2009-01-15

フラット化した世界は次の瞬間にバランスを崩し大倒壊を起こす

一昔前(大体2年位前か)、世界フラット化という言説はブログ界隈で物凄い流行を見せた。

知と富のフラット化により、世界は大きく変わる。今後の世界は、今までのやり方では渡って行けなくなる。

多くのブロガーがこの言説に乗っかった。

フラット化により縦割りの硬直化した組織は破滅し、自由で伸び伸びとした知的生産活動ができるとされ、

また、知識はネットにより瞬間的に共有化されるため世界の知産労働者は互いに協力し合い、

素晴らしい成果を上げる事ができるようになるといわれた。

 

現実として、フラット化は進んだ。

多くの知識がネットにあふれ、それに溺れまいとブロガーたちは日々ライフハックの知識を出し合った。

だが、フラット化という魔物(そう、これは魔物だ)がもたらしたのは知の平滑化だけではなかった。

彼ら知的労働者が大手をふって大歓迎していた距離が0の世界にどんどん近づいていく中で、

知産では無い、単純労働力の平坦化すら始まっていたのだ。

日本においては、安い労働力を求めてのアジア圏への工場移転がそれである。

 

時間が進み、単純労働者が派遣に塗り替えられ、基礎的な経済力さえ失いつつある中、

盛んにフラット化を喧伝していた連中の言うことが単なる詭弁であることも明らかになっていく。

世界は一面的にはフラットになってはいたが、しかし完全にフラットになることは決して無いのだ。

人間というものは、結局は肉からなる動物であり、肉体によって感じるリアルを捨て去ることなど出来はしない。

このことを否定するのであれば、日本知的労働者のほとんどが

首都圏や地方の大都市圏に留まっていることを説明しなければならない。

本当にフラットになっているのであれば、世界のどこに居ても高い知的生産性を発揮することが出来るはずであるのに、彼らはそれをしない。

何故か。それは、彼らは自分の肉体が存在する場所によって、自分生産性が変化することを知性なり、直感なりで理解しているからだ。

肉体を介して言葉を交し合うことが知的生産にきわめて有効であることを彼らは承知している。

だから、知的労働者たちは同じ仲間が集う人口過密圏に居続け、

金を出してくれるスポンサー(雇用元の企業)の元で知的生産を行い、日々勉強会に励むのだ。

大都市圏で暮らすということは、平均以上の高い経済性を維持する必要があることを意味する。

日々暮らすための金を得るための労働に追われてしまえば、知的生産に励むことは難しい。

経済的に言えば、フラット化を叫ぶ人間のほとんどが、派遣村に居るようなその日を暮らすのにも苦労する立場にはない、

上流階層(一昔前でいうなら、ブルジョア)なのだ。

もし彼らがこのことを知りつつフラットであることを肯定し続けているのであれば、

それは単なる詭弁であり、邪悪な偽証であるとしか言いようが無い。

 

フラット化によって知識が共有されるようになった、そのことは肯定するべきだという向きもあるだろうが、本当にそうだろうか?

確かに、二年前に比べ現在ネット上の情報は精度も高く、素晴らしいものがあるといえる。

だが、質の高い情報人類の共有財産になったといえど、それを活用できなければそれは人類にとって宝の持ち腐れである。

さらに悪いことに、この共有財産労働力フラット化の煽りを食らっている単純労働者たちにとっては富を生むことの無い無駄情報である。

 

無駄情報などではない、ネットで学んで単純労働から脱せと思われるかもしれないが、

知産階級が増えることは、同時に知産階級椅子取りゲーム参加者の増大を意味し、いずれあなたの立場を危うくすることになる。

本当にそのように考えていてよろしいのだろうか?

答えは出ている。よろしくないから、ネット上にある知識は単なる知識に留まり、本当に価値ある情報は「オフレコ」として

これまた肉体、リアル関係性を介してのみ伝えうる情報(=経済的武装)として担保されているのだ。

 

フラット世界がもたらした共有知で真に富を生んでいる、生みうるものは、ごくごくわずかだ。

知る限りでは、経済的評価を下せるものはLinuxカーネルやいくつかのオープンソースプロダクトと、

一旦破壊されつくした後に再構築されつつある音楽配信、そのくらいのものだろう。

Googleなどのウェブ企業がもたらしているサービスは、その会社の所有物であり、

フラット下における生産物であると言うことはとてもでは無いが不可能だ。

そのほかのものは、趣味的な充足が可能、といった程度であり、富を生み出すには到底至っていない。

 

フラット化が生み出す富がたいしたもので無いのに比べ、

フラット化が破壊する富はたいしたものである。

無料情報が強力になりすぎることで、情報経済価値が物凄いスピードで落ち込んだ。

出版不況構造的問題も叫ばれるが、情報無料化を無視することはできない。

デジタルメディアに金を出すことがバカらしいという認識も世間一般に広まり、

情報産業守護し発展させていくべき立場の者ですら、情報に金を払うことを止め、ファイル共有ソフト活用に勤しんでいる。

 

企業は距離が無くなった世界のなかで、より税金労働力が安い国を求めてさまよっている。

結果、先進国途上国経済格差は解消されつつあるが、それは途上国が発展していると同時に、

これまでの富国が経済力を失っているということでもある。

若者だけが経済力を無くしたわけではない。

世代の中で、金を得ることが出来ない人間の割合が増えていっているのだ。

距離が、経済が、知識がフラット化することで、それを利用できるくらいに富んでいるものは更に富み、

利用できずに貧しているものは、窮するのだ。

 

所詮人間は個体間差を感じなければ生きていけない。動物だからだ。

動物だって個体差があるから、例えば同じライオンでも、子供を残せるものと残せないものがある。

肉体という頚木を人間の知性が上回ることは、どんなに科学が発展したところであり得ない。

科学人間動物性をなだめることくらいにしか、役に立たない。

世界慣性に乗り、このままのスピードで平坦になっていくだろう。

だが、完全に平滑化された次の瞬間に平坦を望まない誰かが均衡を崩す。

ユートピアの夢は終わり、破局が訪れる。

 

 

 

以上、いまさら的なたわごとでした。

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