はてなキーワード: 冬休みとは
自分ではそう思ってないけど、人から見ると負け犬の遠吠えに見えるから、
冷めた目で見てもらってかまわないです。
俺はいわゆる今まででWEBサービス開発したことない(年齢=ユーザー様暦)。
小中高と情報弱者だったから大学ではがんばってプログラミングやろうと思ってた
んだけど、普通大学でIT系の奴全然いないから、友達に結構紹介してもらった。
まず、なんで俺がWEBサービスを作りたかったかというと。世間体を気にしていて、
まあそんな男がサービス開発できる分けないんだけど。
友達にも情弱情弱ってネタにされて(まあ冗談ってわかってるけど)、
まあ察してると思うけど、サービス公開はできなかった・・・一応完成までこぎ着けて
全部知人のお試しで酷評が8回(8連敗)、全く後に続かなかった。
一回目は、うまれて初めてサービス開発したから完全に舞い上がって
ものすごい労力をつぎ込んだ。ハウツー本で普段使うものを作ると良い
と書いてあったから、俺が取り込んだCDを公開して、皆さんも公開してくださいと書いたり、
調子に乗って動画も公開しましょうとか書いたり、ゲームも(ry という構想をしていた。
(まあ内容は置いといて・・・)
サービスのURLをメールで送ってからPCの前で待ってて来るかな来るかな、って3時間くらい
待ってたこともあった。そして、最初のサービスでがっつきすぎたか「著作権とかダウンロード違法化とか知ってる?」
っていわれて1回目撃沈。
それから友達から指摘を受けて、ありがちなWEBサービスを学んで次から次へ
どんどんアプローチをかけていった。
2~6回目位までは1回目と同じくらいか、少し少ない熱意を持って
やったがそれも全て撃沈。
7~8回目位になったあたりで精神が病んできちゃって、8回目が撃沈した
次の日位から、食事が喉を通らなくなった。食べてもほぼ100%吐いてた。
なんで自分は情弱なのか?情弱すぎて劣悪な遺伝子だな、頭も悪いし
こんな遺伝子残さない方がいいんじゃないか、という劣等感を感じるようになった。
大学はそのときまで全然さぼらなかったんだけど、あまりのだるさに1日さぼって、
次の日は学校行っただけでダウン、ついた瞬間保健室へ駆け込み、休憩して授業を
受けずにそのまま帰宅。一週間で飯は食えるようになったけどそれでも前に比べる
とかなり小食になった。
そして、自分の気持ちの中でいくつかの結論が出た。
自分は本当に情弱で、やればやるほど空回りする。そして、無理すればするほど
ぼろぼろになっていく。努力して、相手の為に尽くしても思いが届かないことに気づいた。
完全に逃げてるけど、俺の中でWEBサービス作ることはただたんにレッテルをとりたいだけ
そう思ってて今日まで過ごしてきたら、韓国戦見てたときに母さんが「あんたWEBサービス作らんの?」って
言ってきて「俺はもう作るのあきらめた」と言ったら、親父がいかにSNS運営が儲かる
か説いてきた。それと「1万人も集めたことがない奴が分かったような口聞くな」とか
「そんなの負け犬の遠吠えだ」などと言ってきた。それでこっちの
意見を全く聞こうせず、ずっとSNSのすばらしさを熱弁してくれた。
自分で逃げてるなんて百も承知、俺はもう疲れたんだよ。
日々見下されてて、俺に対する態度がひどくて劣等感を感じて、バイトは土日絶対1日入って、
それでWEBサービス作成するだけでも多大な労力を使ったのに、それが完成したら
毎日メンテ?毎月の生活苦しいのに、定期的に鯖増強で金を使う?
そもそもプログラマでもないのにWEBサービス作成に意味を見い出せない。
作るだけでも楽しい?今の僕には理解でないよ。
思うと少し残念な気持ちに成る。
ここまで読んでくれた人ありがとう、下手な文章でごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20110811033545
自分ではそう思ってないけど、人から見ると負け犬の遠吠えに見えるから、
冷めた目で見てもらってかまわないです。
俺はいわゆる今まででプログラムできたことない(年齢=プログラム作れない暦)。
小中高とパソコンなかったから大学ではがんばってプログラム作ろうと思ってた
んだけど、文系の大学でハッカー全然いないから、友達に結構紹介してもらった。
まず、なんで俺がプログラムを作りたかったかというと。世間体を気にしていて、
早く口だけハッカーというレッテルをとりたかったから作りたかった。
まあそんな男が持てる分けないんだけど。
友達にも口だけ口だけってネタにされて(まあ冗談ってわかってるけど)、
まあ察してると思うけど、プログラムはできなかった・・・一応コンパイルまでこぎ着けて
全部 fatal error でさようならが8本(8連敗)、全く後に続かなかった。
1本目は、うまれて初めてパソコンの前でまともなコーディングをしたから完全に舞い上がって
ものすごい労力をつぎ込んだ。ハウツー本でエクセルマクロと同じ感覚でコーディングすると良い
と書いてあったから、俺が打った五行がコンパイルエラーしたら五行を書き直したり、
10行がコンパイルエラーしたら10行を直したり、15g(ry というやり取りをしていた。
(まあ内容は置いといて・・・)
OSの反応が途絶えてからパソコンの前で待ってて来るかな来るかな、って3時間くらい
待ってたこともあった。そして、無限ループで変数を増やしまくってたらしく
「このプログラムは不正な処理を行ったので強制終了されます。[詳細] をクリックすると、次のエラー メッセージが表示されます。」
っていわれて1本目撃沈。
それから友達から指摘を受けて、言語の扱い方を学んで次のコード次のコードへ
どんどんアプローチをかけていった。
2~6本目位までは1本目と同じくらいか、少し少ない熱意を持って
やったがそれも全て撃沈。
7~8本目位になったあたりで精神が病んできちゃって、8本目が撃沈した
次の日位から、食事が喉を通らなくなった。食べてもほぼ100%吐いてた。
なんで自分は書けないのか?書けなさすぎて劣悪な遺伝子だな、頭も悪いし
こんな遺伝子残さない方がいいんじゃないか、という劣等感を感じるようになった。
大学はそのときまで全然さぼらなかったんだけど、あまりのだるさに1日さぼって、
次の日は学校行っただけでダウン、ついた瞬間保健室へ駆け込み、休憩して授業を
受けずにそのまま帰宅。一週間で飯は食えるようになったけどそれでも前に比べる
とかなり小食になった。
そして、自分の気持ちの中でいくつかの結論が出た。
自分は本当に書けない、やればやるほど空回りする。そして、無理すればするほど
ぼろぼろになっていく。努力して、プログラムの為に尽くしてもプログラムが完成しないことに気づいた。
完全に逃げてるけど、俺の中でプログラム作ることはただたんにレッテルをとりたいだけ
そう思ってて今日まで過ごしてきたら、韓国戦見てたときに母さんが「あんたプログラム作らんの?」って
言ってきて「俺はもう作るのあきらめた」と言ったら、弾小飼がいかに Perl がすばらしい
か説いてきた。それと「一回もできたことない奴が分かったような口聞くな」とか
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意見を全く聞こうせず、ずっと MacBook Air のすばらしさを熱弁してくれた。
自分で逃げてるなんて百も承知、俺はもう疲れたんだよ。
日々見下されてて、俺に対する態度がひどくて劣等感を感じて、バイトは土日絶対1日入って、
それでコーディングするだけでも多大な労力を使ったのに、それが就職したら
毎日設計書書き?毎月の生活苦しいのに、定期的に設計書書いて誤字とかどうでもいいダメ出しをもらう?
そもそも好きって感情がわからんからプログラミングに意味を見い出せない。
だから今はもう一生口だけブックマーカーでいいかなと思っています。
思うと少し残念な気持ちに成る。
自分ではそう思ってないけど、人から見ると負け犬の遠吠えに見えるから、
冷めた目で見てもらってかまわないです。
俺はいわゆる今までで彼女できたことない(年齢=彼女いない暦)。
小中高とモテなかったから大学ではがんばって彼女作ろうと思ってた
んだけど、工業大学で女の子全然いないから、友達に結構紹介してもらった。
まず、なんで俺が彼女を作りたかったかというと。世間体を気にしていて、
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まあ察してると思うけど、彼女はできなかった・・・一応デートまでこぎ着けて
全員一回遊んでさようならが8人(8連敗)、全く後に続かなかった。
1人目は、うまれて初めて女の子とまともなメールをしたから完全に舞い上がって
ものすごい労力をつぎ込んだ。ハウツー本で女の子と同じ感覚でメールすると良い
と書いてあったから、俺が打って五分後にきたら五分後に返したり、
10分後にきたら10分後に返したり、15h(ry というやり取りをしていた。
(まあ内容は置いといて・・・)
返事が途絶えてから携帯の前で待ってて来るかな来るかな、って3時間くらい
待ってたこともあった。そして、デートの日がっつきすぎたか「私草食系が好きなの」
っていわれて1人目撃沈。
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自分で逃げてるなんて百も承知、俺はもう疲れたんだよ。
日々見下されてて、俺に対する態度がひどくて劣等感を感じて、バイトは土日絶対1日入って、
それでデートするだけでも多大な労力を使ったのに、それが付き合ったら
毎日メール?毎月の生活苦しいのに、定期的にデートで金を使う?
そもそも好きって感情がわからんから恋愛に意味を見い出せない。
一緒にいるだけで幸せ?今の僕には理解でないよ。
思うと少し残念な気持ちに成る。
ここまで読んでくれた人ありがとう、下手な文章でごめんなさい。
そいつとうまくやってかないと、飯食えないの? 遊びに行けないの? 日常生活が出来ないの? ゼミなら、せいぜい1日12時間でしょ。一緒にいる時間。夏休みも冬休みも春休みもあるよね? クラブや同好会には入ってないの?
よーく考えてみなよ。1日24時間、1週間168時間のうち、そいつと一緒にいなければならない時間は何時間? それは全体の何分の1?
「殺してやりたい」なんて思い詰めて、そいつと関わらなくていい時間まで、そいつのことを考えなくてもいいんじゃないか?
こういう場合の唯一の「正しい」対処の仕方は(あんな態度は取らないように注意しよう)と他山の石とすることだけだよ。相手を変えようとか、自分を変えようとか、ごちゃごちゃ考える必要なし。(目の前にいない間は忘れておこう)で充分付き合い続けられるよ。
私も会うたびに(脳天叩き割っていいですか?)と思う相手と関わってて、どちらかが死ぬまで付き合うことになってるけど、これで乗り切ってる。がんば。
私の母が死んだ。47歳の誕生日を迎えてまもない冬の日。半年の闘病生活の末のことだった。
病名は、慢性骨髄性白血病。
以下、情報が正確でないことにご留意下さい。伝聞や、うろ覚えで書いているものが含まれています。
私は一人暮らしをしているから、その時の状況は電話越しに伝えられた範囲でしかしらないことが多い。以前から頻繁に連絡は取っていたが、病気がわかって以来、母の体調が許せば毎日電話していた。
大学が夏休みになるまで二月余りを残していたと思う。どうも母が白血病らしい、と言うことを聞かされた。私が真っ先にしたのがググって見ること。いかんせん、TVでよく見る難病の一つと言うイメージしかない。調べていくと、ここ10年くらいで新しい薬が開発されて、治療に関わる環境はだいぶ良くなっているらしい。良くはわからないが、いまでは直る病気になったようなのだ。
私は安心した。鵜呑みにするのはいけないと思いながらも、信用できる情報だったからだ。
投薬治療で症状が落ち着けば、通院しながら普通に生活できるらしい。母は電話越しに、「仕事を辞めて暇になったからお菓子を作ってるんだ。夏休みになったら作ってあげる。」と普段とあまり変わらぬ調子で言っていた。
この頃は病名を聞かされたショックから立ち直ってた時期だったと思う。
事態が変わったのは夏休みに入る前のことだ。母が入院した。グリベックという薬が効かなくなっていたらしい。後で聞いた話だが、急遽病院に行き、検査を受けてる間にも体調が急変していたそうだ。これはマズイと言うことで、入院することになった。
入院してからしばらくは、薬で抑えていた病気の症状が現れていて、かなり苦しんだらしい。母の体調を鑑みて、長時間の電話は避けざるを得なかった。この時期の全てはあとから聞いた話しになっている。
薬は何種類かあって、人によっては合う合わないがあるし、量の匙加減も難しい。過剰に生産される白血球が下がりすぎてもだめだし、抑えられなくてもダメなのだ。必然的に、治療は長期間に渡るものになる。
ともあれ、主治医の尽力の下、母は体調が安定するようになった。
夏休みに入って、私は実家に戻った。蛇足ながら以下に私の生活パターンを記す。
朝十時ぎりぎりに起きてバイトに行き、午後3時くらいにはバイトから上がりがてら買い物をして、風呂を浴びた後、母を見舞い、午後6時前後に家に帰って夕食の仕度をする。父が母の見舞いにいくなら付いていって、大体12時には寝る。バイトがなければ家事をしながら、できるだけ母のところで過ごす。
実家は田舎にあるので、私は去年取ったばかりの免許片手に車の運転に習熟することになった。病院までは大体車で20分。
家事は一人暮らしである程度の経験はあるものの、家一つ切り盛りするのは容易ではない。私は祖母と分担してやっていたが、母には到底及ばないことを痛感する。
母は夏の間は比較的安定していたように思う。血液中の成分を分析した数値は上下していて、分からないなりに私たちは不安になったものだったが。熱は高めであったが合併症を起こすことも無く、起きて歩いたり出来ていて母は体力を必要以上に落とさないようにするなど、治療について前向きだった。お医者さんが重い病気にも関わらずしゃんとしていてこちらが勇気付けられる、という風なことを言っていたほどであった。
ただ、病気に対する抵抗力は徐々に失われていっていたようで、秋が近くなったあたりでアイソレーター(空気清浄機の親玉)が個室に入った。母はこれを自分の病状が悪化した証だと見たのか酷く気にしていて、アイソレーターがはやく取れないかとこぼしていた。他にも、入浴は洗浄して誰も入らないうちにしたり、食事に制限がついたりした。納豆などの菌がついてるものは冗談抜きで命に関わるようだ。
治療方針についてだが、これは二転三転していた。母の検査の結果次第であるからだ。当初は入院は短期間のことであるとの話しだった。ついで、退院が見えてこなくなり、移植も検討しなければいけなくなり。最終的には移植するしかないとのことになった。移植についても、中々方針は決まらなかった。少なくとも素人目にはそう見えた。が、この場合は主治医の熱心さの表れでもあった。聞いたところによると他の病院の血液内科(要は専門)の先生とも協議を重ねていたとのことであった。それに母は遺伝子が特殊だったらしい。骨髄バンクでドナーを探すのも難しいだろうと言う話しを聞いた。私か兄かの造血肝細胞を用いての半合致移植に踏み切ることも有力な選択肢の一つだった。最終的には、主治医が見つけてきた、完全に一致する臍帯血を用いて移植することになった。
リスクは大きいがそれしかない、との決断だった。母はまだ比較的若くて体力があることも後押ししていた。
施設の問題で、最初に入院した病院では、移植の前処置に必要な放射線照射が行えないらしいので、他の病院に転院することになった。
夏休みの最後に、父と共に、その病院で転院に必要な手続きと、担当して頂く医者との顔つなぎにいった。穏やかな、経験豊富な先生であった。どうも、前の主治医も今回も医者には恵まれたようだ。
私としては、付き添っていたいのは山々だったのだが、母たっての希望で、大学に戻ることになった。
それからは、移植前の前処置に入る直前までは連絡をとっていた。以降は父を通してたまに状況を確認するに留めた。
移植後2週間くらいたった、12月のある日。
移植がうまくいっているかが、おおよそ見えてくるだろうから、私は土日を利用して母を見舞った。
愕然とした。準無菌室に居た母は、長く伸ばしていた髪をそり落とし、管に繋がれて、一瞬誰だかわからないほど人相が変わっていた。見るからに弱弱しく、その辛さは如何ほどのものか、本人にしかわからない辛さだろう。つい先日風邪を引いたくらいで弱音を吐いていた私は自分を恥じた。
なんと言っていいものか、躊躇ううちに1時間が過ぎて、母は疲れてしまったように見えたので、その日はそれだけにしてアパートに帰った。後から聞けば、私は何もできなかったけれど大層喜んでくれたようだ。
クリスマスには冬休みになるから、その時また会おうね。そう約束した。
クリスマスを目前に控えた日。
父から何通もメールが来ていた。文面は全部、すぐに連絡を下さい。
普段は強いて何も考えず、その日も暢気にバイトに精をだしていた私は、すぐに思い至った。まずいことが起こった。そして、そこで考えるのをやめて、すぐに飛び出す準備に取り掛かった。久しぶりの全力疾走。兄が近くまで迎えにきているらしい。気ばかりが急いて、結局アパートの外で30分ばかり兄を待って立っていた。
病院についたら、丁度父と医者が話しているところだった。呼吸器をはずすのはどの時期にするか。そう漏れ聞こえた。私は泣き崩れてしまった。
母の術後の経過は良好だった。白血球の数値も戻ってきていた。ただ、血小板は立ち上がるのは遅くなるもので、どこかから出血すれば手の施しようが無い。その危険性については何度も言われていた、と父は語った。
母の脳内では出血が起こっていた。最も起こって欲しくなかった事態になってしまったらしい。
病院で、個室を一つあけてくれて、母はICUからそこに移された。自発呼吸はしていない。瞳孔も開いてしまっている。脈拍と体温、それに呼吸器の音だけが母の生きている証だった。それでも母は生きていたのだ!
泣き疲れて、寝て起きれば、母は目を覚ましているのではないか。最近眠れてなかったらしいから、2,3日寝てるだけなんじゃないか。そんなことばかり考えた。
その日から、3,4日ほどだろうか。父、兄、私の3人で交代で寝ずの番を立てて母に付き添った。呼吸器のリズムを厭いながらも、安心させられもする、最も堪えた日々だった。最も、精神とは面白いもので、1ガロンも涙を流せば人間立ち直る方向に向かえるらしい。水を飲んだそばから涙に変えれば少しは気が晴れたものだった。
深夜1時、父と兄と私が見守る中で、母は息を引き取った。
繰り返し、情報が正確ではなく、うろ覚え、伝聞が入っていることにご留意下さい。
弟(高3)が内定をもらいました。それで内定先から「業務に慣れるために年末年始アルバイトにこないか?」との連絡を貰ったそうです。当初、本人は行くつもりだったようですが、親や担任の先生曰く、それは「採用してからの見極め」が目的であり、場合によっては内定辞退に仕向けられかねないと言っています。自分の見解としては、「冬休みに暇するくらいならウチ来て働かないか?」程度のものかと考えていたんですが甘いでしょうか?また、行かないほうが良いのでしょうか?
ちなみに弟は勉強がそれほど得意でなく、要領もいいとは言えません。仕事を覚えるのにも時間がかかりそうです。高校の先生には、「言われたことはやるけど、自発的に動くことができない。」とも言われていました。あたっていると思います。
しかし周囲の俺に対する反応は何か様子が違う。こちらが挨拶をするとあからさまに不機嫌そうな顔をして何も言わずにらめ付けてきたり、「話しかけるなよ」とはっきりと突き放されたりする。
それって、最近なの?
それとも生まれてこの方ずっとそう?
もしずっとそうなら、元増田は所謂「底辺」なんだよ。
結局大半の人間って、そういう「見下す」「苛める」相手を求める傾向があるから
・人格改造(必要なら外見も)して底辺を脱出する
のどっちかしかないと思う。
後者なら、何か原因あるだろ。
直接その相手とじゃなくても噂(勘違いや尾鰭とかの可能性大)とか。
別に邪険にしているわけじゃないけど、どのグループにも属せず、挨拶はこっちからはしても無視されるか嫌な顔される。
ところが、大学入った途端急に変わった。
ほとんど知らない奴ばっかりだったのが良かったのかもしれないけど、
俺を接点にしたグループが出来上がり、
気が付いたら集まってる連中はバラバラで、俺だけがみんなとあちこちで繋がってる、そんな感じになった。
だから挨拶も気分よく交わせるし、色々な遊びも付き合ってもらったり、付き合わされたり
ところが、ある時、急にそいつらが離れたんだ。
冬休み、どこか誰かと遊びに行くか~とか思ってたら。
俺は複数のグループの中にいたけど、よくよく考えれば「俺」が外れれば、そいつらは全く分離した独自のグループを形成してて、
それぞれがそれぞれとだけ付き合いだした。
元々底辺だった俺だから、根回しとか全然できなくてする気もなかったから、なんだよ、急に底辺に逆戻りかよ、って吃驚して、
今までは平気だった些細な事も酷く寂しく辛くなっちまった。
あまりに急だったから、なんでだよ、って追求するのも怖くてできなかったから、真相を知ったのは数年後だった。
どのグループも、「増田と一緒に遊びたいけど、増田は人気者だし、きっと他のグループと遊んでるだろうな」ってマジで思ってたらしい。
知ってたら、絶対に誘ったのに、って。
確かに、俺がどっちのコンパに行くかって事で若干モメた事もあった。
俺としてはみんな平等に付き合いたかったから、どこかにべったりもなかったが、逆にそれが悪かったのかもしれない。
まあ、何年も後の話だし、
俺の顔を立てて適当な事を言っただけだったかもしれない。
ぽつぽつと会うあちこちのグループの奴から
「あの頃の増田みたいに、みんなの中心にいる人気者になりたかった
増田のおかげで、色々な奴と知り合いになれた」
とも言われた。
女子も居たから結婚した奴もいる。
けど、俺には何も残らなかった。
今でも、声は掛けられる。
特に、大人数で集まるときなんか俺がいなきゃ!みたいに呼ばれる。
けど、俺自身がそいつらにマイナスの気持ちしか持てなくなっちまった。
俺はそいつらにとって、HUBみたいなもんだったんじゃないかって。
正直、底辺しか知らなかった時の方がずっと楽で、強かったと思うよ。
無口なので小学校では1年間くらいイジメをうけていた。成績は良いほうだった。というかずっと1番だった。小5のときにネットに出会った。最初はテレビゲームの攻略サイトとかチャットルームをよく見ていた。はじめはチャットを荒らしまくっていた。まぁ普段無口な小学生がネット弁慶になるって言うのは今でもあるだろ。遊戯王とかパワプロのホームページを作って遊んだ。中身はないようなものだったが。
今思えば中学時代が最も充実していたかもしれない。卓球部に入った。仲の良い友達もいたし後輩とも親しくなれた。しかし練習はちょくちょくサボっていたので中学最後の団体戦には1年生に枠を奪われて出られなかった。塾に通い始めたおかげで、学校での成績は良好だった。ホームページ作りに飽きて(人が集まらない)、ブログをやり始めた。が、書くネタも別になかったので何度も削除しては新しいブログを作った。塾と部活以外は本当にだらだらネットしている中学生だった。親にパソコンをねだったが却下される。
学区内で2番目の高校に入った。進学校を自称しているが、大半の生徒は偏差値55から60をさまよっているレベルだ。東大京大に受かる人間などまずいない。仲の良い友人たちは別の学校に行った。非コミュの俺はあまりクラスになじめなかった。
高校最大のミスは数ヶ月で部活(運動部)の幽霊部員になったことだ。中学の卓球部でだらだらしてた俺にとっては練習がおそろしくきつかった。廊下で先輩と顔を合わせるのがつらかった。
塾に行かず独学を決意したのが2つ目の大きな間違いだった。入学直後の進路希望には一橋大学社会学部と早稲田大学社会科学部を書いた。当時は「働きマン」を読んでいて雑誌の編集者になるつもりだったのだ。しかし数学と理科は早々に理解できなくなったので私立大学を目指すことにした。
梅田望夫の本を読んでプログラマーになろうと決意した。志望を慶応SFCと早稲田人科に変えた。再度、親にパソコンをねだったが却下される。
2年生のクラスではついにまったくのハブになった。学校祭とか体育祭が本当につらかった。昼休みはトイレにこもって2chしてた。家に帰ってネットしたり漫画読んだりする日々。俺が短期間部員だった部活の人たちはすげえリア充になっていた。
塾という外部強制から解き放たれた俺は授業2年の冬まで全く勉強しなかった。得意科目の偏差値もやばいことになり、そろそろ勉強し始めた。プログラミングも文字を表示させるレベルで挫折して、志望はいつの間にか早稲田になっていた。将来のビジョンなど頭から消えていた。英語と現代文ばかりやっていた。楽だったから。おかげで模試の判定はいつもEかDだった。だからといって焦ることもなかった。勉強する習慣が身に付いていなくて、30分くらいでネットや漫画に走ってしまう。中学のときもほとんど塾で勉強していたからかな。大学に行きたい理由も特になかったんだと思う。大学に入ってからやりたいことをやろうと考えていた。俳優とか政治家とか記者とか証券マンとかなりたかったかも。どれも3日くらいで忘れたが。
3年生になってもダラダラで、歴史科目の勉強も苦しくて苦しくてやっていられなかったので成績は悪いまま。それでも英語だけは偏差値70だったのでまぁなんとかなるだろと思っていた。夏休みは全く勉強せず。図書館に行くふりしてネカフェでまったりしてることも。家では部屋にこもっていたので、親は俺がそれなりに勉強していると思っていただろう。冬休みは冬期講習を受けたが、予習も復習もしなかったから金をドブに捨てたようなものだけど。歴史科目は半分くらいしか進んでなかった。親には偏差値50くらいの中堅私立大も受けとけと言われた。
明治に落ちて。
入試本番。早大入試の前日に秋葉原で漫画を買ってマック食べながら読んでるレベル。それでも10パーセントくらいの確率でもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。試験が終わった後は浪人を頼み込もうと思っていた。母親は浪人も考えていてくれたようだが、父親は定年退職も近くてこれから給料が下がる、妹もいるということで浪人はダメだと言った。国立一本でがんばっていれば、浪人という選択肢も出ていたかもしれないことを後悔した。
早稲田。落ちた。
中堅私立しか受からなかった。
そして高校卒業。
友達もできず、恋愛に夢中になることもなかった。
上に書いてあること全部こなしてるやつだってたくさんいるというのに。
小学生の頃から何かひとつの技術にはまって、今頃は全国有数の実力者になっているやつだっているだろう。
俺みたいな奴も少なからずいるだろうから、そういうやつは一度自分を見つめ直してほしいとは言わない。どんどん堕落しろ。他人の不幸は蜜の味。
受験勉強にすらがんばれなかったという後悔は今もある。学歴コンプレックスこじらせてるな。やっぱりネットとかが好きなのでそういうものに少しでも関われる仕事をしたい。
なんだかんだあって4月からとある都内の文系学部に進むことになった。
やりたいことにどんどんチャレンジしていこう。
役に立つスキル磨いていこう。
なかのいい友達を作ろう。
熱い恋をしよう。
大学デビュー乙って思うかもしれんが、それはなにか違うんだよ。
ただ春のやわらかな風が俺の背中を押しているのを感じているんだ。
俺は変わってやる。変わらなくちゃいけない。
成績は良いほうだった。というかずっと1番だった。
小5のときにネットに出会った。最初はテレビゲームの攻略サイトとかチャットルームをよく見ていた。はじめはチャットを荒らしまくっていた。まぁ普段無口な小学生がネット弁慶になるって言うのは今でもあるだろ。
遊戯王とかパワプロのホームページを作って遊んだ。中身はないようなものだったが。
今思えば中学時代が最も充実していたかもしれない。
卓球部に入った。仲の良い友達もいたし後輩とも親しくなれた。しかし練習はちょくちょくサボっていたので中学最後の団体戦には1年生に枠を奪われて出られなかった。
塾に通い始めたおかげで、学校での成績は良好だった。
ホームページ作りに飽きて(人が集まらない)、ブログをやり始めた。が、書くネタも別になかったので何度も削除しては新しいブログを作った。
塾と部活以外は本当にだらだらネットしている中学生だった。親にパソコンをねだったが却下される。
学区内で2番目の高校に入った。
進学校を自称しているが、大半の生徒は偏差値55から60をさまよっているレベルだ。東大京大に受かる人間などまずいない。
仲の良い友人たちは別の学校に行った。非コミュの俺はあまりクラスになじめなかった。
高校最大のミスは数ヶ月で部活(運動部)の幽霊部員になったことだ。廊下で先輩と顔を合わせるのがつらかった。
塾に行かず独学を決意したのが2つ目の大きな間違いだった。入学直後の進路希望には一橋大学社会学部と早稲田大学社会科学部を書いた。当時は「働きマン」を読んでいて雑誌の編集者になるつもりだったのだ。しかし数学と理科は早々に理解できなくなったので私立大学を目指すことにした。
梅田望夫の本を読んでプログラマーになろうと決意した。志望を慶応SFCと早稲田人科に変えた。再度、親にパソコンをねだったが却下される。
俺が短期間部員だった部活の人たちはすげえリア充になっていた。
塾という外部強制から解き放たれた俺は授業2年の冬まで全く勉強しなかった。
得意科目の偏差値もやばいことになり、そろそろ勉強し始めた。プログラミングも文字を表示させるレベルで挫折して、志望はいつの間にか早稲田になっていた。将来のビジョンなど頭から消えていた。
英語と現代文ばかりやっていた。楽だったから。おかげで模試の判定はいつもEかDだった。だからといって焦ることもなかった。
勉強する習慣が身に付いていなくて、30分くらいでネットや漫画に走ってしまう。中学のときもほとんど塾で勉強していたからかな。
大学に行きたい理由も特になかったんだと思う。大学に入ってからやりたいことをやろうと考えていた。俳優とか政治家とか記者とか証券マンとかなりたかったかも。どれも3日くらいで忘れたが。
3年生になってもダラダラで、歴史科目の勉強も苦しくて苦しくてやっていられなかったので成績は悪いまま。それでも英語だけは偏差値70だったのでまぁなんとかなるだろと思っていた。
家では部屋にこもっていたので、親は俺がそれなりに勉強していると思っていただろう。
冬休みは冬期講習を受けたが、予習も復習もしなかったから金をドブに捨てたようなものだけど。
歴史科目は半分くらいしか進んでなかった。
明治には落ちてた。
入試本番。早大入試の前日に秋葉原で漫画を買ってマック食べながら読んでるレベル。それでも10パーセントくらいの確率でもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。
母親は浪人も考えていてくれたようだが、父親は定年退職も近くてこれから給料が下がる、妹もいるということで浪人はダメだと言った。
国立一本でがんばっていれば、浪人という選択肢も出ていたかもしれないことを後悔した。
早稲田。落ちた。
中堅私立しか受からなかった。
そして高校卒業。
友達もできず、恋愛に夢中になることもなかった。
上に書いてあること全部こなしてるやつだってたくさんいるというのに。
小学生の頃から何かひとつの技術にはまって、今頃は全国有数の実力者になっているやつだっているだろう。
俺みたいな奴も少なからずいるだろうから、そういうやつは一度自分を見つめ直してほしいとは言わない。どんどん堕落しろ。他人の不幸は蜜の味。
受験勉強にすらがんばれなかったという後悔は今もある。
なんだかんだあってネットとかが好きなのでそういうものに少しでも関われる仕事をしたい。
なんだかんだあって4月からとある都内の文系学部に進むことになった。
やりたいことにどんどんチャレンジしていこう。
役に立つスキル磨いていこう。
なかのいい友達を作ろう。
熱い恋をしよう。
大学デビュー乙って思うかもしれんが、それはなにか違うんだよ。
ただ春のやわらかな風が俺の背中を押しているのを感じているんだ。
俺は変わってやる。変わらなくちゃいけない。
僕は典型的な糞どうしようもない人間で、才能もなければ努力もできないという最低っぷりを常に発揮してきた。それは受験に関しても同様で、まあなんとかなるだろうと思っているうちにセンターが終わった。
具体的に言えば、高二秋に部活を卒業して皆受験モードに入るも「理一ならとりあえず高三からで大丈夫だろう」。高三に入っても「まあ夏休みから必死にやればなんとかなるだろう」。夏休みも、「もう早慶にシフトチェンジしたしまあ大丈夫だろう」で大して勉強せず。冬休み「もう諦めようか」。で、ここまでほぼ何もしないで来てしまった。まあそんなことはどうでも良い。
そしてここからが本題の、今回試験を受けて、僕があまりにも世の中全体というものが見えていなかったということに気づいた話。別に自分がどうとか、中二的な「やってなかったのにできた」話、また世間を見下して悦に浸っているということではないので了解いただきたい。
センター。センターも、ぶっちゃけ必要はなかったのだが、何故か教師にそそのかされて受けることになり、しかも科目は英語だけ。そして昨日受けて、家に帰って、自己採点して、今日はじめてセンターの全国平均というものを知って、正直驚愕したというか辟易したというか、とにかく唖然とした。
僕の点数は、156点。実際受けてみた感想としては、「恐らくちゃんと勉強している方々にとってはかなり簡単なテストなんだろうけど、僕みたいな怠惰さを通してきた奴にはなかなか点取れないな…。平均いかないだろうな…。」と思った。実際、僕の同級生たちの平均は180点オーバーだし、僕の感想は別段間違ったものではなかった。
しかし、全国平均点予想を見て驚いた。予想している団体により多少の差異はあるものの、例年、予想と実際の数値に誤差は1-2点ほどしか見受けられないため、ほぼ正確な数字だろう。そして、その数値は120点前後。
本当に驚いた。こんなもんなのかと。正直に自分のことを言えば、まあ多少ほっとした気持ちはあったものの、下を見て安心してもしょうが無いのは自明の理であった。なによりこの数字にはそんな心情を大きく上回るインパクトがあった。こんなにも低いのか。こんなにも馬鹿ばっかりなのか、或いは勉強してない奴らばかりなのか。と、自分の愚かさを棚にあげて、暫時驚いていた。なんかやり切れなかった。
どうやら初めてご近所トラブルらしきものに巻き込まれてしまった。
我が家は一軒屋、裏庭に小さな小屋を置いて犬を1匹飼っている。
裏庭は少し広めの駐車場に面していて、その向こうには5階建てのマンションがある。
そのマンションのベランダは裏庭とは別の方向、南の方角に向けて設置してある。
しかし、端の部屋はベランダとはまた別に窓を持っており、その窓は駐車場の方に向かって設置してある。
変なものを置いていたりはせず、犬と犬小屋、それから物置が置いてあるだけの裏庭なので、別に見られても恥ずかしくはない。
これまで特にトラブルになったことはなかった。
3,4ヶ月前になるだろうか。それまで2ヶ月間ほど空き部屋だった4階の部屋に、新たな一家が越して来た。
隣と言えども駐車場を挟んだマンションである。あー、新しい人たちが来たんだな、と私を含め家族はその事実を大して気に留めなかった。
ところがある日のこと。散歩にはもう行った、ご飯まではまだ早い、なのに犬がきゃんきゃん喚いている。
何事かと思って兄が裏庭に行くと、そこには多数のBB弾が落ちていた。
エアガンなんて家族の誰も持ってない。不審に思った兄がふとマンションを見上げると、マンションの窓から裏庭を見ている男子が2人。
その手にはエアガンのようなもの。隣のマンションに住む男子が犬を撃っていたというわけだ。
兄は怒りに怒り、マンションの4階からこちらを見ている男子に向かって怒鳴り散らした。
その後、しばらくは犬が撃たれるということはなかったが、男子が謝りに来るということもなかった。
兄は相当厳しく激しく怒鳴ったのだが、男子2人は全く懲りなかったらしい。
こちらが忘れた頃にまた同じ騒ぎを起こした。同じく兄がまた怒鳴り散らして、またしばらくは何も起きなかった。
だが、二度あることは三度あるというべきなのか。
冬休みの暇を持て余した男の子たちは、今日、また我が家の犬を撃った。
多少やんちゃなところはあるけれども、他人を噛んだりなどはしたことがない、我が家の犬が何故撃たれなければならんのだ。
今日、事に最初に気づいたのは父であった。
兄よりも数段勝る迫力で怒鳴るも、男子たちは撃つのをやめただけだった。
流石に3度目ということもあり、父は男子たちに降りてくることを要求。BB弾の片付けを命じた後、ペンを持たせ、住所と名前を紙に書かせた。
(名前はともかく、住所に関しては隣に住んでいるのでそれほど意味がないことのようにも思うが)
家の中で対応を見守っていた私までも竦み上がる凄まじい怒鳴り方だったのに、その子たちは実にふてぶてしい態度で反省の色はなかったそうだ。
中学生にはまだ善悪の判断はつかないのだろうか。それとも他人の家の犬などただの標的としか思えないのだろうか。
そして、もう一つ気になるのが、同じような騒動がこうやって3回起こっているのに、兄弟の両親が姿も現さないことだ。
最初の騒動が起こって4ヶ月くらい経つが、謝罪の言葉の一つもない。
謝罪と賠償を請求する!という図々しい考えは持っていないが、どうもすっきりとしない。
昼間忙しい仕事で、その間、子どもが何をしているかは知らないのかもしれない。
または、子どものことなど我関せず、何をやろうが知ったことではないという考えなのかも知れない。
どちらも私の想像の域を出ない。もし後者であれば物凄く腹の立つことだと、勝手に想像して勝手に憤っている。
相手の事情も知らず決め付けてああだのこうだの言うのは失礼なことなので、両親に対する非難はしないが、
しかし兄弟が我が家の犬を3回撃った(もしかしたら家の誰もいない間に同じことをしていたのかもしれない)のは事実である。
さて、先に述べた通り、兄弟2人には反省の態度は見受けられなかった。
3度あるこどは4度ある、ということわざはないが、また同じことが起こるかもしれない。
相手の本拠に直接文句を言いに行く、マンションの大家さんに苦情を言う、あるいは中学校を通すなど、色んな意見が出たけれど、
とりあえずは今後一切何も起きないことをまずは祈るばかりである。
2年付き合ってた彼女と別れてもう4ヶ月がたとうとしてるがいっこうに傷が癒えない.
向こうには先月彼氏が出来たとか.
俺なりにしっかり支えたつもり.もちろん浪人生ってことでいろいろ我慢もした.
向こうが見事第一志望に合格.ホントに嬉しかった.
彼女がいたから俺はものづくり系サークルに入って大学生活は華やかではなく堅実に自分を成長出来るようにスゴそうと思った.
そして俺はサークルに没頭し続けた.家が遠いということもあり毎日終電近く&休日返上な日々だった.
向こうもサークルに入って,とても充実した毎日を過ごしているようだった.
向こうが入学してから数カ月ぐらいたってから二人でメールや電話をしていても「まぁ俺らは互いにサークルが一番だよね」と口にするようになっていた.
彼女の浪人生活が終わったからといって遊ぶ回数が増えたわけでもない.むしろお互いのサークルの忙しい時期が上手いことずれていて浪人をしていた頃と同じくらい.
俺はこのころあたりから甘えていたのかもしれない.
たまに会えば「最近終電ばっかで寝てない~」だのそんなことばっか言っていた.
しかも服装だって高3の頃に買い込んだものを未だに使っているよう.
「好きな人ではなく友達のように思えてきた」
これが彼女からの別れを切り出された時の理由.
損得で考えるのはおかしいとは思うが,これが1年間支えてきた報いなのかと思った.
向こうからしたら高校生の頃より,卑屈になってしまった俺が好きではなくなったんだろう.
今俺に残されているのはサークルだけ.
でも俺は前ほど没頭出来てない.
ある意味,彼女という存在のおかげで俺は脇目をふらず没頭出来ていたのだと思う.
バイトしているのに食費と本代ということで自分でも多いと思うくらいお小遣いも貰っている.
それから寝て起きて授業という生活が嫌だという抵抗からニコニコ動画やYoutubeで3時くらいまで起きてる.
財布に余裕があるから無駄にご飯を食べる.買い食いをする.大学入学時から5キロ太る.
別れてから4ヶ月,向こうに新しい彼氏が出来て1ヶ月.未だに別れた時のこととかを思い出してイライラする.
そして向こうはサークルも充実してるし,彼氏もいるし,楽しそう.
かといって新しい彼女を探そうとしてるわけでもなく思い出してはイライラ.
なんだよこれ.向こうはきっと俺のことなんか気にせずに楽しく過ごしてるけど,俺は向こうの存在を意識してくだらない日々ってか?惨めじゃねぇか.こんなんじゃダメだ.
こんなんじゃダメだ!!
ただ,前は感じなかったモヤモヤというかイライラというかこの惨めな思いを取り除きたい.
それでサークルに没頭したい.
新たな刺激を俺のこんなダメダメな生活に与えたい.
あと1週間で冬休み.
幸か不幸か予定がほとんどない.
どっかに一人旅にでも行ってこようと思う.
今までの生活で出会うことのない人や物に出会おう.
俺は失恋したことをこんなに引きずる男だったとは思わなかった.
月給は二人とも手取りの話です。そして増田は残業代込での話です。(残業は月30~40時間なので多いとは言えませんが)
ミスが多いので正社員にできないのでは、という話は耳に痛いです…頑張ろうと思います。
また、同業の別の会社につとめればよいのでは、というご意見は検討してみようと思います。
職種もですが会社自体にあこがれがあった(今もある)のでずるずると今まできてしまいましたが、自分の仕事がミスもなくなったとしてもバイトのままであればそうするべきですよね…
残業の話ですが、私の仕事の前任者(って言っていいのかな、立場は違うんですが)が仕事を沢山受け持っていた人のため、それを知らず知らず引き継がされた私も話に出した社員の子より仕事が多くなってしまい残業が増えています。
バイトなのでいつ帰ってもいいはずですが、残業しないと社員にはなれないと言われているし、(実際は私より先に帰る社員が多いのですが…)独身者なので気軽に使われているのもあるかもしれません。
誰かに聞いてほしくなったから書くよ。
子供の頃の話でさ、俺もついこの間まで忘れてたんだけど、俺ちいさい頃によく一緒に遊んでた幼馴染の女の子にタイヤキおごったことあったのね。
その頃の俺って引っ込み思案で友達もいなくてさ、その子とばっかり遊んでた。ままごととかそんなインドアな遊びばっかりしてた。
その子の両親が仲悪くてしょっちゅう喧嘩しててさ、ある日ほんとにヤバイ大喧嘩になったらしくってその子がずっと泣いてたのね。それで俺はミニ四駆買うために貯めてたなけなしのお小遣いでタイヤキをおごってあげた。それだけといえばそれだけなんだけどさ。その子とは大人になったら結婚しようとかピュアな約束もしてたわけよ。指きりとかもしちゃったりして。いやまあ俺もずっと忘れてたんだけど。
で、去年の冬休みに実家に戻ったときに十数年ぶりぐらいにその子と再会した。そしたらなんかめっちゃかわいくなってるんですけど。もうね、絶対そのときの俺キョドってた。ふたりともジャスコに用事があって奇跡的にそのまま一緒に買い物行ったのよ、懐かしいねーとか言いながら。
そしたらその子がタイヤキ食べようって言ったのね。それで不意に全部思い出してアアアってなった。タイヤキ買ってあげたこととか結婚の約束とかも全部ね。それで、もしかしてコイツあのとき以来タイヤキ好きになったんじゃね、とかエロゲばりの展開を想像したのよ。で、「あれ、昔からタイヤキ好きだったっけ?」ってカマかけたら頬染めながら頷いてさ。これきた、俺かつる!とか一人でテンションあがっちゃって、うわーどうしよ俺ついに脱童貞じゃんしかもこんなかわいい子と、とか舞い上がっちゃったのね。
でも俺そのときひとつ気付いたことがあった。俺が子供の頃買ってあげたタイヤキはチョコ味だったはず(あんこ嫌いだったし)。でも今その子が食べてるのは普通の黒あんなの。なんかおかしくね?
で、テンション高いままその子に聞いたのさ。タイヤキにまつわる思い出とかあるの?って。
そしたらさ、高校のときに最後の部活で負けちゃって落ち込んでたときに、好きだった先輩が銀だこの薄焼きタイヤキをおごってくれたんだそうな。それがきっかけで付き合うことになって、ついに10月に結婚して妊娠3ヶ月目なんだと。なんかもう何も言えなくなった。
酒井法子が逮捕されてからこっち、高校時代を思い出さずにはいられなかった。出会ったのは一年生の春だった。まだ顔も名前もろくに覚えられていない同級生達の席の間を縫って歩いていると、一人の女の子が弾けるような笑顔で僕の事を見ていた。僕は不審でしょうがなかった。僕の顔に何か付いているのだろうか?それとも天パーの頭が鳥の巣みたいだったろうか?はたまた入学初日に上履きを忘れてただ一人スリッパで過ごした奴はこいつかなどと思っているのだろうか。さっぱりわからなかった。仕方なく僕は不思議そうな顔を隠す事無く、軽く会釈した。彼女も笑顔のまま会釈した。
さっぱりわからなかった。今までモテるとか顔を褒められるとかした事が無かったので、そういう意味の笑顔では無いだろう。だとしたらなんなの?やっぱり分からない。一つだけ分るのはの笑顔がすっげーかわいいという事だ。トリコになりました。次の日からは意識的、無意識的に目で追うようになった。でもそれじゃ飽き足らなくてやっぱり話がしたい。でも大した用も無いのに話しかけたら、口ごもるに決まってる。でも会話はしたい。できる事ったら朝な夕なに「おはよう」、「バイバイ」と確実に挨拶する事くらいだ。特に別れの挨拶は難しくて、朝というのは放っといても時間になれば皆教室に入って来るのでいつかは顔を合わせる事ができ、また女の子というのはどういうわけか何時であろうとその日初めて会った場合には「おはよう」、と言うのが常であるようなので、それは大して問題では無いのだが、帰りはそうはいかない。めいめいがそのまま帰る、教室廊下でだべる、部活、などそれぞれの都合で帰る時間が決定されるからである。なので帰るまでは教室廊下をうろつくのが常であった。
幸運だったのは僕の入った部活に彼女も入った事だった。「同じ」と言っても男女一緒に活動するわけでは無い。とはいえ、見渡せば姿は認められる位置関係だった。今気付いたが、1年生の時は学校にいる間中、見ていたという事か。これはいかんな。一時期は席替えの結果、僕は真後ろの席につくという僥倖を得た事があった。これは僥倖以外の何物でもなく、別に見ようとしなくても見れてしまうのである。その時、ショートカットの後ろ髪をかきあげる癖があると知った。それがあまりに頻繁だったので、僕は「○○君があたしのどたまを見ている!あたしの髪変じゃないかな。気になる!」という気持ちの表れだと思わずにはいられなかった。
休みの日は困った。姿が見られないから。しかも顔をうまく思い出せない。あれなんでなの?好きな人の顔を思い出せないのは。再現のレベルが低いと像を結ばないという事か?脳内に厳しい上司がいるのだろうか。何度も、ちょっと会わない的な誘いをしようとクラス名簿を見て家に電話をかけようかと思ったが、ご両親、ご兄弟が出たらと思うととてもじゃないけど、僕にはそんな事はできなかった。当時はやっていたポケベルすら持っていない僕に打つ手は無かった。
特に何も無いまま、冬休み。スキー教室みたいなイベントもあったりして、話すネタができた、というのと、冬休みは部活もろくに無いので、顔を見ることすらなく、悶々としていたといった理由から意を決して電話した。家には子機なんてこじゃれたものはなかったから、居間で、幸いにも夜の早い両親の寝静まった後、電話をかけた。でも寒い居間で勇気が出なかったから、ミッシェルガンエレファントのライブビデオを見て勇気を振り絞って電話して、男の人が出たので、これまた勇気を振り絞って、変わってもらった。実際に話した内容は他愛も無いもので、スキーがどうだった、部活がどうだとかその程度で、また冬休み明けたらよろしく的な、別段何かに誘うでもなく、大して後につながらない話に終始したが、僕はそれだけで残りの冬休みをうきうき過ごせた。
冬休みが明けるとなんかどうも先輩からアプローチをかけられたらしい事がわかった。その時、僕は前の席に座っていて、どうもその日先輩に呼び出されたということらしい。僕は聞いてられなくて、トイレに立った。トイレから出て、手を洗っていると、なんとも浮かない顔(に見えた)の彼女が出てきた。僕は「そんなの別に行かなくていいじゃん」て咄嗟に思ったけど、口からは何も出なかった。なぜ言えなかった!ただ聞き耳を立てていただけで、事情がよくわからないから、下手に口出しするのはちょっと・・・と思ったからか!HEたれ野郎が!先輩の申し出は断ったようだった。
2年生になった。クラスが変わった。主に見られるのは部活くらいになった。そんなでぼんやりしていたら、彼氏ができたという情報が耳に入った。マジか・・・。とうとうか・・・。なんせ誰に対しても明るく接する彼女に彼氏ができない理由を探すほうが難しかった。約半年後、別れたという話を聞いた。僕は彼女がその彼氏と一緒にいるところを一度も見た事が無かったので、付き合っていたこと自体、未だにに半信半疑なのだが。しかしタイミング的にはもうすぐ修学旅行という時期だ。「修学旅行前に彼女がいるのと修学旅行で彼女ができるのとではだいぶ違う」と友人が色めき立っていたのを聞き、僕はそういうもんかと思い、とうとう、やっと、遂に、いよいよ、ようやく、遅ればせながら、告白する意を決した。確か土曜日か日曜日の、よく晴れた部活前の時間だったと思う。自転車置場で、僕は緊張のあまりなかなか言い出せず、しかも「ずっと・・・・す、す、す、・・・・」みたいな調子で、我ながらベタなドラマか、アニメかよと思った。返答は芳しいものでは無かったが、終始笑顔でいてくれた事がせめてもの救いだった。というかリアクションとしては悪くないよなとすら思った。なので、まぁそうだよなーとかすっきりした思いで修学旅行は過ごした。
その後、また彼氏ができたとかいう話があったりして、その頃は3年生の夏頃になっていた。部活も引退し、受験勉強モードだったわけだが、何をとち狂ったか、前の彼氏と別れたという情報を聞きつけてしまったため、再度アタックをすることにしてしまった。タイミング的には誕生日が間近であった。またもや家に電話をかけ、なんとその日の約束を取り付けたのだ!するとプレゼントか。一緒に予備校に行ってる連中に相談した結果、香水が良いのでは無いかという事になった。一緒に百貨店に買いに行き、なんとなくenvyというのにした。envy、そら完全に僕の事では・・・などとよく分からない不安を覚えながらも約束の場所にいた。高3の夏休み中だったため、会うのは数週間ぶりだった。なんかいかにも今日切りましたみたいな髪形になっていて、僕はそれを言おうと思ったんだけど、具体的に何がどう違うのかよく分からない。長さを揃えた・・・んだろうけど、何か上のほうがふわふわした感じになっている。それをどう言葉で表現していいんだ。そんな感じでもじもじしていたら、彼女のほうから髪切ったんだと言ってきた。いや、すぐわかったよ!わかってたよ!ちくしょー!って思った。その後の会話もなんか弾むでもなく、ぼんやりしていてしまいには大して面白くもない自分の親父の話とかしてて、もうぐだぐだだった。別れ際、プレゼントを渡し、改めて告白した。断られた。流石に今度は困り顔だった。最後にせめて抱きしめたいと思ったが、そんな度胸もなく、両手を握る程度にとどまった。
そんな事があったのが、11年前の今日でした。
『冬休みはJリーグへ行こう!』。東京・本郷のJFAハウスに行くと、冬山でボールをもった笑顔の子供のポスターが、いたる所にはってあります。しかしながら、日本の真冬は、サッカー選手はもちろん、観客にとっても快適とはいえません。90分間で10キロ以上走る選手もそうですが、極寒の中で応援する観客も一苦労です。
南米リーグを筆頭に世界のサッカー大国のリーグ戦は春秋シーズン制が基本。そこでJリーグや多くのクラブも春開幕を訴えていますが、日本サッカー協会は「冬休みはかき入れ時」など主張、反対の姿勢を示しています。
とはいえ、選手のパフォーマンス低下は明らか。考えられないような凡ミスを見せられることもあります。それでも「冬休みにJリーグに行こう」と胸を張っていえるのか、笑顔の子供のポスターを見るたびに違和感を覚えてなりません。
MJって記憶屋ジョニーか?ってそれJMだろと、一人寂しくボケツッコミをしちまったじゃねーか。
個人的にはアーサー・C・クラークのが印象深い。「2001年宇宙の旅」の著者といえばわかるだろう。wikipediaからひっぱってくると「ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフと並んでビッグ・スリーと称されるSF界の大御所」の最後の一人だ。時代を感じたね。
なんてのは正直どうでも良い。10年前の、あの訃報に比べれば。
あれは今日と違って本当に天気のよい日だった。あの本当に天気が良かったという記憶は一生忘れないだろう。
夏の葬列には負けるだろうが。
なんて話もまあどうでも良いだろう。
冬休み帰省の足で向かった通夜と、春休みの帰省の足で向かったお悔やみの、あの年の夏休みに比べれば。
ま、早く帰らなければまた間に合わないのではという思いと、帰らないほうが良いのではという思いが交錯した、ってだけで、実際は何も起こらなかったわけだが。
人生、生きていれば色々な死と出会う。
これから先はこれまでの死よりももっと多くの死と出会うだろう。
親の死、友人の死、自分の死。
ま、本当はそんなこと、どうでも良いことだろう。自信はないが。
ネット界隈は恐ろしいもので,日本の大学院のほとんどは屑,みたいな意見がわりと多く見られる.
で,それを真に受けてかどうか知らないけど,ちょっとデキる奴は,すぐ東大院とかに進出しちゃうんだ.でも,オレは別の道もあると思うんだよね.
ここでオレが対象にしたいのは,ちょっとデキる奴であって,超天才とかは知りませんよ.
なんでこんなことを書こうと思ったかというと,今日晴れて奨学金返還の全額免除が決まったからである(内々定,みたいなものだけど).
でも,これ,オレが地方大学にいるから免除されたんであって,東大とか京大とかだったら絶対ムリだったと思うんだよね.
一応,学振も通ったけど,これも,オレの実力というよりは,指導教員の実力で,指導教員だって,もしここが東大だったら,オレなんかに目をかけるはずはなかっただろうと思う.
もちろん,何がなんでもアカポスに就く,じゃないと死ぬ,みたいな奴は,東大じゃなければ(東大でも)厳しいと思うけど,
アカポスに就くことを目的にしなければ,身の丈に合ったところに進学しておいたほうが,何かといいと思うんだよね.寧ろ鶏口となるも牛後になるなかれ,って言うじゃない.
もっと対象を明確に書くと,一般就職はしようと思っている,でも,学部時代の研究はそれなりに面白くて,もうちょっと研究というものをしてみたい.
あと,社会の荒波に揉まれるのはちょっと怖いので,もう少しモラトリアムに浸っていたい.これはすげーネットでは責められると思うけど,事実上,こういう奴はいると思うんだよね.
まあ,オレがそうだ,という話なんだけど.
生活は案外できる.オレは修士課程では奨学金をもらっていて,これがおおむね年間100万円.学費は半額免除だったけど,これはオレに妻がいて,妻に定収入があったからで,単純に世帯分離をすれば,
全額免除も可能だろう(もちろん,その場合は,扶養手当はもらえないし,年金も自分で払うので,結果的には大して変わらないだろうけど).
TAは時給が1300円で,書類上は週に10コマあったけど,実働時間はとても短くて済んだ.これも教員の厚意によるもの.
ただ,大学は夏休みも冬休みも春休みも長いので,実質働けるのは年間30週くらい.それでも,年に大体40万くらいはもらえる.
あとは多少バイトをしても良いし,つましくくらせばバイトしないでも充分暮らせる.
書籍や論文は読み放題だし,機材も使い放題である.学会参加の旅費も少しは補助が出る(年1回なら,交通費は全額出た).まあ,これは大学なら当たり前の話だろうけど,就職と比較すると,全然違うでしょう.
今年は学振に無事通ったので(なお,今のDC1は,3割くらい通るので,指導教員が書類書きに慣れていてかつ連絡を密にとっていれば,まあなんとかなる,と思う),年間収入は240万.
でもこれは,もう一回言うけど,オレが地方大学にいるからできたことである.オレは自分を良く知っている.オレは地方大学なら,わりと,「あいつはデキるな」なんて言ってもらえるけど,
東大や京大に行ったら,「アイツはほんと使えねーなw」扱いだろう.
だから,東大や京大に進学しないと,ダメなんだ,みたいに凝り固まらないほうがいんじゃねーかと思うんだよね.楽しいぜ,鶏口.みんなでやろうぜ.
追記
この二つのブコメがやたらカチンときたので追記する.(他のブコメは,なんか勘違いしているな,からお褒めいただきありがとう,までありますけど,別に腹は立たなかった)
お前ら二人,「けど」なんだよ.越えてるけどなんなんだよ.
きみらのとこは,時給が高くてよかったね,オレも時給2000円とか,1コマ4000円とかもらえたら良かったなあ,と思うよ.
「オレは地方大学に行ったけど別に後悔はしてないよ.だってTAとか奨学金で生活はできるし(これは東大ではできなかったかも),色々目をかけてもらえたからね」
ってオレが言ったとして,
「ふうん,うちのTAは一コマ4000円超えてたけどね」
とか返事されたと思うと,心底アホかと思うわ.お前の自慢話に移行ですか.
言っとくけど,お前の大学が偉いというかすごいんであって,お前がすごくて高額の給与をもらっているだけだかんね,それに関しては.
けどなんだよ,けどの後を言えよ!
こういうことを書くと,「結局自慢したかっただけで,水さされて切れてんのかよw」と思われるかもしれないけど,いやまあいいじゃんちょっとは自慢してーよ.
でもそれに加えて,オレは東大院に行けなかったから糞だ,とか思わないで頑張ろうぜ,というメッセージも一応込めたつもりだ.
それなのに「TAの時給はもっと高かったけど?」,これが異常にムカつくんだよな.
偉そうに合格体験記でも書いてみようかと思います。知り合いにもはや受験生はいないのですが、d:id:lonlon2007:20090317が目に付いたので。
ぶっちゃけると受験勉強は「想像していたとおり楽。」でした。受験勉強を始める前は受験生ってのは寝てる時間と飯食ってる時間以外は全部勉強に当てて、たまに徹夜で勉強する!みたいな偏見は全く持ってなかったんですが、やっぱりそのとおりでした。むしろ10月までバイトしていたのがたたって出席日数が足りず授業のコマ数が増えたうえに出席日数を充たした他の生徒が次々と休み始めるために授業中に寝にくくなり、平均睡眠時間が減っていきました。(寝ないと動けないんですが・・・)
東大は天才じゃなくちゃ入れないっていうのは確実に嘘。「東大生」は学部生だけで約1万、ほぼ京大もほぼ同じ、わずか4〜5歳間に2万超もいる人たちを「天才」とは言わない。天才なら楽に入れるなら本当かも。
秀才が3年間こつこつ勉強して入れるっていうのは本当。「〜初めて入れる」は微妙。秀才でも凡人でも3年間もコツコツ勉強すれば入れるんではないでしょうか。本当に「コツコツ勉強」していれば。
「色んな人が色んなところにこうやれば受かる勉強法!みたいなのを書いていますが、個人個人で合った勉強法は違うので、色々な方法を試してみて、自分に合ったものをやるのが一番いい」というのは当然のことで、id:lonlon2007が長々書いてる中で唯一の真理。
id:lonlon2007を逐一もじるのは早くも飽きたので、というよりもそんなに長く書くこともないので簡潔に。
ちなみに残念ながら僕は、『苦手科目は世界史と日本史、得意科目は数学と化学と物理と地理』だったので「理1なら1ヶ月で受かるんだけどな、下手すりゃ今日にでも受かるかも」と思いながら勉強していました。
あと、基本的に家では喫煙を禁じられていたので、主にガストとジョナサンで勉強してました。当時(約10年前)のファミレスはせいぜいがホットコーヒーのみおかわり自由で、ジョナサンのアイスコーヒーおかわり自由とガストのドリンクバーには大変助けられました。あっ、嘘だ。一番勉強したのは学校。さっき書いた通り10月にバイトを止めてからは授業にかなり出るようになったので、授業科目を耳で聴き、別の科目の教科書を目で読み、2科目並行で勉強してました。あとはファミレスで数学や英語(主に英作文)の難問を広げ、頭の片隅でその回答を考えつつ苦手の世界史のテキストを読んでいました(たぶん後で書くけど教科書やノートよりも新書が多かった)。
風呂の中や通学電車の中で小説を読んでる時も、未だ解けていない難問や数日内で間違えた問題のことを完全忘却しているわけではないのですが、机の前以外では何か思いついても頭の中にメモるだけ。勉強しない時は勉強しないとメリハリをつけるようにしていました。ちなみに「机の前」には授業時間が含まれます。高校生は一日の半分近くを学校で机に向かっているわけだから、勉強時間は非常に長い。一部の(私立)進学校や特別選抜クラスのような環境でもなければ「授業のコマ数が減る」ことはないと思いう。嫌でも一日の半分近くが勉強時間。「寝てる時間と飯食ってる時間以外は全部勉強に当てて、たまに徹夜で勉強する!みたいな偏見」は授業時間を効率的に使えていない人が持つのではないかと思います(あとは生徒に自由時間を多く与える方針の学校の生徒)。そういう意味では「勉強効率」がポイントというのは同意できる。
うちの高校(某都立)では文化祭(とついでに体育祭)が一大行事としてありますが、殆どの人は夏季講習と文化祭の準備を両立させ文化祭が終わった9月頃から本格的な受験勉強を開始するようです。かく言う僕も文化祭が終わって(ちょっと学校側とイロイロあって)バイトを辞め、10月から受験に力を入れ始めました。今、気付いたんですがid:lonlon2007は「6月から」とのことなのでタイトルに偽りありで約半年、僕の方も10月からなのでタイトルに偽りありで約4ヶ月ですね。開始をもう1月遅らせておけば「四半期で受かった勉強法」とゴロ良くピッタリなタイトルにできたのに。
まず何をしていいか分からない!ということで過去問を解いてみました。いや、模擬試験を受けたかも。なにぶん10年前なので記憶が・・・。とりあえず法学部志望なのに受験敵性では明らかに理系向き。その分、周りが国公立を難しいという理由の一つである文系なのに理系科目(理系でも文系科目)、という関門はあっさり突破。選択授業も理系用の数学(と化学と物理)をとっていたので2次試験の数学もさほど難しいとは思いませんでした。
「まず」も何も、とにかく苦手の世界史だけやろう!ということでそれまでは小説に費やしていた読書時間を歴史系の新書に切り替えました。もともと古本屋めぐりは趣味だったので行動範囲の古本屋の50-100円コーナーで歴史系の文庫と新書を買い占め。2年半バイトしていたので他の高校生男子よりもお金を持ってはいました(うちの高校は縁遠かったけど世間では「ブルセラ」華やかなりし頃。女子高生は金を持ってた)。がそんなこととは関係なく、買い占めたと言ってもせいぜい100冊程度。私立や塾に通うことを考えれば微々たるものです。
いつどんな問題でも満点を取れる!と思わない科目を勉強する分には必ず点数の上昇につながるので、わざわざ『勉強のスケジュール』を組む必要はありません。数学は1日勉強しても1点分しか稼げないけど、英語は1日の勉強で2点稼げる、てなことが計算できるのなら『勉強のスケジュール』も有効かもしれません。しかし、そんな計算ができる人は自分の欠点が分析できているのだから、すぐに数学でも2点稼げるようになります。満点を取れない間は何をやっても点数に繋がるのだから『勉強のスケジュール』なんか不要。そもそも『勉強のスケジュール』を考えようと言う発想が今日の今日までありませんでした。夏休みの宿題@小学校で1日のスケジュールを考えろと言われた時以来の衝撃です。『勉強のスケジュール』は学校がバランス配分してくれた「時間割」で十分だと思います。
夏休みはバイトと文化祭だけだったので、休日の勉強について。休日はNHKで将棋を見てから昼食、最寄り駅周辺の古本屋を回ってからファミレスへ。(好きなのが将棋で幸い。これが囲碁だったら午後の大半がテレビでつぶれる。当時はネット中継がなかったのも幸便)本を1冊読んで(1〜2時間)から勉強。最低2時間はやろうと決めていて実際2時間くらいなら集中力は続きます。鉛筆ナメナメ英作文を推敲していると気付くと2時間なんてこともあって最低2時間の縛りは苦痛ではありませんでした。(学校じゃサボってると言ってもそれ以上やってるわけですし)
夏の「初の東大模試」は受けたような気がしてきました。模試の判定は最後までE判定だかF判定だったので「予備校の採点基準が間違ってる」と思ってました。私立であればともかく国公立の論述問題は大学教授を信用して、「間違ってはない」回答が書けていれば良しとしておきましょう。予備校の採点は予定された正解以外を大幅に減点する傾向があるように思います。英作文であれば日本語の1単語には4〜6音節の1単語の英語を対応させれば文句なしの正解で模試ではこれ以外は減点。実際にはそんな難しい単語を知らなくても中学校レベルの単語を組み合わせて意味が合っていれば大学教授は正解としてくれるようです(大学に入ったからといって採点基準を教えてもらえるわけじゃないけど、じゃなければ不合格だったはず)。
出席日数を充たした生徒が続々と授業に来なくなる。いやがおうにも授業中に寝れなくなる。友人も受験モードに突入で遊びの誘いも減る。悪循環?好循環?
センター対策は・・・必要なんでしょうか。東大・京大の2次試験を見据えていれば不要な気がします。敢えて言うなら文系の理科、理系の社会科でしょうか。僕の場合理科が得意科目だったので無視。
というわけでセンター試験対策としては過去問をやってみたくらいです。悪くても90点以上だったので、本番の集中力があれば大丈夫だろうとタカをくくる。それでも素材がたっぷりあるうえに冬休みは午前中の将棋(NHK)もない。勉強時間は比較的長かったように思います。午前に1〜2時間、昼飯を食って古本屋。別のファミレスで本を1〜2時間に勉強1〜2時間。僕の中では最初と最後の時間差だけとって「6時間もやった」と思っていました。
冬休みは学校に行かないので、毎日図書室で読んでたJapan Timesが読めなくなりました。かわりにテレビニュースを英語音声で聞くようにする。親と妹も「受験生」ということで不満は抑えてくれてたようです。
ちなみに過去問は時間を気にせずやっていました。調子が悪い時や面白い問題にであったときは1時間を超えることもあったと思います。過去問で高い点数を取ってもあまり意味がないので答えや力の確認ではなく、とにかく「どんな問題でも時間さえあれば解ける」という確信を持てるように。時間を気にしていないので早く解き終わった時も確認とかはしない。「できた!」と思った段階で答え合わせ、間違っていたら原因を考える。
とりあえずセンターの自己採点が大丈夫そうだったので、気が抜けました。本番でも緊張しないことが分かったのが収穫で相変わらず学校の授業に出る日々。得意で好きだった数学・理科はそろそろ休めます。教師との不仲が極限に達していた英語と国語は最後の最後まで授業です。
『東大の○○25ヶ年』シリーズって何?赤本と友人がやり終えた予備校のテキストと文庫と新書、あとは学校の教科書で勉強してました。友人から借りた予備校のテキストはザッと解いて印象に残った問題だけ書き写して返す。別にビンボーだったからじゃないですよ。公立・公立・都立ときて親にはあまり負担をかけてないし、大学も国立の予定だし、バイトもガッツリしてたし、参考書を買う程度で躊躇することはありません。『東大の○○25ヶ年』シリーズはたぶん僕の頃にはなかったんだと思います。
そんなこんなでさすがに学校も行かなくてすむようになり(都立とはいえ受験校なので他の生徒は来ないし、教師もそのつもりでいる)、時間ができたので予備校に潜り込むようになりました。友人は私立志望が多かったのと私立の方は全く自信がなかったので私立コースです。あと友人は理系にも多かったので理系の東大コースみたいのにもたまに行ってました。2ヶ月も真面目に勉強するとさすがに疲れ(飽き)たのか、この時期に大きく伸びた気はしません。予備校では、僕が無意識にやっていたことを言語化してもらった感が強く、それはそれで頭の整理ができました。有意義だったと思います。
ぶっちゃけ全科目やるって言っても、高校で一日授業を受けているようなものなのであんまり死ねませんでした。
得意で理系の授業をとっていたので苦労なし。解けない問題は絶対に回答を見ず、翌日へでも翌週へでも持ち越してひたすら考える。答え方を覚えるよりも、答えの見つけ方を思いつくことが重要だと思います。図形問題なら知ってる定理・公式を片っ端から引っ張り出してやみくもに補助線を引く。そんなことを繰り返してるうちに、問題を見ると求めている回答がわかるようになってきます。センター試験は余力で解けるので無視。
現代文は二三回本番形式で練習して、形式に慣れるくらいでいいと思います。現代文はみんな取れなくて差がつかないし、勉強すりゃ上がるっていうもんでもないので、比重は極めて低かった。漢字も常識の範囲内なので、よっぽど苦手な人でなければ悪くても1問間違えるくらいで済むでしょう。
加えて日頃読んでいた小説・随筆は役に立ったかな。乱読・雑読ですが古今東西ジャンルに捕らわれずに古本屋の投げ売りコーナーで目に留まった本を片っ端から読んでたので、過去問や模試でもたまに知っているテキストがありました。新刊でも買うような好きな作家は受験には向いていないようで、これも幸いでした。好きな作家のテキストが出ていたら「正解」ではなく「持論(自論)」を書いてしまうひねくれた者なので・・・
知っているから解ける、知らないと解けない、というわけではありませんが、抜粋されたテキストの前後や著者が分かることにデメリットはありません。「受験のため」としてはお勧めできませんが、今まで読書に費やした時間も「無駄ではない」程度の気休めに。
使った参考書・問題集:なし
暗記が苦手なので古文には多少手を焼きましたが、学校の授業で十分。むしろ暗記法があれば教えてもらいたいくらい。単語帳とかがいいんでしょうか。僕は単語帳を作るのが面倒だったので、とにかくテキストを繰り返し読んで単語の意味や用法を文脈から類推するように心がけました。おそらく全科目で一番教科書を使いました。和訳(現代語訳)では自然な日本語になるように心がけました。意味が分からないから曖昧に訳すのではなく、文理や言葉のかかりを強調する翻訳体をさらに自然な言葉に訳す感じです。英文和訳でも同じ。
センター試験対策。教科書と過去問で十分。感覚を忘れないように授業がなくても週に一度はやる。勉強期間が短いので過去問が枯渇する心配がない。
うちの高校では入学時点で日本史と地理の選択を迫られます。歴史の暗記(人名と年号)が大の苦手だったので深く考えずに地理を選びましたが、これが功奏。日本史と世界史、日本史と地理が無関係とは言いませんが、世界史(の特に近現代史)と地理は密接不可分。片方を勉強すればいやでも他方の学力もあがります。
比較的得意だった地理。これは教科書と一般教養(新聞と新書)で済ませました。とにかく視点を広くして、知らないことがあって当然、知らなければ考える。このとき世界史の知識や新聞・書籍で読んだ現代社会の知識が役立ちます。社会・政治は地理的条件や歴史的背景に帰結することが珍しくありませんから知らないことでも十分に推測がききます。
あとは地図を見ることかな。別に国名や地名を覚えようとする必要はなくて、国名や都市名とだいたいの位置が繋がればそれだけでたくさんの情報が得られます。内陸なのか平地なのか、頭の中で地形図や気候図とおおまかに重ねられればなお良し。世界でn番目に長い川の名前とかm番目に広い国土といったクイズ的な知識は不要。そこに川はあるのか、国土は山がちだが狭くはない、その程度で事足ります。
都市名と工業・農業・産業を単にセットで暗記するのではなく、そのような産業が育まれた地理的要因を考える。基本で当然のことのようですが、結局はこれにつきます。
歴史(世界史)。大の苦手。とにかく年号と人名が覚えられない。ルイとかシャルルまでは分かるけど何世かが覚えられない。清教徒革命とフランス革命の前後関係(因果関係)は分かるけどそれぞれの年号は知らない。(日本史なら足利某までは分かるけど某が分からない)それでも何とか解けるのが東大・京大の論述問題の良さ!
細かい年号はザックリと捨て拙い記憶力は人名とせいぜい事件の名称に費やす。あとは前後関係・因果関係を意識しながら歴史を概観する。
教科書や授業では国や地域で縦に切り、ついで年代で横に切って学習しますが、前後左右のつながりを考えて大きな年表を作ります(頭の中でも良いし、模造紙や今ならパソコンのソフトで実際に作ってもいいかも)。先の例で言えば清教徒革命はイギリスの歴史においてどのような影響を与えたのか、さらにヨーロッパ、アメリカのどのことがらにつながっていくのか、フランス革命はフランスの歴史、ヨーロッパ・アメリカの歴史にどのように・・・こうやって年表に→を書き始めるとすぐに→だらけで見るにたえなくなっていくと思います。そんな因果関係を大まかに覚えていく。このような大きな流れがつかめると東大の問題は急に簡単に見えてきます。
教科書と資料集を片手に短時間で問題を解けるようになれば、あとは覚えるだけ。
教科書・資料集をわたしてもキーワード(人名・年号・地名・事件)をピックアップすることしかできずそれらをつなげて論説できない人が東大・京大の論述式問題を難しいと言ってるように思います。僕の場合は逆で、キーワードが分からない(正確に覚えていない)もののキーワード部分を穴あきにした回答は組み立てられた(センター試験の問題文のような文章)。教科書・資料集があれば穴埋めは簡単。あとはキーワードを覚える。受験勉強のほぼ全てをこれに費やしたと言っても過言ではありません。
例題を解く時は分からない問題もいきなり回答を見るのではなく教科書などを見ながら一度回答を完成させてから回答を見る方がいいでしょう。「覚えさえすれば」という段階に至ることが重要。
もう1つ、大まかな流れを雑ぱくに理解するのに新書のような読み物が役立ちました。受験用ではないので縦横に細切れにされていませんが、その分全体的な流れが見えてきます。気分転換にもいいでしょう。
最後に暗記について。当時は思いもよらず、最近になって思いついたのですが、書いて覚えるのではなくしゃべって覚えるというのがいいような気がします。英単語や漢字は書いて覚えるのも効果的だと思いますが、(ルイ)14世、15世、16世と書き連ねたところであまり役立つとは思えません。関連する人名・年号・ことがらをセットで口に出すと覚えられそうな気がします。ぼくは学校とファミレスで勉強してたので、当時思いついたとしても実行できませんでしたが。ちなみにこれは法学の勉強を通して気付きました。自分でレジュメを作ったり授業を聞いていても条番号はなかなか覚えなかったのですが、ゼミなどで口に出す頻度が増えると自然と覚えていました。
英文和訳は慣れ。知らない単語は前後の文脈で予想。そのために役立ったのは英字新聞Japan Times(とテレビニュースの英語音声)でした。朝に日本語の新聞で読んだ内容が英語に書き直されてるようなものだから、知らない単語があってもドンドン読み進められる。これを2ヶ月も読めばいやでも単語力や読解力、類推力や速読力が身に付きます。
辞書をひくのはあとまわし。類推した単語はあとで必ず辞書をひく。この2点がポイントと言えばポイント。辞書をひくのをあとまわしにするのは「考える」ことが重要だから。あとで必ず辞書をひくのは、1つの単語が持つ複数の意味を「とりあえず知っておく(覚えなくてよい)」のが重要だから。
今では多くの英語の新聞記事がネットで見られますが、日本の新聞とはフォーカスが違うので今なおJapan Timesが良いと思います。「英文を読む」よりも「大まかな内容を知っている英文を読む」ことが重要です。
趣味と実益を兼ねて好きな作家の原書も読みました。が、これはさすがに知らない単語(と専門用語)が多すぎて勉強にはなりませんでした。
あとは過去問。東大と京大ではずいぶんと傾向が違うのですが、それでも私立の問題よりは国公立の問題の方が東大受験には役立つ。私立の問題は「知らなきゃ解けない」うえに教科書にないものも多い。国公立とは別のことを問うています。
単語帳は古文同様に作るのが面倒。教科書では物足りなかったり電車で教科書を開くのが恥ずかしかったりなら、ペーパーブックを1冊だけ買って眺めていればいいのではないでしょうか。3日も同じページを読んでいればいやでも内容が分かるようになり、使われている修辞・技巧なんかにも気付くようになると思います。
DUOとか知らないしiPodは当時はない。当然使ってません。今なら英語のニュースや議員さんのPodcastをiPodで聞くのはありかも。(議員さんやニュースの英語は分かりやすいです)
例文を覚えるという発想はなかった。過去問や模試を解いているといやでも覚えてしまう文法的技巧や慣用句はありました。「覚える」というよりも「(自然と)覚えた」という感じなので「覚え方」は分かりません。
自由英作文は想定されている答えを探すのではなく「意味」が通る英文を書くことが重要。正しい文法で知っている単語の継ぎはぎする。どうしても分からなければ少し長めにあけた余白に薄く日本語を書いておき、あとで考えましょう。日本語1単語に5 words前後の余白を対応させるくらいの気持ちで。他のことを考えているうちにピッタリくる単語(1単語)が浮かぶこともあるし、そうでなくても空白のまま出すくらいなら中学校で習った単語を並べて意味を表現する。とはいえこれは苦肉の策。単語を知っていて損することはないので、時間と金と記憶力に余裕があるなら単語や例文はいくらでも覚えてください。大学に入っても社会にでも英語が足かせになることはないと思う。
模試は一通り受けたと思います。「教える」ための教科書と「考えさせる」ための試験では勉強の内実が違います。「教わる」よりも自ら「考える」ことの方が重要なので省エネ勉強のためにも受けて損はありません。嫌でも丸一日勉強したことにもなります。
東大模試は受ける。結果が悪くても気にしない。結果が良ければ安心する。結果が悪くて自信もなければそれを機に諦める(浪人するなり志望校を変えるなり)。
過去問を見るかぎり、東大よりも京大の方が正解の範囲は広いと思います(模試ではなく本番の話)。模試結果に納得いかない人は東大より京大に向いているかもしれない。
寝過ごした!電車で寝過ごしたけど、高校受験で軽く遅刻した反省をいかして少し早めに出ていたのが功奏して間に合いました。遅刻だけは気をつけましょう。
遠方からの受験生でホテルなどに宿泊する方は寝坊に注意。受験まで1年のこの時期に言っても「そんなわけない」と思うかもしれませんが、1校しか受けない本名中の Permalink | 記事への反応(0) | 18:06