はてなキーワード: バトルロワイヤルとは
今週ブログ巡回中にチェックした本。とりあえずクルーグマン系は読もうかな
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) - エドワード・W. サイード
僕が「チャングム」から教わったこと―人を喜ばせる「仕事・もてなし・サービス」の原点 - 田崎 真也
荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書) - 荒木 飛呂彦
格差はつくられた―保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略 - ポール クルーグマン
とりったー (リュウコミックス)
良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫) - ポール クルーグマン
スティグリッツ教授の経済教室―グローバル経済のトピックスを読み解く - ジョセフ・E・スティグリッツ
文章の書き方 (岩波新書) - 辰濃 和男
ともだち地獄云々の記事を読んだけれど、
要するにこれは友達が云々というよりは「普通」の枠がどんどん狭く、ハードルが高くなってしまって
その気持ちはよく分かるし大変やなー、と思うんやけれど、この部分気になる。
別に俺はドMだからハードモードでやりたいんだって人はそうしたらいいけれど、ちょっと荷物下ろして道端で休んでる人を鞭打つ必要もないでしょう。「死のロングウォーク」(スティーブン・キングの超絶傑作)はフィクションとしては死ぬほど面白いけど、現実では一番やっちゃだめなフィクションだってのに、なんで好んであのゲームをやりたがるのか
こいつ「死のロングウォーク」ちゃんと読んだんか、と思ってしまう。あと進学校とか友達多いやつは別にドMじゃねー。
ネットでの受験や勉強に対するイメージというのはいろいろとおかしい。
例えば東大合格するには1日10時間勉強しろだとか、訳の解らんことを言ってる奴を見かけるし、
そもそも受験勉強をバトルロワイヤルのような蹴落とし合いだと勘違いしてることがまず変だ。
(これはあほな親の影響かもしれん。低学歴の親ほどこのイメージを持っている。受験とか勉強にネガティブイメージ持ちすぎ)
上のような理屈で言えば、進学校では弱肉強食の世界が繰り広げられる。プレイヤーは生き残るために
いじめが多発しているように思われるかもしれないが、そんなことは一切ない。むしろいじめは極端に少ないだろう。
なぜなら、進学校における受験勉強は、バトルロワイヤルではなく、ロングウォークだからだ。
ゆったりとペースを守って歩き続ければいい競技だ。しかも休憩ありだし特定の地点までいけばゴールさせてもらえるヌルい仕様になっている。
ロングウォークを知らない人に一応説明しておく。詳しくはWikipediaよめ。というか原作読め。
100人の少年が、時速4マイルをキープして休みなく歩き続けるだけの競技。
時速4マイルを下回ると警告が発せられ、警告の累積が4回になると射殺される。一定時間警告を受けなければ、その累積は消滅する。
またこの競技は強制的に徴収されるものではなく、志願者が審査の上選ばれるものであり、その点でもバトルロワイヤルと全然違う。全く違う。
ロングウォークにおいて、参加者は、ゲームで勝つという絶対的な目標がある、
ゴールという絶対的な存在に対して、にわかな友達関係や、友達どうしの上下関係などゴミのようなものである。
つまり参加者はその絶対的な対してどこまでも対等であり、孤独である。
友達が多いことには価値がなく、友だちが少ないことはマイナスでもない。競技上はそこに意味はない。
周囲の人間を殺すことは許されていないし、周囲の人間を殺すことに何のメリットもない。
殺すような奴は即刻警告を受けて退場させられるだけだ。
大事なことは「退場させられない」ことであり、「余計なことをして自分の速度を落とさないこと」である。
これが守れる範囲で自由にすることはできる。
しかし、この条件が厳しいので、いじめなどというくだらないことをやっている隙がない。
競技のルールを守る以上は、同じ競技者としてリスペクトされ、競技のルールを破る奴は、違反者として相手にされない。ただそれだけだ。
しかも、厳密かつ明確なルールと厳しいゴール条件があるとき、人は攻撃しあうのではなく、助けあう。
シビアな状況では、本来的同士のものであっても、時に助け合い、支え合うのだ。本当に争うのはゴール手前くらいである。
お互いルールを共有し、リスペクトしあっている場合、仲間でなくても人は助けあうのだ。ソッチの方が強いのだ。
もちろんロングウォークでは脱落者は出るけれど、別の受験では実際に死ぬわけじゃない。でも脱落するのは苦しいから皆頑張る。
イジメなんざ結局、明確なルールや、高めのゴールを持たない、暇を持て余したやつらの破滅願望みたいなものだろう。
イジメ以外に序列をつけるものがないんだろ? 原始人でもできるからな。力で序列決めるとか。
ようするに、イジメやってますって時点で、それは自分たちはサルと同程度の社会能力しかありませんって言ってるのと同じなんだよ。
何ひとつ明確なルールがないから、ともだちみたいな曖昧なものを無理やり旗印に掲げてしまう。
ともだちなんかマイルールの典型みたいなものだから、ともだち集団ごとのマイルールの押し付け合戦になってバトルロワイヤルになる。
子供らが考えるともだちなんて完成度が低くて脆弱な仕組みだと、クラス全体を支え切れないから、常に外部に怯えないといけないから
自分から敵を作って攻撃的になる。 なんか本当に話を聞いてても馬鹿馬鹿しい。
サルですら、序列さえ決めてしまったらあとは安定する。戦いはボスを巡る争いに限る。それすらもできない。サル以下だ。
無駄にプライドばっかり高くて、やってることはサル以下。イジメをやるってのはそういうことだ、と教師は子供に教えるべき。
まぁ教師もストレス多いのか、職場内いじめとか多そうだけどなー。派閥争いとか無駄なことやってそうだけどなー。
はい、どう考えても少しの人間だけが救われて外部の人間は救われてないですね。傲慢と卑屈が合わさって最悪ですね。
子供の浅はかな知恵で、わがままを制御して十分に機能する社会が作れるならSFはいらねーての。私にだってよく分かんねーよ。
まーでも真面目な話、進学校になればなるほど、共同体の一員であることの価値が大きくて、イジメごときでそれを台無しに仕様とは思わないし、
いじめというものが実に非生産的であることが分かるからあんまりいじめってやらないと思うんだ。
あとそもそも、ロングウォークもそうだけど、こういう「競技」に参加する人間ってたいていイジメ被経験者だから、いじめに強い嫌悪感あることが多いね。
高校に通ってもいじめやったりいじめられてるやつらってさすがにちょっと甘いんじゃないか?
タイトルと違うけど、
「スキあらば病む」というか「スキがあれば壊れる」というか、薄氷を踏むように日常を過ごすやつがぐーなのです。
ついでに主人公の狂気が伝染したり悪意を呼び寄せたりするとなおよし。CARNIVALのパーフェクトエンディングとか大好きです。
どうあがいても絶望、みたいな作品が読みたい。もっと絶望したい。いや自分はしたくないから絶望してるひとを眺めたい。
死を直接的に道具につかわずに(究極的にはつながっているけど)絶望を描ける作品はないだろうか。ラノベでなくてもいいのでプリーズ。
とりあえず「はがない」はあわなさそうなのでやめました。
主人公がまとも&臆病で周りだけが残念な話については、はてなとかtogetterで間に合ってます。
というかこの類型でハルヒを超える作品があると思わんし。(ここ釣りポイントネ)
http://anond.hatelabo.jp/20111119082328
これは感想というか、はがないがこういうふう作品だったら読むという妄想。せっかくの設定が癒し系になってるのはもったいない。
もうこの作品が俺的に面白くなるためには、もうちょっと人数増やしてバトルロワイヤルするしか無いと思っている。
俺の妹がこんなに可愛いわけがないは、作品の展開はともかく、私の妄想に適した設定なので面白い。殺しあえー。
今は空色パンデミックとギフテッドを読んでる。
パンデミックは設定読んで期待してる。まだいろいろ足りないけど、病状が悪化していくという設定があるため期待が高まる。俺的にはゆっくりとまーちゃんを創り上げて行って欲しいんだけれど、絶対俺の期待は裏切られるんだろうな。あれ、絶望してるのは俺?
ココロコネクトはピンチではあるけど、抜け道がありそうな(結末がポジティブで終わりそうな)感満載で乗り切れない。
ラノベじゃないけど桂明日香作品(神話ポンチとか)はもうちょっと盛り上がれば私好みなんやけんど尺たりねー。
略称が俺ガイルなのかはまちなのかはっきりしない奴は、ちょっと主人公が残念さに自覚的すぎるのが微妙だけど、まぁあり。
(^ω^)は私にとって不要な要素が多すぎるという難点に目をつぶれば、とても私好み。良い感じで絶望感が漂っています。まぁ規模が大きすぎて読み手に直接ズシンと来ないけど、雰囲気は大好き。私のスキな要素だけ抽出したエッセンシャル版が欲しい。
怪物王女は展開が全然進まないから読むの中断したけどいまどうなってんの-。
読むのが足りない。やっぱり古橋さんの作品に頼るしかないんかしらという状況。古橋作品さえなければそもそもラノベにはまったりしなかったのにくそう。
そう言えば、ベン・トーの作者さまは、ベン・トーの前にはなかなか面白いの書いてるじゃないですか。私の好みにかなり近いです。
森田季節様にも期待してるけどいまんところちょっと違う。なんなんだろうなぁ。
応答。オススメありがとうございます。
さやのうたはすごい期待したけどなんかダメだった。というか最初から詰み終わっていて、そのあとは蛇足って感じしかしない。私は絶望に至る過程がみたいのであって、絶望の向こうはどうでもいい。絶望は確認するものではなく、その侵食と抗い、最終的に負けるまでの間に何かを考えさせてくれるものだと思ってる。純愛とかどうでもいい。というかめちゃくちゃあれのどこが純愛か分からん、むしろ不純だと思う。
中村恵里加は大好物。ただ、ダブブリは後半がイマイチ好きじゃない前半は大好き。ソウルアンダーテイカーのほうがすきかも。
イリヤは絶望というよりは無力感みたいな感じでちょっと肩透かしだったかも。男舐められすぎじゃね?
「幽霊列車とこんぺい糖」と「丘ルトロジック」頂きます。扇智史と浅井ラボはチェックします。
十文字青は薔薇のマリアが全然肌に合わなかったけどそれ以外にオススメある?
はがない、さすがに読まずに語るのも限界あるみたいなので、あえて最新刊だけ読んで感想書きます。間の保管よろしく。
まとめ。
えーと今のところ。はがない7⇒幽霊列車⇒丘ルト⇒塔の町⇒いつも、心に剣をのじゅんで読んでいく予定。割り込みオススメ募集。
実は月10冊ペースくらいでしか読めない&積んどくあるので感想遅れそうですがご了承ください。
破滅*ラウンジは終わった。
「再生」という単語にこれだけの機能不全性を感じたのはいつ頃ぶりだろう。骨から離れてしまった血肉は再生のしようがない。真っ暗でなにも見えない。俺は虚ろな意識と視界の中、少しずつ思いだした。
破滅再生ラウンジの最終日、開始17時や18時頃はまだ平和だった、各々が好きにネットを、ゲームを、音を、絵を、工作を、プログラミングを、好きにやった。いつもどおりに。一見したらカオスなこの空間は秩序で保たれていた。ゴミと見まがう紛うばかりの作品達は黒瀬、浅子の手によって厳密に調整、配置され、終始鳴り響いている数箇所からの騒音も定期的にキュレーターの手によって均一に混ざり合うように調整されていた。しかし最終日、破滅メンツの合唱する「紅」によって覚醒状態になった人間達は調整の抑制を受けず、終了の時間とともに黒瀬、嘘、梅沢らを中央のPCでできたジャンクタワーに投げつけた。ジャンクタワーには似非原やパターサンの書き殴ったドローイング、同人誌、血、精液などがへばりついていたが、同時に包丁や割れたガラス片なども装飾されていた。そこに生身のキュレイターやアーティストが投げつけられたらどうなるか、想像に難くない。一触即発の緊張感で保たれていた会場の空気はカオス側の中心人物三人の内臓の吐露によって破滅した。作家も、鑑賞者も、ギークも、関係ない。ナンヅカに存在する人間はすべてジャンクタワーに叩きつけられ、同時に刻まれ、死亡した。逃げ惑う人間はすべて糸柳に捕まり、叩きつけられ、刻まれ、死亡した。地下に作られたこの空間は窓がなく、入り口も二つだけだった。一つは山本悠の巨大な作品と脚立によって鉄で溶接され、完全に塞がれていた。山本悠自身がよかれと思ってやったこの創作も、彼自身の死を呼ぶだけだった、愛する者の名を言いながら彼は死んだ。もう一つの出口は「受付」の奥側に搬入口として位置していたが、赤い奇妙な形をした立体的な椅子に大量に積まれた作品と書類と死体に阻まれて、ろくに通れる状態ではなかった。血と精液にまみれたそれらをかきわけても(同人誌で自慰する者と数少ない女子をライト・レイプする者で溢れ、会場内は白濁液でまみれていた。)、かきわけている間に正気を失ったギーク達に捕まり、ジャンクタワーに叩きつけられ、刻まれ、死亡した。「バトルロワイヤル」「バイオレンス・ジャック」「ベルセルク」「GANTZ」、なんでもいい、そういった虚構の物語で起きていた残虐な出来事が、延々と目の前で繰り広げられていた。唯一ギークの中で正気を失わなかったyuisekiは人を殺すことをせずに、左手と右手を失いながらも満面の笑みを浮かべながらインターネットに興じていた。最初から狂っていたのかもしれない。
大量のアニソンやらブレイクコアに混じって人の叫び声が聞こえ続けた。笑い声も聞こえ続けた。junkMAが音が発生する元となるジャックを次々と死体の内臓に突き刺すので、やがて音楽は消滅した。生きる者が次々と破滅する中で、生き残った者も自害し始めた。そして俺の意識は途絶えた。
目が覚めた時、俺は叩きつけられたまま意識を失ってたことに気づいた。先に叩きつけられた肉の上に叩きつけられたおかげで、致命傷に至らなかったらしい。しかしこの空間で血を流しながら数時間に続けることは自殺に等しい。十数年前のPCに付着した菌が培養され、確実に腐食しているのだ。少しずつ、死が近づいていることを知った。
暗闇に目が慣れ始めてきた。大量に積み重なる死体が、まだかすかに生きているPCの光に照らされて、見える。時たま、誰かの携帯電話が軽快なアニメやゲームのメロディを鳴らし、今は亡き主人を呼ぶが、答えることはなかった。見知った作家が幾人か死んでいるのを確認する。なぜこんなことになったのか、わからない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。「どうしてこうなった」というネットのジャーゴンがふと頭をよぎり、ふふっと笑ってしまった。模造紙オフや搬入、搬出の時などに、どうしてこうなったって言って笑いあっていたなと思い出した。そういう言葉はアートもギークも関係なく通じたし、一緒に笑い合えた。twitterをやり始めたのはいつだったっけな。なんだか最初のほうから始めている糸柳やyusekiって奴がいて、こいつらといつか面白いことができたらいいなって考えていたんだな、そういえば。理想的な形で一緒にできたとは思っていたんだが、まさか殺されるとはな。笑えねえよ。擁護した東浩紀と村上隆はなんて言うんだろうな…それが聞けなかったのが本当に残念だ。
死ぬ間際に幻影が見えた。再生ラウンジを取り壊し、破滅ラウンジを再構成して記録を撮ろうとしているカオスと破滅のやつらが見える。観客は誰もいない。それなのに、いつもどおり楽しそうに音楽をかけ、ゲームをし、ネットをしているあいつらがいた。それは、俺が体験したどの瞬間の破滅ラウンジよりも居心地がよく、満ち足りた空間だった。再構成の記録が終わり、電気が付いて明るくなった空間で彼らは誰かを祝っていた。一人女がいて、涙を流しながら喜んでいた。糸柳は用意されたケーキを包丁で丁寧に切り分けていた。包丁自体の重みでケーキ自体が歪まぬよう、慎重に分けていた。その包丁で女を殺すことも、犯すこともしなかった。それは幻影だった。
これはkanoseさんがちょっと最初に勘違いしてるんじゃないかね。
omiyuさんは「女子力」っていう表現に疑問を持ってるだけで、女子力を高めること自体には全然反発を感じてないと思うんだ。反発は感じてない、というか、少なくとも仕方がないものだとは思っている。
だからomiyuさん自身が発言中で女子力発揮するのは全然矛盾してない。
女子間のシビアな生存競争として女子力競争してるところを外野からメタに批評されるのが嫌なんだと思うよ。
そんな競争しなくても普通に生きていけるってだけで特権的な位置にあるわけだからさあ。
SFの祭典「ワールドコン」が大々特集されてたのは言うまでもなく、それをちらりと眺めたあとに、例の連載「ゼロ年代の想像力」も斜め読み。
今回で四回目。今までの第一回から第三回までは「ゾンビ退治」と年譜の「まとめ」に費やされてたので、どう展開されるのか、とても興味があった。
そして読んでみると、今回は「今までの第一回から第三回」までの「まとめ」だった。衝撃的展開。
因みに、次回からは3回分かけて、ゼロ年代の「今」の社会を描くことで「ゾンビ退治」をするそうだ。
いかに現在の思想・言論が「5年遅れている」かを明らかにする必要があるらしい。
そして今回の末尾で少しだが「ゼロ年代の想像力」の正体が明らかにされた。それは東が語った「小さな成熟」ではなく「謙虚なバトルロワイヤル主義」だそうだ。
ざっと斜め読みしただけだが、はてな村的には面白いネタではないかと思う。東浩紀の文章がたくさん引用されてたよ。
ついでに、東の次号の「SIGHT」誌連載コラムは「ゼロ年代の想像力」について触れられるそうだ。なんだこのマッチポンプ。以上。
「ぼくらの」の感想をたまに見て回ったりすると、「悲しい」「暗い」という文字ばかり目にする。「ぼくらの」は全然暗くないと思っている私は、それでたまに不思議になる。「悲しい」話であることは確かだけど、それは明るい悲しさ、すっきりする悲しさだと思う。「暗いぼくらの」というのは例えば、モジのことなんてどうでもよくてすぐ忘れてしまってただ単に助かったことを喜ぶツバサとナギ、みたいな、ダイチが死んで一家離散、弟妹は悲惨な将来、みたいな感じではないか。「ぼくらの」は基本的に死に際を見せる話で、それは大体(カコを除いて)、"満足できる死"として書かれていると私は思う。彼らの死は無駄にはなっていない(地球を救うことはおいておいて)、と書かれていると思う。
なので読んでて暗くなる、とか、カタルシスがない、という感想には「??」となる。受け止め方の違いだといってしまえばそれまでだけど、チズの回なんて吹っ切れた明るさがあって私は大好きだ(故にアニメは好きではない)。
「ぼくらの」は読んだこともアニメ見たこともない。でもOPをユーチューブで見たり、あとウィキで設定見たりとかだけで鬱になって、悲しすぎて吐きそうになる。だから何となく手が出せない。アニメなり原作なり最終回を迎えて、ラストがどのように終わるのか、ってのを聞いてからならただの作品として読めるかもしれないけど途中の今の段階では一々一喜一憂しなきゃいけなくてきっとついてゆけない。人が死ぬ、っていう点ではバトルロワイヤルとかも読んだことあるんだけど、その時はそんなにショックとか受けなかった。悲劇性、って点なら、友人と観に行った「誰も知らない」だって似たようなものだろう。でもその時はラストに、可哀想って泣きじゃくってた友人を見ながらえっこれって泣く映画なの??って思ったりしていた(実際にあった事件だってのは知ってたし、惨いとは思ったけど、)
でも「ぼくらの」に関しては悲しすぎて気持ち悪くて吐きそうになる。逃げ場がない、ってのが怖いんだろうか。でもそれはバトロワも一緒だし。ラストが見えてないから怖いと思うんだろうか。これが一番の理由っぽいなぁ。はらはらどきどきしたくないというか…完結してるオマージュ元ならまだ読めそうな気がするけど。作り物なんだから怖いとか悲しいとか感じるのはおかしいはずなのに、
それでも怖すぎて気持ち悪くて見る勇気が出ない。人が死ぬのが嫌なのかなー。
追記: