お前じゃないのかよパンティー
自称、心が弱い人。実際はかなり図太いな、と思うことが多い。
本人は自分は繊細だと思っていて、一生懸命生きているつもりかもしれないけど。
自分は繊細だから、って周りにアピールして気を遣わせて、自分に優しくない人が出てくると拒絶して周りに押し付けて。
自分の弱さを自覚しながら、相手のことを気遣って頑張って強くなろうと生きてる人からしたら、きっと自称繊細さんはかなり鈍感だし図太いんですわ。
自分のキャパを把握して、自分らしく自分のペースで肩の力を抜いて生きるのは大賛成だけど、自称繊細さんに限っては周りの犠牲があってこそだし、そういう人はだいたい給料泥棒。
ちなみに、繊細アピールしたら周りが優しくなったように感じるかもしれないけど、周りは腫れ物を扱う感覚でしかないから。
本当に感受性が豊かで、相手の気持ちがわかる人だったら、むしろそんな立ち位置にいる自分がいたたまれなくなるはずなんだけど。ぬくぬく居座ろうなんて思えない。
この文章とっても良いと思う。
こんなに月がきれいな晩にいうのも何だが、
何か物語があり、何かのカップリングがあると、すぐどいつもこいつも、
男「月がきれいですね」 女「死んでもいいわ」 ラブラブEND みたいな掌編マンガやドラマを書き始めるが、
あれはなんだ。
嫌いな理由①
「月がきれいですね」は漱石(が言ったことになってる)の気の利いたジョークであり、
その意味を汲めないやつが消費的に使っていること。
I Love Youをまんま和訳すると、当時の日本人には直接過ぎる。
だから「月がきれいですね」という当たり障りのない事を「そうですね」とやり取りすることで、
2人の気持ちは通じ合っていることを確認するから愛の告白なのだ。
「そうですね」とか「私もそう思います」だ。それで2人は見つめ合うーーーなら良い。いいじゃないか。
なのにさあ…なんなん…
嫌いな理由②
「月がきれいですね」と「死んでもいいわ」はまったくニュアンスが違うし、情の質も異なる。
なのにそれを無視して、無視して、ただ近代の文豪が言ったという権威に乗っかってキメラにして、
それでいてなお、ちょっと自分の作品を文学・詩的にしようとしてる姑息さが嫌いだ!
「死んでもいいわ」は二葉亭四迷がツルゲーネフの「片恋」を訳す際に用いた言葉だが、
(はい、もうこの時点で何人かは、「エッこれ漱石の言葉じゃないの!?」とか言ってるからな、ここで!)
ヒロインのアーシャが主人公に抱きしめられて返した言葉だ。唇が主人公の胸元に触れるか触れまいかの
アーシャは主人公に、片思いしてるわけ。そんな主人公に熱い抱擁をされて、
彼女はきっと、熱に浮かされたように頭に血が上り、緊張し、そして幸福の絶頂を味わったんだよ。
だ・か・ら・こ・そ、「死んでもいいわ…」なんて言うわけ。もう今の幸福を例えるなら、
死んでも惜しくないほど幸福だと。
分かる? 「死んでもいいわ」はなんなら、I Love Youやあなたを愛しています なんて生易しい沸点の言葉じゃないの。
これで「月がきれいですね」と「死んでもいいわ」の言葉の取り合わせがいいわけないよね?でしょ?
ほら。
ね、みんな嫌いになったでしょ?
私は受かればどこでもいいや精神で進学したクズだ。自己推薦でまぁワンチャン受かればいっか〜でなんと運がいいことに推薦枠が去年よりも拡大したお陰で受かったクソだ。大学進学を決めた理由はなんとなく、の馬鹿だ。
そんなんだから特別に大学に期待はしてなくって、なんなら県外の進学で友人は誰一人いなくて入学当初は若干憂鬱だった。入学して1週間は友達が出来なくて私の人生灰色決定だなぁ……と諦めかけていた。しかし、案外大学がおもしろくて驚いている。
このおもしろさは、自分から進んで何かすればするほど決まる。入学当初のオリエンテーションで隣になった人に話しかけるとか、サークルの部員獲得のためになんだってしてくれる(なんでもとは言ってない)先輩を利用してタダ飯食べて、どの講義がおもしろいか聞いたり。これらをした時私はめっちゃ大学っぽい……!と感動した。
もちろん、イメージと違うこともある。講義は自分で自由に選べるかと思ってたら結構大学側で決められていたり。時間がたくさんあるのかと思っていたのに半日は大学で過ごしているとか。単位を落とすかもしれない恐怖が想像以上だった。
でも、講義で自分の知識を磨けること、新たな考え方を身につけられること、実は日本でこの講師しか〇〇の研究をしていない〜みたいな人がいた時少しテンション上がるし、講師が外国の大学に通っていたことがあったら謎の信頼感があったり、おもしろい事はごろごろと転がっている。
なんでこんなに楽しめてるのか突き詰めてみると、おそらく、自己決定の場面が多かったからだ。親はどこでもいいよと言ってくれたし、教師の「進学するならこの県内の大学の方がいいんじゃない?」という意見を押し退けた。いや、まぁ、自分の価値観が古くて「大学進学せねば」と思って無理矢理目星をつけたし、一人暮らしがしたかったから県外にした。でも、そんな自己決定から始まって、一人暮らしをすればもっと自己決定の場面が増えて、大学生活でも自己決定して……
私にとって今の大学生活は、自己決定をする練習の場だ。つまり、自由とは何かを確認する時だ。
まぁこれは建前だけど。
仕事がなくなって、もう3年を過ぎた。
20代ならまだしも、気がついたらアラフォーである。しかもニートでバイトができるわけでもない。
独身で仕事も出来ないニートなんて、人間的には割と積んでいる。
特別ブスでもないがイケメンでもない、体もたるんできたぽっちゃり。
強いて言えば、マウンティングする分には問題ないくらいの学歴。
友達は2~3人いるが、みんな20代で「ご飯食べさせてくれるおじさん」と遊びたいだけ。
親友にもならない、ただの気休めだ。
そんな相手がいるのもあと1~2年だろう。貯金はどんどん減っていく。
未来がまったく見えない状態で生きている。みんなどうやって正気を保っているんだろうと不思議に思いつつ、今日も増田を開く。
花火のやり取りだけで読む気が失せた、ウザすぎる…。
謝るフリをしてひたすら善意を強要するそのクソみたいな甘え方をどうにかしろよ。
んで増田こういうの一度でも許されたら永遠にそうやって許して乞食しそうでゾっとする。楽しい話できる気が微塵もしない。善意を返さなきゃ加害者扱いされそうだし、腐女子の心の広さにビックリする。
謝って許してもらう前提で生きるのやめた方がいい。
だから知的障害のない自閉症をわざわざ「高機能自閉症」と言ったりする。
アスペルガー症候群は自閉症と並ぶ広汎性発達障害の下位分類のひとつで、知的障害を伴わないものを言う。
高機能自閉症やアスペルガー症候群は知能が高いものを指すのではなく、単に知的障害がないものを指す。
高機能自閉症とアスペルガー症候群の臨床経過はほぼ同じ(高機能自閉症はアスペルガー症候群と違い、幼児期に言語発達に遅れがあるが、成長するにつれてその遅れはなくなる)。
経過が変わらんものを細かく分けるのって臨床的意味に乏しいよねってことで、DSM-5からは広汎性発達障害の病名も自閉症やアスペルガー症候群などの下位分類もなくなり、「自閉スペクトラム症」に統一された。
へー。そうなんだ。それで話は変わるんだけど昨日美味しいピザ屋さんに行ってきたんですよ!