ほんとに行きたくねえから。照れてるわけじゃねえから。貴重かつ無二の時間を、なんでそんなもんに注ぎ込まなくちゃいけねえんだよ。
糞暑い中、糞うるせえガキ共に混じって、何時間も列に並ぶのがどうして好きなんだろうね。おっと、好きな人とだからなんちゃらーなんて、糞便臭がこびりついたような受け売りのチンカスをとっとと引っ込めることだ。そういう寝言はティーンヌェージャーで卒業しとけやって話だわ。心中デズニーランド狂歌。
ブコメ「休め」
http://b.hatena.ne.jp/entry/178929766/comment/rouxril
http://b.hatena.ne.jp/entry/260721112/comment/kunitaka
なぜなのか
コミュニケーション含めたネトゲをやる暇があるのって学生までじゃないの?
それこそ社会人になるとオンラインでもそんなのやってられないと思うけど。
任天堂のネトゲのコミュニケーションほぼ取れない方式って、子供の安全だけじゃなくて大人のめんどくささも配慮してるよね。
休み時間はいつもチャイムと同時にダッシュで教室から逃げ出し、次の授業のチャイムが鳴るまで
トイレの個室や図書室の書架と書架の間にじっと身を潜め、隠れていた。
先生や親に相談しろとか言うけれど、中学生の自分にすればそんなことできるわけない。
親に心配かけたくない。先生に言ったら一時的には収まってもやがてまた「おまえ、チクッただろ」
殴られて出来た痣は、「転んだ」と嘘をつき、黒板消しではたかれて真っ白になった学生服は「友
達とふざけていて」と誤魔化し、破られた教科書は、自分でテープを貼って継ぎ合わせ。
親には決して言わなかった。
卒業アルバムの寄せ書きにも、ボクの名前の横に「奴隷!」とか書かれた。
先生はふざけているとでも思ったのだろうか、今にして思えばそんな寄せ書きよく卒業アルバムに
そのまま載せたものだと思う。もちろん親にそんなものを見せられるわけもなく、なんとか理由を
つけて親には卒業アルバムは見せなかった。自分だってそんなもの見たくはない。中学の卒業アル
バムはお仕入れの段ボールの中に長い間放り込まれたまま開かれず、かといって捨てるでもなく、
引っ越しのたびにそのままの状態で押し入れから押し入れ、クローゼットからクローゼットへと移
動されるのみだった。
あれから数十年がたち、僕は地元を離れ東京で就職し結婚もした。
子供はできなかったけど、年齢敵には中高生の子供がいてもおかしくない、いいおっさんになった。
社会的地位も収入もそこそこ得られ、そこそこに幸福な生活を営んでいると思う。
けれど、中学時に受けたあのいじめのことは決して忘れない。いじめっこたちの顔も。
あのとき僕をいじめた奴らのことは絶対に許さない。今も恨みに思っている。
先日、久しぶりにクローゼットの奥から取り出した箱を開け、卒業アルバムを手にした。
恐る恐る開いてみた。今でも目を背けたくなる寄せ書き。いじめっこたちの写真。アルバムの最後の
ページには、「住所録」として、卒業生たち全員の住所と電話番号が記されている。もちろん、僕を
いじめた奴らの住所と電話番号も。奴らは今もそこに住んでいるんだろうか? 地元を離れ、東京に
出て、家族を持ち、善き父親になり、幸せな暮らしをしているのだろうか? いや、そんなことは許
されない。できれば、不幸になっていてほしい。不幸になっていることを確かめたいーー。
本人が今もそこに住んでいる可能性は低い。でも、親はまだ住んでいるかもしれない。
もし、本人が出たらどうする? 「あのときおまえにじめられた僕だよ。元気か?」 そんなことを
電話は生きていた。
呼び出し音が鳴っている。
誰も出ないまま、留守電に切り替わった。
ちょっとホッとしつつ、僕は何もメッセージを残さずに電話を切った。
少なくとも電話番号は今も使われていることははわかった。
いや、もしかすると、既に誰か違う家の番号になっている可能性もある。それだけ時間はたっている。
別に、あのときのいじめっ子に会って、復讐するとかそんなんじゃない。
ただ、今どうしているのか? これまでどういう人生を送ってきたのか、それが知りたいだけだ。
そして、その人生が不幸であって欲しい。そうでないと、わりにあわない。あんな奴らが幸せな人生
を送っていて許される筈がない。いじめっこの末路は不幸であるべきだ。
何十年も経てば、普通は許すか、あるいは、忘れ、どうでもよくなることかもしれない。
いまだそんなことに固執するのは頭がおかしいと思われるかもしれない。
でも、それでも、やっぱり絶対に許せないほど、あの中学の3年間は辛かったんだ。
今、僕は、興信所に頼んで、奴らの居所、そして、どんな人生を歩んで来たかを調査してもらうこと
を真剣に考えている。
すべての十代がみんなそうなら、もっと世の中良くなるのにな。
ま、そーでしょう。
でも、今どきの面接で、運の善し悪しを言うやつはいるのか、疑問。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/qmanews/archives/52136423.html
こっち174
http://b.hatena.ne.jp/entry/yanmaga.jp/contents/chukankannriroku_tonegawa/
公式56
こっちをブクマしていないやつ多数
自信をもって生きることって人生にとって大事なことで物事をうまく進めていく上で大事なことだと思います。何をやるにも引っ込み思案では、そこらにあるチャンスを逃してしまうと思うから。サッと手を挙げるとか、重い腰を上げて何かを始めることって自分が成長することができるチャンスだと思うんです。つまり、積極的に動けば、自分の土台になる経験を自ら得ることができるはず。
手を挙げること避けてきた人は自信を持つことができくなっていくはず。何かを乗り越えた成功体験をつかみ損ねているから。昔の人はよく言ったものですね、【若いうちの苦労は買ってでもしろ】と実際にその通りだと思うんだけどね・・・。
自信満々でバイタリティのある人とその逆の人をみて思ったこと
人生において難事を避けてきてしまった人を【拗らせた人】とすると、拗らせた人に対して、厳しくものをいう人がいる。ただでさえ、拗らせているのに、より拗らせることをいう人がいる。それは、当然のごとく物事に対して挑戦し、内なる自信をもった人からすれば、イライラすることもあるだろうって思う。でも、拗らせた人からするともっと深い闇に落としかねない立ち振る舞いとしか言えないんだよね。もっと自信を無くし、自分はだめなんだと逃げ癖をつけるようになる。負のスパイラルですね
まあ、当人が悪いわけであれなんだけどちょっと考えて接してあげてほしい。無限に落ちていくんだろうなって感じてしまう。
ましてや、拗らせている人をいじって遊んで楽しむのはいい趣味とは言えない。趣味の悪い遊びだなと思ってみていたけど・・・。
人の気持ちを理解するのは本当に難しいと思うし、その人の立場でものを見ることができないから心に触れることができないことは確かですが・・・。
自分が考えている事がみんなが考えている事と一緒である。みたいな感覚で話をする人はもうちょっと広い視野やいろいろな人の考え方を知った方がいいかなと思う事もある。
沢山苦労したひと、沢山傷ついてきたひとは人の気持ちがわかると聞いたことがあるけどそうなんだろうなと思う。それも現在進行形の人は特に
まとまりがないけれど、自分もどちらかというと拗らせている方の人間なので辛かったので書きました。
なにグチグチ言ってんだよ、今すぐ難題に立ち向かい、乗り越え、自信をつけて魅力的な人間なれよ。その通りです。返す言葉もございません。
ミソジニー (英: misogyny) とは、女性や女らしさに対する憎しみや軽侮である。 女嫌い(おんなぎらい)や女性嫌悪(じょせいけんお)ともいう。 女性を憎んだり蔑んだりする男性をミソジニスト(misogynist)と呼ぶ。
対義語には、「男性や男らしさに対する憎しみや軽侮」を意味するミサンドリー(英:misandry)と、「女性や女らしさに対する愛しみや崇敬」を意味するフィロジニー(英:philogyny)の二つがある。
多かれ少なかれ女性に対しての嫌悪が皆無の人はいません。嫌悪感を抱くなと言っているわけではありません。おk?
では問題になるミソジニーとはなにか。以下の3つを同時に満たす場合などは「問題のあるミソジニー」であると言えます。おk?
・「公の場」でその嫌悪を表明すること
更に、ミソジニーを指摘された時に「女性が悪い」と主張するのは無意味です。ミサンドリやフェミニズムの稚拙さをいくら指摘しようとも、今問題になっているのはその人がミソジニーであるかどうかです。いくら女性批判やフェミニズム批判をしてもその人がミソジニー的な発言をしていたらミソジニーです。おk?