「精神薄弱」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 精神薄弱とは

2016-03-31

私が死ぬべき100の理由

2014-02-05

善悪の基準がよくわからなくなっている時間帯。

私は精神薄弱人間なので、いろんなものがよくわからなくなる。

今悩んでいるのは、「善悪の基準について」。

きっかけは退職の理由についてだった。

「体を壊したから辞めます」は良い理由。

「やりたいことが見つかったので辞めます」は悪い理由。

そんな風に言われた。

もともと、退職理由なんて適当言えばよかったんだろうけど、

バカ正直なのでそのままペロっと言ってしまった。

そのせいで社長威圧されたりしたけどそれはそれで別のお話

ところで同じ「辞めます」なのにネガティブな理由は良くて、

ポジティブな理由はなんで駄目なんだろう。

両方とも「途中で仕事を引き継ぐので周りに迷惑をかける」のは同じだし、

しろ体壊したら引き継ぎどころじゃなくなって、私より迷惑な辞め方になったりする。

なのに、なんで私だけ怒られるんだろうか。

それと同じように、

例えば

明日食べるものがないので食べ物を盗みました」はなんとなく許される気がするけど、

スリルを楽しむために食べ物を盗みました」は許されないように感じる。

両方とも同じ物を盗んだとしたら、罪は同じはずなのに、なんとなく前者はいい人そうで後者悪人のようだ。

これを自分に置き換えると、「やられたくないことは悪」「自分も同じ立場にたつかもしれないことは善」で分類されている気がする。

から

「親の仇を殺しました」は何となく同情的で、

「なんとなく無差別に殺しました」は許されない。

この基準は誰が決めたの?

これは正しいことなの?

ネガティブで同情的であれば何をしてもいいの?

特に答えを求めているわけではないけど、すげえ考えちゃう

オチはないのでこのへんで。

2013-09-05

http://anond.hatelabo.jp/20130905192143

カウンセラ特にスクールカウンセラ)というのはあくまで「話を聞く」ことがメインだから、悪化を遅くする/妨げることはできこそすれ、改善というと難しいイメージがあるわ。

あくまでイメージから実際にどうかは分からん

私もスクールカウンセラになら罹ったことはあるけど、会話欲求は満たせるが、しかしそれだけということに気付いて行かなくなったや。

そう言えば自分趣味(私の場合は絵)を見てもらって会話の種にしたこととかがあって、それでなんとなく増田と今の自分が被ってしまった。

精神薄弱人間にとって今の世の中は生きづらい。

まあ人間、死のうと思えばいつでも死ねるんだから、そのついでに生きてみてもいいんじゃないか、と思うことにしている。

2012-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20120517191005

果たして、『厄介者』は『更生』できるのだろうか?

どの程度をもって更生を達成したとするかは、社会文化の発展の度合いによって違うし、ダメ生活保護者が病院で更生できる種類の人間なのかどうかも分からない。一律にどんな人でも更生可能だというテーゼの元に、更生の為に社会リソースを注ぎ込む考えや対処が正しいのかも定かではない。更生させようとするのは、浪費ではなかろうか。適切な対処だろうか。蜃気楼を掴むためにリソースをいくら注ぎ込んでも足りる道理がない。更生の可能性という夢を捨ててしまえば、もっと良い仕組みを作れるのではないかと思う。

例えば40代半ばの精神薄弱無職の男を更生するのに、これから20年は必要だと医師見立てがあったとして(往々にして長期戦なのです)、更生のために、そこに人間時間や資金を注ぎ込む価値はどれだけあるのだろうか。もっと見込みのある若い人材教育に注いだ場合とでは、どちらが社会全体の利益を高めて、どちらが社会の中にいる人達への還元分を高めるだろうか。実際、現在生活保護では「あなたは更生不能なので、これでヒッソリと余生を送って下さい」という、社会から実質的な手切れ金として与えられている場合もある。


どう見ても更生困難なクズに、いつか必ず更正できると言い続けて更生を求めようとするのは、社会で自立自活している一般人エゴではなかろうか。末期がん患者安楽死を与えるが如く、介錯してやるのも社会の温情であり知恵であるはずだ。

例えば、生活保護受給で更生を期待されながら、実際はどうしようもなく無意味な生活をただ続けて、世間から非難を受けている人達。彼らはいっそ強制収容所に送られて社会に役立つよう身を捧げた方が、本人にとっても社会にとっても遥かに意義のある人生になるだろうし、それは更生だとも言えるのではないだろうか。

2011-02-13

精神状態鑑定書(原審職権三号証)によれば、被告人は、知的能力が通常よりやや劣り(精神薄弱限界域)、家族には親密な感情を持っていて、依存であるが、人格の発達が未熟で、衝動に対して抑制力が弱く、他と情緒的な人間関係を形成することは困難であり、社会的適応する能力に乏しく、劣等意識が強く、また、かつて結婚しても性交がうまくいかなかった経験などのために、性と攻撃性に関し強いコンブレックスを抱いており、成人女性に近付いて気持を通じ合うことができず、成人異性とまともに男女関係を結ぶことができないため、その代用として、被告人にとって扱いが容易な、幼女にその性的関心を向ける、代償性の小児性愛ともいうべき性的倒錯があり、本件はそのような性愛衝動を動機に犯されたというのであり、その余の関係証拠から認められる被告人知的能力、性向、職場等における対人関係、ダッチワイフなどの性具を借家に置き、週末に使用していた習慣的な行動などとも考え併せると、幼女を殺害してその遺体を愛撫し、自慰行動を行って射精したという本件犯行も、そのような観点から無理なくそ意味を理解することができる。

2009-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20090325200236

そうしたら、人事が正確に記録したのはいつからだ?という話になりました。私はつい最近だけが正確に入力していなかったので、「つい最近」と回答しました。そしたら、誘導尋問か全部が正確ではないのか?と言われました。

揚げ足取りと言われるかもしれないけれど、この部分がもっすごい矛盾してる。

質問:正確に記録したのはいつからだ?

回答:「つい最近」(意訳:この文脈では、「つい最近から、正確な記録を始めた」になる)

実態:つい最近だけが正確に入力していなかった

ってなってるんだけど、矛盾してるよね?

そりゃ双方で話がかみ合わんでしょうが、と。


(追記)

で、そういう背景の下で、

「先日と言っている事が違う。」と言ってこられました。私の中では、間違えて申告していた部分の期日をしていたのですが、人事は配属されてからずっと嘘の記載をしていたではないかと詰問してきました。

そりゃ人事はそう言うでしょう。上記のように、自分がそういう意味のことを言ったんですから。

 この点については、前回は精神薄弱になって、覚えていないのと、相手が一方的にまくし立てる状態で、どうすれば良いのか分からない状態でした。

上述のように、ちゃんと覚えてるじゃん。

もくしは、日本語って字面と発音がセットになると反対の意味に表現できる・捉えられる言葉があるから、

そこんところで齟齬が生じたか。

まぁもちろん、自身を冷静に分析できない心境だったとか、そういうのはホントなんだろうけど。

NECの内情

友達の日記からの転載転載許可を貰ったので、載せておきます。

----

 先日の事、上司に呼び出され、会議室に通されました。

 私は最初、人事の時期だし、人事の話かな?と思っていましたが、人事部の人が出てきてこう言いました。「勤怠管理を正確に入力してないでしょ?」と。

 うちの会社は勤務時間自己管理で行うのと、タイムスタンプがないので、自分で記入するのですが、上司にも言われていたので、修正はしていましたが、ここ数ヶ月は確かに正確に入力していなかったので、「その通りです。」と回答しました。そしたら、人事からは「調べれば分かる。」、「いつからやっている。」など、過去の事まで聞いてくる始末。まぁ、自業自得な部分はあるのでしょうがないですけど、そんな事まで覚えてないと回答しました。

 そうしたら、人事が正確に記録したのはいつからだ?という話になりました。私はつい最近だけが正確に入力していなかったので、「つい最近」と回答しました。そしたら、誘導尋問か全部が正確ではないのか?と言われました。上にも書いた通り、自己管理なのと、全部が正確であるという自信は全く無いので、「配属されてから全部が正確とは限らない。」と回答しました。そしたら、人事が、しめたと言わんばかりに、今までの事は、嘘をついていたのか?と言いました。私の中では、「つい最近は確かに適当につけた。」とは回答しましたが、全部が正確になんて、私に限らず、他の人も正確に把握しているんでしょうかね?

 高圧的な人事の態度と、予期していない出来事が重なっていたこと、4人の管理職が囲んでの尋問に、精神的に私は参って、その後の記憶はありません。とりあえず、上記の間違いの部分の始末書を書くように指示をされたので、その点は納得していたので、素直に始末書を書きました。

 しかし、後日始末書を提出したら、また呼び出しが。今度は管理職3人が囲んでの事です。「先日と言っている事が違う。」と言ってこられました。私の中では、間違えて申告していた部分の期日をしていたのですが、人事は配属されてからずっと嘘の記載をしていたではないかと詰問してきました。

 この点については、前回は精神薄弱になって、覚えていないのと、相手が一方的にまくし立てる状態で、どうすれば良いのか分からない状態でした。

 NECは業績も落ち込んでますし、新卒採用もかなり絞り込んでいるので、人件費削減や人減らしを行いたいのは分かりますけど、精神的に追い込んで、何をしようとしているんでしょうかね。

 とりあえず、NECでは、こんな感じで、人減らしを行おうとしているみたいです。

2009-02-04

店長

近所のチェーン店ラーメン屋は、しょっちゅう店員に新人が入る。

しかも、入る新人がどいつもこいつも、こないだまで社会不適合でした!みたいなやつばっかりなのだ。

声でない。おどおどしてる。動けない。怖がる。ヒキコモリっぽいのも精神薄弱っぽいのも見たことある。

そしてよく失敗する。さすがにラーメンを客にぶちまけるのは1回しか見てないがオーダー間違いなんかはしょっちゅうだ。

でも、一月二月するとこれがいっぱしに仕事をこなすようになってる。声出てる。笑顔出せる。率先して動く。ちゃんと釣り計算できる。転んだ子供あやして親の所へ連れて行く。もう、何でも出来るようになっている。

でしばらくするとその店員はいなくなってまた新しいビビ野郎が入っている。今日は丸顔の女の子が入っていた。めっちゃ挙動不審。手が震えすぎだから。俺ラーメン中盛り脂少なめ麺硬め味濃いめ頼むだけだから。殴ったりしないから。

きっと店長の方針なんだろう。育てるのが大好きなんだろう。育ったやつは別の店舗に行ったりするのかな。

久しぶりに深夜に行ったら、がたいがでかくて腹の出たおっさんがいた。どうやらおっさんが店長らしい。

店長っつうか、あのツラガマエ大将だな、大将

2009-01-30

タッくんのこと

もう20年以上も前の話だ。

タッくんは足が悪かった。

タッくんと僕は、幼稚園から小学校まで一緒だった。

5, 6年生のときのクラスも同じだったから、そのときのタッくんのことはよく覚えている。

タッくんは生まれつき足が悪かった。

幼稚園の時は少し片足をひきずるような形で歩いていたが、お庭ではみんなと遊んだし、

運動会にも参加していた。もちろん速くはなかったが。

小学校に上がると、随分と悪化したように見えた。

運動会の50メートル走でも、ハンデで25メートルラインからスタートするという方法で

参加するようになっていた。小学校高学年の時は、もう運動会には参加していなかった。

その頃からは日常生活では車イスに乗るようになっていた。

小学校ではいろいろな係活動があると思う。

黒板消し係とか、掲示係とか、いきものがかりとか。

それと同じ並びで、タッくん係というものがあった。

タッくんの車イスを押してあげたり、階段ではおんぶしてあげたりしてあげる係だ。

タッくんは忘れ物や落とし物が多かったし、それにちょっと怒りっぽいところもあった。

それに対して周りのみんなは、さすが小学生というべきか、とても優しく対応していた。

タッくんをいたわるという労は惜しまなかったと思う。

あるときの学級会で、そのことを議題に上げる子がいた。ミホちゃんだ。

「みんな、タッくんを甘やかし過ぎじゃないの?」

「タッくんは足が悪いだけなんだから、それ以外のことは、みんなと同じでしょ?」

ミホちゃんは、タッくんのご近所さんで、タッくんの良き理解者でもあったように見えたし、

なによりも頭の良い子だったから、みんな少し驚いた。

「ミホちゃんって冷たい」みたいな空気が流れた。

でも逆に僕は、衝撃を受けた。

ミホちゃんはすごいと思った。

こういうのが差別なんじゃないかと、おぼろげに理解できた。

そして、僕はミホちゃんをフォローした。

結果的に、タッくんに対しては、もう少し厳しく応対する、つまり、いろいろな意味

他のみんなと同じように接するということで落ち着いた。

タッくんはその後も悪化の一途をたどり、中学からはみんなと同じ公立の中学

行くのではなく、少し離れた養護学校に通うことになった。

それ以来僕はタッくんに会っていない。

中学に上がると、タッくんのことは急速に忘れて行ったが、たまに親から状況を聞いたりしていた。

本当の病名が、筋ジストロフィーというもので、現代医学では治らないこと。

そして、少なからず衝撃を受けたのが、命にも関わる病気で、もって20才くらいまでだということ。

それから僕は高校にあがり、大学に上がり、成人式を迎えた。

その間タッくんのことを思い出すことはほとんどなかったように思う。

成人式から幾日もたたないうちに、タッくんの訃報を聞いた。

ああ、来るべきものが来てしまったなと思っただけで、特別な感情はわいてこなかった。

僕は1人でお通夜に行った。これももう10年以上前の話だ。

遅く行き過ぎたせいで、弔問客はすでになく、タッくんのお母さんと直接話ができた。

もとから絵がうまかったタッくんは、養護学校に行ってから絵を勉強して、最近まで、

ずっと描いていたのだそうだ。

ただ、最近では、手も思うように動かなかったから、絵筆を口でくわえて描いていたという。

最後に描いた絵を絵はがきにして、弔問客に配っていたので、僕もいただいた。

これから逝ってしまうときに描いたとは思えない、さわやかな夜空とお月様が描かれていた。

足だけでなく、手も不自由になっていたということは少し驚いたが、筋ジストロフィーというのは

そういうものなんだろうと、妙に納得した記憶がある。

先日、引っ越しをするとき、荷物の中からその絵はがきが出てきた。

なんとなくタッくんのことを思い出し、それから筋ジストロフィーのことを調べてみた。

wikipedia のページを見て、筋ジストロフィーの症状として、精神薄弱などもあることに気がついた。

まさか

あれは病気とは無関係じゃなかったのかもしれない。

タッくんの落とし物が多かったことや、怒りっぽかったことは、病気のせいだったのかもしれない。

涙がこぼれてきた。

僕と、ミホちゃんがタッくんにした仕打ち。

なんて酷い。

2007-01-21

日記

見えるものや音や匂いなどが平坦に、平坦な俺に真っ直ぐ降り注ぐ。それは祝福であるなんて脳みそ皺なし。どうにかなって。140センチメートルほどの老女三人が談笑しながら歩いて、向こうからやって、決して俺を見ないのだが、一つだけ言っておきたい。三人はそっくり。俺は、何もかも平坦でつらいというか、しんどいし、だるいなあ。言ってもしょうがないから。音も平坦なのは耳が悪くなったのかなと思いながら、ぼうっときょろきょろばかりしていると急に目がおかしく、ぐわんって明滅し、次第にスケールが狂ってしまう。体も重い。ふにゃふにゃーっと体が背骨ごと折れ曲がって俺は座り込んでしまうともう立ち上げれず。老女はまだ遠くからにやにや歓談しながら近づいて、その所作は極めて小人っぽく、近づくごとに、ああ矢張り小人なんだろ、と確信したくなるほど小人なのだがしかし多分小人じゃないなと心の何かによって思って、落ち着け俺、と呟いたが落ち着かない。そわそわしてしまう。この奇妙さは何なの。あ、今気付いた。なんか俺が小人になっていくようでもあるな。なんでだ、と思っていた。そして、いや、スケールがおかしいのは俺以外のものがどんどん大きくなっているからじゃねえ、と思ったら。寧ろ婆たちはでかくなって、俺が小さくなりだして。あらあら。俺以外がみんな大きくなるのと、俺だけが小さくなるのはどこに区別があるんだ。むずかしいですね。俺以外はどんどん大きく、それか、俺がどんどん小さくなって、ある地点で、婆よりも俺のが確実に小さいと思ったけれどもサダカではない。しょうがないな。俺はガンタンクのように立ち上がってぐんぐんっと逃げたが、小さくなっているので中々前には進まないでその場から遠ざかれない。婆らが、しわがれた声で笑いだした。不穏。気温が下がった。サミー。ひゃーひゃーひゃーと笑う声が、ドーム内のようにくぐもって木霊するのがきもちわるく、むかつく。俺が小さくなるのは止まないし。笑い声も止まないし、耳が聞こえないし、目も見えなくなったよ。今。笑い声だけ聞こえる。何も見える。すべては世界の所為であると僕は直感した。それほど悪辣な、悪魔的な所業。世界の所為にした。私以外のものすべてが世界だろう。私は私のことを省みない婆たちを恨みたいが、しかし、善良幸福そうな彼女らが私利私欲怨恨怨嗟のために或いは意地悪で或いは俺を怒りらせようとしてわざと嫌な風に笑っているのだ、とは思えなかったし、文句を言う気も起きなかった。いづれ止むだろう。と思って我慢した。4秒。しかし、笑い声は止まぬので、俺は益々苛々してくよくよした。それを反復しました。いらいらくよくよしました。疲弊した。もういきていられぬ。婆らは自分がそのような声を出して笑っていることについてどう思っているの、と考えた。知っているのか。受け入れているのか。幾十年前は恐らく婆たちだって花も恥らう乙女だったんだと思うけれど、その時もああやって笑ったのかというと、あんな風には笑わないだろ。少なくともしわがれてはいないんだ。じゃあ今俺をくよくよさせているこの声は何なのか。これが老化か。格好良く言うと老化現象。わからないが。いや。分からないけど、でも、と、私ことあたいは思ったンだ。私たちの住む世界というのは何の断りもなく当人さえ知らぬうちに何もかも変容させるし、それも受け入れないならば死ぬしかないみたいな嫌がらせのようなあくどい世界で、それはまあ何度も何度だっていやになるのだが、しかし死んだからといって願いが叶うとは限らないし、それどころか死んでしまったら自分がその現状さえ維持することも極めて難しくなる。例えば、死んだ自分を自ら死んでない死んでないなどと言ってフォローすることさえ自らが死んでしまっては不可能なんであるからね、というか大体において死んだ身体というものは動かないし死ぬのは怖いし死の先は見えず見えないものというのは大体において恐ろしいものだけどそれが何故恐ろしいかというとそれが何なのか分からないからでまた大体のものというのは分からないものなのでもあるからこそ分かったような気にもなるのな。たぶんだけどね。お前が悪いわけじゃなく、お前が悪いわけでもないんだがお前が嫌い、と思っていた。僕は。そして、気がつくと目が覚めていた。気がつくときはいつも目が覚めていた。ほってんとりを見ていたら、コーヒーをこぼしたらキーボードが壊れた。多くのキーが反応しない、そんななか、kキーだけ自分は押されてると思い込んでkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkってなってる。押してないいよ。キーボードを買いに行く。しかしお腹が、ぐるうん、ぐるうん、ぐるうん、と断続的に、連続的に鳴り続けて止まないのだがどうしたら良いのだろう。お腹の音は本人が思うより周囲には聞こえないものだけれど、聞かれても大人的に知らんふりされるのだろうけどで、さすがに、これは、知らんふりしずらく、見つかったら、奇妙というか珍妙で、恥ずかしい、堪らないなと、僕は舗道をずんずんと早歩いていた。空腹というのは波だから、収まるのを待とう。それまでは、騒音のある郊外にいようとおもったのである。さみーとか思いつつ。考えつつ、ふらふらする。そもそもお腹の音が止まないということはありうるのだろうか。僕は今現に自分で止まないと言っているのにそれを疑っています。疑り深い。ぐるうん、ぐるうん。空腹。自分が楽器になったようだ。或いは虫だな。空洞の胴体が振動している。手はおまけのようにくっついてぶらぶらしているし、足は勝手に歩んでゆくような。頭は余計な下らない装飾のように生えているだけだ。腹が歩いてく。盲目の人を見かける。こんな街中で。赤線の入った白い格好良い杖をもっている。俺のことが見えない人。盲人。意地悪をしたくなる。僕は眼というのが嫌いだなあ。とくに軽蔑の目なんかは胃が痛くなる。敗北感が鳩尾辺りできりきりする。次の朝起きれなくなる。その割りに僕という人は尊敬される人でないし、寧ろ積極的に軽蔑される人だよなー。不思議。世界は絶望で満ちていますか。だって。わらた。いやらしいハッピーエンドいやらしいいやらしいいやらしい。迷惑な命。生まれてきて残念でしたすいませんでしたもうしませんもう生まれてきませんビスケットのすいませんでしたマリーを食べていたら頬がなんだか熱をもってしまい口中は乾いてつばを飲んだら喉が痛うという憂き目である。散々だ。死んだほうが益しだ。菓子ばっか食っている。たまにしか死にたくならない。幸いなことである。なんて幸福なの。なんて幸福なの。自己を規定する際他人というものはとりたててじゅうようで他人なしに自己を形成しようとすると失敗してしまうな。自分とはおそらく社会的なものなんであって他人なしで自己を作っていくと自意識だらけになってしまうのだろ。結果的びに自分の誠実を守るために都合の良いルールを取り入れなければならず、自分中心を後後天的に許容して、独我てきに、あらゆる責任は私に帰するのだとして、私が気持ちよいやうにやる、と言って逃げ回っておるだけで、逆説的に、逃げるのはつらくないから気持ち良いのであって、結局、態度を保留し続けているという極めていやらしい態度で生きている。のうのうと死にもせず、愛されもせずに。おぞましく不愉快生物がいたものである。ああそうだ。何もしてないのに髪が伸び続けるのは俺へのあてつけで、嫌がらせなのだ。爪が伸びるけど爪きりが見つからない。すぐに物をなくしてしまう。数年前のことなんだけど、2ちゃんねるの書き込みの、思春期に愛されなかった人はもう一生愛を知れない、というような断言には呪われてしまっていた。そこまで言い切る根拠はなんだ、気が狂っているのか、こいつと、おれは全く思わずに、静かにゆったりとした時間の中でぼんやり発狂するところだった。精神薄弱である。でも実際、そんな阿呆な、とすら思えなかったのでびびりますね。如何に下らない言説であろうともタイミングによっては直撃的なネガティブ信仰呪いとして無抵抗で受け入れてしまうときもあるものなのだな。少なくとも俺にはそういうところが。俺はそのときは本当に呆然自失して、がびーん、てなってた。もうだめだ。もう。このクソみたいな煽りみたいな2ちゃんレスに中てられているんだけだとは半ば、知りつつも、悲劇みたいな憂鬱的な心地よさにおちついて、徐々に憂鬱浸しになってゆくしな。しにたいとゆって、決して死にたくないのに。死にたいと言う人にじゃあ死ねというのはひどいね。だれのこととはいわないけども死にたいって言うひとはたしかに気持ち悪い。うぜえ。死ねばいいのに。だめなやつら。時折死にたいと呟くやつがいるが、いけないんだぜ、実にいけない、俺は少なくとも本当は死にたくなんてなかった。死んでしまった以上なんとも言えなけれどもね。俺は、つうか寧ろ、なのであるが、生きていない状態を死んでいると言うから、つまり、それは生きているの対義語なんであって、だから、生きたくない、死んだ状態になってしまいたい、という意味死にたいと言ってゆるのであって、まじ死のうとしている気狂いと一緒にすべきではなかった。願っていただけだった。おれは。静かに。死ぬという行為をスキップして死んだ状態になりたかっただけだ。歩きたくなければ歩かなければ良かった。生きたくなければ生きなければ良い。それは馬鹿だ。馬鹿な話だ。この世は極楽だ。歩かないことは簡単であるが、生きないことは簡単ではない。我々はもはや生きないためには積極的に死ななければならない。生きないからと言って呼吸運動を停止するのはつらく、ご飯を食べないのもつらい。痛いのはつらい。そして、だからこそ僕は死にたいと言って死ぬ覚悟を得るために生きない理由を思いつこうとするがどれもこれも結局のところ全く致命的ではないのだ。吃驚しますね。いいから死ね。積極性をもって死にたくない。だって俺は生きたくないだけだ。誰が好き好んでつらい思いして死ななきゃならないんだ。馬鹿か。もういみわかんねえ。せかいはいみわかんねえよ。いいから死ね。命に意味ほにゃららと誰かが言い、クソカルトである不謹慎禁止教徒どもが、わめきちらす思想はすべての命を汚辱に浸している。倫理なんか水伝と一緒の癖に。人なんかみんな死ねばいいんだ。つらいのが嫌なだけで、そういった思想の持ち主は生きていてはいけないのだ。俺はただ動物のように生きたいと言うが動物にしては恵まれすぎている、といって、俺から言語を使うな、火を使うな、道具を使うな、公共を使うな、恥じ入っても生きろ、などといえたものか。動物が有利を捨てたりするものか。あらゆる責任を放棄して、迷惑をかけて、死、ん。うんざりだな。死にたくない。今の生きている状態を回避していたい。つまり死にたいのだが。死んでいたい。最初から死んでいたい。それはできない相談だ。死ぬのが怖い。それだけでなく、実は死ぬ先も怖い。びびっている。地獄なんてないのが嫌なんだよ。俺は。地獄なんてないと人は言うのだ。まともな神経の人間はそう言う。地獄なんてないとまともな神経の人間は人は言うのだが、そんなはずはない。僕に地獄が与えられないはずが無い。平等に与えるべきだ。子犬に、子リスに、養鶏に、俺に。平等に。あらゆる生き物の命は平等である。それは正しい。あらゆる命が平等に無価値だ。正しい。たしかに! そうして価値は常に"社会的"にのみ宿るのであった。ウケル。俺は絶対に働かないと言ってやる。そうすれば少なくとも俺から奴隷的価値はなくなるかもしれない、扱いにくいとして少しは減ぜられるかもしれない。もしかしたらだけど。いいから早く死ね。そうして、俺は不健康だし、やせ細って、いる。だが僕には価値がある。マッドサイエンティスト実験人間としての価値。人間を粉にして作る薬の原料としての価値。まずい人肉としての価値が、俺にはあるぞ。僕が何かの人質になると人道的なんとかと言って誰も俺を望まなくても俺には人質として価値が付与されるのだ。俺は社会的な生き物なのだ。じゃあ鯨も社会的だ。鯨食いてえ。蟻は社会的だ。ライオン社会的だ。カブトムシ社会的だ。カカオ社会的だ。人間なんてくそだ。って鯨が言ってましたよ。どうなんですか。人間。鯨の命はチキンのより価値があるのだろう。ばい菌やビーフやエチゼンクラゲ保健所の犬とかわいがられてる犬と投げ捨てられる子猫野良猫と血統書とかペットとか金持ちの子と貧乏人の子。すべての価値を認めたくない。地獄なんてなかったね。行ってきたけど、ありゃあ地獄なんて呼べるようなとこじゃねえ。よって結論はあの世に地獄なし、ということでね、知ってるわ、じゃねえ。しらねえよ。お前。地獄なんて信じないくせに。いや、あるかもしれないし、死んでみないことには、などと、阿呆らし、論壇きどちゃって? はは、こうしたこまっしゃくれた奴らは駄目さ。なんでもメタに構えちゃってね。俺がメタメタに立って優越感ゲームになっていますね、って、そのレッテル貼りが既に優越感ゲーム、ゆゆゆゆゆって、ですか、阿呆らし、やめよ、どちらにせよ論理的云々などといってはまた保留だよ、永遠に保留し続けますか。まあ、だからと言って地獄存在を鵜呑みにする連中ってのもどうかと思いますけどね、端的に言って宗教者はきもい。宗教は駄目だ。というのは俺が信じれないからだけど。俺に純真がないからなあ。奇跡がない。啓示が。俺に与えられない。これからも与えられはしないだろう。何かを与えられる事を望んではいけない。どのような状況においても。それは甘えなのだ。つらい事をやめてはいけない。それは怠けなのだ。ナマケー。いいからやれ、と、結局はそれへ収斂するよね。あらゆることがそうなのだよ。俺は仮定で、空想上の人物で、空論以外に、何かを実行することが、不可能なのにな。残念だ。あるひとは俺を指して、言語に支配されてきもい、と言ったのだ。たしかに。だった。そういうしかねえよ。本当正しいぶっていますね。俺なんて、いいから死ね、といわれればそれまでである。死ぬしかない。いいからやればー。うるせーばか(ここで絶命しました)。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん