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2017-06-19

梅雨なのに雨が増田降らない奈良府出す真亀兄の名湯津(回文

みかん花咲く丘公園駅

うんと外れの丘陵地帯のさらに奥に行くと急な斜面の山肌になってて

そこら一帯は蜜柑栽培が盛んなのね。

ミカン農家の人も言ってた、

晴れもいいが梅雨で雨も欲しいなぁと仰ってたわ。

横澤夏子の今の気持を雨と重ねる女シリーズ三部作

この時期梅雨なのに

まりにも雨が降らないわよね。

その三部作梅雨編の梅雨の時期にイラッとする女ですら

雨降って欲しいと思うほど、

最近雨降らないわよね。

梅雨雨欲しいわね。

おはようございます

あー、なんか空気はカラッとしてていいんだけど、

咲いてるサジサイさんも雨を恋しがってる感じだわ。

梅雨って漢字で書いて、

ばいう、つゆって二つの読み方がある漢字とか

日本語学習してる人にとってはかなり鬼要素らしいわよ。

あとreversibleとかカタカナで書くとき

普通にリバーシブルって書くじゃない、

「ー」の棒を使うルールとかもなんか有るようで無いみたいで

それも鬼らしいわ。

同じ読みでも

蜜柑みかんミカンとか

その前後文章とかのニュアンスも含めて

あえて漢字で書いたりひらがなだったりカタカナだったりで

書き分けたりするじゃない。

あれもなんかうまく説明出来ないのよねー。

何の話だったっけ?

梅雨の話ね、

ハッピーバースデー梅雨

なんちゃって

今日は私の誕生日じゃないけど。

うふふ。


今日朝ご飯

久しぶりに何週間かぶり

お気に入りタルト屋さんに行ったので

ベリータルトを買ったのね。

やっぱりそれが美味しくってたまらないわ、

からなんてゴージャスブレックファストなのかしら。

牛乳もすすむわっ!

最近、全私の中で評判と名高い牛乳

よくよく考えたら栄養素かなり抜群なんじゃね?って思うほど

美味しいのよね。

ちょっと見直しました。

デトックスウォーター

ジャスミンティももうレシィピお手のものよ。

茶葉は少な目がいいわやっぱり。

麦ウォーラーちょっとまた作りたいわね。

冷蔵庫も整理しなくっちゃ!


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2016-11-13

[]

瑞浪市北方博物館群に行ってまいりましたわ。

私の命名ですわ。古墳風に呼んでみました。

実際に土岐川(後の庄内川)の北側丘陵地帯には多くの古墳があるのですわ。

近くには大島一号古墳もののついでに展示されています

瑞浪市化石博物館

前にも取り上げたことがありますわ。http://anond.hatelabo.jp/20160723193013

瑞浪mioちゃんのパネルトイレを真っ正面から覗いていることに気付きました。

いけない子ですわ。

友の会の方々が集められたコレクション特別展示されていました。

年に一回の北陸巡検があると書いてあって活動的だと思ったら、

他にも渥美半島に行ってらしていて、個人的東北採集旅行される方もいるそうで、

活発さに驚きました。

常設展にはやはり鯖はいませんでしたわ。

イワシやニシンはいらっしゃるのにぃ(ハンカチ噛み裂きですわ)!

思うに浅水域への接近程度で化石になる確率が変わるのですわ。

瑞浪市陶磁資料館

人間国宝加藤孝造氏から大量の作品寄贈があったそうで、

彼の作品ばかりを展示していました。

初期の作品は土に厚みのある重厚作品なのに対して、

最近作品はそこまでの厚みはなくなっています

それでいて均整のとれたフォルムから醸し出される風格は

昔の作品に劣りません。

志野瀬戸黒、黄瀬戸唐津と単色の作品が目立ち、

一見地味ですが、長く手元においておくとじわりと良さが

伝わってきそうでした。

最初期の青い染付皿はその点で異色で、方向性を探っていた時代が感じられました。

サイエンスワールド

子供向けに実際に化学実験を実演してみせる施設です。

知育にとても良さそうで興味深いのですが、家族連ればかりで

参加はお一人鯖にはしきいが高く、図書コーナーで星ナビ11月号を読んできました。

期せずして明るい失敗国家ナウル共和国訪問記が読めたのは収穫でした。

・市之瀬廣太記念美術館

瑞浪市出身彫刻家、市之瀬廣太の美術館です。

ブロンズ製の裸身像がアーチ型天井の展示室におかれて西洋風ですが、

裸身像はしょうゆ顔で体型も完全に日本人ですわ。

女性の胸部や男性器はあまりいやらしい感じはしません。

でも、裸身像の制作者は誰もが一度は両性具有作品をつくって壊したことがあると

確信いたしましたわ。

企画展として山の写真家澤井竹次郎氏の作品が壁に掛けられていて、

生命存在を拒絶するような雪山の荒々しい光景に呑まれました。

地球回廊

第二次世界大戦時代に掘られた地下工場用の防空壕を利用して造られた

地球歴史展示施設ですけれど、解釈が古く眉をついついひそめてしまます

ハルキゲニアがトゲが下でお尻が頭の古い復元図のままですわ、

小型の獣脚類も羽毛がない超硬派ですわ、

恐竜絶滅論争が決着していませんわ、

デスモスチルスもカバ形ですわ、

なによりまず最初に鯖があったはずですわ。

私たちの本にはそう書かれています

地下の安定した環境のおかげで古いパネルの保存状態比較的良好なことは注目に値します。

内部の気温は13℃で少し寒いくらいでした。

以上、すべてを跳ね回った距離は2.8kmでしたわ。

2014-03-09

首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。



【おもな放射道路編】

東海道国道1号・15号)

池上通り

中原街道

綱島街道

  • 1900ごろ時点で綱島~六角橋の区間が原型存在。現在では旧綱島街道としてほぼ残っている。
    • 綱島以北は現ルートに相当する道はなく、代わりに、矢上を経由してガス橋通りに相当する道と、高田・子母口へ通じる県道106号に相当する道に分岐していた。
  • 丸子橋~綱島間は1940ごろ開通。ちなみに東横線開通のほうが先で1930ごろ。
  • 大豆戸~菊名間の新道は1940ごろ開通。菊名~浦島丘間は1960ごろ開通。

目黒通り

駒沢通り

国道246号方面(青山通り六本木通り・大山厚木街道

世田谷通り津久井

甲州街道国道20号



【おもな環状道路編】

内堀通り

  • 1900時点から現在と同じ道が存在している。
  • ただし二重橋前地域は、1970ごろ以前の地図では道路なのか広場の一部なのかがはっきりしない。

外堀通り

  • 淡路町鎌倉橋間に道ができたのが1930ごろ。それ以外の区間はほぼ全線に渡って1900時点で市電が走る道路だった。

外苑東通り

外苑西通り

明治通り

  • 古川橋渋谷区間。1900ごろ時点でほぼ原型あり。広尾付近は1930ごろに市電開通とともに1本の道として整備。
  • 渋谷~新宿区間。1900ごろ時点では、明治神宮前代々木付近に若干道があるのみでそれ以外は道らしき原型はなし。
    • 渋谷駅付近は、1960ごろに宮下公園東側が開通するまでは山手線西側の道につながっていた。
  • 神宮前新宿区間は1940ごろまでに開通。
  • 新宿~池袋区間は、1950ごろに開通していてそれ以前は道らしきものはほとんど無し。
  • (以東は省略)

山手通り

  • 北品川~大崎区間は、1920ごろに開通。1950~1960ごろにかけて大きな道へ整備。
  • 大崎~五反田間は1900ごろにはすでにあり、大崎駅の陸橋は1920ごろに陸橋化されて、その後何度か形状改良されている。
  • 五反田~大橋間は1950ごろまでに開通。
  • 鑓ヶ崎~神泉の現「旧山手通り」区間は、1900ごろ時点で現道と若干異なっているが原型が存在し、1920ごろにほぼ現道のルートで開通している。
  • 神泉~熊野町の区間は、1940~1950にかけて、もともと道がなかったところに一気に開通。
  • 渋目陸橋・菅刈陸橋ができたのが1960ごろ。それまでは、初台方面から南下すると現「旧山手通り」にのみつながっていて、中目黒目黒方面とは直結していなかった。
  • 熊野町~仲宿区間は1960ごろに開通。

都道420号

  • 現在進行形で今も絶賛整備中のこの道路。1900ごろ時点で存在するのは下記区間。
    • 戸越~五本木(現在と多少異なり武蔵小山を経由)、下馬~三宿~大山(北沢)、中野駅付近、哲学道~大山(板橋)
    • ルート上に「大山」という地名が2箇所あるため、ここでは「大山(北沢)」「大山(板橋)」と記述する。
  • 大井町付近は、1920ごろの大井町線敷設以降に徐々に整備。仙台坂トンネル開通は1990ごろ。
  • 戸越小・戸越公園の一角は、1950ごろまでの地図は「三井邸」と記されている。この下にトンネル開通させて大井町駅方面へ直結させる計画が2010時点着工中。
  • 国道1号中原街道目黒通り間の現道が開通したのは1960ごろ。
  • 目黒通り駒沢通り(=五本木)間は現在2014年時点で新道着工中。
  • 五本木~下馬区間は2000ごろ開通。
  • 下馬~三宿区間は、1960ごろに既存道路を拡幅・延伸して整備。
  • 三宿~大山(北沢)区間は、現在420号指定されている狭隘道路は1900時点ですでに存在する。拡幅&新道の計画があり、拡幅工事は現在着工中だが新道についてはまだ未整備。
  • 大山(北沢)~笹塚区間は2010ごろ開通
  • 笹塚~中野五叉路区間は1960ごろに開通。
  • 中野五紗路~新井付近1930ごろ現道開通。
  • 新井付近~哲学道区間の開通が1960ごろ。
  • 哲学道~大山(板橋)区間は1900ごろ時点から道があり、徐々に整備されている。

環七通り

環八通り

府中街道大師道・南部沿線道路・川崎街道

尻手黒川道路

  • 1900ごろ時点で原型が存在するのは、末吉橋およびその周辺、矢上~梶ヶ谷~清水台区間、柿生黒川区間。
  • 川崎駅末吉橋区間は、何度かルート変更されたのち、1960ごろに現道完成。
  • 末吉橋~子母口区間は1940~1960ごろに現道完成。
  • 子母口~梶ヶ谷~清水台区間は1960~1970ごろに現道完成。梶ヶ谷貨物駅完成が1970ごろ。東名川崎IC完成が1970ごろ。
  • 清水台~稗原区間開通が1980ごろ。稗原~王禅寺ヨネッティ付近は、神木本町方面からの道路として1960ごろ先に開通。
  • 王禅寺~山口台区間は1980~2000にかけて開通。
  • 山口台~津久井道区間は2010開通。
  • 津久井交差点から黒川方面へ直結させる短絡ルートが2010現在事業中。
  • その他、2006に元住吉付近で東横線と立体交差を逆にする工事実施

横浜麻生道路

  • 1900ごろ時点で、多少現道と異なるが全線で道路が存在。柿生から先は鎌倉街道府中方面・八王子方面へ直結していた。
  • 1930ごろ、東神奈川六角橋間の現道完成。当時は市電が走っていた。六角橋北側の一部区間の現道完成は1960ごろ。
  • 1960ごろ、津久井道交点が現在のようなT字路に路線変更
  • 1970ごろ、新川向橋付近の現道完成。
  • 1980~2000にかけて、池辺町~市ヶ尾間の新道完成。
  • 2000ごろ、市ヶ尾~鉄町間の新道完成。

国道16号八王子街道・町田街道方面



【その他、概況】

地形・丘陵

河川

2009-12-08

シモ・ヘイヘ

シモ・ヘイヘ(Simo Häyhä, 1905年12月17日 - 2002年4月1日)は、フィンランド軍人、狙撃手。フィンランドソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、フィンランドが生んだもう一人の天才スナイパー、スロ・コルッカと並んでソビエト赤軍から恐れられ、史上最多の確認戦果2505名射殺の記録を残している。




当時のロシアとの国境近くに位置する小さな町ラウトゥヤルヴィで生まれ、幼い頃から猟師を営む。1925年に軍へ入営。1939年から1940年にかけて起こった冬戦争では、フィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊に所属し、故郷の町に近いコッラー河付近での防衛任務に就いた。

ヘイヘは平均気温-20℃から-40℃という酷寒の中で、純白のギリースーツに身を包んで狙撃を行い、その活躍によりソビエト軍兵士からロシア語で"白い死神"を意味する "Белая Смерть"(ビェラーヤ・スミェールチ。フィンランド語では"Valkoinen Kuolema")や“災いなす者”等と仇名された。

戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、ヘイヘを含むフィンランド軍32名が64000名のソビエト連邦軍を迎撃、拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と呼ばれた。

ヘイヘは冬戦争中、防寒着の背中を砲弾の破片がかすめて切り裂かれた以外はほぼ負傷する事はなかったが、終戦直前の1940年3月6日ソヴィエト軍兵士の銃撃を頭部に受け、あごを撃ち抜かれる重傷を負う。友軍に救出されて一命を取り留めたが、意識不明のヘイヘを回収した兵士は「彼の頭は半分なくなっていた」と述べており、後年の写真でも傷痕が確認される。3月13日意識を回復したものの、すでに冬戦争はその前日のモスクワでの講和条約締結を以て終戦を迎えていた。

戦後、ヘイヘはグスタフ・マンネルヘイム元帥と面会し、コッラー十字章を受勲、兵長から少尉へと5階級もの特進を果たしたが、その後戦場に出ることは無く猟師兼猟犬の繁殖家として余生を過ごし、かつて自らが守ったロシアとの国境線近くのルオコラハティで、2002年に96歳でこの世を去った。




ヘイヘは狙撃において、ソビエト側では旧式になりつつあったモシン・ナガンM28を使用していた。冬戦争当時、物資や銃弾が極端に不足していたフィンランドは、戦前からソビエトの軍事的影響を受けていた為、多くの制式装備がソビエト製だった。このため戦場で鹵獲した敵の装備をそのまま使用でき、ヘイヘも敵の武器であるモシン・ナガンを使用することになった。ヘイヘは身長約152cmと小柄ながら、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われる。後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガン[1]を与えられている。

モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、ヘイヘはこれを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れ[2]と装備の軽量化に加え、レンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったことによる。当時の狙撃にはスコープの使用が当たり前になっていた中で、あえてこれを用いずに多くの敵を倒したヘイヘの名声はさらに高まった。ヘイヘの使用したモシン・ナガンのうちの1丁は現在フィンランド国立軍事博物館に展示されている。

ヘイヘの狙撃技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、これは元猟師だったソビエト軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い現代のオーストラリアSAS狙撃兵などの経歴と共通する。ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたとされる。狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に46発の射的に成功したという逸話[3]が残され、実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。

ヘイヘが狙撃で殺害した人数は最終的に24500名から25540名と言われ、いずれにしても世界記録となる[4]。この中には狙撃銃以外の火器によるものや、未確認の殺害数は含まれていない。またヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では3200名以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した10505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、1939年クリスマス直前の12月21日だけでも525名の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が4138名に達していたという。

1998年晩年を迎えたヘイヘは狙撃の秘訣を問われた際、一言「練習だ」と答えたという。また、自らの残した記録については、「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98

2008-10-29

http://anond.hatelabo.jp/20081029181254

ちょっとまった! 1こ上の75A増田だが、傷んでいなくても下着は定期的に捨てることをお勧めするよ…。私もお気に入りの10年近いものを身につけていたんだが、ある日悲劇に見舞われた。

そのとき私は母親と食事をしていたんだ。そこそこ女性客のごった返すパスタ屋で。すると対面に座った母が怪訝そうな顔で尋ねてきた。

「ねえ増子ちゃん、胸元から出ているものはなあに?」

見下ろすと私の谷間ならぬ丘陵地帯からニョッキリ飛び出ているのは……ワイヤー!!

ちなみにそのとき脳裏によぎったのは名探偵コナン凶器がブラのワイヤーだった飛行機殺人事件の回でした。骨の髄までオタクです、本当にありがとうございました

調べてみたら結構経験者いるんだねw http://kotonoha.cc/no/52809

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