はてなキーワード: 擁護論とは
ブスの、ブスによる、ブスのための、ブス擁護論。
とはいっても推進派にとって残念ながら、逆進性の改善によるものではない。
軽減税率の逆進性改善の有効性の低さは折り紙つきで、費用にぜんぜん見合わないというのは多くの研究で一致するところである。
の3点から来る。
需要の価格弾力性が高い財ほど低い税率、需要の価格弾力性が低い財ほど高い税率をかけることが社会厚生上のぞましいというルール。
簡単にいえば、値段が上がっても購入する量を減らせない生活必需品ほど高い税率をかけるべきというもの。
すると、税金をかけることによる人々の財の購入計画に与える歪みを小さくできるので、税による社会厚生の損失も小さくできる。
つまり「こっちの商品は税金が高いから買うのをやめて不本意だけどあっちの税金の低い商品にするか」といった税の存在によって人々の判断が歪むのを極力防げるということ。
クリーニングなど自分で作業可能なサービスや、自分で生産可能な財の税率が高くなると、
クリーニング店に持っていくのをやめて自分で洗濯を済ませてしまおうとする人が出てくる。
しかし、クリーニング店でまとめやった方が分業による効率化が働くため社会全体ではのぞましい。
そこで、クリーニングのような自家生産可能な財・サービスに関しては軽減税率を適用し、分業を促進すべきということになる。
つまり、やろうと思えば自分で出来てしまうような、市場での購入の必需性の低い財・サービスに軽減税率をかけるべきということ。
クリーニング以外にもレストランや、近頃ではセルフヘアーカッターの売れ行きが伸びていることなどからすると理髪店・美容院などもこれに入る。
誰かが消費を増やせば、それが市場を通じることなく(消費を増やしたことで誰かの給料が上がって景気が良くなって・・・といったものなどではなく)別の人のメリットになるのであれば、
そのような財・サービスに関しては軽減税率を適用し、消費を促した方がのぞましいというもの。
具体例を挙げれば、マスクを軽減税率にすれば咳をして風邪のウイルスをまき散らす人が減って他の人も助かるね、といったもの。
教育、医薬品、エコカー・省エネ製品などが代表例。日本新聞協会が新聞を軽減税率にするべきと言うのも、この点からは合理性がある可能性がある。
贅沢品やレストラン、エコカー・省エネテレビに軽減税率をかけろという、おそらく軽減税率の信奉者が受け入れらない結論が出てくる。
逆進性対策は別の形でやりましょう。
不公平"感"をどうするかが大切?合理性に欠けるものをゴリ押しされることに対して不満"感"を抱く人も多いってことですよ。
逆進性がほとんど改善しないものを逆進性対策としてやられて、実際の生活が改善しないのに不公平"感"が小さくなったね良かったね、とされては生活に困りきってしまう人もいる。
それに、やってから問題が噴出すれば手のひら返しで文句を言いたくなるのが人間の性。一時のアンケートで近視眼的に決めるより、合理性を重視した方が長期的には納得度も高まるものなんです。
だから政府は審議会を重ねに重ねて政策の合理性を高める努力をしてるいるわけよ、世論はこうだからこうしますみたいな手抜きのお仕事をするのではなく。
今の人気が高い政策をただ選ぶのではなく、合理性の高い政策は何かに熟議を重ね、そうした合理性の高い政策への納得度を高めるように説明を尽くすのも政府の仕事。
高校のバスケットボール教師が生徒を30発、40発殴って、自殺に至らせた事件がありました。ただ、こういう乱暴な教師はいるのだろうな、とそれほど驚きはなかったのですが、それより驚いたのは、マスコミ、世間一般にも体罰を容認する声があるということです。正直、「え?本当に同じ文明人なの?」と愕然とした気持ちになりました。しまいには、子供やその親を「軟弱だ」とか「ケアが足りない」と攻める論調すら出てきています。
そこで、体罰容認論によくある擁護論にまとめて反論してみました。世間の人の言う「ある程度の体罰」でも「子供のためを思った体罰」でも、教育に体罰は認められません。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
「何を当たり前のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、体罰がダメだというのはわかると思います。しかし、「自分はやられてきたから正しい」という謎論理によって体罰を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、教師が殴ったのが30発ではなくて、3発だったら、子供の方を攻める論調が勝ちそうな気がします。
仮に体罰が正当化される場面があるとしたら、モヒカンの子供が火炎放射器を持って「汚物は消毒だぁぁ〜〜」と乗り込んで炎をまき散らしたときくらいで、火炎放射器を持ち込む子供がいない以上、普通の教師が体罰をふるうことは正当化されません。
ああ、そこはすまん。「俺の」ミスだな。それこそ君の誤字と同程度にどうでもいい気がするが、だれか怒る人が現れたらその人にも謝るよ。
で「こううとき」っていうのは過労で倒れてしまった時ってことだろ。栄養のつくもの食べて元気出して欲しいってのの何が問題なのかね。
あと「こういうとき」だろうけどそんな誤字はどうでもいいとして(それこそ作品内容と関係ないからな。そんなつまらない誤字)。
美咲は「ななみんが弱みを見せてくれたからねー」と言ったのだ。これアニメオリジナルセリフで、わざわざ追加されている。
弱みを見られたのが嬉しかったから、仁のいう「特別な鍋」をさくら荘は用意した。つまり特別なときのお祝い鍋ルールの適用だと考えるのが(改変後の)自然な解釈。
ちなみに原作では仁は「何か食べさせたほうがいいだろ」。単に胃が弱ってる七海への看病であり、弱みを云々なんて美咲も言っていないし、鍋料理であるという言及もない。お祝い鍋という文脈では使われていないな。原作のセリフならまさに君の解釈で正しいと思うけどね。
↑のが指摘できるならこっちも指摘できるだろ。お前、分が悪いから引っ掻き回したいってだけで本当は気づいてるよな?
で、俺の「特別な鍋」解釈に近いのが参鶏湯改変擁護論側にもあるんだよね。
http://d.hatena.ne.jp/alphabate/20121113/1352794411
俺の解釈もだいたいこれに沿ってる。それを最悪に無神経だと言っているだけで、読解自体はこれとだいたい同じだな。
これは第一話のお祝い鍋慣習が不徹底な個所を改変した、より一貫した描写だ、というような擁護論だが、スタッフもこういう考えでやった可能性はあると思う。なかなかいい分析だ。韓国料理をどこかに出したいね、じゃあ鍋料理でサムゲタンにしよう、どこかにはさむとしたら、ここは文脈的にお祝い鍋ってことでイケるだろ、それくらいの考えだろう。