はてなキーワード: 慣性とは
単なる備忘録。自分のblogに書いてもいいんだけど、仕事しろって話になるのが嫌なのでこちらに(っても会ったら日焼けしているのでまるわかりだが
素潜りはやってて、ダイビングを知らない人用。
機材とかの話は教科書に書いてあるとおりなので省略。なんもかんも違うんだけど、もっとも違うのは運動原理。一部の人にだけ通じる例え方でいくと、素潜りの運動原理は航空機で、ダイビングは(そのまんまだけど)潜水艦。
素潜りをしているときは推力で水流に対する揚力(厳密にあってるか知らん)を得て、体のひねりとかで行き先をコントロールする(少なくとも自分は)。そのために、素潜り中はあまり動きをやめることはしない(だいたいの場合止まったら浮いちゃうか沈んじゃうか)。例えば水中で何か観察するときは、観察後離脱する方向を何らかの形で考えておかないと観察対象にぶつかったりする(珊瑚を傷つけないようにしましょう!)。プラス浮力の場合は倒立に近い形でバランスをとって、上方向に離脱するし、そうでないときは横方向にアプローチして観察するのが楽。まぁ、手を使えるところなら手を使ってもいいんだけど。逆に、流れている場所で流れに乗って対象にアプローチしようとしても、流れに乗った状態では揚力が発生しないため、難しい。
ダイビングは潜水艦。浮き袋は自分の肺。呼吸を一定ペースでやったとすると、肺の容量はノコギリ波に近いものになる。肺活量が0ccから3000ccまであったとして、苦しくないための呼吸には1000ccのガス交換が必要だったとする。このとき、肺活量でいうところの0cc~1000ccの範囲で呼吸するか、2000cc~3000ccの範囲で呼吸するかで浮力がかなり変わってくる((もちろん、交換速度はガスの濃度に依存するので、こんな単純ではないはずだけど))。具体的には水の比重は有効桁数2ケタと思えば1g/ccでいいので、このモデルではそれぞれの中点の2500-500=2kg分の遊びが浮力にできることになる。この遊び部分をコントロールして浮上したり沈降したりするのがダイビングの移動方法のその1のようだ。もちろんその2はフィンキックだけど、水平移動にしか使わないのが正解。垂直移動に使うと息を使ってしまうので、もったいない、と。
ちなみに、急いで浮きたいからって肺に空気を入れて止めるのは厳禁。死ぬぞ。
(↑次回自分がやりかねないので警告)
また、素潜りの時は姿勢変更に素直に揚力がついてくるので、コントロールの時定数が小さい(あるいは、自分の慣性に対する最大出力が大きい)。一方、ダイビングの場合は慣性に対して出力の範囲が小さいので(BCDを全開にするという反則技を除けば)時定数が大きくなり、早め早めのコントロールが必要になる。このコントロールがへちょいと、僕みたいに上がったり下がったり一定しない人になるわけです。
http://anond.hatelabo.jp/20090713004520
の具体例として書いてみる。
都内を走るのに、ロードよりのクロスがいいなと思って、さあ買いにいこうと思ってもやっぱり悩む悩む。
ので、いくつかよさげ、もしくは5万円付近で定番のものをリストアップしてみた。
ただ、言えることはどんなに悩んでも買ってから乗ってみるとめっちゃ楽しい。なのでこの中でもそうじゃなくてもいいけれど、なんでも買ってみるのをおすすめ。
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1101/20/news001.html
そもそも教育コンサルが自分の本を売るための広告記事だって点はおいといて。
まずまず出来るってレベルの社員の場合、そこそここなすのを前提に現状維持を目指すか、
ジョブホップすること前提でモリモリ頑張るか、よほど恵まれた労働環境にいるのでもなければ
どっちかしかないだろ。組織を動かす巨大な慣性を、一社員がどうにかできるわけもなし。
あと、日航の解雇反対訴訟辺りを引き金に解雇規制が緩和されたら、成果の出ないダメ社員も
ソリティア社員もモリモリ首切られるだろう。そしてミドルクラス以下の労働力はダンピングされ、
現状維持するだけでも必死でスキルアップしなきゃ転落してくだけだろうし。
言い換えれば、思考を他者に任せる、委ねることの危険性。
こういう習慣があると大変なことになる。
心ない中傷や罵倒をされたとしてもそれぐらいは承知の上であろう。
ちょっとネットに慣れていればそれぐらいは予想できるし、ある程度耐性もできていたりする。
問題なのは、そういう、例えばこの増田
http://anond.hatelabo.jp/20100922191511
こういう問題について増田に書き連ね自分の頭で考えることを放棄していると、そういうことを習慣的にやっていると
次第に、何か解決すべき問題が浮かんできたとき 自分の頭で考えることができなくなるのだ。
面倒くさいからすぐに助けを求めてしまうようになるのではなく、それが苦手になるのではなく
大事なことだから二回言うが、本当に考えることができなくなるのだ。
"考えないという行動をとるということは、また一つ考えないという習慣化を助力すること"
なのだ。 基本的に習慣というものは、物理学でいう慣性、惰性のようなものだと思ってもらって構わない。
さて、
>問題解決(英語:problem solving)とは、問題を解決する、すなわち解を発見することであり、思考の一部分である。
>すべての知的な機能の中で最も複雑な思考であり、高次元の要求の認識と定義されている。
>それには、より筋道の立った手順及び基礎的な知識の操作、調節が必要となる (Goldstein & Levin, 1987)。
問題の本質はなにで、その問題の解決策をMECEに洗い出し、評価をし判断をし実際にどう動くかを決めるという一連の作業をしっかりできている人は
意外と少ないのである。欧米などに比べ、比較的日本人は論理的思考を重視しないので 現状において日本人はそういった問題解決能力は平均して、決して高いとは言えない。
逆を言えばそれができるだけで日本人の中では相当の強み、アドバンテージになることは私が保障する(本来、資源で勝負できない日本がこんなことでは駄目なのだが)
(最近やたらロジカルシンキングだクリティカルなんだのが重要だの喧伝されるが、その試みに比して問題解決全般における平均的な能力はさして向上していない。体質的に受け入れがたいのだろうか?)
結局、何をするにしても"問題解決能力"がものをいう。それの向上や、駆使することを
(あの増田を槍玉に挙げるが、あの文章では普段からろくに物を考えてなさそうだ)
放棄し、比較的難易度の高い生き方とされる 「働かずに生きる」という目標を実現させようとするその愚。
まずはそこを指摘するべきであろう。 あれに回答しているトラバもブクマコメも全員バカ。衆愚。 上から目線で人にものを教えるなんて勘違いも甚だしい。
これでは梅田などにその知的水準の低さを指摘されても仕方がない。バカなものはバカなのだ。
一連の情報連鎖が目も当てられないことになっていたので、気まぐれにまた一つ鎖を繋いでおいた(=リンク=連鎖)
バカの中にも見込みのあるバカが一定数いるものだ。
願わくは、そういう一定数いるバカが、それから脱却できることを。
老子「授人以魚 不如授人以漁」
【追記】
トラバやブコメに救いようのないバカが散見されたので、各自反面教師とするように。
>増田はロジックは読めても人の心は読めない子なんだなぁ。理屈で解決する問題じゃないじゃんw
まず、この増田は"働かずに生きることはできますか"と命題を投げかけている。
命題とは真偽の判定が可能、かつ真か偽である条件(必要条件)などについて論じること、かつ
パターンをMECEに洗い出すことは十分に可能なのである。人間には本来そういう力が備わっている。
まずそういう根本的なところを突き詰めないで、思考を放棄し、"できますか"と尋ねるバカな増田
下手に出たことをいいことに、現実世界で、社会的に蔑にされ、重要人物たりえないバカな俺でも上から目線に、偉そうに意見を述べられるぞ!チャンスだ!
とここぞとばかりに ノイズをまきちらすバカどもが。
不確定要素はあれど、思考し尽した痕跡が情報連鎖の中に何一つない。私はそこを衝いている。
バカは人の主張さえも理解できないのか。そんな調子でよく今まで平気で生きてこれたな。
バカは自分がバカであることすらもわからないほどバカらしいが
ここまで親切に書いてもわからないかな? 下手な言い逃れに躍起になるより素直に自らのバカさ加減と
向き合った方が、今後の人生において利口だと思えるのだけれど(まずバカはデメリットだらけ。そのままでいる理由がない)
まあ勇気のいることなので、ゆっくりでいいよ。ゆっくりしすぎたらバカのまま死ぬかもしんないけどね。
根本的なところを突き詰めないで枝葉末節をつっつくのはバカのやること。
あるいは雑談ならその程度で良い。しかし目的は雑談か? "雑談をしている"、のではなく"雑談しかできない"無能しかいないのではないか?
見るからにそれはそう。 普段から頭を使っている人間は、ある程度の問題解決能力がある人間がわずかながらも情報を連鎖させているのであれば
ああいった様相を呈すことは、まずない。
ああいったやり取りで"何か有意義なことをしたような気に"なる奴らっているんだろうなあ。
そういう奴らは働かずに満足して生きることも成功することも到底覚束ないであろう。
構造的に無理なのだ。なぜ無理なのか。それはこの世が、社会がろくに思考をしないバカどもにとって都合の悪い構造、仕組みになっているからだ。
というより、そういった都合の悪い要素を集めた存在を"バカ"と呼ぶのかもしれない。
(あと、トラバやブコメにいる俺に刃向うような、楯突いている人間は全員バカ。的外れ。ちょっと指摘すれば次の瞬間にはもう全く何も言い返せなくなるような脆弱な意見。
もう何も言わない。わかる人にはわかる。 "ああ、バカが湧いてるな" と。 これ以上失望させないでおくれよ)
はてなが普段頭しか使ってないだけで頭が良いと勘違いしているだけの、ただのバカによって形成されたコミュニティでしかないことを願いたいところ。
バカはノイズをまきちらすだけだから邪魔。ゴミクズ。ウイルス。一掃されろ。ネットで何かを発信するな。テレビみたいに受信だけして満足しとけボケが
老子「知者不言、言者不知」
http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-11017.html
要約すると出そうになったら射精の速度より加速すると出ないから、半永久的に性的満足が得られる。と>>1が提唱する
興味深い。そしてこの記事に対してコメントにて
名前:ななしカナ? ◆- 投稿日:2009/08/08(土) 22:29:45
慣性の法則があるんだからちんちんの方向へ射精の速度以上で移動するのではなくて、常に射精の速度以上に「加速し続け」ないと意味ないんじゃないか
とのコメントが。同じことを思った。
そして自分だったら、円形の部屋があってそれが中点を中心にまわる装置を作る。それで遠心力をかけて中点に向かって(向けて)射精すればいいんじゃないかと考えた。
遊園地のコーヒーカップを回しまくってテーブルに向けて射精するような感じ。
理系のことはよくわからないけど、遠心力で外に向けられるから出ない。
だからこちらのほうが現実的だと思う。
ぶっちゃけた話、発ガン性の強いニコチンが、強い習慣性のある麻薬であるにも関わらず「専売」されてきた理由って、
1 作業低下しない。(国のGDP下がらない)
だからでしょ。
政府にしたら、「お前ら(煙草吸って)働くだけ働いて、オッ死ね」って薬でしょ。年金丸儲け。
それが今、禁煙の流れになってるのは、医療の発達でなかなか死ななくなったからでしょ。
だから、
「ついでに毒性強化して、高齢化社会対策にするとか。」
は有り得ても、
は有り得んでしょ。作業低下するから。
オランダで合法化したのは、大麻を合法にすることによる作業低下のデメリットの方が、より悪性な非合法薬物の蔓延による治安悪化のデメリットよりまだマシだったからでしょ。日本がそこまでいくかなー。
女性の言う優しさというのは傷つく事を恐れない
強さの事を言っているのではないかと思った。
人によってはそれを自信と言ったり、
包容力といったり、余裕といったりするのかもしれない。
ハンサムが何故にもてるのか、勿論作りの良し悪しもあるだろうけれど、
同様に、その作りのよさに起因するメンタリティ、
自分が異性に接触する事で相手が不快感を抱くリスクが低いため、
そういう事態に接触する機会が少ないから、心に不安が少ない、
不安が少ないと恐れているように見えない。
結果、傷つく事を恐れていないように見えるのだろう。
見ると何故に結婚が出来たの?と首を傾げてしまうだが、
恐れていないから、自分が人を傷つけているなんて思いもしないから、
人を傷つける事で自分が傷つく事はありえない、
結果、傷つく事を恐れていないように見えるのだろう。
押しが強いとされる男が、何故まれに高嶺の花を手にするのか、
相手を傷つけるなんて思っていないか、もしくは、
その可能性を加味した上で自分が相手に好意を伝える事が
相手にとっていつかは人生のエールになると信じているのだろう。
だから今の今は相手も自分も傷になったり、つくったりを厭わない。
結果、傷つく事を恐れていないように見えるのだろう。
若干、この三度繰り返した「結果」を書くための
推論になっているかもしれないのだが、そう思った。
ハンサムでも著しく傷を恐れていたり、
傷を恐れているからこその悪さであったり、
いわゆる「しつこい・うざい・ストーカー」になるのだと思う。
女性が声高に「やさしい男」が好きと言っているのに、
男から見て優しくていい男でもモテないやつもいる、
悲しさや弱さや繊細さがほとんどなのだと思う、
だから傷を極端に恐れている、人も自分も。
個人的には愛すべき美点であり、全ての男が、人間が
もっておくべき感覚だとは思うのだけれども、
ただ、その類の優しさは「女性」の方がはるかに
優れたものをもっている可能性が高い。
繊細に出来ているからだ、だからその優しさを女性が
質は高いし、なにより腫れた惚れたのリスクがない。
なる優しさなのだと思う。繊細さからなるものは時々の
方がいいのかもしれない。
男に生まれた以上、肉体的にはおそらく女性よりも
頑健であり、頑健さを健全さであるとするならば、
半ば男にとって義務みたいなものなのだと思う、
面倒くさいけど仕方が無いよと笑うしかない。
なぜなら女性も同様かそれ以上に面倒くさい義務を
社会から負わされる事が多いからだ、
それは子供を生むという事だ。
(人によってはそれが喜びであるかもしれないけれど)
女性が命を産むという機能を使命として抱えているのならば、
男が強き魂を自身に構築する事を使命として抱えた方がいい。
少なくともポコチン分の長さくらいは弱音を外に出すのを
我慢できた方が男らしいというものだ。
だから、断られることが男の仕事だと思って、
デートに誘いましょう。
断られたら1つ仕事が出来たと思おう。
傷つく事を恐れるな。傷への対処を覚えよう。
以上、俺自身を含めての話。
ttp://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1268209499/l50
大麻を禁止したのは昭和23年アメリカの政策によるもので、それまで
日本はずっと大麻を栽培してきて、服作ったり薬にしたりの貴重な農産物
大麻にはタバコやお酒ほどの習慣性はないし、なにより依存性の高い
今言われている理由は色々あるけれど、大麻がオールマイティな植物で、
肥料もいらず生育も早くたいていの土地で育ち、紙、布、薬など用途多彩で
エコな植物。大麻の種は高品質なたんぱく質。石油、化学繊維、製薬、色んな
そして、もう一つ、日本の神性を奪うこともその理由であったのかなと
思います。大麻というのは天照大神の化身とされていて、天照大神の御札の
君の文章に書いてある事は読んでいるよ、主張も理解しているつもりだ。
ただし、残念ながら、僕にはまるで一かけらも納得できる要素が無い、と感じているだけだ。
『死』に理由が必要だ、なんてこともなくなるんじゃないかな。
発言が矛盾してないかい?
矛盾しないよ。現実として、何の死因も無く死が出来上がることなどあり得ないだろう。
死因が解明できない場合はあるが、死因が無いということは有り得ない。
人間は生きたいから生きてるんじゃない。
生きているから生きている。
物事には慣性が働くんだ。その慣性を止めるには別の力が必要で、
それをここでは便宜上、理由と呼んでいる。
事故かもしれないし諦観かもしれないが、まとめて理由と呼んでいる。
飯を食っているだけのようなものだ
こう解釈されると酷く凹むな。
飯を食うのは生きる為の仕組みの一部であって、「ようなもの」ではない。
どうにも、君の話は、独りよがりすぎる気がする。
だが、人間は1人で生きているわけでも、生きられるわけでもない。
死ぬのに理由が要るのは誰だか、それこそ僕の文を読んでほしいな。
もっとも、本当に人間が1人で生きていけるようになったら、
生きているのも死んでいるのも全く等価だ。
1人しかいない人間が死んでしまうと言う事は
1人も生きていないのと同じだ。
5-10万円くらいの予算があって、やっぱ自転車楽しいし乗りたいなー!でもロードとクロスとどっちがいいんだろう。。って人向けに違いを書いてみようと思う。
クロスバイクというのはロードとMTBの中間だって言われているけれど、実際はどっちかに寄っているものが多い。悪路を走るのでなければ、個人的にはロードよりのものがおすすめ。ロードよりとクロスよりの違いは、下に書く。
前輪がついているフォークに、サスペンションがあるかどうか。サスペンションがあると、衝撃を吸収してくれる。だけどもちろん弱点はその分だけ重くなること、また剛性が減るので力をいれてこいでも、サスペンションに力が逃げてしまうこと。MTBよりはサスペンションあり、ロードよりはなし。サスペンションがないものをリジッドフォークと言ったりする。楽にスピードを出して走りたいならリジッドおすすめ。
ブレーキの種類が違う。ロードよりのものには普通のロードについているような、デュアルピボットブレーキがついている。対してMTBよりのものにはVブレーキという違うブレーキがついている。前者は主にスピード調整用、後者は固定する用なので、効きは後者のほうがよいと言われている。個人的にはデュアルピボットブレーキのほうがずっと好きで、それはメンテナンス性から。Vブレーキはメンテナンスに悩んだことが結構あるので。でもまあそんなに違わないと言えば違わないかも。
ロードにはドロップハンドル、クロスにはフラットバーハンドルがついているものが多い。しかし、クロスでもドロップハンドルのものもあり、またロードにもフラットバーロードがある。ドロップバーの下の部分は実際には街乗りではそんなに使わないと思う。だからフラットバーでもいいと思うけれど、ちょっと競争っぽい感じになってくるとやっぱり姿勢の違いからくる空気抵抗で負けちゃうとかが多い気がする。好みの問題。ただし、どちらかからどちらかに換装するには結構お金がかかる。
タイヤ幅は、ロードは20-23cくらい、クロスは28-35cくらいの大きさが多い。タイヤの幅が狭ければ狭いほど路面抵抗が減るので、らくちんに走れる。安定性はあんまり変わらないけれど、耐パンク性、乗り心地などが幅が広い方がいいと言われる。でも実際幅のせいでパンクすることあんまりないし、乗り心地はまあ好み。おすすめは絶対細いタイヤ。走るのが楽だし、やっぱ疲れないので楽しく走れる。ちなみに径はだいたい700c。650cという小さい径のものもあって、こちらは慣性モーメントの点から出だしがスムーズ。
自転車の乗り味をほとんど決めるって言われてるフレーム。素材が重要で、クロモリ(クロムモリブデン鋼:鉄)、アルミ、カーボン、その他金属って感じにある。クロモリはしなやかで、乗っていて疲れないって言われてる。重量は重め。寿命は手入れがよければ長い。アルミは軽いけれど乗り味堅め、また疲労限がないので徐々に疲労する。だけど軽くて安価なのでアルミの自転車は多いし、いい。カーボンはご存じ巻き方とか繊維とかで全然違う。いまのプロが使ってるのはほとんどカーボンフレーム。特徴は値段が高いこと。フレームだけでだいたいは20万以上すると思う。その他はマグネシウムとかチタンとかスカンジウムとかあるけど、どれも高い。
ロードはロード用のコンポーネント、駆動系がついている。クロスはロードよりのやつはロード用の低いグレードのがついている(SORAとか)か、もしくはMTB用の低いグレードのがついていることが多い。個人的にはレースに出なきゃ、手入れさえしていれば街乗りにはそんなに影響しないのでは・・と思う。サードパーティ製のやつとか微妙な安いやつだと結局あとで変えることになったりするかもしれないけれど。
ということでいろいろ紹介してきました。まだ書き途中だけど、疲れてきたからまとめようかな。
好みですw嘘ですw
ロードでいいのは、スピードがやっぱりクロスより楽に出せて、さらに本格的にやろうと思えばそのまま山とかに走りにいけること。疲れずに進めて楽しい。デメリットは街乗りにはそんなに必要かな?ってこととか。あとはレース用が主なので、泥よけとか荷台とかつけると若干かっこわるくなる、とか。でもやっぱりロードはいいと思う。どんなのか決めて勝った方がいいけれど。値段はやっぱ8-10万くらいからなんじゃないかなあ。
クロスがいいのは、手軽さとママチャリにはないスピード。やっぱりちゃんと走ろうと思ったり、ロード乗ったことあったりロードといっしょに走ったりすると不満に感じる面は結構ある。だから用途によるんじゃないか。値段は4-10万くらい?安いのはどんなのか注意して買ったほうがいいと思う。
個人的に街乗りでおすすめなのは、かなりロードよりのクロス。重さが軽いし、スピードかんたんに出て快適だし、ロードほどレース用では全然ないし。もし、かなりロードよりのクロスで不満を持ったらそのときはロードを買えwMTBよりのクロスはあんまり魅力感じないなあ。下に好きなクロスバイクスペックをのせとく。
実はだね。タイムマシンというのは一般的に非常に危険であってだね。
タイムマシンは時間を移動する機械であるわけだけど、当然ながら空間の移動も出来るようになっていて、質量により常に影響を受けて揺らいでいる過去現在未来の時間や空間の歪みを検知していて、その結果から慣性系から見れば常に移動しているけれども、時間の流れに沿っている人間視点では地球上の固定地点となる時間と位置をリアルタイムに補正しているのであって、多大な過去や未来や遠方などへの移動は予想外の、たとえば彗星や隕石、他の恒星など予測不可能な要因で起こる、たとえば自転公転や軌道、太陽系自体の位置などのぶれなどにより、補正機能の能力の限界を超えてしまって、宇宙空間ならまだしも、たとえば確率は低いもののマントルだったり太陽の中だったりにつなげる可能性を、幸いにもタイムマシンは四次元空間に設けた外部装置により高度な処理を行うことにより、例えばある標準位置を制定し、継続的にプローブし、データを蓄積することによって、致命的な補正ミスを回避することに概ね成功しているが、同様の原理によりワープを行うもののハンディタイプのためにそのような大掛かりな四次元外部装置を持たないために予め安全の確認された時代地域にのみ移動が可能であるように制限されたどこでもドアとは違い、幾らかの制限下では冒険的移動が可能であるという特徴をタイムマシンは持つが、どこでもドアでは移動できないヶ所へタイムマシンで移動できるかどうかは事前の調査が必要であり、その移動にはそれなりのリスクが伴うことを理解しておくべきである。
http://www.crdc.gifu-u.ac.jp/cerd/scs/resume2k7/scs20070706sugimura.pdfより
性暴力の動機
被害者選択と加害者特性
- 被害者の確定基準は、加害を遂行できそうかどうか、うまくいきそうかどうかにある。加害者は「獲物」を探すともなく探す「狩人」であり、「獲物」獲得のためには、粘り強い。
- 一番多いタイプの加害者は、比較的勉強ができ、「普通の」家族がいて、特に問題がないとおもわれてきた。「被害者はいやがっていなかった」と本気で考えている。親のいうことを聞く「よい子」であり、親も子も「無理に勉強させてきた」とも「させられてきた」とも感じていない。(中略)親はかわいがってはいるが、そのせいで「過保護」で子供の「手を汚させない」。よって「失敗」に直面したときの耐性が子どもに育っておらず、逃避としての性的ファンタジーが行動にうつり、徐々に犯罪化してくる。
性暴力の習慣性
- 成人の性犯罪者の約半数は、少年期(9-13歳くらい)に性犯罪を開始し、徐々に性的攻撃の程度やパターンを学習、悪質化していくという。ほかの行為以上に、否認し、認めたとしても初めてを強調し、全力で合理化・いいわけをする→性暴力は、証明されにくいから
性暴力にまつわる「神話」と「事実」
- 神話「変な人や不審者に注意すればいい」→事実は「加害者はふつうの人」
問題点:たとえば路上生活者に極端な嫌悪感、警戒心をいだかせるだけで、予防につながらない。- 神話「暗い夜道や一人歩きに注意すればいい」→事実は「加害現場は屋内が多い」
問題点:女性の行動を制限する。弱者だと実感させるだけで、予防につながりにくい- 神話「若い、きれい、服装が派手など、特定のタイプだけが被害にあう」→事実は「より弱そうな人がねらわれる」
問題点:「短いスカートをはいていた」「普段から派手」など被害者の落ち度とされる- 神話「被害者が抵抗すれば、被害はさけられる」→事実は「抵抗すらできないほどおそろしい」
問題点:抵抗しなかった被害者の落度とみなされる- 神話「性被害をうけたら誰かに話すはず」→事実「警察の通報率は10数%以下」
問題点:「かえって非難される」「信じてもらえない」などが言わない理由としてあげられている- 神話「女性は強姦されたがっている」→事実「空想することはあっても、現実に望んではいない。コントロールの主体が異なる」
追記:ブクマされているようなので、他の性暴力の実態に関する記事へのリンクを追記します。
警察が挙げている、痴漢にあいやすい女性の特徴です。地味で真面目そうな外見の女性が狙われていることが分かります。
科警研防犯少年部による、性犯罪容疑者への聞き取り調査の結果です。狙った理由の主なものは「警察に届け出ることはないと思った」「おとなしそうにみえた(抵抗されないと思った)」であるとなっています。
内閣府の男女間における暴力に関する調査の引用です。女性でレイプされた経験がある人の割合は7.3%、被害者のうち警察に相談したのはたったの4.1%、加害者との関係は、よく知っている・顔見知りが7割以上を占めることなどが書いてあります。
2・1 J-POPしょせんは演歌*2 暑苦しくて耳が腐りそう
2・2 ラジオは大人の子守唄 サテライト・カウンセラー 電波トランキライザー
2・3 雑音(壊れかけのradio?)の原因はスタッフの発するβ波であるということができる
2・4・1 眼を瞑りたくなるくらい 皆さんくそマジメに労働されてはる (摩擦力0)
2・4・2 彼ら/彼女らがインフラを支えている(や~る~~っ)
2・4・3 やや粗い が合理的な所作たち また一転繊細に システマティックに*3 (点!線!面!立体!)
2・4・4 それは自由をもたらす*4 とはよくいったもの つまり それ自体は正しい
2・4・5 唯物論と書きゃそれまで
3・1 CAD用PCで事務所デスクから世界発信するオレ …オレよ (テコ)
3・3 とどのつまり 5歩先位には自殺の2文字がちらつく 留まっているのは偶然か意思か 忘却か
3・4 ニヒリスト アナーキスト 分離派 カリスマ 留守番の小学生的孤独 独身貴族 王子と乞食 ジャニーズ系… いっちゃんカッコイイとこ取ってんねんけど まだなんか不満なのか おれは (反比例)
4・1 気になる所が皆無ってわけにもいかんが(お互いさま) 所長は そうである所以がある (剛体)
4・2 仕事場というのは 女工がいるのといないのでぜんぜん違う*5
4・3 少数精鋭の中小民間の 反力についてはどうなった (作用反作用)
4・4 (洗脳的 感染的 添削的 交渉的 部室的*6 仮想的 防衛的 高踏的 白昼的 内科的 実用的 欧米的 魔法的 友愛的 遊戯的 学問的 設計的) 設計術
4・5・1 明日夕方までに 小学校のトイレ*7の図面上げろ と*8
4・5・2 せやけど 黒地にカラフルに引かれる線分群は 星空に比較したくなるほどだ 「星空な設計図」
4・6・1 充分な打合せを地道に重ねることが大事 説明責任 聞き上手 手っ取り早くはいかない
4・6・2 「契約」の成立は決定的である 社会的承認を意味するから これで仕事は半分アガリとも言える 後半分は目と手の酷使だ
4・6・3 ここぞという場面でこそ 力を抜けなきゃやっていけない
4・7 とがれ もっともっととがらせろ*9 (デザルグ幾何)
5・1 いまさらながら 糖はすげー コンセントレーションがすげくなるから*10
5・2 これは人間 のみならず生物に必要なものである H2Oに次いでシュガー*11
6・1 オンでもオフでも肝要なのは「関係」である 「無関係」*12さえ
6・2 中途半端な「知り合い」以上に発展しない「関係」にはもうグッドバイしたい 真剣に友だちをつくらなければ
6・3 なれあいは本末転倒だと了解しておれば 大体大丈夫
7 サボリまくって帰れないから 沈黙する
つくづく何を書けばいいか分からん。というか書いてる場合じゃない。そんな場合じゃないんだ。でも何かしなくちゃいけない気がする。そうそれは勉強のはずなんだ。するべきなのはテストに備えての勉強のはずなんだ。でもちっとも手をつけられない。どうしてか。かったるいからだ。めんどくさい。やってどうなるんだと思う。したって意味がないんじゃないか。単位を取って進級してそれでどうするってんだ。特に目標はなく惰性で進学しようとしているだけだ。それでどうする。何事か成し遂げたいことでもあるのか。しいて言えば楽をしたい。オタク趣味に興じていたい。できるならそれだけ突き詰めていきたい。でもそうしたい理由もかっちょ悪いもんだ。なるべく他人との接触をとらずに現実から目をそむけていたい。他人との直接的な接触を避けて生きてくことなどできないだろうし、完全に排してしまうことにも恐怖が募る。少しくらいは接点を持っていたいとも思う。だけどあまりべたべたとは嫌だし長い時間を共にするのも避けたい。空気を保ちきれない。会話していなくちゃいけないというのはつらい。しないでいてもなんともないってこともあるのだろうが、信じられない。前にそんな状況を味わった気もするけれど一時的なもんだ。長いこと一緒にいたせいでそういう嫌悪感が麻痺していただけじゃないかと思う。だって寝て起きたらまた気まずさに心痛める他者との接触になるのだから。一時的なことなのだ。常に一緒に居続けることによって思考と感覚が雑になっているだけなのだ。というかこんなことを書きたいわけではない。書いてる場合じゃない。どうすれば勉強に積極的に向かえるかということを模索したいのだ。ついネットをしてしまう。英語なんぞ見たくもない。数学の演習を解く気にもなれない。でもやっておかないと今週のテスト地獄に対応できない。でもつい「勉強なんていやいややるもんではない、きちんとした理由を見出してこそ打ち込むべきだ」と自らを正当化しようとしてしまう。そのせいでこんな下らん現実逃避文を書いてしまうのだ。非常によろしくない。勉強をしたくないがしなくてはいけない状況に追い込まれたとき、いつもこんな風にして悩み解決のためという名目で何の意味もなく読み返す気にもなれない文を書いてしまう。いつからこんな癖がついてしまったのか。文章を書くようになってましになっている部分なんてあるのだろうか。客観的に自分を見つめられるようになるとかいうがそりゃまた個人差があるだろう。そんな気はしていない。というか内に向かう気質がさらに育まれている気がしてならない。それはまだ数をこなせていないからなのだろうか。わからない。もっと自分のようなやつがたくさんいるとわかれば安心するのだろう。だがそれではただ安堵を得るだけ得て何もしない自分が再び現れてくるだけではないか。それではいかんのだ。せめて少しずつ進歩していきたいからこそこうして書いているのだ。だがこのままだとある程度の文量を打ち込んだらわずかな達成感を胸に対して勉強もしていないのに明日を迎えてしまいそうだ。だが実際いま自分の中には達成感に似た充足感がにじみ出つつある。これでよいのだろうか。そんなことは分からない。いやよくない。とにかく眼前には来年楽をするためにも今のうちに多く単位を取る、それ以上に確実に進級するためにもテストに備えて勉強をするという目標があるのだ。だがそんな刹那的な生活の中に身を置いたままでいいのだろうかという逃げに似た思いが、こんなタイミングで邪魔をする。一見すると正しいように見えるから困るのだ。もしテストの重圧に囚われていないものが目を輝かせて言ったならああ若いなこいつとそこそこの評価をいただけるのだろうが今の自分が言えばテストがいやな学生のごまかしに過ぎないのだ。それだけ分かっていて勉強せずにこんなことしてるのはなぜだろう。わかってると言いつつ全然わかってないのだろうか。口先だけ、言葉の上では意味をなしているが頭の中ではどうにかして勉強せずにすませる方法があるのだと信じ切ってしまっているのだろうか。濁していうことでもない、確実にそう思っている。中学高校とそうしてギリギリで進学してきた。ほんとにギリギリだ。本気でやったら底知れない力でも眠ってるんじゃないかと思ってしまうほどだ。でもそれは視野がせまっくるしいだけだ。実のところはそこらにいる大多数の大学生とどっこいかそれ以下だろう。でも自分の中の玉座には俺はなかなかにすごいという傲慢さが座っている。どうしても降りようとしない。おそらく本気で取り組んで打ち負かされたことというのがないからだろう。その点ばかりは覆せまい。本気でやったことがある気がしてない。ないだろう。自分の評価が低すぎるだけで、もう充分本気で生きてるのかもしれない。まさかこの状態が、この適当にやり過ごして生きてると思ってる状態が俺の本気なのだろうか。まさか。そんなことは考えたくもない。だってそれなら適当に愚痴りつつそこそこに生きてまた愚痴りながら死ぬだけじゃないのか。それで人並みに幸せを感じていられればいいけれど今の俺はだいぶ抑圧されている気がしてならない。我慢ばっかだ。耐えるとかじゃなくてしなくていい我慢ばかりしている。心底楽しいと思ったことがこの4年近くない。一切ない。わけでもないかもしれないが、少なくとも生きててよかったと思えるほどの体験はない。最高だと思えた一日はない。とてつもなく広く思えた世界は思い出の中にしかなく、最近の視界は脳の反映でしかない。これ以上の成長を望める気がしない。世界は16歳で完結したのではないか。これ以上新しさを感じることもないのではないか。もしかするとそういうすばらしく思えた何かとか世界とか視界だとかいうのは思い出の中にしかないものなのだろうか。そんな気もしてくる。ではそんなものに囚われているこの日常もまた思い出してみたら適当に美化されていくのだろうか、どうなのだろうか。そんなことはわからない。事故は変化する。していなくてもそう思いこめばそうなる。きっと未来の自分はそう思い込む。そんなことはどうでもいいのだ。今の自分がすべきことは眼前のことだけだ。勉強。この言葉が重くのしかかってくる。して良かったという実感もないのにしろと言われてするものそれが勉強だ。あくまで自分の中でだが。楽しくて自主的にやってる人もいるんだろう。といいつつもそういう人間の存在を信じてはいない。というかいないだろう。いてたまるか。少しでいいから純粋にそうやって勉強できる心を分けてくれ。一瞬でいいから代わってくれ。どういう幻想なんだ。教えてくれよ。とにかく俺はしたくない。したいと思う理由も、そういう方向に導いてくれる趣味も考えも俺は持っていない。他人の考えにひたすら感化されて生きてきた俺にそんな自主的な思いなど湧いたことがあるのだろうか。自分で分からないのだから問いかけても無駄だろう。それでも問いかけてしまうのはなぜだろう。知らん。とにもかくにも単位を落とすだの赤点を取るだのというのは俺にとっては脅威だ。そんなことをしてみろ。また後々苦労が増える。そうだ。こうしていやいやながらにも勉強を向かおうとしてしまうのは未来の邪魔な要素だけは増やすまいという消極的な希望によるのだろう。願望だ。別に何か得たいわけではない。むしろ減らしたいのだ。余計な不安要素を排除しておき、せめて明日歩くであろう道を整備して歩きやすくしておこうという意思だ。願望でもないな。回避だ。余計なことをしないで済むようにという回避だ。いやどうだろう。もっと何か理由がある。することがないのだ。何をしていいか分からない。したいことなどない。楽しいと言えることは思いつかない。でも楽なことはしていたい。それがゆえに勉強という辛いものから目をそむけ、それよりは楽なことに逃げているのだ。楽しいことがあるならそのために頑張れるかもしれない。しかし俺は楽しいは知らず楽しか知らない。楽しいと楽では積極性が死ぬほど違う。楽しさとは何だったかももう分からない。めんどくさいこととの比較で楽なことを導きだす筋しか分からない。どうしようもないクズだ。楽しさを求める努力はわずかにしている。しているはずだ、だが見つからない。まだ探し足りないのだろうか。いや気づけていないだけか。どうなのか。存在していないのか。理解できていないのか。んなこと分からん。昔楽しかったゲームをやってみるが今はすぐ飽きる。すでに飽きている状態でちょっと気が向いたのでやったからだろうか。そもそも飽きていたという。そんなことは承知済みだ。大体のことに飽きている。つまらんのだ。楽しむ努力が足りないのか。そもそも楽しいってなんだ。わからん。迷走している気がする。いや迷走しているな。こうしてどんどん時間を消費していく。これは楽しいかもしれない。どうだろう。だが意味はない。目の前には見ることすら嫌気がする英文が書かれた教科書があるがどうするわけでもない。ただキーをたたくだけだ。もう嫌だぜ。治療法を知っている人がいるなら教えてほしい。もうわけが分からない。単純に考えてみようと思ったが長続きしない。自分で心に決め込もうとしたことは一日たてば一気に冷える。そんでどっかに消え失せる。どこに行くやら。思考の端に姿が見えるがもう触る気がしないのだ。自分の手あかがついてる考えなど使う気になれない。そもそも内にこもりすぎなんだろうか。もっと交流をすればいいのか?んなこたずっと前にも思ったさ。しばらく触れてはいなかったが。しかし会話だとかなんてのはそもそも体力をすこぶる消費する行為だ。好き好んでする奴が信じられない。もしかしてそっち側にはそれだけする価値のある楽しさがあるのだろうか。どうなのだろう。概観を教えてほしい。体感させていただきたい。できないだろうが。長いことしゃべくるだけで何が楽しい?自分が理解されていく感じ?寂しさが少なからず緩和されてく感じ?楽しい感じ?わかんねーって。そんなに思考の探り合いが楽しいか。俺はつかれたよそんなもん。いっそのこと会話するときなんて頭がパーになってくれりゃいいんだ。めんどくさい考慮なんぞしないでいられればいいんだ。人を傷つけたところでいに関さない心でいいんだ。そもそも傷つけてるかな、とかわざわざ思考する必要がないんだ。んなこた誰にも分からない。それでも考えてしまうのはなぜか?そうするのが快感なのか?だとしたら俺は相当のマゾだ。自分を傷つけて喜ぶ自傷馬鹿とおんなじじゃないか。失言か。どうでもいい。そんな理解できないもんを考える必要などないだろう。といいつつもやっぱりなあ。こうしためんどくさい行為を経てでも会話せざるを得ないんだろう俺は。みんながそうして苦しんでるってんなら喜んで同調しつつ繰り返すだろうが、そうしてるかなんてのもわかりゃしない。どんなにあがいても俺一人でやってんだろって気持ちは抜けない。他人の存在を信じきれない。いないんじゃね。ばかばかしい。なら好き勝手に生きればいいんだ。そうできない時点で何かを信じている。でも惰性かもしれないぞ。仕方なく生きちゃってるのかもしれないぞ。だとしてもそんな流れを断ち切るこたできない。どうでもいいんだもの。こうしているうちにもどっかでセックスしてるやつがいるのだろうか。しねよ。失言か。謝らないよ。聞いてないし。あーテストとかどうでもよくなってこない。思い出すと焦燥感は現われる。解消したいのかどうにかして取り組みたいのか自分でも分からない。ただそうだなやりたくないな。手をつけたくないな。たるいな。めんどいな。どうにもならんな。勉強することで俺の心が疲弊して擦り切れていく気がする。やりたくないことをすると自分が擦り切れて死にたくなりそうな気がする。言い訳なんだろうか。でもそうなんだ。やりたくないことはしなくていいとか誰かいってたな。でも自分が強情だとそういう言葉でも脳みそはほぐれないんだよ。なんだかなあ。わからん。五感と意識を自分でオンオフできたらよかろうに。そしたらどうやってオンするんだっての。しんでるじゃん。せいぜい寝ることしかできないか。あーだったらずっと眠っていたいよ。つくづくそういうときはこの世界は自分の妄想説を支持したくなるよ。他人がいないなら俺が何かする必要ないじゃん。俺の妄想なんだから。あーひとりでいるときはそういう説が頭を占めるけれど他人をいるとどうしてもそんな考えに基づいて生きてなどいられない。そりゃそうだ。他人といるときそれなら狂人だ。どうあっても他者を意識してしまうんだろう。ほんと困るぜ。常に正攻法で生きていきたいらしい俺は。いやなのに。自分が嫌だ。何ともうまくいかんもんだ。ここまででどれくらい書いたか見てみたがいい感じに気持ち悪い。いいゴミを書けた。やはり文量を出せると気持ちがいい。優越感がわき出てくる。こんな長文書けるやつはいないだろうなっていう優越感。すてき。ばかばかしいけどそう感じてしまうんだから仕方がない。取り繕っても満足はないし、んなこと書いたところで満足するでもない。でもできれば正直に書きたくもあったりでめんどくさい。葛藤こそ人間の本質というがあんまりややこしいのはどうかと思うぜ。3手ぐらいでクリアできる葛藤であってもらいたいものだ。なんでもかんでも。しかしどこでこれやめたもんか。参った。もっと書いて画面を埋め尽くしたいけど何か目的が変わっちゃう。そもそもそうしたかったのだろうか。何でもいいからアウトプットしたかったのだろうか。しかし時間は過ぎるのでますます月曜日のテストが不安になる。でも不安をそのままにするスキルを持っちゃってるのだ。当たって砕けてなお反省しないでいやいや生きるというスタイルが定着している。そんなのやめたいという葛藤もやらないとまずいという不安も手を着けずにいられる怠惰を知ってしまった。どうすればいいのだ。といいつつ何もしない姿勢をだ。これは仕方がない。このままでいこう。とあきらめられればいいのだがこの性格の特性上見かけ上の抗いはふつふつ出てきてしまう。実にややこしい。意志の力でも高めて頑張ってみる?(笑)知らんがな。もういいよ。諦めようぜ。でも惰性の慣性力は消えないんだよなあ。めっちゃだるいぜ。ああ、人間もメモリ拡張外付けHDD接続できればいいのに。うわーどうにもなんねー飯食って寝るなこのままだと・・・
一昔前(大体2年位前か)、世界のフラット化という言説はブログ界隈で物凄い流行を見せた。
知と富のフラット化により、世界は大きく変わる。今後の世界は、今までのやり方では渡って行けなくなる。
多くのブロガーがこの言説に乗っかった。
フラット化により縦割りの硬直化した組織は破滅し、自由で伸び伸びとした知的生産活動ができるとされ、
また、知識はネットにより瞬間的に共有化されるため世界の知産労働者は互いに協力し合い、
素晴らしい成果を上げる事ができるようになるといわれた。
多くの知識がネットにあふれ、それに溺れまいとブロガーたちは日々ライフハックの知識を出し合った。
だが、フラット化という魔物(そう、これは魔物だ)がもたらしたのは知の平滑化だけではなかった。
彼ら知的労働者が大手をふって大歓迎していた距離が0の世界にどんどん近づいていく中で、
知産では無い、単純労働力の平坦化すら始まっていたのだ。
日本においては、安い労働力を求めてのアジア圏への工場移転がそれである。
時間が進み、単純労働者が派遣に塗り替えられ、基礎的な経済力さえ失いつつある中、
盛んにフラット化を喧伝していた連中の言うことが単なる詭弁であることも明らかになっていく。
世界は一面的にはフラットになってはいたが、しかし完全にフラットになることは決して無いのだ。
人間というものは、結局は肉からなる動物であり、肉体によって感じるリアルを捨て去ることなど出来はしない。
首都圏や地方の大都市圏に留まっていることを説明しなければならない。
本当にフラットになっているのであれば、世界のどこに居ても高い知的生産性を発揮することが出来るはずであるのに、彼らはそれをしない。
何故か。それは、彼らは自分の肉体が存在する場所によって、自分の生産性が変化することを知性なり、直感なりで理解しているからだ。
肉体を介して言葉を交し合うことが知的生産にきわめて有効であることを彼らは承知している。
金を出してくれるスポンサー(雇用元の企業)の元で知的生産を行い、日々勉強会に励むのだ。
大都市圏で暮らすということは、平均以上の高い経済性を維持する必要があることを意味する。
日々暮らすための金を得るための労働に追われてしまえば、知的生産に励むことは難しい。
経済的に言えば、フラット化を叫ぶ人間のほとんどが、派遣村に居るようなその日を暮らすのにも苦労する立場にはない、
もし彼らがこのことを知りつつフラットであることを肯定し続けているのであれば、
それは単なる詭弁であり、邪悪な偽証であるとしか言いようが無い。
フラット化によって知識が共有されるようになった、そのことは肯定するべきだという向きもあるだろうが、本当にそうだろうか?
確かに、二年前に比べ現在のネット上の情報は精度も高く、素晴らしいものがあるといえる。
だが、質の高い情報が人類の共有財産になったといえど、それを活用できなければそれは人類にとって宝の持ち腐れである。
さらに悪いことに、この共有財産は労働力のフラット化の煽りを食らっている単純労働者たちにとっては富を生むことの無い無駄な情報である。
無駄な情報などではない、ネットで学んで単純労働から脱せと思われるかもしれないが、
知産階級が増えることは、同時に知産階級の椅子取りゲームの参加者の増大を意味し、いずれあなたの立場を危うくすることになる。
本当にそのように考えていてよろしいのだろうか?
答えは出ている。よろしくないから、ネット上にある知識は単なる知識に留まり、本当に価値ある情報は「オフレコ」として
これまた肉体、リアルな関係性を介してのみ伝えうる情報(=経済的武装)として担保されているのだ。
フラットな世界がもたらした共有知で真に富を生んでいる、生みうるものは、ごくごくわずかだ。
知る限りでは、経済的評価を下せるものはLinuxカーネルやいくつかのオープンソースプロダクトと、
一旦破壊されつくした後に再構築されつつある音楽配信、そのくらいのものだろう。
Googleなどのウェブ企業がもたらしているサービスは、その会社の所有物であり、
フラット下における生産物であると言うことはとてもでは無いが不可能だ。
そのほかのものは、趣味的な充足が可能、といった程度であり、富を生み出すには到底至っていない。
フラット化が生み出す富がたいしたもので無いのに比べ、
無料の情報が強力になりすぎることで、情報の経済価値が物凄いスピードで落ち込んだ。
出版不況は構造的問題も叫ばれるが、情報の無料化を無視することはできない。
デジタルメディアに金を出すことがバカらしいという認識も世間一般に広まり、
情報産業を守護し発展させていくべき立場の者ですら、情報に金を払うことを止め、ファイル共有ソフトの活用に勤しんでいる。
企業は距離が無くなった世界のなかで、より税金と労働力が安い国を求めてさまよっている。
結果、先進国と途上国の経済格差は解消されつつあるが、それは途上国が発展していると同時に、
これまでの富国が経済力を失っているということでもある。
世代の中で、金を得ることが出来ない人間の割合が増えていっているのだ。
距離が、経済が、知識がフラット化することで、それを利用できるくらいに富んでいるものは更に富み、
利用できずに貧しているものは、窮するのだ。
所詮人間は個体間差を感じなければ生きていけない。動物だからだ。
動物だって個体差があるから、例えば同じライオンでも、子供を残せるものと残せないものがある。
肉体という頚木を人間の知性が上回ることは、どんなに科学が発展したところであり得ない。
科学は人間の動物性をなだめることくらいにしか、役に立たない。
世界は慣性に乗り、このままのスピードで平坦になっていくだろう。
だが、完全に平滑化された次の瞬間に平坦を望まない誰かが均衡を崩す。
ユートピアの夢は終わり、破局が訪れる。
以上、いまさら的なたわごとでした。
車に乗ってる人がみんな熟練の車好きのドライバーじゃないわけで。
あと、車種や積み荷によって車の機動性が全然違うことも分かっていない人が多い。
軽自動車はなかなか吹かないというけれども、それでもそれなりに加速するし、
回転半径も小さいし、自重・荷重も軽いから急ブレーキを踏んでも止まれる。
だけど、4/5ナンバー1BOXワゴンであればスタートアップの加速が悪いし、
回転半径も悪い。むしろ、乗用車3ナンバーの方が排気量も大きくて自由度がいいくらい。
積み荷を積んだトラックや、1ナンバー・8ナンバー車になったら、もっと事情が違う。
回転半径も大きいからカーブを曲がる・走るにも余裕が必要だし、
急ブレーキを踏めば、慣性で積み荷が前後に吹き飛んでしまって危険極まりない。
そういう事情も考えて、一般の乗用車も走って、止まってくれないと困る。
加速おせーなーとか、その瞬間に右折できるだろーとか、もっと停止線越えて前で止まれよとか、
一般車が思う気持ちは分かるんだが、