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はてなキーワード: 看護婦とは

2012-01-04

http://anond.hatelabo.jp/20120104170250

元増田に対してじゃなくて、そのトラバのブス看護婦派遣カップルについての意見かと思ったんだよ。

そんな草生やさなくても

http://anond.hatelabo.jp/20120104153424

携帯ソーシャルゲームじゃない?

僕の高校時代女友達も、そこそこハイレベルな公立大で堅実に勉強していたんだが

残念ながら男好きの性格かつ不美人だったためか、多数の男に色仕掛けで迫って一晩寝ては別れ一晩寝ては別れを繰り返す恋愛をしていて、

最終的には学部内の男に相手にされなくなったそうで、

モバゲーだったかグリーだったかで「勉強ばかりでさみしいの…」と釣った男と卒業結婚した。

○○(超大手食品メーカ)に勤めてる彼氏だよ!と鼻高々で惚気るのをよく聞いてみたら、通信高校卒の派遣工だった。

今は彼は食品メーカ派遣を切られてこんどは機械メーカ派遣されているそうな。

彼女看護婦として国立病院で働いている。

人達がそれでいいならいいんだろうが、女性の方が学歴収入も上の場合って、ちょっとなーと僕は思ってしまう。

でも(不美人はいえ)ヒモ募集の看護婦の卵がモバゲーグリー出会い求めて来てるなんて、ゴミ箱の中から真珠が出たようなもんだよね。

2011-12-24

http://anond.hatelabo.jp/20111224124922

北欧女性労働者子供に対する補助が手厚いし、男社会でもなんでもないよ

北欧日本以上に男女平等が進んでいて、女性の側にも自立することが強く求められている)

でも、その補助のせいでアップアップの状態になっている

社会である看護婦業界でも働く看護婦に配慮するとなれば託児所を設けないといけないから余計な負担病院側にかかる

コストがかかる云々は男社会だろうと女社会だろうと関係ないよ

2011-10-31

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日



私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。



私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。



私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。



初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。



私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。



コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。



コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。



スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。



これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。



スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。



とても単純ですが、本当のことです



彼は散漫の対極のような人でした。



彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。



彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです



彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。



スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。



イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います



彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。



彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの



スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。



彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。



パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。



愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。



女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。



彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」



リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。



リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。



ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています



スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。



彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。



若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。



家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。



リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。



彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。



彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。



そして実際、買いました。



スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。



彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。



スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?



はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。



四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。



彼は幸福大事しました。



そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。



最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。



ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。



兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。



ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。



あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。



彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。



その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。



病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです



スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。



「これが特別治療だよ」と私は伝えました。



彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。



挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。



一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。



彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。



私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。



私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。



ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。



二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです



火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。



彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから



「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」



着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。



昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。



そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。



呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。



これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです



彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。



フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。



彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。



やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。



山を登っているようでした。



その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。



その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。



船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。



スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

2011-07-20

泌尿器科でアソコ見てもらって来た


夜中、急に激痛に見まわれた。夜の3時半。
 例えるなら、おしっこ我慢してるとき膀胱とかアソコとか
 ずぎゅぅぅぅぅんって痛くなる、あれ。それがずーっと続く。


とにかく痛い、棒の内側のどっかだけど痛い。
 呼応するように、肛門や膀胱も痛い気がしてくる。


う・う・う・う・うぅぅぅ。。。。
 排尿しても痛みが続く。


とにかく医療情報センターにで電話してみる。
 救急病院でも泌尿器科はそうそう無い。県の情報センター
 紹介をお願いする。


「××ですね・・・。」
 (遠い!!!


さすがに、車で飛ばしても30分以上かかるところに、
 この痛みではイケナイ。


GoogleMap!
 「地名 泌尿器科」で検索
 夜中で申し訳ないと思いつつも、一軒一軒電話する。


さすがに繋がらないところがほとんど。で1件だけ繋がる。
 「バファリンある?」
 どうやらバファリンは鎮静剤として効くらしい。
 幸いあった。飲んだ。何とか眠り様子を見た。
 先生ありがとう


・・・翌日。
 外来時間を見て、近くの病院泌尿器科へ。


「どらどら・・。ちょっと見せて」
 おおおおおお、いきなり来ました。看護婦さん横にいるよぉぉぉぉぉ。
 (シャーーーーーーーー)
 カーテンしまる音ねw。
 さすがに閉めてくれた、ほっ。


おしっこは赤く無いんだよね?」
 「はい普通です。今朝は何とも無かったです。」
 実は、今朝はもう痛みは消えて普通だった。でもちょっと違和感はある。


「んー、とくにただれては無いんだよねえ。」
 「先生、ほぼ毎日寸止めオナニーしてるんですけど、関係無いですか?」
 「全然関係ない。キリッ」
 「そ、そうなんですか!?いや精管が腐るとか・・・」
 「でも前立腺とかそのあたりも痛くないんだよねえ」
 「まあ・・・」


「とにかく尿とってきて!」
 「は、はい・・・」
 「じゃぁこれにおしっこ入れてきて~♪」
 「最初の方も入れてよ!」
 (ほいきた!)


「んーやっぱり何にも混ざってない」
 「え~~~~~~~~~~」
 (何故だか、がっくり)
 「慢性前立腺炎というのはありうるかもしれないけれど
 ま、痛み止め出すから様子見て!」
 「でも先生、とりあえず仕事もあるんで痛み止めは欲しいんですけど」
 「そうかぁー、んーまあいろいろ面倒だからロキソニン3日分な!朝晩でいいか。」
 (ほっ)
 「あと酒は飲むなよ!」


というわけで、あの痛みは何だったのだろう。
 仕事帰ってきた今も痛みはない。
 2chとかで、テクノブレイク寸止め危険とか書かれてたけど、
 とりあえず大丈夫らしい。


でも、朝起きて気がつくと、手がいってるので、
 止めようにも止められないんだよ、これが。
 もう10年くらいそんな感じだけどいいのかな?


薬代と合わせてしめて3500円。みんなも気をつけようね!

2011-07-06

ものすごい偶然に出会った。

俺が交通事故に巻き込まれて、救急車警察を呼んでくれた命の恩人と、俺がその怪我で入院してとても世話になった病院看護婦さんが結婚していた。

しかも、それを、カミさん出産するってんで入院していた病院に、そのお世話になった看護婦さんも出産の為に入院していて、待合室で、たまたま命の恩人にあってびっくり、うちは昨日生まれたんすよ、と赤ちゃんを抱いた看護婦さんを見て、またまたびっくり。

事故にあった場所も、命の恩人も世話になった看護婦さんも市町村、県単位で全く別の人達、別の場所なのに・・・

2011-04-12

http://anond.hatelabo.jp/20110412160142

本物の病人萌えてもらったら実際困るんで、

いいんじゃないか?

あんまり、妄想現実は一緒にしない方が…


そういえば、看護婦にも男ってちょっと妄想入ってるけど

実際付き合ったらプチジャンキー率高くて笑えなかった。

それだけ過酷なんだよ!とキレられたけど

看護士ならみんな病棟眠剤分配してるよとか

看護士からどの薬がヤバイのか分かってるから平気って言われても

山ほど薬持ってどれにする?ってやられるのは怖かった。

2011-01-05

女の子の欲しいもの

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110102/1293978579

このエントリを読んで妹のことを思い出した

自分のところに書くと妹が見ているのでこちらに書く)



妹も大学4年の卒業間際に妊娠が発覚した。そのまま卒業と同時に結婚。いわゆるでき婚である

それ以来、世間で言うところの社会人として働いたことが一度もないまま今に到る。

からといって妹が遊び回った女子大生だったわけではない。

理系の、留年率が10%だったか30%だったか試験の点数が悪ければ即追試、それでもだめなら容赦なく留年という環境にいれば

否が応でも勉強せざるを得ない。

バイトサークルもしていたし、彼氏も友だちもいて遊び相手には困らなかったはずだが

平均的な女子大生よりは勉強していたはず。

結婚後は絵に描いたような良妻賢母タバコも酒もきっぱりやめて、専業主婦として夫の収入でやりくりするようになった。

正直いって、大学生のころは茶髪金髪 服装は田舎ヤンキーだったので、妹の変わりように私は驚いたのだった。




私と妹は2つ違いの姉妹、ほかに兄妹なし。

はいわゆる典型的な「まじめで優等生お姉ちゃん

はいわゆる典型的な「愛嬌のある人気者の妹ちゃん」

両親は妹の進路に関しては高校の頃から看護婦がいい」と言い続け、高校も理系生物系)を進めた。

しかし、妹が進学したのは農学部だった。




それから、親は妹に対して「学校の(理科の)先生になれ」といいだした

私は内心、(あいつ、学校先生って柄かー?)と思っていたが、黙っていた。

ちなみに、親は私にも「学校先生になれ」「公務員になれ」と言ったが「私学校先生に向いてないから」「公務員仕事向いてないから」としりぞけていた。

妹は特に何もいわず、教職をとっていた。

4年になって、教育実習にいった、という話を聞き、「えっ、教員になるの?」と驚いたのだが教員免許だけとるという。

教育実習に行く寸前まで金髪典型的ヤンキー姿だったので、教員というのが全く想像できなかった。

就職活動は?というと「していない」という。

えっ、さすがにどうするの?と問いただしたところ

大学院試験を受ける」という。親が学費を出すというのだ。

どうも、研究室もかなり優秀な先生のところに配属されたらしい。そこで、親が研究室に残ることをすすめたというわけだ。




からみて、妹は研究者としてやっていけるほど学問好きでも、教員として生徒たちといっしょに学校生活を過ごせるようなタイプはなかった。

親がそういうからその進路にした、という。

研究室の様子を聞くと、明らかにハイレベルな内容について行けてない様子。学部生だから当然といえば当然だが

英語が飛び交い、各国から留学生研究生としてはいってくるようなところである

そんなところで大学院試験を受けても(受ければ通るだろうけど)、研究の道はまず妹の能力では無理だろうと思ったが黙っていた。

親が学費を出して進めているのを、妹は断らなかったらしい。私なら断るのに。

結局夏の大学院入試合格卒業後の進路も決定していたが、卒業式直前に妊娠6ヶ月が判明した

もうどうしようもなくなってそのまま卒業と同時に結婚した大学院の入学は辞退した

あのときはなんでこんなことを・・・と驚き、出産後妹が見違えるような良妻賢母になったことに唖然としていた。

でも、このエントリを読んで、今まで気がつかなかった妹の葛藤を少し感じることができた。





私は親が進める将来のレールをことごとく蹴り飛ばしてきた。まじめで優等生お姉ちゃんだったのに、なぜか親の進める進路を全部断り、自分で進路を決めた。

妹はよくよく考えたら、金髪で外見はヤンキーでどうみても遊んでいるタイプに見えていたけど、親の言うことを聞いて教職もとり、大学院試験も受けた。

それは、親が進める道を断り切れなかったんだろうな。そういうところ「親のいい子」になっていたんだなと、今頃気がついた。

「いやだ」って、「私にはその進路は合わない」って言えなかったんだろうな。

自分で気がついていたか、自覚していたかどうかは別として。

私も断ったしなおさら断り切れなかったのかも。

そう思えば妹に悪いことをした。好きなように断ってよかったのに。

そういうところ、優しい性格の子は断れないんだろうと思う。

から、レールの最後最後最後のところで、行き詰まってしまい「妊娠」というブレーキを踏んだのかもしれない。

妊娠6ヶ月で妊娠に気がついたと本人は当時話していたが、ずっと疑わしいと思っていた。

生理半年もないことに気がつかないわけがない。

おそらく卒研中に妊娠の可能性を知りつつ、お腹の子も本人も綱渡りのような気分だったんだろう。




そこまでして親の進める進路に逆らえないことに、驚く人もいるかもしれない。

だって「いやならいやだ」と言えばいいのにとまず思う。

でも、でも「言えない」ことがあるんだろうな。




世の中には親の(世間の)指向する進路(=レール)を「自分にはこのレールはあっていない」と知りつつも乗ってしまい、後悔する人生を送っている人がいるかもしれない。

そういう人は(自分でもわかっているか、知らず知らずか)無理して生きているわけだから、身体や心に何らかの拒否反応が出ているかもしれない。

しかしたら、妹みたいに、運良く(?)妊娠して、あわないレールから逃れられるかもしれない。

もちろんこのエントリのように、結婚したってそれで終わりじゃなく離婚の可能性だってものすごくある。

子供を産んだからはいそれでOKというわけではない。

だって老いて介護という問題がある。

離婚しなければ嫁の立場でがんばらないといけないこともある。

けれど、学生社会に出る前には「人並みに就職活動大学院入試も含めて)をして進路を決める」必要があって

それが自分にとって明らかにあっていないのに、進路のレールは1本しかない場合、(1本しか見えてないような気がする場合

妊娠」というのは進路先変更するとっておきの「進路変更のブレーキ」なのだ、ということは

これからも覚えておこうと思う。

別に進路に限らず、仕事で行き詰まったときも、もしかしたら「妊娠」で局面打開することがあるかもしれないのだから

2010-12-24

http://anond.hatelabo.jp/20101224102600

うちの姉は看護婦だけど平日昼間家にいること多いよ。

そのせいで普通職業の人と付き合えなかったり、遊び相手が居ないから私と旅行に行ったりする(旅費は姉持ち)

http://anond.hatelabo.jp/20101224091310

ご指摘の通り看護婦結婚しちゃうのはハメられた系だ。

でも実際は結構多いんだな。これで結婚する人。

それと見合いを除くとまともな結婚先で一番多いのは最近ネットだよ。

特に今はSNS経由とかの結婚が多い。

しかも、真剣な奴ほど最初自分医者っていうのを隠す。

その辺のバッドノウハウは意外と人づてに伝わってくる。


医師限定の婚活パーティには、女医参加者も実はそれなりに居て、本物を用意しないとバレる。

2010-11-29

ウィキリークスガーディアン

http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/28/us-embassy-cable-leak-diplomacy-crisis

パキスタン

経済破綻による核管理への影響を懸念、政府関係者が核物質を持ち出す可能性も

アフガニスタン:腐敗した行政への懸念、マスード副大統領UAE訪問時に52万ドルキャッシュを持ち出しているのを確認(本人は否定)

米軍司令官やアフガン大統領ヘルマンド州の政府関係者が英軍をけなしまくる。英軍が最も死者を出しているSanginでの失敗については特に手厳しい

イギリス:アンドリュー王子による治安機関や某国に対する不適当な発言

中国グーグルへのハッカー攻撃は中央政治局員が指揮。批判記事を探すためにエゴサーチ実施していたとも。

ロシア非合法活動を実施するために諜報機関マフィアを利用、公電は「事実上マフィア国家」と形容

ロシア&イタリアプーチンベルルスコーニが仲良すぎてアメリカ疑心暗鬼ベルルスコーニは謎のロシア語使いと破格のエネルギー関連契約を締結。

サウジ

テログループ財政支援を惜しまないパトロン存在

イエメン

アルカイダへの米軍秘密爆撃に関するサレハ大統領からペトレイアス将軍への一言「例の爆撃はうちがやった事で、あんたらの仕業じゃないって言い続けるから」

リビア

色っぽい金髪ウクライナ看護婦がいつもカダフィのお供

その他:

濃縮ウランの闇取引未遂、米露核軍縮交渉の内幕


大使館員語録:

プーチンアルファドッグ

カルザイ妄想

メルケルヘタレ、非創造

アフマディネジャドヒトラー

2010-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20101117180619

元記事読んでないから何書いてあったのかは分からないけどさー



医師看護師が仲悪いのは事実だよ。

つーか医師看護師の関係って、例えるなら「女子高の男性教師と生徒」みたいなもん。

男(医師)の方が本来は権力がある筈だけど、実際は圧倒的な人数差故にある程度女軍団(看護師)のご機嫌取らないと上手く仕事が回らないし、

新人のうちは彼女らに嫌われたらいじめに遭ったりする、と言う。

女軍団の中に男少数、と言う世界は怖いもんだ。

最近は若い女性医師がかなり増えていて、彼女らが中堅になる頃はまた変わるかもしれないが)



そこで元々調子よく女のご機嫌取れるモテタイプならいいけど、

中高と非モテコンプ募らせていてお医者様になって人生逆転とか考えて医学部入ったようなタイプだと女のご機嫌取るなんて耐えられなさそうだし

実際上手く出来ないんじゃないかな。

特にネットに執着する男は(医師に限らず)そういうの多そう。

で、その恨みをネットで発散する、と言うのが目に見える。



ついでにもう一つ。

医者一族の娘が看護婦になるって言ったら親がみっともなさすぎると激怒した

別に医者一族とかでなくても、年配の人にとっては看護師はかなり格下扱いだよ。

医師コメディカル薬剤師など)にはへこへこするが看護師には横柄な患者とか山ほどいる。

昔は医師エリート職(今でもだけど)だったのに対し、看護師というのは「貧しい家の娘が食う為に仕方なく就く汚い仕事」扱いだったんだよ。

今はそんな時代ではないけど、そうい感覚が今でも残っている人はそれなりに居る。

http://anond.hatelabo.jp/20101117175957

よくわからん医者一族の娘が看護婦になるって言ったら親がみっともなさすぎると激怒したって話も聞くし、医者にとって看護師ってかなり格下なんじゃなかろうか。

医者モラハラが多いっつのもよく聞くし、ここでよく見る理系非モテから一転モテに入って、もてないタイプ医者精神は歪んでるんじゃないか。

歯医者と関わり深い商売してる友人2人居るが、どっちも歯医者普通人間じゃない精神歪んでいるって言ってる。

2010-11-07

http://anond.hatelabo.jp/20101107223856

>「臭い」→皮膚科に行って医師看護婦に診断してもらったが事実無根の中傷

「臭くなくても」「あの人臭い」と言って数人が相槌打てば集団の中で「臭い」というレッテル

を貼られてどんな暴言を吐かれようが「あなたの為に言っている(ニヤ二ヤ顔)」でお咎めなし。

「脇の手術したら~」「臭くて近づきたくない」「風呂入ってる?」

風呂でちゃんと磨いてる?」←非難されずに身だしなみの指導という建前でいびる常套手段

「臭い」といじめられて首吊り自殺した小学生の例を挙げるまでも無くそういうこと。


>昔いじめられていた事をカミングアウトして

してない。同じ職場にいた同窓生から話を聞いたらしい。

2010-10-29

暴力が当たり前の世界

年下の幼なじみの話

近所に誰に対しても殴る蹴るを繰り返す兄弟がいた

テンションが上がると誰に対してもすぐに殴る蹴る

自らの幼い妹に対してさえその暴力は容赦しなかった

妹の手足はいつも痣だらけ

誰が怒っても注意してもその兄弟暴力癖は直らなかった

親も手に負えない

妹の行く末を心配してたが無事に看護婦になったようだ

ヤンキー漫画やくざ映画のような常に暴力を奮うことが当たり前の世界

で生きているんだなと遠く感じてた

あっちの世界と私達の住む平和世界はあまりにかけ離れてる

2010-10-22

あーつ

押尾学って、牢屋入っている間、生理どうやってたんだろ?弁護士ナプキンを当てていたのかな?

ヤダちゃんもかわいそう。

最近ニュースを見ないので、最近のにゅーっすがわあらない。

どうすれば、ニュースを見れるんだろう?

あと少しで、地デジですね。

あのクソなぎくんは、地デジかにその場を奪われなかったのは、何故ですか?

なんでやねん

なんでアメトーク面白くなくなってしまったん? 節子

もうね、いろいろと限界

眠いね。酔いたいね。

小便が2リットルぐらい出ています。

パソコンの下におまるを用意して、そこに小便出してます。

でもそれでも足りないから溲瓶も3本用意しています。

今、看護婦さんに取り替えて貰っています。

娘さんはいつになっても可愛いと思います。

ちなみに私は99歳です。戦争にいっておりました。

明日、飛び立ちます。

2010-10-16

K子に捧げるレクイエム。あるいは東京で働くことについて

 本人にも告げられず、mixiにも個人的すぎて書けないのでここに投下。


 今日、K子からメールが来た。無題のメールで、本文は「辞めた!」

昨日、彼女から会社を辞める決意をしたことは聞いていたが、ついに辞表を出したらしい。

前々から、彼女会社ブラックっぷりは聞いていたので、特に驚くところは何もないのだが、彼女のことを考えると実に複雑な気分になる。

 僕とK子は、去年の暮れに知り合った。友人が、K子を待ち合わせしていた飲み屋に連れてきたのだ。

僕はその当時、仕事が辛くて毎日登山用のザイルで首を吊ることしか考えられなかったぐらいひどい心理状態で、その気晴らしに友人を誘ったのだが、

むかしから女っ気のない友人が何の連絡もなく女を連れてきたことで、僕は椅子から転げ落ちそうなぐらいびっくりした。

その飲み屋は僕の当時住んでいた家から徒歩で行ける距離のダイニングバーで、話を聞いてみると、K子の家もそこからすぐだった。

 話を聞いてみると、K子は友人が前から話していた「好きな同僚」だった。友人とは大学の頃からの腐れ縁だったのだが、働きだして暫くすると

「同僚に同じ歳の女の子が入ってきた。彼女は日曜に教会とか行ったり、日本文学好きだったり、超童貞向きの子なんだ。最高」というような意味合いのことを言っていた。

僕は、友人からそんな話を聞く日が来るとは思わなかったので、驚くと同時に喜んだ。良いじゃない、君もそろそろいい年だし。ユー付き合っちゃいなよ。

あわよくば結婚しちゃいなよ。等々。

 しかし、その後暫く経ってからその同僚のことを聞くと、同僚には振られたらしい。詳しい話を聞くと、なんとなく納得いかない点がいくつか

あって、僕は怒った。なんて女だ!友人を振るなんて、男を見る目がない女!なんかその同僚お高く止まってるんじゃないの?何様?どこ視点?ねえ彼女はどこ視点から

見てるの?許せないね!等々。

 それと関係あるかないか、友人はいつしか会社を辞めたいと言うようになった。僕が鬱の階段を転がり落ちると同時期に、彼の転職話も進んでいったのだった。

 そんな時に彼が連れてきたのがK子だった。その時点では、友人の転職話は既に決定していて、退職日も決まっていた。友人は、送別会の帰りに僕と飲む予定で、

それにK子を連れてきたのだ。

 僕は、鬱と自己嫌悪の暗闇のなかで暗黒舞踏を踊っていたので、最初に周りの客が引くぐらい驚いたあとは、酔いにまかせてK子を無視して好きなことを喋っていた。

そもそも、僕は友人の話を聞いて、K子に対して良いイメージを持ってなかったのだ。どうせ一度会ってもう二度と会わないんだからどうでもいいや、と思い、

カンボジアのトゥールスレーン収容所の話や、ウクライナ女性首相の話や、LHCの話などをしていた。しかし、友人でさえ興味なさそうな話にK子は意外にも食いついて

きた。

 早い話、話が合ったのだ。

 それから年が明けて、僕も会社辞表を出した。もう何もかも限界だったのだ。「可能な限りはやく退職させてください」と、僕は言った。「引き継ぎが必要な業務はありません」

 そして、それから少し経って、連絡先を交換してないはずのK子からメールが来た。早い話が、「引っ越す前に飲みに行きませんか?」だった。うっぷす、なんというビッチ

友人から連絡先を聞いたらしい。そして、退職してオープンマインドになっていた僕は、それにホイホイ付いて行った。正直な話、友人には悪いが僕もK子には興味があった。

 そのようにして、僕とK子の友人づきあいが始まった。読んでる方にはおわかりのように、あまり良い子ではない。プライドは異常に高いし、打算的だし、ワガママだ。

僕と一緒に飲みに行くと、友人が彼女に対して持っていたイメージは、すべて彼女の作り物だということがすぐに判明した。そもそも、彼女が友人の会社に中途で入ってきたのは

前職での不倫が原因だったのだ。例のバーで、強いカクテルをごくごく飲み干した彼女は僕の手を握りながら言った。(そもそも友人は、彼女が酒を飲めないと言っていたのだ!)

「**君はどう思う?(不倫で前職の同僚が離婚したことについて)私に原因があると思う?ブラックホールに飲み込まれるべきだと思う?わたし」

 僕は、その問いに対して声を大にしてイエス!と答えたかった。ブラックホールどころか、お前は超新星爆発を起こすべきだと思っていた。

「いや、僕はそうは思わないよ。そういうことは誰にでも起こりえるんだよ、しょうがない。人生一度なんだからね」

 だが、話を聞いてみると、教会に通っているのも、日本文学が好きなのも本当だった。ただ、教会に行くのは、自分の(不倫して相手の家族を滅茶苦茶にしたことに対しての)

罪を償いたくて行ってるらしい。なんて自己愛の強い女!

 その後すぐに僕は、東京の家を引き払って、地元神奈川に帰った。そうなっても、なぜかK子との親交は続いていた。東京で会ったときは、明らかに色目を使ってきたK子も、

僕の地元で会ったときには頭のスイッチが切り替わったようにドライな態度を見せた。

 「**君とは友達でいたいよ」とか急に言い出した。茅ヶ崎の海岸をふたりで犬の散歩しているときのことだった。「**君もそう思うでしょ?」

 そんな自己中心的なK子の態度に、僕はそれから何度も怒って、そして何度も喧嘩した。僕をこれほど怒らせるのは彼女だけだ。僕の地元に来た彼女に対して、僕は他の女の名前

呼び間違えるということをやってのけた。プライドを燃料として生きる彼女に対して、7回も呼び間違えた。たぶん、K子のプライドをこれほど傷つけた男も僕だけだろう。

 そんなK子が仕事を辞めて実家に帰るらしい。今後は、看護婦資格を取って鎌倉で暮らすのを目標とするとか。



 とても長くなってしまったチラ裏だけど、僕はそんな彼女をとても愛している。この悪文を書きながら、彼女の苦悩や、浅はかさや、腹立たしいところを思い出しながら、やっぱり

そう思う。心から彼女幸せになって欲しいと思っている。

 どんな形でさえも、やはり幸せになって欲しいと願っている。K子の感性や、ユーモア感覚や、癇癪をやっぱり愛している。

 それが、伝わればいいのだが、きっと彼女には理解できないだろう。

2010-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20100930185605

医療事務って顔採用な気がする

近くの病院の事務の人はみんな若くて美人

そして看護婦さんの顔が普通で安心する

2010-09-09

http://anond.hatelabo.jp/20100824090404

元増田ですよ。入院しました。

PCは使用不可ですので、こうして外出した時に…。



一言で言うと自由!

勝手にしろ、って感じ。


ギャンブル

アルコール

うつ


の3種類の患者がいるんだけど、


いろんな作業療法に出てもいいし出なくてもいい。

外出も可。


調子が悪かったり治療方針の相談があれば、診察を依頼する、と。



自分から動かないと何も変わらないぞ」ってな感じらしい。

何したらいいのか相談するのがだれかさえ分からない。


こっちは自慢じゃないけど、鬱だから。

看護師さんにそれを伝えようとしてもうまく伝えられない。

看護婦さん、あ、看護師さんか、イラッとする。

話できない。


薬は効きが弱いみたいだけど、先週変えてもらったばかりだから、相談しずらい。



そういったことに順応していくのが治療の一環…なんだ、と気づいた。

ドクターと話したところ強ちまたがってないらしい。


薬が合いさえすればすぐに退院だと思ってたのになぁ。

2010-08-03

精液検査

子供がなかなかできないので精液の検査をしてもらった。

総合病院泌尿器科での検査だったので、個人病院とは違うかも。



渡されたマニュアルを読むと、まずは、最低禁欲5日間。

手法にて指定された容器に取ること。

コンドーム夫婦生活で射精直前に容器に入れることは禁止。

採取後1時間以内に持参する。



看護婦さんが手伝ってくれるようなことはなかった。



結果は、問題なし。

精子の数は30000000個/ml×7ml=約2億個らしい。

これがわかっただけでも、なぜか安心。

2010-07-23

http://anond.hatelabo.jp/20100723220148

そも何故親が云々が出てくるんだろう、それが不思議でならん。みんな若くて実家住まいだったから?家に帰ったら親が生活しているような環境性的な事柄に近づくなんて自分は無理だったから、ようわからん



あと別に手術後に痛くて目が覚めたりなんかしなかったから、読んでてむしろほんとかよって思った。なんとも言えない喪失感と倦怠感があったことしか覚えてない。あと半日入院だったからお昼が出たんだけど、さっぱり味がしなくてまずかったことと。体の苦痛のことなんてさっぱり忘れた。

喪失感て別に子どもに対してじゃなくて、思わぬ重荷をいきなり背負わされて逃げられてその相手に対して責任を取らせるすべもないことに対してだとか、それで台無しになってしまったその夏の自分とか、そういうものへの喪失感。相手のことは生涯許さない。そいつになる運命であった受精卵こそぷちって潰したい。お前の遺伝子はこの世界に必要ない。鎮静剤で意識を失う前に顔にタオルかけられた状態で涙があふれて顔の端に流れていって、それが見えてのことなのかわからないけど、看護婦さんが手を握っていてくれたのを覚えている。



そんなわけで、子どもに対して世の皆様が期待するほどは何にも思わなかったなーってとこに対してだけは共感持てるんだけど、あとは全然共感できなかったし。私は母になる資格が生涯自分にはないなんて別に思ってないし。共感しなくてもいいか。こんな経験は個人個人で抱えていればいい。共感を得ようが得られまいが、当人にとってのこの経験の重みだけが等価値だ。

2010-07-21

俺が誰かに言いたいこと

どうでも良い話だし、誰にあてて書くでもない。

でも、自分一人しか知らないと悲しむ連中が居るので書いておく。


我が家は男ばかり3人兄弟だった。3人も男がいれば、近所でも学校でもそれなりに有名と言うか、

誰からでも「3人もいると将来楽しみですね」って言われる様な感じだった。

親父は自営業なので、「3人で跡を継ぐんだね」云々と言うのは、枕詞みたいなもんだった。



真ん中の兄貴中学に入った頃から、何かが変わって来た。

真ん中の兄貴剣道をやっていて、それなりに強かった。

ガタイもデカいので、ケンカも強い、そんな奴だったんだが、

いつの頃からか登校拒否をするようになった。



何やら蛇の様にネチネチしつこい担任に目をつけられて、

毎日の様にいびられる様になったらしい。


教師からのいじめだな。



そこで登校拒否になるわけだが、そんなのは学校だけのせいじゃなくて、

家の責任でもあるので恨み言は書かない。



(まぁ今時の教師にどれだけ覚悟があるか分からないが、教師ってのは人の人生を変えるぐらいの影響力があるって、

どんだけど命かけて教壇に立っているのか、それぐらいは認識して欲しいと思うが。)



その後はお約束のように「不良」というレッテルが貼られお約束の展開になって行った。

高校は何とか進学したが、結局中退暴走族シンナー中毒



俺が中学に行った時にはもう、あいつの弟、って事だけで教師からも

その手のグループからも目を付けられて、そりゃもう肩身の狭い思いをした。



高校中退後の兄貴は、勿論仕事にも就かず、暴走族からその日暮らしのバイト

金がなくなれば無心、そしてシンナー、と、そんな生活を繰り返していた。



高校を出て東京大学に入学した俺は、そんな積み木崩しな生活から少し離れられた気がして、

家の状況の事をあまり考えなくなっていた。


大学の間に、兄貴は更正したのか?親父の会社を手伝い始めていた。

それでもまぁ、暴走族時代のまんま、70年代アメ車を買って来ては改造して乗り回していたらしく、

いわゆるDQN成分は変わっていない感じだったが。。。



俺が帰省すると、「就職なんてしないで一緒に親父の会社手伝えばいいやん」と口癖の様に言っていた。

俺はそんな気は全然なかったんだが。。。




で俺が大学7月



俺はバブル崩壊直後の東京と言う凄まじい環境の中で就職活動をしていた。

携帯ネットだと情報が氾濫している今より氷河期度合いは凄かったと思う。

とにかく思う様に就職が決まらず、焦っていた。


当時発売されたばかりのスーファミストII大会を夜通し学校でやってそのまま飲み会

阿呆の様な気晴らし方で毎日をして過ごしていた。


そんで徹夜明けの始発でアパートに帰っていたその日、実家から留守電が入っていた。




電話して」




母親からの短い伝言。??と思い家に電話をした。

親父の会社部長さんが電話に出た。

なんでだろう?と思いながら母親電話を変わってもらった。

母親はいきなり、ごめんね、ごめんねと言い出した。





俺は兄貴が死んだ事を告げられた。






意味が分からなかった。



死んだって?




調子に乗って乗り回していた70年代アメ車。それが老朽化していて、排気ガスが漏れ

一酸化炭素中毒で死んでしまった。。。そんなバカみたいな死に方だった。



夏休みですぐに飛行機も手配出来ず、翌々日、家に帰り着いたのは通夜最中だった。



客間が、なんか真っ白な布で張り巡らされていて、見た事ない人たちが走り回っていて、

その部屋の奥の方に祭壇があり、兄貴が眠っていた。



その日はそのまま明け方までそこにいた。



途中、ウトウトした時に、兄貴に呼ばれた。そんな気がして目が覚めた時もあった。



そっから葬式までほとんど覚えていない。



嫌なくらいに暑かった事と、直前に控えていた第一志望の就職先の試験の事だけを考えて、

ここで崩れてたまるかと、唇を血が出る位に噛み締めていた記憶だけはある。




長男は何時までも号泣していた。俺も泣きたかったが、負けてたまるかと、そんな事ばかり考えていた。





ここで見事就職決まれば美談だが、そうはいかない。物語の主人公の様にはいかなかった。

結局、その年の就職には失敗し、就職留年をした俺は1年遅れで地元の小さな会社にようやく就職し働き始めた。






長男はフリーターだった。当時はそんな呼び方もなかったが、バブル景気

その真っ只中にいながら就職出来ず、フラフラした生活を余儀なくされていた。



実は長男はてんかんを患っていた。クスリで抑えながら、発症しないように、そんな生活を送っていた。

何年間か、発作が起きなければ完治。もし起きてしまえば治療のやり直し。



高校受験大学受験に失敗した長男からすると、高校、大学と順調に進学し、

留年しながらも就職した俺に対してコンプレックスがあったようだ。

実のところ、あまり仲は良くなかった。

というか、俺もどこか毛嫌いしている節があった。



そんな長男が、てんかんの症状も出なくなって、働ける様な体調になった、

遅ればせながら就職をし、「社会人」となり、次男の死以降、それまで落ち着かなかった

俺の家も、なんとなく落ち着き始めていた。



だけど、次男の事故から3年後。



また7月。



仕事が原因か何かは分からない。ただ何か最近様子がおかしく、

ひきこもり状態になっていた長男に対し、情けない奴、とぐらいにしか思っていなかった俺。



親は心配していた。手首に、今でいうリスカのあとがあったらしい。

あいつにそんな度胸はないっしょ、程度に考えていた俺。



ある日の夕方、俺を呼ぶ叫び声の様な親父と母親の声。



慌てて駆け付けた俺が見たのは、首を吊って自殺を図った兄貴の姿だった。



救急車を呼び、意識不明の兄貴と一緒に乗り込み、親より先に病院へ向かう俺。

訳も分からず、スローモーションの様に救急車カーテンの隙間から見える流れる外の景色を見ていた。



ICUに運び込まれた兄貴を見届け、待合室に待つ俺。

親が来るまで、どれぐらいだったんだろうか、何時間にも感じた。

どうすればよいか分からず、入院の準備の為に看護婦が質問する事にも、

ヘラヘラ愛想笑いをしながら答える情けない俺。



1人だけ取り残された待ち時間の間に一度だけICUに通された。

その時はまだ、長男の顔は人間の顔をしていた。なにか寂しそうに、

半分開いた目が宙を見ていた。



その顔に、何とかなるんじゃないかと、と言うか死ぬとかなんだとか、

そんな事は考えてもいなかった俺。

こんな時は泣けばいいのかなぁとか、漠然と考えていた。




時間か経った明け方、親父母親揃って、俺達はICUの中に呼ばれた。


その中で見た長男の顔は、さっき1人で見た時の、まだ人間の顔をしていた長男の顔ではなかった。

どす黒く変色して、もう人間の顔ではなかった。


それを見た瞬間に、俺は悟った。



あ、もうダメなんだ。。。



医者からこれ以上の延命をしても回復する見込みがない事を告げられた。

初めてICUに通された両親は意味が分からずにいた。

その顔の変貌振りに、悟ってしまった俺は両親に告げた。



もういいよ、もういいよね?

何がいいだろう?何がよかったのだろう?この自分で発した言葉は、

今でも俺を苦しめるときがある。


そこからはテレビドラマを見ている様に、心音?が途切れ途切れになり…


そしてピーーーと言う音。


その瞬間、母親が泣き崩れた。



残されたこの子(俺の事)が可哀想すぎる!



泣き崩れても最初に出た言葉は他の誰でもない、俺に対する言葉だった。

今なら何となく分かる。俺は両親から愛されてると言うことが。



だけど、当時の俺は、もう自分の事だけで精一杯だった。


またもや嫌なぐらいに暑い夏の日に、葬式

警察が来て、事情を聴かれ、遺書を探し。。。結局原因は分からなかった。




で、2人の兄貴の死を経験し、これで何か目覚めれば美談なんだが、

さっきも書いたけど俺はもう自分の事だけで精一杯だった。



一人は事故、一人は自殺。次の俺は何だ?病気

うそんな事に頭の中を占領されていた。

2人から取り残された思いがして、その不安に押しつぶされそうになり・・・


いわゆる鬱状態だった。

病院にも行った。精神安定剤やら何やらもらった。



自分の事しか考えられない俺は、また、実家を離れて東京に戻って職を探そうかとも思った。

とにかく、ここから逃げ出したかった。その事を、ふと母親の前でつぶやくと、母親はその場で泣き出した。

親父からは、今はそんな事を言うなと怒られた。



それからもう、13年。次男の死からは20年近く。


立ち直れたかどうかは分からないが、いつの間にか、普段どおりの生活になり、

普通に生活し・・・そんな日々を過ごし、俺は結婚して3人の子供にも恵まれた。



また、夏が来る。7月が。この季節は、毎年なんか鬱になる。

どうして俺だけが生き残ったのか、そればかりを考えてしまう。

これは今もトラウマになってるんだが、親からの電話

救急車の音、嫌なくらい暑い日に汗が出てスーツシャツが肌にまとわりつく感覚



とにかく一瞬意識が飛びそうになる。




もしも兄貴たちが生きていて、そして結婚子供を作っていたのなら、その家族に語り継いで行ったであろう

達兄弟の話は、残念ながら、俺しか知らない話になてしまった。


だから俺は良く子供達に言う。

「真ん中のお兄ちゃんは喧嘩がものすごく強かったんだぞ!」

「一番上のお兄ちゃんは、ピアノギターが得意だったんだぞ!」


俺たち兄弟の話は、親が死んで俺が死んだらもうそれで終わりだ。

だから、少しでもあいつらがどんな人間だったかを残したいんだ。



で、何にも教訓めいた事もなく悟りを開いた訳でもなく、

今もフラフラ右に左に迷い、突っかかり引っかかりながら俺は生きてる。

決して順風満帆でもなく清く正しくも生きていない。



だけど、やっぱり人間は生きている事が一番の幸せだとだけは思うようになった。

今日うまいメシが食える。今日失敗しても明日が来る。



当たり前の様に明日を迎える事ができるのが、最高の幸せだと思う。



そして、自分幸せにできるのは、やっぱり自分しかいないんだと思う。

どんなに人から施されようが愛されようが、自分幸せに出来るのは、

自分幸せだと思える、自分自身の気持ち以外にないと思うんだ。



お前らの中に、もし今の自分の置かれた環境に憤りを感じ、絶望を感じているヤツがいるなら、

もっと今を生きる事で自分幸せにしてやって欲しい。

死ぬ幸せを選んだ長男の顔は、俺には悲しい顔にしか見えなかったんだ。



お前らもまず自分自信を幸せにしてやってくれ。


誰の為でもなく、自分の為に。



自分幸せに出来ないと、誰も幸せに出来ない。

親に内緒堕胎した。

親に内緒堕胎手術を受けた。まだ知られていない。

正確には去年の8月11日だったと思う。8月の初頭が誕生日で、去年の誕生日に20歳になった。

から、親に何も知らせる事無く一人で同意書を書いて、出した。

相手の欄に書いてくれる人は居なかった。もう捕まらないんだろうなあ、と諦めている。

五週目の赤ん坊だった。検査薬を買ってみたら2本の線が出てたので、「妊娠したな」と思って病院行った。

妊娠されてらっしゃるのは確実なんですけども」と言われたけれど、ああ、としか思わなかった。

「多分、今、五週目だと思うんですけど」と言うと、丸い円盤のようなものを取り出して確認した後(あれで周期を判断するのかな?)

「詳しいですね」と驚いたように言われた。それくらい知ってる。ググった。

赤ん坊が出来ても別に驚かなかった。覚悟はしていたので、慌てなかった。

でも毎日のように本を読んだり、Web情報収集したりしてた事に、その時初めて気づいた。


それから膣に棒のようなものを突っ込まれて(結構痛い)、エコー検診。どこに胎児が居るか全然からなかった。

堕胎します」と言うと、「分かりました」と言って簡単な手術の説明をされた。

とりあえずその日に同意書を貰って、銀行貯金を下ろした。一人で上京して仕事してるので、お金はあった。

初診料、検査費用も含めて15万円だった。高いのか安いのか分からない!

家に帰って同意書を書いた。書きながら不思議だった。


普通妊娠したらもうちょっと感情的になるものだと思ってた。

だってそうでしょう。人間一人分(二人分か三人分かも)の命が掛かっているんだから

でも、全然実感が沸かなかった。体の具合が悪かったので病院へ行って、「処置」をする。それだけ。

望まぬ子どもが出来たら泣き喚いて、絶望するものだと思ってた。

思い悩んで、泣きながら決断するものだと思ってた。

でも、全然泣かなかった。悲しいとすら思わなかった。子供が居るという事実は把握したけど、愛情も沸かなかった。


折角出来た大切な子供なのに殺すなんて! とも思わなかったし、

誰とも分からない、名前も知らない奴の子なんて憎い、死んでしまえ!とも思わなかった。

不思議で、静かな気分だった。怖いくらいに淡々としてたと思う。

ただ、何の感情も湧いてこないのを見て、「私は母親にはなれないな」と思った。


母親って、物凄く子供に対して感情を傾ける生き物だと思う。

から私はまだ、母親にはなれないんだ、と思った。(成人しておいて"まだ"もクソもないけれど)

一生なれないのかもしれない。



数日寝たら、堕胎手術の日だった。

堕胎手術は日帰りだったけど、前日は何も食べないように、と言われていた。

その頃には悪阻が始まっていた。甘い香りだけで吐き気がした。男性加齢臭だけで吐いた。

当日の朝も、何も食べていないのに、死ぬほど具合が悪かった。

途中の駅で降りて、トイレに駆けこんで吐いた。

何も食べてないから気分が悪いだけだと思っていたけれど、黄色い胃液が沢山出た。凄まじい味がした。



病院に着いて、同意書を渡して、着替えた。看護婦さんに下着と生理ナプキンを渡した。

看護婦さんが同意書を見て、「先日成人されたんですね」と言った。「ええ、つい先日です。だから、よかった」と答えた。

相変わらず何とも思わなかった。

分娩台に両足をかけて、腕に点滴をされた。先生に「宜しくお願いします」と言ったら、点滴の管に注射を打たれた。

麻酔だったみたいで、数呼吸の間に意識が吹っ飛んだ。


起きたら病院のベッドに寝ていた。ナースコールで看護婦さんが来て、処置をした。

膣の中にガーゼが詰められていたので、それを抜かれて、少し背中をさすって貰って、数時間眠った。

途中で飛び起きた。痛い!生理痛なんて笑える位の激痛だった。

看護婦さんが「痛い?うん、痛いね…」と言いながら背中をさすってくれた。ベッドの上で転げまわっていた。

エコー写真、頂けますか?」と尋ねたら「出来ますよ、後で渡しますね」と言われた。

水子供養にはエコー写真を使うと、どこかで読んだことがあった。する気は特に無かったのだけど、言ってしまった。

その後1時間ほど休んだら落ち着いたので、受付で代金を支払って、外に出た。受領書と一緒にエコー写真を渡された。

下腹部が痛かった。駅まで歩いて、また電車で帰った。


家に帰って、Yahooの記事で、赤ちゃんエコー写真を見た。妊娠初期から臨月まで、沢山の写真があった。

何となく貰ったエコー写真を取り出して、同じ時期のものと比べてみた。いた。分かった。本当にちっこい、白ゴマみたいなの。

じわりと画面がぼやけた。悲しくないと思っていた。馬鹿らしいと思っていた。

子供に執着出来ない自分なんて、母親になるのは無理なんだと思っていた。これでいいと思っていた。

何も間違った事はしていないはずだった。私には関係ないと思っていた。母親なんて、自分とは遠く離れた存在なんだと思っていた。

けど、もう、駄目だった。

ぼろりと涙が出た。一晩中泣き続けた。翌日になっても、ずっと泣いていた。




結局その後1年経って、私は何がしたかったのか、何であの時泣いたのか、もう分からないくらいのボンヤリに戻った。

未だに不思議だと思う。何で泣いたんだろう。

ただ、悔しかっただけかもしれない。何で私ばっかりが。何でこんな目に。何でこんな痛い思いを。

それとも、やっぱり悲しかったのかもしれない。自分の子供だから自分母親になりかけていたのかもしれない。

でも、今でもやっぱり、分からない。もうどっちでもいいと思う。

結局あのエコー写真は、ケースの裏側にしまいっこみぱなしだ。たまに取り出して、眺める。

やっぱり、分からない。

最近久し振りに実家に戻り、自分母親を間近で見て、無性に泣きたくなった。

ごめんなさい。

ごめんなさい。でも、死ぬまで言わずにおく。




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2011.09.13 追記



今年の8月で22歳になった。何も感じないと思っていたけれど、違った。

最近は他人の出産育児経験子供の話をとても聞きたくなった。

出産経験をまとめたサイトを読んでいると、心から「おめでとう」という気持ちになる。

そして同時に涙が止まらなくなる。



堕胎した時、本当に何とも思わなかった。

ただ淡々と書類を書いて、父親の欄も適当に書いて、

そしてインターネット病院を調べて、電車に乗って、手術して、そして帰ってきた。

子供愛着も、未練すらも無かった。無い筈だった。



今になって、それがじわじわと効いてきているのが分かる。

外で子供連れを見掛けると、どうしても目で追ってしまう。

自分母親も、こうして私を育ててくれたのだろうか。

なら私も、ああしてあの子を育ててあげられたんだろうか。

10ヶ月も大事大事に腹の中で可愛がって、愛して、育児教室に通ったりして、

出産の時は、愛する旦那さんに手を握って貰って。



あの日、手術を待っている時、待合室に若い夫婦が居た。

奥さんの隣に旦那さんがいて、旦那さんは奥さんにずっと話しかけていた。とても幸せそうだった。

でも、その時は何とも思わなかった。



今年になって子宮病気になり、また産婦人科に行く機会があった。

待合室に座っていると、また数人の妊婦の方を見かけた。

一年前と同じだった。あの時のように、旦那さんが付き添っている夫婦も見かけた。

一人で来ている母親も、旦那さんと一緒の奥さんも、笑顔


その瞬間、一気に目が覚めた。


これが、普通なんだ。

妊娠をしたら病院に来て(心配して旦那さんが付いてきてくれる人もいるだろう)、先生から説明を受けて

両親にも報告して(そして喜んでくれるんだろう)、そして幸せで、笑って、おめでとう、おめでとう。

そういうのが普通なんだ。



その時初めて理解した。これが普通なんだ。妊娠するというのは普通、とても幸せな事なんだ。

じゃあ、あの時の自分は何だったんだろう?

隣に夫となる男もおらず、誰にもおめでとうと言われず、笑えない、全てを一人で済ませたあの時の自分は。

そしてそんな私におめでとうとも言われず、ありがとうとも言われなかった、あの子は?



そう考えたらたまらなくなった。家に帰ってから泣き続けた。

あの時の自分の判断が間違っていた、とは思っていない。

当時未成年、親の後ろ盾も、夫になる奴もいない、仕事はどうなるか分からない、経済的にも精神的にも問題だらけだ。

罪悪感は無かった。無かった筈だった。今でも正しい判断だとは思っている。

でも、涙が止まらなかった。

からなかった。ただ申し訳なかった。それと同時に、とても羨ましかった。



当時は産めるはずもない、育てるのも無理だ、経済的にもどうしようもない、親にも言えないと思っていた。

から一人で調べて、全て一人で済ませた。誰にも言わない、なんてこと無い、ちゃんと出来る。だから大丈夫。そう思っていた。

でも、皆はそうでは無かった。おかしいのは自分だった。

こんなの、少しも大丈夫じゃなかった。



結局、あの後私は見事に検査で引っかかり、どうも不妊に近いものになってしまったので

恐らくあんな思いは二度としないだろうと思う。

不幸になる機会も、幸せになる機会も失った…と思えば、案外こんなものかもしれない。

男に関しては警察に届けようとした。努力はした。でも、思い出すだけで吐き気と震えが止まらなくなる。なので諦めた。

願わくば、これ以上被害を出す前に死んでいて欲しいと思う。

親には堕胎した事も、不妊になるらしい事も、結局話していない。

これでいい、余計な心配なんて掛ける必要はない。そう思っている。


当時も色々と頼りなかった私だが、去年から本格的に仕事を始め、何とか軌道に乗ってきた。

何人かに告白された。全て断った。

全てを話す気力も、そんな勇気も無い。一生一人でいい。

かわりに在宅の仕事なので、しばしば姉の子供の面倒を見ている。とても可愛い




あれから成人し、収入も増えたので、保険証の種類が変わった。

子供エコー写真は、保険証に挟んでずっと持っていた。

けれど、新しい保険証にはそれを挟む所が無い。


つい先日帰郷した時、お寺でエコー写真を渡し、水子供養をして貰った。

もう3年。やっと、やっと供養してあげられた。

ごめんなさい。本当にごめんなさい。



ここまで聞いて下さって有難う御座いました。

2010-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20100718044500

先日、ばあちゃんをひきとった。

病気がわかってから15年以上がんばった。

本人も家族もがんばって、ばあちゃんが少しでも笑顔で過ごせるようにしてきた。

もちろんずっと看てくれた医者看護婦さん、ヘルパーさんに支えられて。

 

お前聞きかじりで舐めた文章書いてんじゃねーよ、カス

脈も血圧もタンの量も、すこしずつ違う今日がある。

数分単位で変わるよ、ハゲ。

半日でいいから、横にイス置いて過ごしてみろよ。

 

ツッコミどころある過ぎる文章書くなよ。

文才ねーよ。

 

本当に身内がそんな目にあってたら、

命とか尊厳とか、ましてや現場なんてでてこねーよ。

その人が今日調子良かったか悪かったか、それだけ。

自分がそのために何ができたか、何をすべきだったか。

これ以外に後から思う感情なんてねーよ。

 

お前が書いたのと似たような事言う奴は、

ほとんど見舞いにすら来なかった奴だよ。

 

わかる?

お前は人の生死を見つめて書いたんじゃない。

外から見て、てきとーに書いてるだけ。

 

そんなカスが人の命を話のネタにすんなよ。

殺すぞ。

2010-07-13

健康診断のとき検尿ってあるだろう。

このとき、こっそりおーいお茶をもっていく。

トイレに入ったらオペレーションスタート

検尿カップになみなみ注ぎ、

たっぷんたっぷんこぼしながら

看護婦のお姉さんに差し出す。

お姉さんが「…そんなにいりません」

といったらチャンス。一気に飲み干す!

初出は

http://mimizun.com/log/2ch/utu/1080573031/

か?自信なし。

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