はてなキーワード: 発話行為とは
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University
” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
この元増田の文章、独特の論理性があるのでちょっと気になって考えていたんだけど、もしかしたらこの元増田って「文の言外の意味を掴むのが苦手なタイプのマイノリティ」ではないだろうか?
「嫌い」という発話行為に伴って生じる一連の言外の意味を掴むのが苦手、という特性を元増田が持っていると仮定して文章と論理を追っていくと、書かれた文章は実はかなり論理的に一貫しているように感じる。
(「嫌い」と公言することを自然に「攻撃/差別的行為」と察するのは_この意味では_あくまで"マジョリティの感覚"とも言えるし、この元増田が「思っていることを(察しあうのではなく)公言しあう世界」を理想像とすることも容易に理解できてしまうように思う)
もしこの仮定が正しいのならば、多くのブクマカーがこの元増田に「特権を享受する差別主義者」というレッテルを貼ったのは本当に不当であるようにも思うし、暴力的ですらあったかもしれない。
問題は規定の内容にある。「正しくマスクを着用すること」という曖昧な記述が一切の元凶や。
なんで「不織布マスクにより鼻と口を確実に覆う形で着用すること」と書かんかったんか?
その理由は明確や。つまり、疾患その他の理由で呼吸に困難のある人間を拘束し得るルールを明文化しては後のトラブルに繋がるからや。だからこそ、試験運営側は敢えてルールをボカして書いたわけや
で、結果がコレや。高々オッサンが鼻を出しとった程度で逮捕騒ぎ! この世界にはアホしかおらんのか!?
そもそもそれは運営側が日和ってどうとでも解釈できる曖昧な記述を行った所為やねん。なんでそれでオッサンだけが割を食わないかんのや!?
「いやいや鼻マスクはコロナ感染を誘発する立派な有害行為やろ」と言うやつもおるやろうが、そんなこと言うたら一切の発話行為の方がよっぽどリスクあるわ! 試験官が注意のために発話する度に、不織布マスクでも防ぎ切れん30%前後の飛沫が空気中に拡散しとんねん。そっちの方がよっぽどコロナ感染のリスクを誘発するわ! だったら試験官もウイルス拡散のかどで別室送りを命じられ、拒否すれば逮捕、って流れになったとしても、「コロナのリスクを低減する」という目的の為ならば全く矛盾はないやないかい。
でも試験官は別室送りにならんし、教室中で知り合い同士集まってわんさか発話しとる高校生にも当然お咎めはない。おかしいやろがい! コロナ感染のリスクを鑑みればオッサンも試験官も高校生も皆同罪やのに、どうしてオッサンだけが失格からの逮捕されんねん!
要はホントにコロナについて真面目に考えとる奴なんておらんねん。やのにオッサン一人が失格扱いを受け、あまつさえ逮捕されるような現状を鑑みれば、運営の構造が歪やという以上に感想はないんや。
こんなしょうもない事例をきっかけで逮捕しよるようやったら、今に、一瞬でも発話しようもんなら逮捕されるような歪な社会状況になってもおかしくない。そういう社会が皆は望みなんか? 違うやろ?
>目的は大学受験じゃなくて「大学受験をする、という体でかまってもらうこと」だから。
ある言説に対し、その内容ではなくその内容が表れるに至った動機や欲望について指摘することを、メタ批評と言います。
「勉強する」ことの内容や意義や目的に対する批評じゃなくて、「勉強したい」という発話行為自体に宿る欲望を指摘することによる批評、ですね。
承認欲求とか、自己愛とか、そういった指摘はワンパターンになりがちです。
と言いますのも、このような指摘は言説のコンテントのいかんに関わらず構成可能だからです。
「勉強したい」「一千万円貯めたい」「金持ちになりたい」「恋をしたい」ー何に対しても<同型の>指摘をすることができるのです。
金持ちになりたいんじゃなくて、金持ちになりたいと言うことによって周りの人に構って欲しいんでしょ、と。
金持ちのはてなーの自意識をくすぶって、そこから承認欲求の肥やしを得たいんでしょ、と。
別言すれば、発言者がいかなる内容を語ろうと、「承認欲求」や「自己愛」に根源的原因を措定し、これに結論を回収できるんですね。
慈善活動を行おうとする者に対して「偽善である」と指摘するのと同じですね。よく流行ってたやつです。
批判対象者の行為や言説の内容はなんでもいいんです、ただ単にメタな欲望を指摘すれば当該発話者に対して、社会心理的に恥や反省意識を刻むことができるだろうという発想です。
そしてまた、「偽善である」という指摘に何も意味がないのと同様、何の意味もない言説なんですよ。
偽善とか、承認欲求とか、構って欲しいだけとか、自己愛とか、メタな欲望をさす流行り言葉をテンプレのように繰り返しておれば相手に対し優位なポジションを取れると考えているのでしょうか。
もうさんざん飽きてきたし(私がですよ)、アンビバレントメメ氏に対しても、氏は方々で同様のテンプレ批判を受けてるので、そろそろ効果がないことを自覚してください。
もうひとつ。
何に対しても指摘できるがゆえに、
逆説的にですね、
何に対して指摘をし、何に対しては指摘しないという恣意性が宿ります。
要するに、「私はあなたを気に入らない」と言っているに過ぎない、ということです。
これが、上述のテンプレメタ批判が、言説に対する内在的批判ではなく、外在的批判にしかなり得ていないと、私が主張したい理由です。
テンプレに滞留せず、
もう少し先に進みましょう。
http://anond.hatelabo.jp/20070403101744
ひとえに自信がないからだよ。
ネタにとか、表現にとかいう問題ではなく、もっと根源的な、自分というものに対する自信。
自分自身をエントリーという枠組みの中で語り、残し、晒すことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感。
ブログをリセットするのは、長々とエントリーとして自分の声を残しておくことに耐えられないからだ。
発言した僕の声がインターネットという巨大な機械の歯車として組み込まれていくことに絶えられないからだ。
僕は現実世界でも苦悩する。
人との会話での何気ない発言を、いつまでも後悔しているんだ。
ああ、なぜ僕はあんなことを言ってしまったのだろうか、と。
それがどんな影響を与えるか知らないけれど、人の心に組み込まれ、社会全体に溶け込んでいくことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感が僕を苦しめる。
発話主体として社会に参加していくことができない。
言葉が主体から独り立ちし、他者の物となってしまう結末も知らないで。