はてなキーワード: 草刈りとは
ステマ騒動から一年。いやー時が経つのはいつも早いなとしみじみする増田でございます。
さて皆さまは去年の年明け、何をしてらしたでしょう?わたしは2chが楽しくてしょうがありませんでした。
そこで今回はニュー速民移住の運びにスポットをあててエントリ書いてきます。
あれから一年たってあえてこのトピックを顧みてみる必要があるのかは、、、…思考停止といきましょう。HAHAHAHA!!
はい、無性に書きたいんです。書かせてください。あの時のことをもう一度ねちっこく掘り返したいんですよ。
◆食べログ騒動で話題になった「ステマ」ってどういう意味?:PC Online
◆ 2ch「ステマ」戦争 人気板が住民大移動で一気に縮小、その背景の事情と心情 (1/4) - ITmedia ニュース
◆ 「ステマ騒動」の矛先はゲハブログへ:ゲハブログ最大手「はちま起稿」が謝罪文を掲載、管理人交代へ (1/3) - ねとらぼ
◆今回のニュー速騒動のまとめ : 【移転しました】旧ロブ速 (ロブ速)
◆2012年、2ちゃんねると2ちゃんねるまとめサイトの間で何が起こっていたのか(前編) - 空気を読まない中杜カズサ
◇【ステルスマーケティングのプラットフォーム化とフレーマーの定住】
煽り調教を受ける日々が続き、煽り煽られ合う快感に溺れる者が出てきながらもN速民の間には鬱憤が積もっていく。
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◇【ステマ騒動ここに起こる】
シャフトや食べログの不祥事を皮切りに、利潤主義的コピペブログやステルスマーケティング業者の問題が表面化し始める。ゲートキーパー事件やブログ連合祭り以来、住民の中で燻ぶっていた不満に火が付く。
◇【ステマ三段呪文が板内に渦巻き始める】
シャフト炎上をきっかけに、N速フレーマーと業者がここぞとばかりに躍動する。
◇【恰好の餌場を得たネットイナゴの襲来により、一方的なステマ連呼に拍車が掛かる】
連呼する者が大量発生したことにより、相変異を起こした一部のN速民が、ステマ連呼の群れに入り行動を共にするようになる。
◇【ステラおばさんの集団によってもたらされる持続的な蝗害に戦略的な爆撃が重なった結果、遂にニュース速報板は機能が麻痺した状態が続くようになる】
N速焦土作戦の手法は連呼から第二次自治戦争で見られたような爆撃兵器を使ったものへ移行する。
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とあることから板運営の人間がグルだったという疑惑が浮上する。N速民陣営だと認識していた自治側にまで弄ばれていたことに、一部の家畜が発狂する。この事態に端を発した形で決起した住民により移動運動が起こされる。
◇【『1/09 N速ステマした』】
1月9日正子に住民の大半が移民によって成り立っている嫌儲板に移住を決行する。一方で、残留組のN速民も多く見られる。
大移動決行後も、立つ鳥跡を濁さず精神で、焼け野原と化したN速内をローラーがけ部隊による草刈り作業が続けられる。
ところで今現在はどうなってるの?と。要はここですよね。
廃れたまま板枯れしてしまったのか、はたまた焼き畑農業みたいに復活しているのか。
さて結果やいかに!!
ニュー速豊作祭りじゃぁあああああ!!!豊作わっしょぉい!!♪ヽ(^^ヽ)♪ニュー速よっこぉいっ!!♪(/_ _ )/♪
はい、ということで結局は元の活気あるニュー速に戻ったとさ。めでたしめでたし、、…なのかな?
何事も無かったようにもみえるし、一連の騒動が収束しているとも言い難い。
実際のところは分断で冷戦状態といったところでしょうか。
ただ一年前の騒動の時に板全体で運動を起こしたこと、そしてそれからの出来事。
これは明確な意思表示になったし、業界に対しての問題提起にもつながった。
そういえば検索トレンドのデイリーランキングに顔出ししてたし、あと年末の流行語候補なんかにもあがってたね。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120416/k10014477821000.html
スーパーマーケット(食品スーパー)はこれから全国統一にむけた戦国時代に突入する。
主な君主は、北海道のアークス、新潟の原信ナルス、関東のヤオコー、エスコ、中部のユニー、岐阜のバロー、滋賀の平和堂、和歌山のオークワ、大阪のライフコーポレーション、イズミヤ、関西スーパーマーケット、兵庫の神戸物産、広島のイズミ、愛媛のフジ、九州北部のマルキョウ、鹿児島のタイヨー、沖縄のサンエーといったところか。
この中で、一歩先んじているのは、地の利を生かして成長してきたライフコーポレーション。東京と大阪に店舗を持ち売り上げ5000億目前。問題は、都市型スーパーであって、田舎でのノウハウがない。
次に大きいのは広島のイズミ。中国地方を地盤に、こちらも5000億目前。
これを追いかけているのが、北海道のアークス。合併に最も積極的で、青森のユニバース、岩手のジョイスを傘下におさめ、売上5000億をうかがう勢い。
あとは、3000億を超えるのが、平和堂、イズミヤ、バロー。3000億目前なのがフジとオークワ。
別格はユニー。1兆円目前だが、スーパーと言うよりもGMSが主。とはいえ、覇者の一つになることは間違いないだろう。
目指すは、王者イオン。こちらはすでに全国統一が終わり、さらなる勢力拡大を目指しているところ。マックスバリュとダイエー、さらに昨年、マルナカと山陽マルナカを傘下におさめ、王者の位置を不動のものとしている。上記の君主たちも、いくつかはイオンに吸収されるだろう。
では、誰が覇者となるのか。
上場企業は、増収増益が至上命題。合併は避けて通れないだろう。
合併に際してキーワードとなるのがボランタリーチェーンという同盟。資本統合はしていないが、共通で仕入れ、商品開発を行う、緩やかなチェーン=同盟だ。
有名な所ではCGC同盟やニチリウ同盟がある。アークス、原信ナルスはCGC同盟の雄。イズミ、エスコ、オークワ、ライフコーポレーションはニチリウ同盟を結んでいる。
ニチリウ同盟は、規模の大きな企業が多く、合併すればすぐにでも統一できるのだが、その意欲に乏しい。老舗が多く、生活協同組合もふたつ。これは合併が事実上不可能。できればこのまま独立を保ちたい、というのが本音であろう。たとえて言うなら応仁の乱前の守護大名といった雰囲気。競争に耐えられジす、ジリ貧の運命で最後は草刈り場となるだろう。泥船の予感。
これに対するCGCグループは、合併圧力が強い。アークスも原信ナルスも、対等合併によって大きくなった。特に、アークスは対等合併のノウハウが蓄積されているといえるだろう。問題は、CGCグループは多くが小さなスーパーチェーンだという点。CGCグループだけで全国を制覇するには時間がかかるであろう。ただ、アークスと原信ナルスが合併すれば一気に流れる可能性も否定できない。
ユニーのスタイルワンに参加しているのはイズミヤとフジ。合併を前提としたお付き合いの雰囲気。ユニーはお公家さんの雰囲気が強いが、ここでも我が道を行く。アークスを吸収合併というウルトラCもあるかもしれないなと思う。まるでホーマックを吸収したカーマのようだが・・・今後の展開ではあり得ない話ではないだろう。
ボランタリーに加盟していないところでは、バローが大きい。バローはホームセンター、ドラッグストアも自前でやっており、岐阜で独立王国をつくっている。合併意欲は強いようだが、いずれも小規模の合併。神戸物産、ヤオコーといった独立系と早急に対等に近い合併をしなければ、買われる立場にならざるを得ないだろう。だが、名古屋・滋賀周辺でのくだらない戦に夢中のようだ。王者の風格はない。
そして、その間にイオンがどの程度まで拡大するのか、西友がどこかで暴れるのか、気になるところだ。
ということで、大枠を示すことができたと思う。
覇者となりえるのは現時点では、ライフコーポレーション、イズミ、アークス、ユニー。
そして、西友が本気を出して買い始めればまた違う展開になるかもしれない。
親戚に不幸があって、約一年ぶりに帰省したんだけどさ、田舎の葬式マジすごい。
なにがって、とにかくデカい。
だいたい、220~250人くらい来てるの。
そういや、昔うちで葬式やったときもこれでもかってくらい人が来たが、そのときは驚きはしなかった。
椅子の数でだいたい人の数がわかるし、故郷を離れてから出席したほかの葬式もセレモニーホールだったんで、それらと比べることが出来るしで。
平日だってのに。
始まる前に腹ごしらえして「気合入れていくぞー!エイエイオー!」じゃないけど、そんな感じのノリでみな戦闘モード。
なんなんだろうな、この壮大なムダは。
最近、「坊主はボリすぎ」って意見がネットで散見されるけど、個人的にはそうは思わない。
むしろ、都会の葬式と同じ料金だったら割りに合わないと思う。
人が多けりゃ焼香の時間も長いし、部屋が大きければ声も上げないといけない。
今回なんか納棺前に「和尚さんどうぞどうぞ」通夜が始まる前に「どうぞどうぞ」終わったあとに「どうぞどうぞ」、葬儀前にry,葬儀後にry
といろんな人にひっぱられ、飲まされ、とまあそんな感じだし。
なにより、200人以上いる前で説法だし。
まあ、それよりお金の問題じゃない。
どうせ故人が生前貯めた金だ。
どう使おうが構わないと思う。
なにが無駄って、平日だってのに、みんなそんなに暇なの?ってとこだ。
「野菜もってけーれ、スーパーだとお金だして買わないとだけど、もってけばタダだべ。コメ用意してやるから、またけーってこい」
おいババァ、葬式の後の会話がそれかよ。
タダってあんた、ガソリン代いくら使ってきてると思ってんだ。
ちなみに、この地域では町内会の草刈りのため息子(といってももうすっかり中年だが)が有給とって東京からやってくる、などということがザラである。
町長、ちっぽけな一人の町人の葬式に出たりしてないで仕事しろよ。平日だろ?
まったくもう、イライラする。
無神論者なんで、故人を偲ぶとかそういうのはどうでもいいけど、どうなんだろうなぁ、このドタバタ感。
でも逆に、忙しいくらいのほうが遺族は悲しみに沈まなくていいのかななんて思ったりする。
それでもなお、やだ。
お願いだから自分の親には、葬式はしないでくれという遺書でも残して欲しい。
250人っていったら、一人と2分ずつ挨拶したって500分だろ?
死ねるわ。
虎仮面の模倣者たちより、プロボノを行う人たちをもっと評価して欲しい。
なにやらランドセルとかを不法に投棄するのが流行っているようなのでこのチャンスに乗じてプロボノを紹介しようと思う。
そしてこの増田エントリがプロボノを知る機会になってくれたらと思って書く。きっと最も良い奉仕の行動であるから。
ボランティアというと奉仕活動で困っている人や相対的に苦しい立場の人のために無償で行動すること。ってみんな理解していると思う。
・奉仕している人の受益
1.自分が良いことをしている事を実感する。
2.人に喜んでもらう充実感
・奉仕される側の受益
1.しにくいこと、出来ないことを助けてもらう。
2.直接的に利益を得る。
この側面が合致することが条件でボランティアは成り立っている。
プロボノとは、自分の職能を使って「直接被支援者を助けること」を言います。(語弊があったら指摘下さい)
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普通ボランティアと聞くと、困っている人のために行う雑用みたいなもの。というイメージはありませんか。
・ドブさらい
・ゴミひろい
・草刈り
・清掃
・要介護者への支援
など、など。
本来「困っている人を助ける。」というボランティアの大義名分を合理的に果たす方法を考えてみてください。
最も自分が相対的に高いスキルを持つ「仕事」をこなし、得た給与を配分することにほかなりません。
価値の最大化の例
・大手商社に勤めるAさんは1時間あたり5000円の給与をもらっています。
・町の美化活動委員会は、先日の大雨で詰まった自然公園の排水溝を掃除するボランティアを募集しています。
Aさんが半日かけて慣れない手つきで掃除を手伝うことはとても素晴らしいことです。まさにボランティアです。
「1.自分が良いことをしている事を実感」し「2.人に喜んでもらう充実感」を得て、「3.体を動かしたり仕事をすることそのものの満足感」もあります。
しかし合理的に考えたらAさんは半日休日出勤して仕事をこなし、そのお金で清掃専門業者を5倍ぐらい雇うことができます。((※大手商社の給与が高く、清掃業者への報酬が安いという偏見!という批判は命題ではありませんので割愛させて下さい。))
清掃専門業者に支払う代金を1時間あたり1000円だとしましょう。
5,000円*半日(4時間)=20,000円 == 1,000円*5人*半日(4時間)
さらに、普段運動不足のAさんとそれを生業にしている清掃専門の作業者では効率も倍近く違うかもしれません。
大抵の社会人は自分が相対的に最も秀でている技術や能力を使って生活費(現金)を得ています。それが最も『効率が良い』からです。
つまり、Aさんはボランティアなんかに参加せず、休日も仕事がある!と言って金だけ出したほうが町の美化委員会にとって何倍も助かる。という事になります。
でも、なにか違うと思いませんか。
それどころか、なにか良いことをしたかったはずなのに休日出勤までして金をむしり取られた気持ちです。
あるいは、煩わしいからと金だけだして知らんぷりの「嫌味な金持ち」という感じさえします。
つまり、「純粋に奉仕される側の事」を考えたら、本来最も良い方法はお金を提供する事。なんですね。
ところが、実はもっと良い方法があります。それがプロボノです。
プロボノというのは「自らの職能をもって相手を直接支援する事」です。
・弁護士が無償で弁護すること。((※士のつく職業は実は法律的にややこしい制限もあったりします。))
・大工さんが棚や机を作ってあげる
何か違う。とお考えの人もいるでしょうか。
仕事は仕事であって、ボランティアではない。とか。私も初見ではそう感じました。
・奉仕している人の受益
1.自分が良いことをしている事を実感する。
2.人に喜んでもらう充実感
・奉仕される側の受益
1.しにくいこと、出来ないことを助けてもらう。
2.直接的に利益を得る。
職能が直接的に相手に供される。というのは仕事で稼いで現金を提供するよりももっと効率的なのです。
会社で業務として行う仕事とは違い「会社の利益」や管理工数等として搾取される手数料のようなものも発生しません。
ということは、それだけ相手にも「より喜んでもらえる」のです。
プロボノという働き方
http://www.shibuya-univ.net/class/detail.php?id=608
http://gkmyhn.blog106.fc2.com/blog-entry-28.html
プロボノは自分の仕事のスキルをフルに活かしたり、普段仕事にはあまり直接結びついてない自分の得意分野を存分に発揮して生き生きと成果を出せることにあります。
普段商社でデスクワークをこなすAさんにとって「排水溝の掃除」は得意分野ではありません。不慣れな場所に足を運び、持ち慣れないスコップで泥をさらう作業をすることは心細いものです。
まして、気心の知れた人ばかりがまわりにいるとは限りません。
でもプロボノは日ごろ仕事で培った技術や知識をフルに披露することがそのまま社会貢献につながる、という魅力があります。
そして、そこで得た経験がさらに自分の仕事の幅や経験や知識になっていきます。
仕事を続け、両立しながら空いた時間を使って自分の経験や満足感を得ることができる社会的な活動なのです。
Aさんがすべきプロボノは例えば「商社で培った人脈を生かし、公園や自然の保護活動に積極的な近隣の団体に声かけをする」だとか「企業の広報活動の一環として組織的に手伝ってくれそうな法人や団体を探す」等だと思います。
その上で自分も手があいていたらスコップを持てばよいのです。疲れていたら寝ててもいいと思います。十分貢献したのですから。
中学生のころから、親や教師、同世代の人間とは、偏差値や単位を媒介とした感情のない利害関係しか結んできませんでした。偏差値を上げ、実力試験や模試などで高順位をたたき出すことによってのみ、親に自分の存在が認められると感じていました。教師や同世代の人間に対しても同様に感じており、高校生になり大学受験を意識してくるようになると、学校に行っても勉強以外のことで話すことはほとんどありませんでした。次第に昼間食堂で彼らと一緒に昼を食べることが鬱陶しくなってきて、その時間は図書館で寝ていました。放課後も急かされるように家に帰り、夜の塾に備えていました。勉強で誰かに頼ったり、お互いに励まし合ったりしたことはありませんでした。
その一方で、他人との争いを前提とし、ライバルを蹴落とすための能力を鍛練するしかない日々に脅えきっていました。一度負けたらもう駄目だというような精神的な圧迫を、絶えず胸に抱いていました。誰にも自分の本音を語ることができず、親や教師などの大人が求めていることをロボットのように忠実に行ってきました。学校に通いひたすら暗記を繰り返し、偏差値を上げていくことを感情を殺しこなしてきました。
やがて医学部に合格しました。将来医師になって人を救いたいという夢があったわけではなく、偏差値が高い大学しか志望することができなかったのが実状でした。親や教師から直接偏差値が高い大学に入るようにと迫られたことはないのですが、当時は彼らが存在するだけで強いプレッシャーになり、東大や京大、国公立医学部しか志望してはいけないと迫られていると感じていました。
受験戦争が終わり大学に入ると、偏差値というこれまで自分の存在を示す唯一の手段が失われてしまいました。大学の授業以外の時間は、特に同世代の人間と遊ぶといったことはなく、塾のチューターや家庭教師のバイトをしたり、運動をすることが好きだったので、ジムに通い筋トレや水泳などをして体を鍛えていました。勉強に対する意欲はなく、単位を取るだけのための底の浅い学習で、試験が終わると頭から抜け落ちて役には立たない代物でした。
この世界のなかで、自分にとってお互いに心情を理解し合えるような人間はおらず、社会に出て苦しいことが起きても、誰にも相談できず、全てたった一人で乗り越えていかなくてはならないという現実に気付き、強い危機感が絶えずおそってくるようになりました。このような自分の状態では、必ずどこかで心が破綻してしまうという確信があり、どうにかして心を開いて接することができる人間と巡り合いたいと切実に求めていましたが、それはかないませんでした。大学も4年生になり後2年で卒業して、医師として非常に責任の重い社会生活をこれからずっとたった1人で送っていかなくてはならないことを考えると、心が沈む一方でした。私は大学を休学しました。
2000年以降、ひきこもりの実態をマスコミを通して知るようになり、自分の主体性のない生き方について改めて見直してみようと考えるようになりました。ひきこもりの実態を知るまでは、自分がどのような状況にいるのか自分自身が良くわかってはいなかったのですが、さまざまな情報に触れるようになり、自分自身の状況を客観的に見ることができるようになりました。やがて、これまでの反省から、今後何を信条として生きていくのかという問題に取り組んでいかなくてはならないと考えるようになってきました。
主体性をもって生きていくためには、これまでの親子関係を根本から改善していかなくてはなりませんでした。思春期以降、親との間に自分の喜怒哀楽入り交じった感情を含んだ遣り取りが全くなく、ただ感情を取り繕い、迎合していただけだったというのが実状で、その実状を自分自身で認めたときには、これまでの人生は何だったのかと愕然としました。
私はもうこれ以上、こういった親との「上辺だけの良い関係」を維持していくことに意義を感じなくなり、親に対して自分の素直な感情をぶつけるようになりました。なかなかものごとが上手く進まない焦燥からくる苛立ちが強いときなどは、私は親を激しく責め、自分の虚勢からくる脅しを、絶えず親に与えていた面もあったのではないかと思います。「上辺だけの良い家族」の演じ合いを避けようとするため、感情剥き出しの「本音」のぶつけ合いだけの関係になってしまっていたというのが事実だと思います。親も私の「本音」に、率直に親自身の「本音」で対応していたと思うのですが、そういった関係からは前向きになれるものは生まれてはきませんでした。
当時は、親子だけで問題の解決に向けて模索することに息詰まっており、局面を打開するため、ある精神科医のもとに相談に行きました。それまでも、何かしなくてはという焦燥感から地元の精神科医に診てもらうことはあったのですが、定期的に診察を受ける度に苛立ち、心の状態は悪くなる一方でした。しかし、その精神科医には好感を持つことができました。
その方は、13年前に不登校やひきこもりで苦しむ青少年たちのための高等学校を私財をなげうって作られた方です。何度か会ってお話しをしていると、自然と目に涙が溜まるようになってきました。これまでの精神科医との遣り取りのなかでこのようなことが起きたことはなく、医師に裸のままの自分の存在を温かく受けていれていただけることに感謝するという心の動きが、まだ自分の中にあったのかと驚きました。先生は、温かく私の言葉を聞いてくださり、先生御自身の体験談も話されました。表現することが難しいのですが、不登校やひきこもり問題に関して具体的な対策を模索してこられた方が発する雰囲気が私を温かく包み、心を解きほぐしていったのではないかと思います。今思い返してみて、正直に言って治療を受けたという実感はありません。自分の感じていることや考えていることを先生に向かってぶつけていき、それに対して先生が黙って肯いている、そんな感じでしょうか。「人間の心は決して理論や理屈だけでは動かない」、この先生の御言葉が私の心に今でも響いています。
何回目かの診察のときに、先生は私の目の前で親を叱りました。私が学校に通っている期間、偏差値に翻弄され私と真正面から向き合わず、私の心が凍りつきロボットのようになっていることに気付かなかったことに対し、「あなたたちはこの子をどういうふうに育ててきたのか・・・深く反省しなさい」と言われたのです。その叱り方は、突き放して終わりというものではなく、温かみがあるものでした。先生の言葉を聞き、肩を落としうなだれ、涙を流している親の姿を見て、私は改めてこの親と一から関係を作り直していきたいという、将来への希望が湧いてきました。これまで社会的に立派な仕事をしてきている親は、こういった形で面と向かって叱られるという行為を受けたことがなかったと思います。親が納得するだけのことをされている先生だからこそ、親は社会的体裁をかなぐり捨てて、反省という態度を子供の前で赤裸々に現したのだと考えています。
改めて親との関係を作り直して行くにはどうしたらいいか考え、親と山陰や北海道などに一緒に温泉旅行をしたり、ひきこもりの会のフリースペースに通ったり、酪農実習(山地酪農)に参加したりしました。今考えてみると、どの経験も自分の成長にとってかけがえのないものであったと理解できるのですが、取り組みを行っていた当時は、長期間続くことがなく、「失敗」したとしか思うことができなかったというのが正直な気持ちです。
こうした「失敗」した活動のなかから、大きな収穫もありました。それは、自分がこれまで経験してこなかったことに対する心の動きであり、それがやがて私自身の価値観の発見につながり、そして自分と親の価値観の相違の気付きに発展していきました。私の家族の場合、親は人口100万人の街に暮らすことを好み、私は人口4000人の田舎に暮らすことを好みます。自然に対する捉え方においては、親はレクリエーションとしての自然を好み、私は朝から夕方までの労働を基調にした自然を好みます。このように親子で大きな価値観の違いがある場合は、お互いにその価値観を尊重していくことは欠かせません。親は子供に自分の価値観を押し付けるべきではなく、子供も自分の価値観に親を無理矢理引っ張り込むべきではないと考えています。
さらに、自分もまた社会の価値観に囚われていることにも気付くようになってきました。周りからいくら「他人を気にせずゆっくりやっていけば良い」などと言われても、自分自身が「人は20代前半で社会に出ていくもの」という一般的な価値観から抜け出すことができず、心は解放されるどころか一層苦しくなっていったのです。
親も先生との出会い以降、急激に変わっていきました。先生の行っているひきこもりの会の運営やチャータースクール開設への模索などの取り組みに対し、積極的に精神的・経済的な支援を行うようになりました。距離的な問題があり、親も私もその現地で会のメンバーと共に活動することはできないのですが、それにも関わらず、親ができうる範囲でメンバーの飲食店経営や、毎週行われているイベント活動を心から支援している姿は、私と先生だけでなく、親も私の抱える問題を共有していることの証となりました。そのうえで、私のありのままの存在を受け入れてくれるようになり、私が次々に挑戦することに対し、時間を割いて行動を共にする、あるいは必要な費用を黙って用意してくれるといった形で協力しながら、温かく見守ってくれるようになってきました。
現在は、「自然(山)のなかでのモノ作り(労働実習を含む)」活動を1年続けています。7年前に山を切り開き、モノ作りにも精通されておられる教職員の方のもとで、実践勉強をしています。
山に入って暮らすようになると、次第に自分でもわかるような変化が起こってきました。朝起きて夕方まで草刈りなど山で働き、夜に陶芸などのモノ作りをするという生活では、自分が行ったことが形としてしっかりと現れます。草刈りをすればその部分が綺麗になり、陶芸をすれば作品ができあがります。山が綺麗になれば心は充実し、陶芸作品が上手くできれば心は沸き立ちます。どれも単純な作業なのですが、単純だからこそ人の心に響くものがあるのではないかと考えています。テレビやパソコンなどの情報機器やエアコンなどの、暮らしを快適にする電化製品がない山の生活のなかで、四季折々の変化に直接肌に触れて自然を体で感じることで、町の生活では感じることができなかった「生きている」という実感を持つようにもなってきました。
私はこの「生きている」という実感を持つようになってから急速に心が解放されてきました。私の場合は、山のなかでのモノ作り活動に、「生きている」という実感を得るためのキーポイントが隠されていました。
私が心のひきこもりから抜け出せなかった理由として忘れることができないのは、自分自身に勇気がなかったということです。どこか心のなかに、「誰かが助けてくれる」といったものや「失敗するのが恐い」などというものがありました。今振り返ってみると、そういった思いが、自分が行動して新しい道を切り開いていくという選択をすることを拒み、ズルズルとひきこもりから抜け出せない期間を延ばしていっていたのではないかと思います。私自身が何もできなくても、親が「ただ生きているだけでよい」と無条件に認めてくれている、そしてそれを心から信じることができる真の親子関係が構築されるとき、もう何も恐れるものはないでしょう。その思いを胸に、これからは自分の考えに従い、活動していこうと思います。
また、今の私には大学に帰り、自分の経験を活かし将来精神科医として働いていきたいという夢があります。お世話になっている精神科医や、山のなかでのモノ作りを教えてくださっている教職員の方の真摯な生き方に触れた経験から、肩書きや高度な知識だけに頼るのではなく、裸の人間として患者に接しながら、深い信頼関係を構築できるような医師になりたいと考えています。そして、それは並大抵の努力ではできないことだとも感じていますが、夢の実現に向けて、日々歩んでいきたいと思っています。
体力があればついていけるし、基本的なことは半年も習えば身につくと思う
難しいのは間伐する木の選び方と倒す方向の選び方、あと枝打ちの深さ(*)の調節くらいかな
昇って枝打ちも器具の使い方さえ覚えれば誰にでもできる
ただし、どの仕事もミスると間違いなく怪我する、危険なのは間違いない
その道に進みたいなら行ってもいいが、先の保証がまるでないことも書いておく
さらに、伝統的な製材の方も人がいなくなっていて、生産できても使えないとか、せっかくいい木が作れてもがりがりと削ってチップ材になったり合板の材料になるとかいう落ちが待っている
高いんだからしょうがないけどね、家具に使えるレベルの木だと齢80年以上で年輪が均一でないと駄目だし、そうすると値もかなりのものになってしまう
建築にしても、家の骨を組む場合この部分はこのくらい目の詰まった木で、ここはこのくらいの木でとか有るそうなのだけど
現代建築に流されて知ってる人はもういないんじゃないだろうか?
3万人とかいってるけど、それを支えるだけの需要なんて今はない
これから作って行くなんて言うのだろうけど、どうやって木材の流通をあげるつもりなんだろう?
(*)幹すれすれで枝を落とさないといけないとか、数cm残して落としておく場合とか、木や植わってる場所などで変わる、ミスって切らずに折ってしまうとそこから木が腐るので、間伐する予定の木で練習する、マジ難しい
少子化対策とか何とか言ってるけど、独身の男女でボランティア活動なんかをやらせればすぐ解決できるんじゃないかな?
出会いの欠片もない上に非効率的な、どぶさらいとか草刈りを少しは楽しくさせてくれ。
良いアイディアだね。
昨日家で勉強してたら、簡単な問題が解けなくてイライラして、我慢してたら次第に憂鬱な気分になったのね。
それでちょっと前に、危ない誘いを受けてて、その返事をするのが今日だということを思い出したんだ。
博打みたいに伸るか反るかで受けちゃあまずいと思ってたんで、気持ちを整理するために離れて住んでいる昔の友達に電話することにしたんだよ。
そしたらさ、友達曰く、そのイライラは軽い鬱じゃね?と。
僕は、×1でコナシ、家を持ってて、裕福とは言えないけど、そこそこの生活ができている。
けど、周囲に親戚や友達がいなくて、予定がない休みの日なんて本当に一人なんだ。
出会いを探せと言われても1時間にバスが2本しか通らないような田舎で、まじめに仕事してたら何処に出会いがあるのかと。
たとえば、出会い系で探したとしても長く続かないし、
Mixiなんぞで出会ったとしたら、うまくいかなかったときにいろいろ面倒で、
何より嫁に出て行かれた僕が血気盛んに出会い求めてるのって変でしょ。
むしろ友達がほしいんだけど、そんなの30代で何処で探せるんだ?
友達も特に幸せな生活をしているわけではなく、むしろ今元気じゃないらしいの。
正社員じゃないらしくて、それが本人なりに苦しいそうだ。
おまけに鬱の親の面倒を見なくちゃいけないらしくて、兄弟は離婚するしで、悩みの種は尽きないらしいのさ。
そんな状況になっているとは全然知らなかったよ。
大変な時にのんきな相談して悪かったね、でも気持ちは晴れたよ。
ありがとう。
冷静になって考えてみたら、鬱だの不幸だのっていうのは探せば世の中いくらでもあるんだなと思ったよ。
その逆も同じだしね。
危ない誘いにはとりあえずもう少し考えさせてくれという若干断りの返事をしておいたよ。
しかし、このまま一人でいたらいつか鬱になるのかな。
少子化対策とか何とか言ってるけど、独身の男女でボランティア活動なんかをやらせればすぐ解決できるんじゃないかな?
出会いの欠片もない上に非効率的な、どぶさらいとか草刈りを少しは楽しくさせてくれ。