はてなキーワード: パオロ・マッツァリーノとは
パオロ・マッツァリーノ氏がずいぶん前から同じことを言っていた
その理由はおそらく、マーケティングに営業的なオラオライメージがあり、
またコンサルに関しても馬鹿を騙す手段を身に着けたクソというイメージがあるのだろう
なぜそのような考え方になってしまうのか?
先端技術を尊重する進歩的な素養があるのに、なぜ他分野を認めないのか?
逆に認めている分野は何だろうか
分野で言えば、工学、医学、文学、脳科学、アニメクリエーターあたりの人は尊重されている
なのである程度の答えは出ている
その答えの出す方法は統計学的で有意差が出ているなもの…だったら納得してもらえるのだろうが、
社会学の扱いは難しい
私は30代なので詳しくは知らないが、少なくとも2004年パオロ・マッツァリーノの「反社会学講座」は
「全ての人間に共感できる人がコミュニケーション能力を持ってる人」????????????
※コミュ力 コミュニケーション能力 を拡大解釈するのはヤメましょう。 情報伝達以外の意味はありません。
※それ以上付け加えるならばコミュニケーション能力とは別の能力として主張すべき。
でググってみて下さい。
あと「コミュニケーション能力」でもググって下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/コミュニケーション能力
「同意することだけがコミュニケーション能力と勘違いしてる人」が多いようですが
批判がコミュニケーションでないならば、「はてなで批判をしている人間もコミュニケーション能力がない」ことになってしまいます。
つまり「イエスマン=コミュニケーション能力のある人間」という定義になってしまいます。
ましてや「どんな人間にも共感することをコミュニケーション能力とする」なんて、この世にそんな人間いますかね?
ちょっと例を挙げるとこの世界の全ての犯罪者に共感できる人間がいますか?
この世界の全ての悪意(日常を含む)に共感できる人間をコミュニケーション能力があると定義する非実効性。
そもそもの間違いは「コミュニケーション」に「力」という文字を付けたのが間違い。
またパオロ・マッツァリーノは、自己啓発書の売り上げを上げるために不安を煽り、彼らの都合のよい稼ぎ口として使われていること、も指摘しています。
以下は参考のための引用。
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パオロ・マッツァリーノの指摘
パオロ・マッツァリーノは『反社会学講座』収録の「ひきこもりのためのビジネスマナー講座」において、浜口恵俊の「日本語にはもともとコミュニケーションにあたる言葉がないため訳せない」という意見を取り上げ、近年、企業等においてコミュニケーションが本来の「意味を拡大解釈」して用いられているようだと指摘し、問題視している。
マッツァリーノによればコミュニケーションには本来、「情報(知識や感情も含む)をだれかに伝える・交換すること」という技術的な意味しかなく、そのため言葉の用法に従えば、上司や目上の人間へのある種の直接的な批判の類も立派なコミュニケーションとして成り立つことになると述べている。続けて「しかし、そうすることが日本の企業社会で奨励されているかというと、はなはだ疑問です」と言い、「日本人は古来、コミュニケーションなしで社会を成り立たせてきた」という事実を指摘し、安易にコミュニケーションという単語を用いる現代の風潮を皮肉混じりに批判している。
スーザンによれば、すべての人が同じコミュニケーションスタイルにおいて最良のパフォーマンスを発揮するというわけではなく、イントロバート(introvert)と呼ばれる『刺激に敏感で大量の刺激を本能的に避けるタイプの人間』と、エクストロバート(extrovert)と呼ばれる『刺激に鈍感で少量の刺激では必要量を満たせないために大量の刺激を必要とするタイプの人間』、二者それぞれの遺伝子レベルの性質を生かした二種類のコミュニケーションスタイルこそ、無理のない持続可能な方法であるとしている。
近代以降、資本を求め商品をいかに買わせるかが社会の関心事となった経緯を紹介し、深い思考は苦手だが口先が巧みなエクストロバートを量産し経済拡大に用いるというシステムが教育も含めて現代では日常化してしまっているという。この社会(エクストロバートワールド)では、イントロバートは欠陥品とされ(イデオロギーの定着のため病名まで発明された経緯もある)エクストロバートになることを強制される。しかしその性質は遺伝子レベルで50%以上固定されているために、対外的にはエクストロバートを「ふるまう」、無理の結果として心の病を併発したり出社拒否に陥るケースがあるという。
彼女によれば、どちらのタイプも社交的であるという。両方とも自身の性質に基づいた異なる社交性を備えており、イントロバートは多数の人間と社交を行うことは刺激が大量すぎる点で本質的に苦手だが、一対一または数人との社交においてエクストロバートを凌ぐ力があり、エクストロバートは刺激に鈍感であるがために多数の人間と社交を行うことができる。その反面、一対一または数人との社交において深い友人関係を築き長期にわたり維持することは苦手であるとされる。このため双方のコミュニケーションスタイルも必然的に異なる形となるのが自然であるが、現在の資本主義競争社会におけるバイアスのかかった社会においてエクストロバート型を唯一のコミュニケションスタイルと信じて疑わない状況がある。自分の話を聞かせたいエクストロバート、人の話を聞くことができるイントロバート、従来のリーダーの適任とされるのは前者とされてきたが、近年では後者の「引き出す力」に注目が集まり前者を凌ぐリーダーとしても可能性が示唆されている。多様なコミュニケーションスタイルは人間の多様性を認める社会であることが必須条件として、イントロバートの存在と可能性について全人民的に社会的認知を深める必要があるという。
日本で「インフレターゲット」(リフレ)がうまくいかないと思う理由を書いてみる。
誰の賃金が上がるのかわからないという点。いまや労働者の3分の1が非正規雇用労働者といわれている。
仮にインタゲがうまくいって、緩いインフレマインドが続くとしても、21世紀に入ってからの「いざなぎ超え」景気時
の企業同様、なかなか給与の伸び率は伸びないと思われるからだ。代わりに若年層の正社員就業率は伸びると思う。
全労働者の3分の2(つまり性社員)の給与はしばらく足踏みのままと想像される。
2008年から2009年にかけての非正規雇用労働者の雇い止め・雇用調整を見ていてわかったのは、「就職のためには住所が
必要だ」ということ。あと「若年労働者が住職近接でない点で、選択圧力を受けているのではないか」ということだ。
不景気だといわれていても、人口の多い都市部にはまだまだ職があるのだ。住む場所(住所)があれば、職を選ばなけれ
ば働ける。
ただし、正社員でないとそもそも家賃を払えない。(特に)都内の家賃は高すぎる。正社員でも若年層はひとり暮らしで
精一杯なのではないか。
仮にインタゲがうまくいくと、都市部ではさらに求人が上がると思われ、人口の流入も考えられる。
普通、住居を求める人が増えれば家賃は下がるかと思われるが、逆だ。パオロ・マッツァリーノの指摘どおり、家賃は上
がるのだ。1Kやワンルームで7~8万というレベルがさらに上がると、住所を失う労働者が増えると推測される。
都心の公示地価を半分に切り下げて、都心の賃貸住宅を増やそう。家賃はもちろん7~8万以下に抑えるのだ。
だいたい日本では、土地の価値付けの理由が不明だ。地価の価値付けを明確にすれば、おそらく日本の土地はだいぶ下が
るかもしくは適当な価格になるはずだ。それが決定できないのなら、強引に切り下げてしまえ。
単身世帯向けだけでなく、3人くらいまでのファミリー向けの賃貸も建てよう。そうすればコンパクトシティも実現する
し、ファミリーの都心回帰(+プラス、家賃の心配が下がる)ので消費マインドも上がるはずだ。
土地の値段が高いせいで、土地の上に建てる家屋にお金をかけられないという心配も、地価の切り下げで解消される。な
にしろ今まで土地にまわさざるを得なかった部分を家屋にまわせるようになるのだから、その分耐震設計に重点をおくこ
とができるようになるに違いない。
建設ラッシュも起きて、景気回復を牽引するだろう。土地が安くなるので今までの家主たちも建て替えをするかもしれな
い。建築基準法があるから、簡単にはアパート・マンションの粗製濫造はできないはずだ。
このようにして日本の景気は回復するのだった。
パオロ・マッツァリーノの『反社会学講座』によると欧米には社会人って言葉はないらしいよ。
大して違わないんだけどねー。さて
後藤によれば、ある世代に生まれたことによってすべてが決まってしまうという考え方は「宿命論」であり、シニシズムやニヒリズムに通じる。
世代論そのものがもはや用済みなのだ、とかれはいう。その代わり後藤が持ち出すものは、古くて新しい文明の利器、科学である。統計と学術的分析をもちい、客観的かつ実証的に事実を導き出すこと。
『おまえが若者を語るな!』がいろいろとすごい。 - Something Orange http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080914/p1
ですが、色々勘違いしてるよね、という。そもそも「時代」というのはアプリオリに存在する客観対象ではなく『論じるという行為によって生み出されるもの』であることは、その本で批判されてるような人らの間では大前提なわけで、「時代なんて幻想です」という批判は彼等からすれば全く痛くないどころか冷笑の対象でしかないと思う。彼等が痛いのは「自分の切り口がもはや有効ではない現象の前で立ち止まっている自分たちに気づいた瞬間」くらいだよね。東浩紀が(あれほど賞めていた)村上隆批判をしていたときは結構痛々しくて気の毒だった。
まあ理系的発想で社会学ぽい言説をぶった切りしたい欲望は分からないでもないけど、それって一歩間違うと単に「物事の繋がりや文脈」が理解できない人=アスペルガー的症状にしか見えないんだよね。自閉症スペクトラムには入らない程度でアスペルガーな人って、ある種の超理系的人間=モヒカン族に多いと思うし、自分も幾分その気があるから分からないでも無いんだけど。また社会学が大概いかがわしいという言説も、もはや使い古されているわけで今更そんな話したくもないんだけど、もしそういう話を全然聞いたことがないなら「反社会学講座」(パオロ・マッツァリーノ、ちくま文庫)でも読むといいと思うよ。
1000人の増田民に薦めたい本を紹介するコーナーのはじまりです
Amazon.co.jp: つっこみ力: 本: パオロ・マッツァリーノ
……人は正しさだけでは興味を持ってくれません。人はその正しさをおもしろいと感じたときにのみ、反応してくれるのです。……大衆に媚びる必要はあるませんが、ウケを狙いにいくことは、大切です。「正しさ」にこだわり続けるかぎり、論理力もメディアリテラシーも、つねに敗れ去る運命にあるのです。いままでも、これからも。……