
では国立大学協会の「論点整理」ではどのように記載されているだろうか。
解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大することである。また、設問の中に構造化された能力評価の観点を踏まえつつ、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーに基づき独自の採点基準を採用することができ、各大学(学部)の主体性が発揮できる。
ここでいう「解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大する」という記述には、氏岡氏の言うような「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」という趣旨を読むことはできないと私は考える。
というのも、ここでいう「出題の多様性」という文章は、前半にある次の記述を受けてのものだからだ。
全国共通試験への記述式・論述式問題の導入は、多肢選択問題では測ることのできない能力を評価するための大改革であり、適切にその能力を評価するためには相当数の問題が課されるべきである。また、評価すべき能力が個々の設問の中に構造化されるわけであり、その観点からは、短文記述式(40-50 字)設問のみでは、改革の主旨に沿った十分な評価を行うことができないと言わざるを得ない。解答文字数を含めて出題の多様性が出来るだけ拡大されることが望ましい。短文記述式のみでは早晩パターン化し入試技術化する危惧もあり、持続可能性の観点からも、同様のことがいえる。
これは、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題」を出題するべきというよりは、文字数は40-50字の短文記述よりは長めで、個数は多めにするべきということである。個数を多めにというのは扱う内容の多様性を確保せよといっているように私には見える。50万人が共通して受験するテストの場合、題材が1つだけだとどうしても能力よりもその話題になにがしかの知見があるかどうかなどの運の要素も出てきてしまう。十分な量の問題と十分な長さの解答要求をすることでしか「適切に能力を評価」することはできないだろうと言っているように見える。ここには、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」というような観点は入っていない。氏岡氏の記述は国立大学協会の「論点整理」の文脈からもはみ出していると考える。
また高大接続システム改革会議の最終報告の参考資料2には、今回の新共通テストの問題例が掲載されている。(ただし、あくまでも何を問いたいかを例示するためで直接試験で出題できる問題として掲載しているわけではないという注釈付き。)この中の「国語」の問題では、交通事故の発生件数・負傷者数・死者数の年度変化を示すグラフを掲げ、「交通事故の死者数が他よりも早く,平成2年(1990年)以降減少傾向になっていること」の理由について考えさせている。要求しているのは、資料から読み取れる内容の記述や自分の主張を裏付けるためにはどのような資料を見ればよいかを記述させることである。これは、「自分の考えを述べる」問題ではないことは明らかである。
「出題の幅」とはどういう意味なのかはっきりしない。最初に取り上げた4面の解説記事の記述にもあるが、「自由記述」「本格的な記述」のような書きぶりにも現れているように、言葉の選び方が不用意で十分に検討したと思われない。
しかし一方で、氏岡氏の名誉のために、次のことは指摘しておくべきだろう。
読売新聞が8月20日付の記事『大学新テスト、英語「話す」で民間試験の活用案』の中で次のように記述している。
国大協は記述式の採点を、受験生の出願先の各大学が行う案を示した。(中略)国大協はテストを1月中旬に実施しても、各大学が採点すれば200字~300字程度の記述式が導入できると想定。大学による採点が難しい場合は、採点期間を国立大学前期試験直前の2月下旬まで延長する別の案も示した。
これも国大協が大学側が採点するという案を提示したという問題のある記述をしているのだが、それ以上に、国大協が「200字~300字程度の記述式が導入できると想定」などという「論点整理」には全く書かれていない話を登場させている点に注目したい。
「40-50字の短文解答式」ではまずいという議論から、いきなり「200字~300字程度の記述式」というところへ直接は結び付かない。
上の最終報告にある問題例は、40字以内と80字以上100字以内の設問である。通常、短文解答式ではないものを、という点でみれば、いきなり200字~300字となるのではなく、80字~100字程度の文字数ということを考えるのが自然ではないだろうか?
また国公立の二次試験を見ても、単独で200~300字の記述を要求する大学はむしろ珍しく、東大でさえ最大文字数の問でさえ100字~120字で述べさせる問題である。
もちろんこの「200字~300字」というのが、たとえば小問3個での合計解答文字数というなら話は違ってくる。(1個の大問全体での記述量が500~600字程度ということは珍しくない。)読売記事がそのあたりの正確さを欠く記事になっていることは批判されるべきだ。
といったことだ。
しかしどれであったとしても、氏岡氏の記事は、高大接続システム改革会議の最終報告からは乖離しているし、現状の国公立二次試験での国語の出題状況などについても十分把握しているとも言い難い。また19日時点では取材していなかったのかもしれないが、国立大学協会の「論点整理」とも乖離している。こうした点からも、署名記事を書いた氏岡氏はいったいどういう経緯と解釈でこの解説記事を書いたのか説明するべきだと私は考える。
実は、国立大学協会の論点整理の中には、次のような記述もあることを付け加えたい。
そもそも、記述式・論述式問題に評価すべき能力をいかに構造化できるかは、根源的な課題である。評価すべき能力の構造化があって初めて、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーの中に、記述式・論述式問題を適切に位置づけることができる。しかしながら、国立大学全体にも大学入試センターにも、そのための知識やノウハウの蓄積は未だ十分ではない。平成 32 年度実施に向けて能力の構造化に向けた記述式・論述式問題設計の理論構築、体系化が喫緊の課題といえる。国大協としても、過去の各国立大学の個別試験における記述式・論述式問題に関する実績を調査・分析することなど、この課題に積極的に取り組んでいきたい。
これは、どのような形式で何を問うかということについて、決して十分な知見があるわけではないことを述べており、すなわちこ(「学力の三要素」といった抽象論ではなく)具体的な設計レベルでみれば、新共通テストにおける記述式問題の形式や内容についていまだに十分合意が取れているとは言えない現状を示している。にも関わらず、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」とか「大学が採点を担う国立大学側の独自案が具体化すれば、入試改革は実現に大きく近づく」などと断定する氏岡氏の記述に私は強い不信感を抱かずにはいられない。