持ち前の類稀なセンスでカバーしてはいるが、家庭を見る視点はありきたりな家庭人のそれだ。
その点では、落合陽一は「人の親になって、簡単に死ぬわけにはいかなくなった」というような典型的な手のひら返しをしないところにおいて好印象である。
女子10人ぐらいで行きまーす!
横綱日馬富士が引退 暴行問題で
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24022990Z21C17A1CC0000/
上の記事を読んだ。なんとまあビール瓶で殴られると痛いから責任を取るため引退するそうだ。
もちろん私は一定の格闘技に関しては異議を唱えるつもりはない。テレビでボクシングの試合を見た時はあまりの迫力に熱狂した経験もあるし。
しかし、今回の暴行による責任追及や、居酒屋含む飲食店全面暴行禁止の流れはあまりに常軌を逸していると感じる。
「人に殴られないようにする権利」ばかりを尊重しすぎて、「人を殴る権利」を脅かしていないかということだ。
「人に殴られないようにする権利」に正当性をもたせるのは簡単である。「痛くて嫌だ」と主張すれば済む。さらに一般の人が受動殴打として害になるか検証されていない、体についた血液や体液に含まれる有害物質についても、免疫力の低い人の被害を引き合いに出せば、被害者を簡単に創出することが出来る。
しかしながら「人を殴る権利」の方は、「人を殴りたい!」といった子供じみた権利の主張以外に何が出来るというのだろうか。結局非暴力者の支持をとにかく得にくい構造になっているのである。
こうして「被害を受けない権利」だけが尊重され、「する権利」は衰退していく。
この構造は、現在日本のあらゆる場所で表出していないだろうか?
保育園では子供の金切り声による騒音を避けるため、園児たちは二重サッシで仕切られた室内でこじんまりと遊ばされている。
海岸での花火は近隣住民の迷惑になるので禁止。
路上駐輪は景観が損なわれるので即撤去。
風俗店は即摘発。
こういった流れが進行しているのも、活動的で主体となりやすい子供や若年層が減少し、一方で客体となりやすい高齢者が増えたのと無関係ではないだろう。
どんどんと窮屈になる日本。他人の多少の迷惑を許容する代わりに、「する自由」に満ちた社会のほうがずっと心地よいと思うのだが。 >
君もきちんと発達しているようには見えないね
というより、痴漢電車とか女性の権利とかタバコあたりのネタで延々繰り返し。
毎回、自分の言いたいこと書き殴るばかりで話は進展しないし
目に入った増田にも書いてあったが
「健康被害が叫ばれる世の中」というおおっぴらな問題の裏側に「譲らない世の中」という根本的な闇が奥深くまで漂っていると思う
地上で生活している私たちはそれに気づかずに、しかしどこからか漂ってくるこの腐った空気を少しずつ吸い込みながら、それこそ煙草の煙のように体を蝕んでいる
効率化と削減によってことごとくすり減らされた現代人はそこで生活するしかないのでそれを体内に取り込みながら生きている
もう少しゆっくり生きていきたい
『鋼の錬金術師』を読んだことがある人なら、「やらない善よりやる偽善」という言葉に覚えがあるかもしれない。
うろ覚えだが同漫画の中で、敵国の国民を治療する医者を偽善者だという人にその医者が返した言葉であったと思う。
この言葉を聞いた当時、非常に感銘を受けた。『人を助ける行為が悪であるはずがない。自分もこの医者のように利害を超えて人を助ける人間になりたい』と思った。
しかし、最近『偽善とはこういうことか』と気づくことができた。きっかけは仕事で大きなミスをしてしまったことだった。
ミスを責められ、自尊心が傷ついた私は、その自尊心を修復するために何か人に親切なことでもするかと考えた。
しかししばらく考えた末、この親切は完全に自分のための行為であることに気づき、『これが偽善か』と実感することができた。
では、『偽善は悪か?』と聞かれれば、決してそうではなく、偽善だと指摘する人が一番悪いと思う。
例えば
自分のために善をする人A
善を受け取る人B
の三人がいるとする。
もし、Cが存在しなければ、AとBはWIN-WINの関係で終わるのではないだろうか。
Aは感謝されることで自尊心を取り戻し、BはAの行為によって助かる。
Cがいることによって、得をする人は一人もいない。いるとすれば、C自身だろうか。
しかし、Cの行為によってAは自尊心がさらに傷つき、Bは『厚意で助けてくれたと思って感謝したのにだまされた』とAの行為を責めるようになるかもしれない。
このことから、自分のためとはいえ人を助ける行為をする人間は責められるべきではなく、責めるべきは他人の親切を曲解し、偽善だと言う人間なのだと言える。
よく読んでいたブログが閉鎖されていた。
あるアーティストのファンブログで、私もそのアーティストのファンだった。このところ主だった活動はラジオのみ。
アーティストは曲を作ってライブしてなんぼだと思ってるので、このところの活動には不満を持ってる。
ブログの主も、同じようにに思っていたのか、「今◯◯は、なにを考えて活動しているのかわからない。」と書いていた。
私も同感だ。歌う姿が見たい。
絵本作家の姿、アーティスティックな写真、ヒット曲のピアノアレンジ版を見たいんじゃない。
前向きな新しい作品が聞きたい。
喫煙者の権利と、非喫煙者の権利は等しくない事をまずは理解してほしい。
「喫煙する」という行為には、どうしても以下のような副産物が生じる。
・本人が思っているよりも口臭い
・灰が舞い散る
すなわち「喫煙する」権利は、「これら副産物を許容してもらう」権利も主張しなければならない。
保育園や公園などの問題すり替えを行っているが、タバコについての話なんだからほかの話でごまかさないでほしい。
他人の多少の迷惑を許容してほしい? それは非喫煙者のセリフだと思う。
本当に可哀そうだと思う時もあるが、嗜好品は他にもあるわけだし、社会の「他人に迷惑を(極力)かけない」という大前提を守ってほしい。