はてなキーワード: たまことは
観てきた。TV版は1秒も観たことがなくて、キャラ設定も背景情報も完全にまっ更な状態なのでトンチンカンな感想かもしれないけどまあ大筋では外してないと思う。
ネタバレのある感想である。が、ネタバレが重要ではない作品なので未見で読んでしまっても特に問題はない。ストーリーは予告編にほぼすべて出ている(男が幼馴染の女に好きだと告白し、いろいろあって女はそれに答える。男の思いは受け入れられるか?答え:受け入れられる)。
本編前のショートストーリーは南の島の王子と付き人の娘と鳥?が餅をこねながら会話する小芝居だが特段面白いと思うものはない。鳥が普通に人語を喋り、翼を使って餅をこねたりする世界に説明がまったくないのはどうかと思った。丸めた餅を島民に配るという話なって、餅は食べなれない人たちだと喉に詰まらせてしまう危険性があるので大丈夫なのだろうかと思ったら、後の本編で餅屋の主人が餅を喉につまらせるという展開になって、ブラックジョークになっていた。
本編は悲しい別れの話であった。京都の高校3年生のたまこは髪はぼさぼさ、いつも少しとぼけているが商店街にある家の餅屋の仕事と高校のバトン部の活動には熱心である。向かいの店の跡取り息子であるもち蔵(すごい名前だ)とは幼なじみで、2階の窓から糸電話で会話をする仲。美術大学への進路が決まり上京することになったもち蔵はたまこに告白するという、まあ言ってみればそれだけの話なのだけど、それよりも私にとって心に深く訴えたのは二人の幼なじみの仲をとりなす、バトン部の部長みどりがたまこを失ってしまうという喪失の物語であった。
みどりがもち蔵にたまこへの告白の背中を押すとき、「貴方はたまこのことをいつも観てる」と言う。それはつまり、
のどちらかということである。最初はみどりがもち蔵の告白の背中を押してしまったことを後悔していたので、これはみどりが友人に恋を譲る話a)なのかな?と思ったが描写が進むにつれそうではないことがわかる。みどりもたまこのことが好きでいつも観ているb)のだ。だからたまこの気持ちも知っている。たまこがもち蔵の思いに答えて、変わってしまうことも知っている。これは彼女にとっての悲劇である。
みどりは自分の思いを押しとどめ、たまこともち蔵の仲をとりなす。たまこに相談されても自分の気持ちを言えない彼女の胸中はどんなものだったのだろうか。その思いにわたしは心打たれる。
物語の最終盤、教室でもち蔵を待つたまこへ、京都駅に行ったもち蔵を追いかけるようにと教えるシーンでみどりはゆっくりと歩いてやってくる。自分がもち蔵の居場所をたまこに知らせると、彼女は追いかけることが分かっていて、その思いに逡巡しているのだろう。だからゆっくりと歩いて教室へやってくる。もち蔵の元へ行ってしまったたまこを見送りながら、みどりは校庭で叫び声を上げながら走り、木の下で自分がたまこを失ってしまったことを受け入れて笑顔を見せるのだった。
“愛してその人を得ることは最上であり、愛してその人を失うことはその次に良い” ―― サッカレー
山田監督ならではの女性らしい心理描写、女性の目線と仕草、美しいカメラ配りは見事としか言いようがない。良い映画だった。
まず、もち蔵の所属するあんなオシャレな映画部はちょっとないだろう。高校の映画部といえば、傑作「桐島、部活やめるってよ」の映画研究部であり、リビドーとタナトス丸出しで自分たちを見下す体育会系と女どもに復讐する、そんな映画を作ってなければ嘘だろう。映画研の連中ももっとこう残念なオタクであるべきだ。
それにもち蔵の部屋があまりにオシャレすぎてすごく漂白されていると感じる。あの年代なら女の子ことで頭は一杯で、夜中はオナニーをしていないとおかしい(わたしが高校生の頃は毎日少なくとも3回はしていた)。自分の部屋におもちゃの汽車模型を置くのもヌルいとしか言いようがない(電車が好きならもっとリアルなモデルを買うべきだ)。総じてもち蔵とその周辺の男子にはリアルな男性らしくない人形らしさが目立ち、たまこともち蔵の関係に私がただありきたりだからというだけでなく興味を抱けない原因ではないだろうか。
また、終盤に物語が反転するキーとなる、たまこの父が母へ送った歌のテープカセットであるが、何度も聴いているはずなのにはじめてテープに続きがあると知るというのは無理があるのではないだろうか。ついでに言うと、主人公の幼い妹の銭湯での着替えシーンを背中から延々と撮るのはちょっとどうか思う。このへんは残念だった。
おおかみこどもの雨と雪への憎悪が結構すごいっぽい。
恋愛、妊娠、出産、育児、生活といった、普通に行われていることが主題で、その表現方法がアニメーションなところが問題なのかもしれない。アニメにすると、どうしても大体のキャラがかわいくなってしまうし、生々しさがすっかり消えてしまう気がする。
そもそも、自分が現実に生活していることを主題にされると、すごく悩んだり、問題の対処に走り回ったりしていることを、とても美しい事のように、表現され、また、すばらしい出会いや別れがあったりして、その生活そのものが、なんだかとってもすごいものとして表現される。それ自体が自分の生活と比べて、悲惨だったり、たいして変わり映えのしない物なら良いが、しがらみや環境によって、自分が断念したものを全て取り込んであり、かつ、その断念したものを、無くしてはならない大切な物として描かれると、とても嫌な気持ちになるだろう。
女手一つで、次の旦那を探したりしないし、山奥の空気のきれいなところで子供たちを育てたりするし、子供の絵本には、アンパンマンやプリキュアが無いし、テレビもないし、ましてやゲームなんかないし。農業やって、村の人ともそれなりに仲良く出来てるし、山奥で娯楽なんかないのに楽しそうに生活してるし。
そりゃさ、理想としてはそんな生活もしてみたくなるさ。でもさ、現実はさ、酒飲みたいとか、他の男と恋愛しちゃうかもだし、子供は戦隊もの見たりおもちゃねだったりだし、山奥なんかに暮らしたら、マジ不便ですごい困る。なのに、そんな生活しちゃう。
やだよ。そんなの見たくないよ。だってさ、都会で子育てするのだって大変で、片親なんかさらにさらに大変で、環境だって良くないし煩悩だらけだし、それでも何とかやっていってるのにさ、そんなキラキラしたもの見せられて、これこそ至高!自然ってすばらしい!みたいにされてもさ、頑張って頑張って、いろんなものを我慢して生活してる自分を馬鹿にされてるみたいじゃないか。
で、前に某店長が言ってた、たまこまがつまんないってのも、たぶん店長はなんとかして、近所づきあいをこなしているのに、トラブルや喧嘩がいっぱいあるたまこまの世界の近所づきあいが、不自然なまでに上手くいってる感じが気に入らなかったんじゃないかと思うわけです。俺が悩んで、頑張ったり我慢したりやってることを、さも当たり前でもっとキラキラの生活がテレビの中に作られているなら、それはやっぱり悲しくなるよなーと。現実の生活で、悩んで苦労して我慢して、なんとか保っている中途半端な平和をフィクションの力で、幸せな方向にかるーく倒してしまうと、その渦中にいる人からは、自分が否定されているように映るんではないかと。
幸せなフィクションと現実の間に横たわる、不気味の谷ってのがあるんだろうね。不幸なフィクションと現実の間には、無いのだろうけど。でも、不幸と現実も色々で、フィクション側が十分に不幸でないと、現実の側が下回ってしまうとそれはやっぱり不気味の谷が発現してしまうんだろうと思う。それは、その渦中にいる人にしかわからない。
おおかみこどもの話に戻るけど、この監督の前作品にサマーウォーズってのがあるのね。おおかみこどもにも賛否あるけど、サマーウォーズにも賛否あるわけですよ。おおかみこどもは、出産・育児の話なんだけど、サマーウォーズは、大家族の話で、話のキモに、おばあちゃんの権力と、主人公の数学の才能ってのが入ってくる。で、サマーウォーズを貶しつつおおかみこどもを絶賛する人ってのもいたんですね。その人はやっぱり、育児とかには全然縁が無くて、そのかわり権力や数学のほうに人生・生活を注いでいるんだと思う。権力の持ち方、発動方法、数学の問題や解く時間、そんなことが不気味の谷となって、「ありえない」という感想を引き出すんだろうと思う。
現実の立ち位置は人それぞれで、フィクションが作り上げる場所もそれぞれ。でも、フィクションの方がほんの少し素敵な場合、その近くで生活している人からは、気持ち悪い不気味な谷が見えるんだ、と、思う。