はてなキーワード: 色即是空とは
仏教における「空(くう)」は、物事や存在には固定的な実体がないことを意味します。すべてのものは因縁によって生じ、相互依存しているため、独立して存在する実体はなく、変化し続けるという考え方です。これは「無自性(むじしょう)」とも呼ばれ、仏教の中心的な哲学的概念の一つです。
「空」は特に大乗仏教において重要であり、すべての現象が「空」であることを理解することが、悟りへと至る重要なステップとされています。例えば『般若心経』では「色即是空、空即是色」という言葉が使われ、「形あるものは空であり、空は形あるものと同じ」という教えが説かれています。これは、現象の本質を正しく理解することで執着から解放され、苦しみから解脱できるという仏教の根本的な教えを表しています。
「空」は仏教の修行や解脱の道において極めて重要です。物事に実体がないと理解することで、煩悩や執着から解放され、慈悲や知恵を育むことができるとされています。この視点は、苦しみを生み出す無明や誤解を打破し、真理を悟るための鍵となります。
世界が五分前に生まれたということはどういう事か分かりますか?
仏教徒の皆さんは「この世界はシミュレーテッド・リアリティに過ぎないから色即是空なんだ」とおっしゃるでしょう。
キリスト教徒の皆さんは「神がこの世界をお作りになったのが五分前なのです」とおっしゃるでしょう。
私の論点は、実はそこにはありません。
つまりですね。貴方が東大卒だとしてもその学歴は「貴方が何年も頑張って勉強して手に入れたもの」ではなく「何年も頑張って勉強して手に入れたという設定により手に入れたもの」だということです。
もしも貴方が自業自得の事故で五体不満足であってもそれは「貴方の不注意によって生じたもの」ではなく「貴方の不注意によって生じたという設定により生じたもの」だということです。
これについて「何の罪もないのに不幸ならば、それはあまりにも理不尽だ!」と思うかも知れません。
自業自得だと思えば耐えられたものが、自業自得で無かったと考えたら耐えきれなくなる人もいるかも知れません。
ですが考えても見てください。
過去の貴方はもう既に今の貴方にはコントロールしようがない他人なのです。
現代社会では多くの人がもうすでにコントロール出来ない過去に対しての後ろめたさから前を向けなくなっています。
仕事が上手くいかないのを「過去の自分が頑張っていい会社に入らなかったせいだ」と悔やんだりしても、それに何の意味があるのでしょうか?
人間関係が上手くいかないのを「子供の頃からもっと人付き合いの勉強をしていればよかった」と悔やんでも、それは過去の自分への八つ当たりのようなものではありませんか?
過去は五分前に作られてしまった設定なのでもうどうしようもありませんが、未来は現在の自分によってある程度コントロール可能な領域です。
「その考え方をするのに別に五分前仮説は必要ないのでは?」というのは正論ですが、人は正論にそのまま従えるほどに賢い生き物ではありません。
「過去はもう過ぎ去ったから仕方がない」と信じるためには、過去の自分と今の自分を決定的に切り離されなければいけないのです。
そのためには世界観に「巨大な仕切り板」を作ってやることが効果的なのです。
もしも、貴方が見にくく太っていたとしましょう。きっと貴方は過去の自分が自分で許せないという気持ちで日々を生きるでしょう。
ですがもしも、それが五分前に作られた設定だったらどうでしょうか?
自分で自分に攻撃することをやめれば気持ちに余裕が出てきます。
すると今度は他人の悪癖さえも「五分前に作られた設定に引きずられているだけなんだから仕方ないな」と許せるようになるでしょう。
もちろん「俺は五分前に連続殺人鬼として作られた人間なのだから殺人衝動も仕方がないのだ」と暴れまわる人は当然のように逮捕されます。
世界がそういう設定であるから仕方がないと人を許すことと、世界に設定された法律が無条件に人を許すことは全く別だからです。
五分前仮説を信じる世界とは、裁かれるべき罪がフラットに裁かれ、その上で人の心が不必要に裁かれることがない社会なのです。
その社会において人々は他人が法によって裁かれるべき存在であるならば淡々と裁き、私情によって私刑を加えられそうであれば許していけるわけですから、本当の意味での法治国家がここに産まれるというわけです。
ですが多くの人は仮説という表現につられてこれをただの思考実験と捉えてしまっています。
違うのです。
「天賦人権論」が単なる論では終わるものだと考えている人は現代にはほとんどいないでしょう。
「天賦人権論」はある種の信仰、それも20世紀的な社会の土台となる新世代の教義とも言えるものです。
ですが、これが社会に浸透するまで、多くの人はこれを「仮説」として捉えていたのです。
「世界五分前仮説」には、「天賦人権論」と同じく、新世紀を代表する宗教となれるだけのポテンシャルがある。
私はそう思います。
なるほど。
なんで私がこんな増田を書こうとしたのかよく分からないのですが、そういう設定の人間として社会に生まれたのなら仕方がないですね。
貴重な月曜日のアフターファイブをドブに捨てたような気もしますが、書いている状態で始まってしまった人生を書き終わらせずに続けるのもおかしな話ですから、書ききったことに後悔はありません。ありません。ない。ないです。
そこは「シューニャター」だろ、OpenAIには仏教徒か、せめてまともな教養を身につけた人間はいないのか?
いないんだろうなー。
でも、そういえばOpenAIにはAIがいたな、と思い出したのでChatGPTに聞いてみた。
質問: 西洋人が開発したあるサービスの名前に、色即是空の「空」を名付けました。アルファベットでどう表記しますか?
回答: 西洋人がサービスの名前に「空」を付けた場合、サンスクリット語の「空」は「Śūnyatā」と表記されます。したがって、そのサービスの名前にこの単語を使用する場合は、アルファベットで「Sunyata」と書かれることが一般的です。ただし、サンスクリットの発音や翻字にはいくつかの方法があり、「Shunyata」のように表記する場合もあります。この単語の選択は、サービスのコンセプトや背後にある哲学に深く関連していることでしょう。
昔から色即是空、空即是色と言われるように、意識なんてあると言えばある、無いと言えば無いという程度のもの。
原子が流れ分子が波打ちシナプスのミステリーサークルが不確かな論理的輪郭を持つ
そんなのが崩れることは当たり前。むしろ一瞬も意識が同一を保つことはなく、もし意識を生存の定義とするなら、常に我々は死に続けている。
花が咲いて枯れて土になるように、ヒトも生きて死に朽ちるように、雨が川になって海に戻るように、全ては一である。
お前はそこにいない。お前は全てだ。お前は世界だ。シナプスのつながりが特定の表象を生み出すように、縁がお前の輪郭を形作る。一瞬として同じ形はない。全ての瞬間で何も変わっていない。
一つのシナプスが死んでも、脳は動き続ける。一人の人間が死んでも、お前は動き続ける。
お前は意識の中に居るのではない。お前は意識ではない。お前は脳ではなく、お前はホモ・サピエンスではない。
お前は知覚できない古代からの物質の奔流の先端に在るだけであり、連綿と続く因果こそお前だ。
因果は全が一になり、一つとしてつながりのない存在はなく、それこそがパラメータの集合のゲシュタルトとなっている。世界のゲシュタルト、お前のゲシュタルト。
なにが
「完 全 に 理 解 し た
やねん。
初恋の相手に「ごめん。生理的に無理」って言われた直後の小中学生か?
しかもそのあとも
全は一 一は全 全ては同じだ
名付けて『色即是空』ドヤ?マジかっこよくね?」
とか抜かしおる。
マトリックスみた直後に陰謀論に目覚めた人みたいなことばかり言ってる。
それこそがすくいなのだ!
真理に目覚めた俺、今もう感情とかないんだよ
マジ俺もう完全に極めたから」
痛さが尋常じゃない。
大川隆法とどっこいどっこいっしょ。
なんなんこれ?
これ唱えて何の意味があるんだよ。
勉強したら心が楽になるって聞いて読み込んでみたけど、マジで痛痛しいだけの「俺まじで理解したから。この世界は紀の持ちよう次第。つまり虚無。心を殺してノーダメの俺サイッキョ」しか書かれてない。
信じられねえ。
これを本気で唱えて「うおおおおお俺は感情死んでるからサイキョウオオオオオオオ」とかやってる連中だったんだな僧侶って。
アホやん。
ビビるわ。