例えば東京渋谷区を舞台にしたMMO RPGとか。実際の街並みを再現したリアルな世界が舞台で、皆が協力していくゲームみたいなのがあったらやりたいんだ。
この夫婦にとって専業主婦は「安上がりでセックスもできる家政婦」なんだということがわかった。
普通はね、自分たちの家だから自分たちで家事をするし、自分たちの子供だから自分たちで育てるんですよ。
夫が妻に衣食住を提供する見返りに妻が夫の家を守ってるんじゃないし、妻の子育てを夫が手伝ってあげるんでもない。
当然少なくとも一方は稼がなきゃならんので、家事や育児の分担もそれに応じて変わってくる。それぞれが好きに使えるお金の設定もあるだろうけれど、それは「家事や育児に対する報酬」ではないよ。
給食を完食しない事は、せっかく子どもたちの為に給食を作ってくれている給食のおばさんを悲しませる行為だと、小学校教師に教えられた。
給食のおばさんに感謝しているかどうかは関係ない、給食を完食しない事は、給食を作ってくれることに対する感謝の心を実は持っていない証拠であり、人格が歪んでいる証拠だと教えられた。心では給食を作ってくれる事に感謝しているし、国語は得意科目だったから、「給食を作ってくれてありがとう」というタイトルで、作文用紙何枚でも感謝の言葉を述べられる自信があった。それでも、言葉で何を述べるかは関係ない、給食が20分で完食できなければ、心の底では給食のおばさんに感謝しておらず、自分が口先だけ上手い嘘つきに生まれた証拠だと教えられた。自分の言葉は全部ウソであると教えられた。
給食を完食する事はただただ苦痛だった。小2まで、給食を20分では食べられなかった。小2まで、小学校で楽しかった記憶があまりない。
小3の春ごろ、牛乳を飲まずに最後まで取っておき、残り5分で残っている食材をすべて流し込む技術を開発した。漬物も焼き魚もご飯も何でも牛乳で流し込んだ。
パンの日は幸せだった。牛乳と合う。ご飯の日は地獄。牛乳と合わない。小3から、ようやく小学校生活が楽しいと思えるようになった。
小学校高学年になると、知恵がついてきた。給食のおばさんは、給食を完食する苦しみを小学生に与えて喜ぶ人達だと思うようになった。であれば、人間にとって、最も苦しい「死」を自分が経験すれば、給食のおばさんは最高に喜ぶに違いない、と思うようになった。つまり、自分が給食室で自殺すれば、給食のおばさんは「ありがとう!ありがとう!ありがとう!」と言って喜ぶのだと信じていた。
あれから何十年、ようやく理屈が分かってきた。要するに、小学校教師が完食指導する際、生徒の怒りの矛先が自分たちに向かないように、給食のおばさんをスケープゴートにしたのだろう。教員とはかくも卑怯なものなのか。
これから、給食のおばさんになる人は、子供に恨まれる職業だという事を理解して欲しい。小学校教師が、あなた達をスケープゴートにして、生徒があなた達を恨むように指導している可能性がある。そういう可能性も考えて、給食のおばさん、になって欲しい。すべての小学校教師が善人なわけじゃない。小学校教師を疑ってかかって欲しい。あなた達に対して見せる子どもたちの笑顔、それ、きっと、全部、「笑顔を見せないやつは、人格が歪んでいる」と小学校教師が指導した結果ですよ。本当は生徒に恨まれてますよ。
このニュースを見た。まだこんなことやっているのか。一体何の意味があるというんだ?
完食指導をした、この女性教師に伝えたい。あなたはヒトデナシだ。あなたは人間として異常だし、仕事を通じて子供を苦しめた罪人だ。地獄に落ちて罪を償って欲しい。
大叔父の話だ。
豪放磊落な職人で、昔はパンチパーマに紫のサングラスをしていた。
大叔母に聞くと、いま68歳だと。
一昨年あたりから外見が急に変わり、老人というよりは幽鬼のような顔になり、自力では動けなくなっていた。
68歳、人によっては全然元気で、人生を楽しむ時期らしい。現に同い年の俺の親父は元気にバレーボールをやっている。
にもかかわらず、大叔父は来月100歳になるうちの曾祖母(大叔母の母)よりも年をとって見えた。
昔、太かった腕は枯れ枝のようになって筋肉はほとんど溶けてしまった。
厚ぼったい唇もなくなってしまった。
大叔母は俺に微笑んで状況を説明しながら、大叔父の手をさすり、やがて耐え切れずに泣き崩れた。
すでに先月から会話もままならなくなり、本人の体力も先日罹患した肺炎で尽きてしまったということで、現在は透析も行えない。
そして、今後も再開はしない。
ともかく、大叔母は圧倒的に間近に迫った大叔父の死に向き合いながら病室で寝起きをしている。
不可避の事象ではあるけど、長年連れ添った亭主の人生の幕を引く、あるいは幕引きを了承してしまった大叔母の心中も察するに余りある。
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はー。ハメ撮りしてー。
なる議論があるらしい。
学生がWordで論文を書いて来たら、それだけで不合格の推定が働くという研究者の方もいらっしゃった(さすがに理不尽だと思う)。
私自身は出身学部がバリバリの文系で、職業も数式と無縁の類なので、Wordの方が圧倒的に使う頻度が高い。
だが、最近趣味で数学をやるようになって、TeXにも触れるようになった。
それで何となくTeX派の言いたいことも分かってきた(そもそもWordとTeXを同じ土俵で比較するのがおかしいという批判は一旦措く)。
ぶっちゃけて言えば、TeXでできることのほとんどは、Word2010でもう出来てしまう。
そのためTeX派の主張・反論はかなり苦しく、感情的なものが多いのだが、なぜそこまでTeXに固執するかと言うと、TeXの方が楽しいからではないか。
いくらショボい文書を作るにも、TeXだと様々な問題が生じ、それをググって解決する。そして出力される美しい文書。
この過程が非常に楽しく、無味乾燥になりがちな文書作成の作業が創作性を帯びてくる。