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国が滅ぶ前に自分が滅ぶ
完全に個人的な駄文なので興味ない人にはどうでもいいと思うしすぐ消すが、外環道は偉大だ。外環道ってのはあの外環道だ。関東民じゃない人に説明すると、東京の周りをぐるっとまわる(予定)の環状の道路だ。都心からだいたい15から20kmくらいのところにある環状道路で、そう聞くと主要幹線道路として重要なのはまあ分かってもらえるだろう。東京だと山手線、首都高中央線、環七、外環、武蔵野線、国道16号、圏央道など、道路・鉄道にいくつもの環状線があり、その内側と外側は様々な意味である種の境界線になっていることが多い。山手線の内側に住むのが一種のステータスだとか、環七の内側と外側で都会度合いに一つの区切りがあるとか、国道16号の内側が狭義の首都圏でその外は車必須社会であるとか、そういうのは聞いたことあると思う。
外環道は割とデカい道路だ。高架と下道があり、高架上の高規格自動車道であるところの外環道、その下の国道である外かく環状道路、さらにその側道もあることが多い。まあここでは全部ひっくるめて外環道と呼ぶ。高架部分は片側2車線の4車線で防音シェード付きだが、千葉区間のように地下を通ってるところもある。下道たる国道部分も4車線、それに側道まであると聞くと、デカい道路であることは分かると思う。埼玉区間なんて高架がずーっと連なってるし(高層マンションとか展望台とかから見るとよく分かる)、地上部分でさえ4車線に広い歩道に側道にとなるとかなり大きな道路で、交差する道路から見ると圧迫感存在感が凄くある。
しかしそんなスペックの話が主題じゃない。ここから先は個人的な話だ。個人的に外環道は偉大だ。外環道に精神的に救われてきた。外環道は内と外、ハレとケ、日常と非日常の境目だ。あれだけデカい道路だと、通る(横切る)だけではっきりと違うところに行く感覚が生じるのは面白く不思議だ
ワイは埼玉の、外環道から内側(東京側)に自転車でだいたい20分くらいのところに住んでいた。元は都民の端くれだったので引っ越してそこに住んでいた。住んだ当初は埼玉のその土地になんの思い入れもなく仕事がリモート主体で通勤しない分郊外で家賃を浮かそうというのと、特に何の縁もないところに住みたかったからの二つだ。ちなここから先の話は全部自転車の話だ。外環道と言いつつ自動車で走ったことはない。なので以下の外環を通る話というのは、車道の端か歩道、それに横断歩道等で横切るときの話だ。
ワイはその外環道から内側に自転車で20分くらいのところに住み始めて、自転車生活になった。埼玉の都市化された地域なら自動車はいらない。なんせ埼玉の東部は大規模な低湿地帯なので体力次第で自転車でどこでもだいたい行ける。結果、どこに行くのも自転車になった。次第に遠出するようになり、外環道をくぐって外側にも行くようになった
でっかい道路ってのは不思議だな。別にそこを横断歩道で横切ったところで、その先にも街はあるし続いているし、そもそも交差点の前後で同じ市の同じ町内なのに、なんか違うところに来たような感覚がある。これは、ワイがそもそも外環まで自転車で20分はかかっていることもあり、遠出の一環だからというのもあると思う。日常と非日常の境目だ。でもただの2車線のどこにでもある県道などではそのようには感じないので、やはりある程度の規模感がないと"境目"感は感じない。外環道は前述の通りデカい道路で、シェードもある高架道路が目の前にドーンとあって何かこう見た目的にもはっきりと"ここが境目"感があるのである。でも横切ったところで同じ市内なんだけどな。そこが不思議。
そしてここにワイの個人的事情が絡んでくる。ワイは東京にいた頃、とあるとてつもないパワハラ企業に勤めてしまったことがある。新興企業なのでネットに情報がなく間違って入社してしまった。ちなみに今は悪評まみれになっていて大変ざまあである。ワイは半年程度でそこを辞めたし、同日入社組の連中も他社ではそれなりのキャリアだったのにワイより先に辞めてキャリアに泥を塗ったし、ワイより後に入って先に辞めたやつも何人もいる。ITベンチャーだったんだが古参にとんでもないパワハラ気質の古参迷惑社員がいて、こいつがグチグチグチグチ人に難癖つけまくって辞めさせまくったんだな。本人には何の自覚もなかったらしいが。そもそも社長自体が一社員の叱責を全社メールで送るような人だったから人望ゼロで、この社長にしてこの会社もこの社員もありってな。もうその話はいい。ワイはそこを辞めて1年以上働けなかったし、別の会社で社会復帰も大変だった。
そんな傷もまだ癒えぬ頃にリモート生活と自転車生活を始めたもんだから、必然的にというか、心の傷を癒やすために自転車で走りまくった。仕事が夜終わり、リモートだから退勤もないし既に家にいるわけだから、今日はなんだか走りたい気分だぞっとなると徐ろにがむしゃらに深夜サイクリングに出かけるわけである。そして距離が伸びる。外環道まで20分なのにそれすら余裕で通過点になっていく。普通に片道2時間3時間を夜に走るようになっていったのである。そんなだから出発時の外環道の通過(横断)は、外の世界、非日常、辛い過去を忘れるための出発点の意味を持つようになる。外環道の見た目のインパクト・存在感・威圧感もあって気分的にも明らかな区切りになってたのだ
そして深夜サイクリングから帰って来る。片道2時間も走るとどうなるかというと、帰りも当然2時間だ。3時間なら帰りも3時間。よくそんなに走ったなというくらい深夜サイクリングを頻繁にしていた時期がある。帰ってくる途中で、外環道が家までだいたいあと20分くらいのところにある。帰ってきたなあという感想に毎度なっていた。ここで信号待ちをしている時(外環道は大きな道路なので深夜だろうが信号無視はできないw)、疲れつつホッとしつつ日常に帰ってきた感慨をいつも持っていた。
メンタルボロボロだった時期の、完全に心の癒やしになってたよね深夜サイクリングと外環道が。
ちなみにそんなに自転車で走るなら、いっそ外環道の外に引っ越すというのも考えた。だがこれは何度も、いやそれは違うのではないかとも思った。外環道の内側に住み、今日はもうこんな時間からでも走りたいぞってなった時に走るからいいんであって、外環道の外側の世界が日常になってしまったら内と外、日常と非日常を分けるものがなくなってしまう。さらに外側にある武蔵野線も一つの境目だが外環道ほどのインパクトもなければ、あと自転車での超えやすさもないんだよな。武蔵野線、自転車で超えるのめんどくさすぎ。国道16号、圏央道までいってしまうとそれはもう車社会である。結局外環道の外には目標となる境目を見いだせずに引っ越せなかった。辛い時に内から外に行って帰ってくるのが良かったんだと思う
とっくにやってるが?
https://www.pasonagroup.co.jp/media/index114.html?itemid=4551&dispmid=796
一度広げた道幅はもう狭くならないんですよ!
自分が生まれる前に亡くなった兄弟(姉)がいて、人には一人っ子として説明してるけど、これはどう言うべきなんだろう。兄弟トークできないし、かといって一人っ子かと言われれば…?そもそも自分は気にしないけど、初対面で兄弟は死んでますなんて言って場が凍りつくのも怖いし
この腐りきった「事なかれ」の日本で、臭いものに蓋の日本で、お上に逆らわない日本で、長いモノにまかれろの日本で、倫理も社会も人権も世界最下層の日本で。
「トップがパワハラをしている、絶対辞めさせる」と大勢が自分の立場も顧みず訴えた、という事の重さをコイツは全く理解していない
すまん日本語の訂正ってブクマのマウンティングのメジャー層だし
増田でもたまにやってる奴いるし個人的には不快で許せないと思ってんだが
本筋と関係ない重箱の隅をつつくような指摘で申し訳ないのだが失礼を許してくれ
これって
こうする方が正しい気がする
まあ、少子化が進めば色んな問題が出てくるのは確かっすね。でも、「人権のためなら少子化で滅んでもいい」ってのは、極論というか感情的な話なんじゃないっすかね。少子化が進むってことは、単純に人口が減るだけじゃなくて、高齢化が加速して生産年齢人口が減少するってことっすから、社会全体の活力も当然落ちるっすよね。
その結果、インフラや介護に人手を集中させる必要が出てくるってのはあり得る話で、今までの生活スタイルが維持できるわけじゃないっす。でも、だからといって「人権だけは確保されて独裁社会みたいになる」っていうのもまた飛躍しすぎっす。
現実的には、少子化や高齢化に対応するための政策とか、技術革新での生産性の向上とか、社会の構造自体を変えていくことが求められるわけで、それがうまく機能しない限り、極端な未来にはならないっすよ。滅ぶとかいうレベルにいく前に色々と手を打つでしょうし、結局のところ、もっと複雑な問題なんすよね。