おおかみこどもの雨と雪への憎悪が結構すごいっぽい。
恋愛、妊娠、出産、育児、生活といった、普通に行われていることが主題で、その表現方法がアニメーションなところが問題なのかもしれない。アニメにすると、どうしても大体のキャラがかわいくなってしまうし、生々しさがすっかり消えてしまう気がする。
そもそも、自分が現実に生活していることを主題にされると、すごく悩んだり、問題の対処に走り回ったりしていることを、とても美しい事のように、表現され、また、すばらしい出会いや別れがあったりして、その生活そのものが、なんだかとってもすごいものとして表現される。それ自体が自分の生活と比べて、悲惨だったり、たいして変わり映えのしない物なら良いが、しがらみや環境によって、自分が断念したものを全て取り込んであり、かつ、その断念したものを、無くしてはならない大切な物として描かれると、とても嫌な気持ちになるだろう。
女手一つで、次の旦那を探したりしないし、山奥の空気のきれいなところで子供たちを育てたりするし、子供の絵本には、アンパンマンやプリキュアが無いし、テレビもないし、ましてやゲームなんかないし。農業やって、村の人ともそれなりに仲良く出来てるし、山奥で娯楽なんかないのに楽しそうに生活してるし。
そりゃさ、理想としてはそんな生活もしてみたくなるさ。でもさ、現実はさ、酒飲みたいとか、他の男と恋愛しちゃうかもだし、子供は戦隊もの見たりおもちゃねだったりだし、山奥なんかに暮らしたら、マジ不便ですごい困る。なのに、そんな生活しちゃう。
やだよ。そんなの見たくないよ。だってさ、都会で子育てするのだって大変で、片親なんかさらにさらに大変で、環境だって良くないし煩悩だらけだし、それでも何とかやっていってるのにさ、そんなキラキラしたもの見せられて、これこそ至高!自然ってすばらしい!みたいにされてもさ、頑張って頑張って、いろんなものを我慢して生活してる自分を馬鹿にされてるみたいじゃないか。
で、前に某店長が言ってた、たまこまがつまんないってのも、たぶん店長はなんとかして、近所づきあいをこなしているのに、トラブルや喧嘩がいっぱいあるたまこまの世界の近所づきあいが、不自然なまでに上手くいってる感じが気に入らなかったんじゃないかと思うわけです。俺が悩んで、頑張ったり我慢したりやってることを、さも当たり前でもっとキラキラの生活がテレビの中に作られているなら、それはやっぱり悲しくなるよなーと。現実の生活で、悩んで苦労して我慢して、なんとか保っている中途半端な平和をフィクションの力で、幸せな方向にかるーく倒してしまうと、その渦中にいる人からは、自分が否定されているように映るんではないかと。
幸せなフィクションと現実の間に横たわる、不気味の谷ってのがあるんだろうね。不幸なフィクションと現実の間には、無いのだろうけど。でも、不幸と現実も色々で、フィクション側が十分に不幸でないと、現実の側が下回ってしまうとそれはやっぱり不気味の谷が発現してしまうんだろうと思う。それは、その渦中にいる人にしかわからない。
おおかみこどもの話に戻るけど、この監督の前作品にサマーウォーズってのがあるのね。おおかみこどもにも賛否あるけど、サマーウォーズにも賛否あるわけですよ。おおかみこどもは、出産・育児の話なんだけど、サマーウォーズは、大家族の話で、話のキモに、おばあちゃんの権力と、主人公の数学の才能ってのが入ってくる。で、サマーウォーズを貶しつつおおかみこどもを絶賛する人ってのもいたんですね。その人はやっぱり、育児とかには全然縁が無くて、そのかわり権力や数学のほうに人生・生活を注いでいるんだと思う。権力の持ち方、発動方法、数学の問題や解く時間、そんなことが不気味の谷となって、「ありえない」という感想を引き出すんだろうと思う。
現実の立ち位置は人それぞれで、フィクションが作り上げる場所もそれぞれ。でも、フィクションの方がほんの少し素敵な場合、その近くで生活している人からは、気持ち悪い不気味な谷が見えるんだ、と、思う。
そういうのは大概の場合それ対する不満というより 普段は隠している「劣等感丸出しの自分」の声をそのまま口に出してるだけなんだよな。 別にそれを口にするなとは言わないけど「私...