はてなキーワード: 原爆記念日とは
悲しい。
https://news.yahoo.co.jp/byline/usuimafumi/20181110-00103609
1995年(投下から50年目)のNHKの調査によれば、「原爆投下は正しい選択だった」と考える人の割合は、
日本 8.2%
アメリカ 62.3%、
韓国 60.5%
ドイツ 4.3%
でした。
2005年(原爆投下から60年)の調査では、正しいとする日本人は15.5%、アメリカ人は56.6パーセントでした。
原爆投下を今でも許せないと考える日本人は、2010では52.8%、2015年では48.8%でした。
2015年(原爆投下から70年)にアメリカの調査会社が行った調査によれば、原爆投下を正当だったと考える人の割合は、日本では14%、アメリカでは56%でした(同年のネット調査では45%という数字も出ています)。
ギャラップなどの調査によると、アメリカでは過去数十年にわたって、原爆投下を支持する人の割合は50%前後で安定しています。しかし、希望もあります。
アメリカでの調査でも、年齢が高いほど原爆投下を支持し、年齢が若いほど原爆投下を支持しない人が増えています。原爆投下に対するアメリカ人の意識にも変化が生まれているといえるでしょう(「原爆投下に対するアメリカ人の見方に変化が:ネットアンケートで30歳未満の約半数が原爆投下を「間違っていた」と回答」:ニューズウイーク2015/8/6)
オバマ大統領が広島を訪問するなど、アメリカ人の原爆への考え方も変わりつつあります。しかしその一方で、日本はもっと戦争責任を認めるべきだとの声もあります(「原爆をめぐる日米の意識のずれ…米誌は戦争責任を認めない日本を批判」:ニュースフィア2016.5.18)
国による原爆意識の違いは大きいのですが、8月6日原爆記念日の報道も、国によって異なっています(参考:西岡達裕2015「 原爆投下をめぐる日米の世論:70年後の節目に」)。
アメリカでは、2005年の報道では原爆を正当化し、その悲惨さを伝える報道はほとんどありませんでした。しかし、2015年になると、政府公式見解に疑問をはさみ、原爆の悲惨さを伝える報道も一部登場します。
概ねドン引きしてた。
それでもあの先生も含めてちゃんと日本が悪いという方々もいて流石。
「バスはアレやけど、慰霊碑は普通に日本でも建てるからぬ。それに大使館の前でなければどこでもいいとか言ってたのは右翼の皆さんでは?」
「8月14日は慰安婦記念日だからね。時期を区切って設置するなら啓発活動としては普通だと思うが、発狂する日本人は多そうだ。原爆記念日のサイレンみたいなもんなんだけどね。」
「結局この事態を招いたのは日本側の無関心(無責任さ)であり、早期に加害性を認め慰安所被害者の名誉回復に真摯に努めていれば“蒸し返され”る事も無かった訳で。」
もはや名言の域。すばらしい。
8.6秒バズーカーというお笑いコンビが反日思想をもとに結成されている、という都市伝説は今や多くの人が知っているものだろう。
知らない人は下記リンク先を参照して欲しい。
http://akipy.sakura.ne.jp/wp/archives/100
で、ここからが私の言いたいこと。
8.6秒バズーカーというグループが、反日思想を根っこに抱えているのかどうか、正直わからない。
彼らがすべてキャラ設定し、ネタを作り、それをテレビが偶然持ち上げた……というのは考えにくい。
しかし、たとえばこういうことは考えられる。
今、日本ではナショナリズムが大きな「トレンド」になっているから、
それをいくつも刺激するキャラ設定をそなえたコンセプトのお笑いコンビを作り上げる。
テレビで持ち上げると同時に、裏で「彼らにはこんな都市伝説がある」という噂を流せば、「話題」になるに違いない、
といったような……。
ただし、私が問題とするのは以下のことだ。
国家には、国民が共有するメモリアルデーというものがあり、独特の意味を持つ数字の組み合わせがある。
数字自体に意味はもちろん無いが、ある日付が国民にとって特別な意味があるために、
日本だと、最近では311がそうだし、226という数字も有名だ。
アメリカだと911だとか76や74(独立記念日)という数字がそれに当たるだろうし、
そして「8.6」
唯一の被爆国として、二度と紛争解決の手段として、核兵器を使わせてはならないという決意を、
私が小中学校の頃には、教師からかなり熱心に、核兵器の非人道性について教えられた……。
たとえば「8.6秒バズーカー」に取材をした文春記者とか、よしもとに電凸した人などは、なぜこう諭さなかったのか。
「君たちがそれを意識してコンビ名を考えたのかどうかは、わからないよ。
でもさ、日本人だったら、誰もが原爆の惨禍を忘れてはならないのは、きみたちも分かるよね?
あの悲劇を伝えるための努力を、私達は70年間、8.6という日付とともに行ってきたんだ。
ところが君たちは、50m走をその秒数で走ったという理由で、単なる偶然(と信じてるよ)で、
コンビ名をつけたというが、ほとんどの日本人はその数字から原爆投下日を想起するし、
『バズーカー』という爆発や兵器を意味する言葉をそのあとに続ければ、その想起は決定的になる。
それをお笑いに利用するのは不謹慎だとか、 多くの人を不愉快にするだろうと、君たちは考えなかったのか?」
と。
よしもとの中には誰一人、私達日本人が尊重すべき、語り継ぐべき原爆投下を想起させるコンビ名をつけたグループについて、
「やめておけ」
と注意できる大人はいなかったのだろうか?
よしもとが「威力業務妨害での告訴など検討している」そうだが、
裏設定の事実はどうあれ、彼らの名前が結果的に、日本人の当然共有すべき記憶を嘲笑している罪があることを、
自覚していないとは言わせない。
上層部の人間が、8.6という数字が原爆記念日であることを知らないはずがないからだ。
本来ならば、「8.6秒バズーカー」とういお笑いコンビが取り上げられた時点で、革新勢力が、
「原爆記念日を想起させ、笑いものにする極めて悪質なコンビ名だ。
そのうえ、原爆を透過したアメリカ人を象徴するサングラスをつけるなど、ナショナリズムを刺激するために、
として、よしもとに抗議の声を上げるべきじゃなかったのか。
ところが、実際に声を上げたのはむしろ保守勢力の方であり、彼らはエモーショナルに反応して、
「彼らは反日だ」
という抗議の声をネットで上げている。
裏でどういうキャラ設定があったのか、これから表に出ることは決して無いだろうが、
8.6という数字とそのあとの言葉によって、原爆投下を誰もがイメージすることは事実じゃないか。
保守勢力にとっては日本国の敗北を決定づけた屈辱の記憶であり、
革新勢力にとっては核兵器の非人道性を浮き彫りにした悲劇の記憶だ。
なぜ、革新勢力からは、「8.6秒バズーカー」を叩く声が聞こえないのか?
それとも、70年を過ぎて、もはや私達日本人にとっては、原爆記念日ははるか遠くのこととなり、
その日付とともに原爆の惨禍を語り継ぐという義務さえも、忘れ去られようとしているのか?
そうだとしたらそれは悲劇だ。
記憶が風化した時に、同じ過ちは繰り返される。
日本の加害者責任の声が強まると同時に、日本人に原爆の惨禍を訴えにくい風潮が生じているのも気になる。
今では日本人の加害責任について原爆の語り部が触れないと、責め立てられるために、
http://blog.livedoor.jp/hiroshimashimins/archives/51089543.html
ふと考えると、革新勢力が原爆の悲劇について以前ほど語らなくなった。
明らかに、日本人の加害者責任を追求することへシフトしている。
それが、革新勢力が「8.6秒バズーカー」を叩かないことに象徴されているのかもしれない。
その結果、再び核兵器の惨禍が繰り返されることに繋がるのかもしれない。
いずれ世界が再び同じ過ちを繰り返した時に、
「唯一の被爆国である日本では、数十年の時がたち、核兵器の惨禍の記憶が薄れ、語り継ぐ情熱が失われた。
原爆投下日と兵器名を組み合わせた名前のお笑いコンビが人気を博しながら、
被害者団体から公に抗議の声が挙げられることがなかったのは、その象徴と言える。
結果的に、世界からも核兵器の惨禍の記憶が薄れ、世界は再び、同じ過ちを繰り返すに至った」
と、記録されることになるのかもしれない。
あ、
この焼けただれた顔は
一九四五年八月六日
その時広島にいた人
二五万の焼けただれのひとつ
すでに此の世にないもの
とはいえ
友よ
向き合った互いの顔を
もう一度見直そう
戦火の跡もとどめぬ
すこやかな今日の顔
すがすがしい朝の顔を
その顔の中に明日の表情をさがすとき
私はりつぜんとするのだ
生と死のきわどい淵を歩くとき
なぜそんなにも安らかに
あなたは美しいのか
しずかに耳を澄ませ
何かが近づいてきはしないか
見きわめなければならないものは目の前に
えり分けなければならないものは
手の中にある
午前八時一五分は
毎朝やってくる
一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。