はてなキーワード: ダヴィンチコードとは
朝、NHKのローカルニュースを見ていたら、近くの温泉ホテルで現代アートのフェスをやってるというのが流れてきた。
個人的に美術には造詣が深くない。持っている美術知識といえば大学の一般教養で受けた西洋美術史概論(途中でいかなくなったため単位未取得)とダヴィンチコード(序盤で読むのやめた)くらい。
特に「現代アート」なんてものはわけがわからない。ルネサンス絵画や印象派の絵なら実物を見て、「あ、これ知ってる!」「すごい!」、「うまい!」、「きれい!」などの感情を抱けるが、現代アートと呼ばれるものは、見ても「?」、「これがアートなのか・・・アートってなんなのかよくわからんわ・・・」みたいな感情しか持てない。
なので普段なら見流すところだった。
だがしかし、前日にスーパー銭湯でブルーピリオドを読破していた私は俄然興味を持っていた。
今なら、わかる気がする。
もしわかんなくてつまんなくても温泉に入れるみたいだし、温泉ホテルで美術館ってなんか珍しいから話のネタになりそうだし。
というわけで行ってみたんだが、結論から言うと、行って良かったとは思うがそれが現代アートのおかげなのかどうなのかは正直よくわからん、というところ。
会場は半径500mくらいの温泉街の5、6個のホテルに点在していてる。高低差が50mくらいある。結構歩く。つらい。
鑑賞エリアがわかりやすく区切られているわけではなくて、ロビーの一角だったり、エレベーターホールだったり、客室、ゲームコーナー、ラウンジなんかに自然な形で展示されていて、それが意図して作られたアートなのか、元からあったホテルの什器なのかよくわからなかったりする。
どのホテルも年季が入っていて、80年代、90年代のバブル、平成レトロな空気が漂ってるように感じたんだが、これがアートのおかげなのか元からそうだったのかよくわからない。
作品展示以外にもロビーで劇をやっていたり、夕日が沈む海の前でバイオリンを弾いていたり、日常空間が非日常空間になっていてよくわからない気持ちになった。
穏やかな海と冬の午後の暖かい太陽がとにかく美しくて、ノスタルジックなホテルで展開されるよくわからない現代アートと相まって、不思議な空間を作り出していた、気がする。
いやほんと、気がする。確信が持てない。なんとなくでしかない。ずっとほわほわしていた。
ブルーピリオドを読んでいたおかげで、作品が絵や彫刻でなくても「これがインスタレーションってやつね!」と自分を納得させることはできたが、それ以上の助けにはならなかった。
なんだろう、映えスポットだらけだった。現代アートと映えスポットの違いがわからない。若者はあまりいなかったけど、いたらきっと至る所でパシャパシャしてるんだろうな、と思った。
結局私には現代アートはわからないままだった。でもこの日の体験は行ってよかったと思えるものだった。
ダヴィンチコードとアサシンクリードのキャラクターが由緒ある末裔だ、みたいな話を聞かされる筋書きがあるんだけど、アサクリはまだ能書きが少しは理解できるとして(それでもだいぶ無理がある)、ダヴィンチコードの女に至っては現代にアレの子孫が生きて何をするんだという空虚感がすごかった。私はアレの祖先ですって、かつて昭和に南北朝時代の天皇の子孫なる人物を名乗った人がいたらしいけど、その力の無さと同じ感じ。多分言ったところで相手にもされない。要するに現代に生きる要人や勇者の末裔に対する必要不可避な要素が欠けまくってんだよね。実はある人が過去にタイムスリップして人類の祖先になった、みたいな必要性。この人がいないと人類滅んじゃうみたいな危機感。
アサクリも4あたりから諦めちゃったのか、大筋では敵対するアブスターゴ社の体験施設で遊興する仕様になってきている。それがまた平和な光景で、こいつら倒す意味ってあるの、という疑問が噴出してくる。一応ユニティあたりで3までの魅力の全くない主人公の身をなげうった行動に感動したスタッフが命がけで行動するんだけど、それ自体意味あんのかという感じ。大雑把に説明すると宇宙人が文明をもたらしました系列の話で、その連中が陰謀の中心にある。だけど人類育つんならもう陰謀に乗っかったほうが得してないか、という感じで。結果的に超絶マイノリティの主人公サイドは、既成事実として形成された現代という時間軸からすると非常にずれきった感性で動いている。
もとK-1の武蔵選手の祖先が新右衛門さんでした。だからなんやねんみたいな。
すごい、という酒のネタにしかならないわけです。新右衛門さんの威光もキャリアも現代ではまるで無意味という。ここを解決してないとお話は間抜けになるんだと思った次第。
たまにあんなの推理じゃないという人がいるけど、基本的に推理は嘘だろうが作られたものであろうがルールの内部で何かが起こっている、という意味で成立していると思う。
そして虚構推理のような後出しジャンケンが許されるものは基本的にサスペンス(この用語にエビエンスはないがある程度のコンセンサスはあると思う)であって、どう推理してゆくかではなく、どんなふうにアイディアを捻出したかを楽しむのもんだと思う。そんな意味で実はエヴァなんかもサスペンスの範疇に入る。謎は解決しないわ伏線は投げっぱなしだわで今でもいろいろ言われる。しかし展開を次々繰り出すことでサスペンスとして成立した。
ちなみに自分がサスペンスって何だと言われたら、推理未満でも成立する謎要素の多い物語だと解釈している。だからダヴィンチコードをミステリと呼ぶ人はいない(いるかもしれないが少ないはず)。