なんかtableタグ使うのはバカだみたいな風潮あるじゃない?
cssで表とかってどうかくの・・・?
それともレイアウトに使うなってだけ??
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スイーツ(婦)ってすると一気にオバサン臭がするな。
七年後。友達と約束してるから。
うん、今までの俺の文章を読んでそれが理解できないんなら話は発展しないだろう。
荒れてるねぇ。夜はいつもこんな感じなのかね
「成人」と「20歳」は違うぞ?
まぁ俺が「成人」という言葉を使ったのは、未成年にそれは余りに厳しい話だと思うからだけど。ある程度の経験が必要な話だし。
だからそこまで考えて「成人」にこだわったわけではないのです。
結局のところわかりやすく世の中を捉えて思考を止めたいだけだろ。
http://anond.hatelabo.jp/20071120012206
なんとか続いてるよ。少々フライングで12日目としてるけど。
風呂上がりや寝起き、食後の喫煙習慣はなかなかしぶといけれど、ニコチン中毒で吸いたいというのはありません。
むしろ嗅覚が敏感になった分、煙草の刺激臭に若干嫌悪感を感じるようになりました。
最初からこうすれば良かったのに。
ライフハック(漢) Web2.0(漢) ブロゴスフィア(漢) デジモノ(漢) Win-Winの関係になりたい(漢) 日曜大工(漢) スク水ランドセル(漢)
俺ももう片方も怒りまくってて必死になっててとても子供っぽいってことだ。
これは見てるみんなが感じてるぜ。
・1対1の話をしてるのに「見てるみんな」を持ち出す必要はないな。そこは反省しとく。
ふ??????ん(笑)
俺は理不尽で暴力的なお前に対して怒ってはいるけどな。人間だものそりゃ熱くなって怒るさ。
その是非はともかくとして「呆れている」とか「議論はしていない」って言葉に逃げるのは良くないなぁ。
そういった論って、よくあるけども、いつも不思議なんだよな。
なぜ「成人したら」ダメなのか?なぜ20歳になった瞬間から、親のせいにしてはいけなくなるのか?
逆にそれまではある程度許されちゃうわけだろ?
19歳なら許されて、同情されて、それは親が酷いよ、なんていわれたりするところを、20歳になったら突然「お前はお前、親は親、もう親のせいにするな」って、何故なんだ?
ああ、言っておくけど、別に反発してるわけじゃないし(同意してるわけでもないけど)、君にどうこういってるわけじゃない。こういう論ってよくあるから、君に特別向けていってるわけじゃなくて、この「一般論」に対する疑問ね。
最初から、「親のせいにするな。親は親で子は子だ。関係ない」というなら、分かる。同意するかはともかくとしてまだ言い分は分かる。3歳だろうが、9歳だろうが、19歳だろうが、34歳だろうが、「親は親、子は子、関係ない」というならそれは分かる。
あるいは逆に何歳だろうが「子の思考・性格は親に責任がある」という言い分も同意するかはともかくとして分かる。
でも成人したら親は親、子は子なんだ、それはいいわけになるんだ、ってのは分からん。
「普通するもんじゃない」とか「中学生みたいだ」とか、それは論理的には何の意味もなさない、個人的な感情的な言い分に過ぎない。
しかしそれにも関わらず、なんとなく世間にそれが通用してしまっているというのが一番不思議だ。論理の欠片もないこのおかしな言い分で一体何故納得してしまうのか、あるいは、納得せざるを得ない雰囲気が流れてしまうのか。こういった論理的には意味がない言い分であるのに、なんとなしに言われたほうは何も言えなくなってしまうような言葉というのは「世間」「多数派」を盾にし自分は後ろに隠れ隅からやりで刺してくるようななんとも言えない卑怯さを感じてしまう。これをだしときゃまず何もいえまい、というような卑怯さというか。なぜなら何かこれで相手が反論してきても、もう「ほらこうやっていつまでも子供みたいに屁理屈こねる」みたいにしてしまえばいいからだ。「いい大人が」とか「成人にもなって」と言った言葉にはそういう負のパワーがある。論理的には何も成していないのに、何となく「成人なんだから」とか「いい大人が」を言えば、いくら論理的に反論したところでそれは「子供じみた屁理屈」に変化する。何をどうしてもこれを言った時点で勝利が決まり、大人目線、上から目線で「なっていないガキ」を思う存分説教できるという空気が出来上がる。実に不可解で不思議だ。
仮に子の人格形成に親はかなりの影響を及ぼし、かつ人格というのは幼児期から学生時代辺りまででほぼ決定してしまうというならば(20歳まではいいけど20歳超えたらダメだ、というこの論からしてこの仮定は前提として認めているんだろうが)、ある年齢を超したらもう親に責任は無い、というのはもうこれはかなり解せない。一体どういう理屈ならそうなるのか。時効的な考え方なのか?それにしたって早すぎやしないか?せいぜい、時効を設定するにせよ、その「子」が「親」になるまで、ぐらいが妥当ではないか?昔ならば20歳でよかったのかもしれないが。
そもそも、親は子の人格形成に影響を及ぼさないし、幼児期や学生時代の人格はあまりその後に関係が無い、という主張ならば(その是非はともかくとして論理的な理屈は)分かるが。上の仮定を認めた上で、「成人になったらダメだ、子は子だ、親のせいにするな」というのは分からない。
あるいは「そんな事言ったら親になるの超大変じゃん。だから便宜的に親にはそういう責任は追及しないって方向にしようよ。大体その親たちをそういう人間にしたのは更にその上の親で、みたいに話が終わらなくなるし」という物事の根本、論理的な理屈とは関係の無い「そうしないと事が進まないし」的な便宜的な言い訳なのかもしれない。なんにせよ論理的には全く理屈になっていないのではないか。つまりこの「子の人格形成についての親の責任問題」は、「成人過ぎたら親は親!子は子!そういうもんなんだ!」でなんとなく決着がついているようで実は全くついていない。この言い分は対症療法的なもので、根本の問題からは目をそらし続けている。一体親はやはり責任があるのかないのか、その辺はいつも「オヤジ的説教」でぼやかされている。俺はそこが知りたいと思う。
「そんなところを追求したところで、結局その親を責めたってどうしようもないし、自分が変わるしかないじゃない」とかそういう対症療法的な言い分はとりあえず別問題である。是非がどうのではなく、全く別だ。一体責任があるのかないのか。そしてなぜそこをぼかすのか。「20歳過ぎても親にそうした人格にしてしまった責任はあるよ。あるけど、でもいちいちそんなこといってたらなんてーかキリないじゃん?だからしょうがない」的には絶対言わず、前半の責任の有無についてはぼかし対症療法的な事しか言われないのは、逆に、その「責任の有無」について本当は後ろめたいところがある、つまり本当は親に責任があると思っているからこそ言えないのではないか?もともと人格形成について親に責任はないのだ、と思うならそれを言ってしまった方が早いわけだ。
結局皆、思ってんじゃないのか、人格形成は親のせいだって。
20歳云々は便宜的な意味でしかないんじゃないのか。
まあどうせそういう便宜的な案をとるんなら、俺としては「子が親になるまで責任はある」くらいがまだ妥当な気がするけどね。だって20歳ってまだ大半は学生だよ?早すぎだろ。子が親になるならば、「もう自分の事だけでなく子のことも考えねばならないからいつまでも自分の事を親のせいにしていられない」とか説明しやすくなるしこれを採用すれば「そんなこといったらその親の責任はその親に」というどんどん祖先のせいになっていく現象も止められるしね。「20歳になったんだから」式だと否応なくそうなってしまうけれども「親になるまで」式ならば自分の意思でそれを決断する分、覚悟も出来やすいし反発も少ないだろうしそもそもこれから親になろうって人間がもうそんな悩みを抱えていそうにはないしね。あと実際、子が親になったら物理的に子の方に親のいない新しい家族が生まれて親は親で子がぬけた新しい家族が出来るわけだから、「親は親、子は子だ」も納得しやすいと思う。
だからどうせこういう論をぶつなら「20歳になったんだからもう親は親、子は子だ」より「子が親になったら、親は親、子は子だ」の方がいいと俺は思いますがどうでしょ?