はてなキーワード: ゲートボールとは
地元のおっさんの自己顕示欲を満たすために補助金交付したり、いろいろ調整したりするのに嫌気がさしてきた。
自分では一切考えを出さないくせに、文句しか言わない。そのうえ何かやるにしても、結果じゃなくて自分がいかに楽して目立つかしか考えていない・・
特に問題は体育委員?とかいうやつら。くだらないゲートボールもどきやら輪投げやらをやるだけでスポーツをしているつもりになってやがる。イベントやっても老害しか集まってないし。
というか老害向けイベント以外だと地域から強制徴用しないと人集まらないレベルだし。
お前らの自己満足のために税金投入してるわけじゃねーんだよクソが。その金でカラス除けネット買ったほうがまだ地域の役に立つわ。
叩かれてもいいから、何かの役に立ちたいと思って公務員になったのに、今までやってきた仕事は世の中に必要のない仕事と思うと、給料もらうことにすら罪悪感を覚えてくるわ・・・
アラフォーです。
小さいころイメージしていた老人たちはゲートボールをしたり、老人会で温泉旅行に出かけたり、俳句を読んだり、演歌歌手を応援したり、日本舞踊したり、詩吟したり…というイメージだった。
30年たって、不思議な事に今も老人たちが熱狂しているのはこういったピュアジャパンスタイルのカルチャー(もちろん枝葉の部分では違うだろうが、全体の傾向として)からたいして変わってないのではないかなと。
老人たちがアニメに熱狂することが「普通」だったり、ゲームをボケ防止にするのが「普通」になる日は来るのだろうかと。
(まれにオタクが喜びそうな老人がユースサブカルチャーにハマっているネタは投稿されるけど、あれって大抵、レアケースの話だよね?っていう)
今日も、これを書いている横で、うちの近くの国道の旧道を街道マニアのおじいちゃんたちがリュックを背負って歩いて行くのを見つつ。
・チーズケーキ(安いなりのおいしさがあったの
メニュー写真よりもたっくさんお野菜がのってて、ものすごくヘルシーでまろやかにおいしかったの
~なんかもっとこう、あぶりチーズと軽く火の通ったサーモンが舌の上で絶妙なダンスを踊るかと思ったらそうでもなかったの
プロゴルファー猿を期待してたのに、実際はゲートボールのおじいさんだった感じだったの
~麺はいいとして、スープがラーメンというよりは味噌汁って感じだったの
あんまり胃もたれするような脂っこいのも困るから、ちょうどいいといえばちょうどよかったの
でもラーメンではなかったからやっぱりなんか物足りない感はあるの
大葉で味が殺されちゃってて、せっかくの天然の味が完全に殺されちゃってたの
くら寿司許すまじ!なの
胃が小さくなってて、寿司ネタは食べたいのに白米がきつくて頼みづらい状況になっちゃったから、そうそうにデザートタイムに入っちゃったの
以上レポっす、なの
(追記なの)
ごめんなさいなの
ルーレットはコナンのマグネットとマスキングテープがあたったの
そのままテーブルに置いてきたの
そこで「子育てに適しているか」というのは、言うまでもなく大きなファクターである。
しかし、本当にそうだろうか。真に子供のためを思っているだろうか。
子供のため、というのは名ばかりで、子供を育てる大人の都合しか考えられていないのではないか。
例えば移動。
車社会のデメリットは交通弱者に厳しいことだが、特に地方擁護派は、このデメリットを軽視しすぎている。
突然だが、地方の公共交通はおおむね3通りに分けられる。ざっくり言って、便数が少ないか、高いか、その両方かだ。
それでも大人は、自家用車があればいい、と割り切れる。(だから余計に公共交通が使われないのだが)
公共交通に頼れないとなると、親の顔色伺わないことには、事実上移動や買い物の自由がなくなってしまうのだ。
ちなみに、地方では最近、車を運転できない世代が買い物難民と化すという問題が起きているが、
自分たちは何十年も前から、その苦しみを知っているのだ。今になって騒いでどうする。
自然の中でのびのび育てたいとかいう、ありがちなワードも意味不明だ。
単に都会の誘惑から遠ざけて、無菌状態で育てたいというだけではないか。
いささか乱暴な話だが、都会に住居があるほど金があるなら、休日に自然公園にでも連れていくぐらいわけもなかろう。
確かに公園は多いが、禁止事項ばかり多く、事実上ゲートボール専用になっている。よくネタで言われるが本当にそうだ。
土地が安ければ、兄弟が2~3人いても、自分の部屋を持てる率が高い。なかったら最悪だが。
地方は地域トップの進学校でも、都会で言えばそこそこのレベルに過ぎないことも多いから、
運悪く教育ママの家に生まれても、都会ほどには消耗せずに済むかもしれない。
まだまだいろんな要素がありそうだが、とにかく言いたいことはひとつ。
[ご意見のお礼]
みなさん、いろいろご意見ありがとうございました。少し補足しますと、
実際、うちの近くの公園は軒並みダメで、学校も放課後でも上級生が授業中とかでボール遊びはできません。
グローブやボールの持ち込みも禁止されてます。校庭解放は月に一度だけ土曜の午後のみで、ここでもボール遊びは
できません。野球やサッカーをしたかったら「習いに行く」しかないようで、そういえば大勢の子どもが習いに行っています。
ちょうど大阪市長選があります。この声が届くことがあればいいなと思っています。みなさんありがとうございました。
皆さんの家の近所にはキャッチボールができる公園はありますか?
本格的な野球でもサッカーでもない、ちょっとした子ども同士のボール遊びができる場所がないんです。
ちなみに大阪市です。
子どもがマンションの敷地内の小さな公園でキャッチボールをしていて管理人に叱られ、(管理不足ですみませんでした)
近所の公園でやりなさい、といって行かせてたら、数か月して掃除のおじさんにここもボール遊びはダメだ、と叱られて帰ってきました。
子どもたちがいつもDSをもって公園のベンチで座ったままなのをみて、もっと体をうごかして遊んだら?とキャッチボールを
勧めたものの、このありさま。
何をすればいいの?と聞かれたので、うーん、鬼ごっことか、縄跳びとか・・・でつまってしまいました。
子どもにもっと体を動かせ、とか、ゲームばかりするな、と大人は一方的に要求しますが、
キックスケーターとかスケボーだって、道路が危ないってわかってます。
だけど、やっていい場所がないんです。
「サブカル」と聞くと若者向けのちょっと尖った商品、作品と思う人が多いと思う。
たしかに、その認識に間違いはないだろう。ただし、十年以上前の話しならば、だ。
サブカルと聞いて、あなたは誰を思い浮かべるだろうか。
みうらじゅん、吉田豪、または伊集院光……だいたいこの辺の人間は必ず挙がってくる。
しかし、ちょっと考えてみてほしい。同様の質問を五年前、十年前にしてみた場合、やはり同じ名前が出てくるのではないだろうか。
もちろん、彼らの実力は本物で、ゆえに需要が高く、キャリアも長くなっている。
だが、本当にそれだけが起因と言っていいのだろうか。
はっきりと言おう。サブカルは世代交代がなされていない。雑誌を開くと何年も同じメンバーが似たような切り口でコラムを書き、書店のサブカルコーナーに行けばいつも通りのスターディングメンバーの新刊が出迎えてくれる。
その原因はめぼしい新人が現れないだとかいったことが理由ではない。もっと内部に醜く捻れた構造が眠っているのだと、私は思う。
そもそもサブカルは主流文化に馴染めないエッヂな(悪く言えばひねくれた)人間が集まって形成されたものである。既存文化ではカテゴライズできない魅力を求めた人々が消費していたのだ。
しかし、いつしか本来既存からはみ出していたはずのそれらを、「サブカル」とパッケージングし、売り始めることになる。
そして、そのパッケージングされた商品を、個性尊重教育で「他人と変わっていなければいけない」という強迫観念にかられた人々が、「個性」を買うために手にし始めるのだ。
カルチャー誌もそれを後押しする。ロリータの作者、ナボコフは「広告はその商品を買えば、あたかも購入者が高貴な存在になれるかのように錯覚させる」と言い放ったが、彼らも「サブカル」のカタログに載っている商品のどれかを買えば、自らも個性的になれると錯覚していると思われる。
彼らの目的は自分の趣味を追求することでも、なにか新しいものを創造したりすることでも、見つけ出したりすることでもない。「自分は個性的」と安心したいだけなのである。孤立を覚悟してでも自らの感性を信じきっていた先人とは大違いだ。
さらに最悪なことにこのような人間は「クリエイター病」を併発している可能性が高い。「クリエイター病」とは、なにかモノづくりの現場に関わり、有名人と交流することこそが人生最良の道であり、クリエイター系の仕事についてない人間はすべて挫折し夢敗れた落ち武者で、毎日布団のホゾを噛みながら恨み言を呟くような悲惨で陰湿な生活を送っているに違いないと思い込むことである。
個性を金で買うようなクリエイター病羅患者が制作側に回るとどうなるか。それがいま現状起こっているような世代交代がまったく進まない世界、というわけである。
彼らのやりたいことは新しいものを見つけ出すことではないため、既存の「個性的」と烙印の押された人物に、自らのプライドを満たすために仕事を依頼することになる。その結果がどこを見ても「みうらじゅん」状態を作る。そして、サブカルは予定調和で満たされる。
みうらじゅんを使えばOK。ボンクラっぽいことを書けばOK。童貞って言えばOK。すべて約束事で構成されているくせに、あたかもエッジであるかのように気取る。
もちろん、そんなことをやっていると感性の鋭い人間は当然そっぽを向く。雑誌を買わなくなり、ネットなどを使って自分の足で本物を追い求めるようになる。それがスタジオボイス廃刊のカラクリである。
同じ人間を使って同じようなことを繰り返した結果、サブカルは特定の世代にしか相手にされていない中年文化へと成り下がった。まずはそれを認めるところから始めよう。このままじゃゲートボールや盆栽と同じになってしまう。
「私、サブカル好きなんです」と宣言し、オーケンと絡んだりしているアイドルのなんとどん臭いことか。サブカル好きと見られたいがためにサブカルとパッケージングされているオーケンの商品を買ったでしょう?
ソラニンの実写映画の主題歌を、アジアンカンフージェネレーションが担当すると聞いて「えっ!?」って思った人がいたかい? みんな「ああ、やっぱり」って思ったはずだ。本当のサブカルは、そんな予定調和から遠く離れたところにあるはずなんだよ。
就活のためってのなら、もう、腹決めろ。公園行け。年寄りいるだろ。適当に声かけてみろ。
すれ違いながら「今日は」
鳩見てたら「鳩多いですね」
カモメ見てたら「この前エサあげたらつつかれました」
年寄りなら3人のうち1人くらいは返事するから。彼らはオヤジ狩りとかレイプとか恐れてないから。世間話しろ。涼しくなりましたねとか、あの花は先週まで咲いていたとか、犬飼ってるやつが多いとか。わからない話振られたら、聞いてやれ「いや、鯉ってわからないんですよ。赤いのが緋鯉ですか?」とか、「ゲートボールって、ルール難しいんじゃないですか」とか
コミュニケーション力は実践で初めて完成するってのは事実。近所から「あそこの坊ちゃんはハキハキしたいい子だ」と噂が立たないうちは、偽物だ。とにかく表を歩いて老人と話せ。日焼けして見かけもたくましくなるから一石二鳥だ。あと、髪は短めな。背筋伸ばせよ。うつむき加減で世間から目をそらした話し上手なんて居ないから。
中学のとき友達6人と誰でも使える野球場で野球して遊んでて、そこへ野球部連中が部活以外でも練習したいらしくてどかどかやってきて、(けして横柄な態度じゃなく)「遊びでやってるならどいてくれ」と言われた時のムカつきに似てる?
プロ指向か何か知らないけどプロじゃない以上おまえらだって遊びじゃねーかと言いたい気持ちをぐっとこらえてどきました。そんでその隣の誰も使ってないゲートボール場でキャッチボールとかバント練習とかしました。
それから15年経ちますが今でもその時の友達とは年に数回は野球をします。みんな住んでるとこバラバラなのに。